第20話 もう一つの世界
一つ一つのことをもう一度じっくり考えて、ゆっくりとつなぎ合わせてみた。
つまりはこういうことなのだろう。
今朝、まことさんが崖から落ちて亡くなった。その連絡を受けたウチはパニックになって家を飛び出した。その時にそんな現実を必死で否定したのだろう。必死で否定し、ウチはそうならなかった世界を想像した。あるいは初めから元いた世界のすぐ隣に存在していたのかもしれない。そしてその世界に飛び込んだのだ。まるで線路のレールを切り替えるみたいに別の世界のレールを走り始めた。
そのことに最初に気付いたのはあの喫茶店のお手洗いの中だった。家からあのお手洗いまでのどこかで世界が入れ替わったのだ。
そして今いる世界…… それは、まことさんが死ななかった世界だ。おそらくそれをウチが強く望んだからだろう。
この世界にまことさんは生きている…… そしてその代償として親友のセリナを失ってしまったのだ。そしておそらくこの世界のまことさんの恋人はウチじゃあない。それはきっとセリナだたんだろう。彼女はきっとここでまことさんと一緒に暮らしていたんだろう。
それはよくよく考えれば当たり前のことなのだろう。
むかし、ずっと以前にまことさんを通っている高校の近くの駅で初めて見かけた時、『あの向かいのホームにいるヒト、なんかいいね』と最初に言ったのはセリナだった。ウチはセリナの言葉で彼を見て驚いた。その人は約一年前の夏休み、家の近所の市立図書館で出会ったことのある人だった。その時、彼にかけられた言葉があとからずっと気になっていた。そしてこの出会いは運命なんだと思った。それでもその時、ウチには彼に声を変える勇気がどうしてもなかった。彼はウチのことなどまるで覚えてなどいない様子だったからだ。
それでもやはり、運命の女神は二度目のチャンスを与えてくれた。学校近くの本屋でたまたま出会った二人は急激に距離を縮め、やがて二人は恋人同士になった。
今から考えてみればセリナはまことさんのことが好きだったんじゃないかと思う。あの運命としか言いようのない出会い。中学生時代の図書館での出来事、高校生時代の本屋での再会。そのどちらか一つだけでも欠けていて、まことさんとセリナが先に出会っていたのならば、きっとこんな風に二人が恋人同士になっていて当然だと思う。なんでも積極的で行動派のセリナならばきっとウチのことなんて差し置いてまことさんと恋仲になっていたんじゃないだろうか。
考えれば考えるほどにこっちの世界の方が正しく感じてしまう。むしろ自分がいままで生きてきた世界の方がまるで夢だったのではないかとも、思える。
それでも、あっちの世界に帰りたいとは思えない。なにしろあっちの世界ではもう、まことさんは死んでしまっているのだ。
そう、考えて、とっさに自分の考えに恐怖した。だったらこの世界はどうだというのだろうか。
こっちの世界ではもう、セリナが死んでしまっているのだ。もしかして自分はセリナが死んでしまっている状態に少し、安心しているのではないか。たとえこちらの世界ではまことさんが自分の恋人でなかったとしても、セリナのいない世界であるならばそれにしたってどうにかなるんじゃないかと心の奥底で感じてしまっている自分を完全に否定しきれない。
それならば、もしかすると今あるこの世界こそが自分が望んだ世界ではなかったのだろうか。
自分がこの世界を強く望んでしまったがために自分はこの世界にやってきた。あるいは自分がこの世界を作り出してしまったかだ。
……じゃあ、セリナを殺したのはウチではないのだろうか?
ウチがこんな世界を望まなければセリナは死んでなどいなかったはずだ。
いや、考えすぎだ。これは単に偶然に過ぎない。そう考えるしかなかった。そう考えでもしなければウチは今すぐにでも自分がつぶれてしまいそうだ。
ともかく今、こうしてウチが考えている事。それはすべてがあまりにも荒唐無稽な考えだ。そんなあまりにも非現実的な考えを自分が積極的に認めようとするのは、あるいはこっちの現実の方がより、現実的に感じるからにほかならない。
〝胡蝶の夢〟というものがある。人間である自分が蝶になった夢を見ているのか、蝶の自分が人間になった夢を見ているのかがわからない状態 。
あの日、本屋でまことさんと偶然再会して恋人同士になって生活していた今朝までの出来事のすべてが夢で、現実はセリナとまことさんが恋人同士であってその隣でただ傍観していたのが本来の自分であった。というのもわからなくもない。
あるいはセリナとまことさんが恋人同士である現状に対し、セリナに対する嫉妬心から彼女のいない世界をウチが想像してしまっているのかもしれない。もしそうだとするならば、今この世界を現実とした時、セリナを殺したのは自分だということを否定はできないだろう。
まことさんにふさわしい女性、それはウチのような臆病な人間などではなく、セリナのような行動的な人間。そのことをずっと以前から考えていたウチにとってこの世界の方が納得がいく。本来ならばこうあるべきだったんじゃないかと思えたからだろう。
「だいじょうぶか? 今、すごく怖い顔してるけど。」
まことさんが肩に手を置いて心配そうに顔を覗きこんでいた。まことさんの手のひらから伝わる熱と、かすかに感じる脈に、まことさんがちゃんと生きていることを感じる。
「法事、行けそうかい?」
「うん…… だいじょうぶ。そうか、今日はセリナの一周忌なんだね。」自分自身に言い聞かせるように呟く。これが現実なんだと…… 元がどうであれ、今、自分がいる世界が現実なんだと自分自身に言い聞かせた。「そう、だからウチは今日、髪を黒く染めてたんだね。」
「いや、それもあるけど就活のためでもある。」
就活。まことさんはそう言った。
自分の黒髪の理由はどうやら就活のためのようだ。つまり自分はいつの間にか一歳、歳をとってしまっているらしい。そして今日が芹菜の一周忌。やはりまことさんが死んでしまったという日に、替わりにセリナが死んでしまっているということだ。そしてあの日から一年という時間が過ぎ去っている。つまりはそういうことでいいのだろう。本当ならまことさんにいろいろ聞いて理解したかった。でも、今自分の置かれている立場をどう説明したところで理解なんかされないだろう。それどころか、恋人のセリナを殺したのはお前だと非難されそうで怖かった。
場違いな格好をしてしまっているウチに、まことさんはセリナの法事に行くための喪服を用意してくれた。袖を通すと少しきつい。それはおそらくセリナがかつて使っていた喪服が捨てられずにおいてあったものなのだろう。その服を着て芹菜の法事に行くということが背徳的な行為に思えてならなかった。
もしかすると彼女を殺したのは自分かもしれないというのに……
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