第18話 喫茶店の扉
《 さっき、有馬君が遺体で見つかったって……》
「……へえー。……そうなんだ。」
自分で何を言っているかもわからなかったし、ついさっき芹菜の言った言葉の意味もまるで理解できなかった。 理解できなかった と、いうよりはむしろ、自分の頭の中が必死で理解しない方法を探しながらのたうちまわっている。そんなウチの対応にセリナは彼女なりにウチの気持ちを察して、少しの沈黙を置いた。
今度はさっきより声をもう一トーン落として静かにしゃべりだした。
《警察の話だと、昨日の深夜から朝にかけての時間に有馬君は山に登っていて、その崖から足を滑らせて落ちてしまったんじゃないかって……》
いつの間にか床にへたり込んでいるウチの腰はまるで力を失い、もう、到底立つことなんかできそうもない。
《……ごめんなさい。あ、アタシのせいだ。アタシさえちゃんと……》
「な、なんでセリナがあやまるの?」
《……きのう、きのうね。サキがトイレに行っている時にサキのスマホに有馬君から着信があったの。これからそっちに行くって言ってたわ。……それでアタシ、突然来たらサキが驚くだろうなって思って知らせずにおいたの……》
そうだったのか。それで昨日の夜の記憶にない通話記録の意味が理解できた。
《でも有馬君はそのまま来なかった…… アタシはてっきり夜も遅いから来るのをやめちゃったんだくらいに考えてた。
朝になって一応そのことを聞こうと思って電話したんだけど出なかったからそのまま仕事に来たんだけど、そしたら警察から連絡があって…… 有馬君のスマホの着信を見て、まずアタシのところに連絡を入れてきたみたいなの。
も、もしさ…… あの時、アタシが有馬君が来ないことに疑問を感じて連絡していればこんなことにはなっていなかったかもしれないのに……》
電話の向こうでセリナが涙ぐんでいることが解る。声がかすれて後半ほとんど聞き取れないくらいだった。
「ふふふふふふ。もう、いいよ。」
《サ、サキ?》
「その手には引っかからないよ。セリナはまたそうやってウチのことをからかおうとしているんだ。
残念、あいにくウチもそう簡単には引っかからないから。」
《ちがう、ちがうんだよ、サキ。アタシが今言っていることは……》
ウチは話を最後まで聞かないうちにに電話を切った。そのまま電源もオフにした。急いでそのあたりにあるものに着替えて、黒縁眼鏡のまま逃げるように家を飛び出した。
玄関から出たウチはなるべく周りの物事を見ないように歩き始めた。家を出てすぐにパトカーとすれ違い、そのパトカーがウチの家の前で停車したことも、まるで気にしないように歩き、電車に飛び乗って、まことさんの住んでいるアパートの近くの駅で降りた。その足でそのままアパートに向かうはずが急に怖くなった。まことさんのアパートに行けば知ってはいけないことを知ってしまうかもしれないことに気が付いたからだ。
ウチはそのまままっすぐ向かうはずだった足を止めた。どうすればいいのかわからないまま知らない路地に入ってはまことさんのアパートに行かないように住宅街の中を一人でさまよった。そしていつのまにかあたりはまるで知らない場所にたどり着いてしまった。人通りがなく、周りは古くから、おそらく昭和の時代からたっている家ばかりの路地だった。不思議とそのどの家にもまるで人が住んでいる気配がしないのに平然としている自分がいた。目の前には小さな喫茶店があった。大きな木の扉のある喫茶店だ。 どうしてこんなところに喫茶店なんかがあるのだろうか? こんなところに店を開いてお客なんてとても来そうな気配がない。
どういうわけかそのことが気にかかり、その喫茶店がとても興味がわいた。
……なんていうのはきっと嘘。ただ、どうにかまことさんのアパートにたどり着いて真実を知らないようにしようという気持ちが言い訳のためにこの喫茶店に入るよう誘導しているにすぎないのだろう。ウチは迷うことなくその扉を開けて、中に入った
入って右手の方にカウンター席、左手には四人掛けのボックス席が二つあるだけの小さな店、静かなピアノジャズがかかる店内にはどことなくノスタルジックな印象を受ける。カウンター席の向こうにマスターと思われる人が立っているだけで、他にお客の誰一人いない様子だ。
まるで何かに吸い寄せられるかのように左の隅の一番奥のボックス席に腰を掛けた。
四十歳くらいの中年の男性、このお店のマスターと思われる人がメニューとお水とを持ってきた。ウチがメニューには目を通さずにアイスコーヒーを注文すると、マスターはにっこりと優しいほほえみを浮かべながら帰っていった。
まるで死んだ魚のような目をしているんだと思う。店に入ってから、その視界にはいろいろなものが目に入っていたのだろうが、それはただの情報として入っているだけでその一つ一つに自分がなにがしかの意識を傾けることはない。今に思えば先程、確実に見ていたであろうマスターの顔ですらもう、覚えてはいない。思い出そうとしても顔全体にもやがかかっているような感じでしか思い出せない。そういえば今朝起きてからすぐセリナからの電話で家を飛び出した。化粧もしていなければ髪も梳いていない。コンタクトレンズもなしで眼鏡をかけてきた。幸い鞄の中には簡単な化粧セットが入っている。アイスコーヒーの到着を待つ間にお手洗いで軽く化粧をしようと思い、ポーチを持って席を立った。
店の中央にある小さな白い扉に〝Lavatory〟と書いてある。
扉を開けて中に入った途端、少し目眩がして、膝に強い疲労を感じてよろけてしまった。それは一瞬の出来事だったがすぐに正気に戻った。まだ朝からの一連の出来事が理解できず全身が疲労を感じているのだろうと思われた。
中は小さな個室でドアを開けた正面に便座があり、同じ空間の右側の壁に小さな洗面台と鏡が置かれている。内側から鍵をかけて小さな鏡を覗き込んで自分の目を疑った。
その鏡の中にいる自分の顔があまりにも見慣れない顔だった。まず、黒縁の眼鏡をかけている。それは当然わかっていることだ。そして、いつしたのかしれないが、ナチュラルな程度に化粧はしていた。いつもよりもかなりおとなしいメイクで、そのせいかいくらか自分お顔が大人びて見えた。そして何より大人びて見える理由として…… 髪が黒い。つい、昨日までは茶髪の巻き髪だったはずの髪がいつの間にかわざとらしすぎるほどに黒く染めあげられ、さらさらとしたストレートヘアーになっていた。
たしかに昨日、ウチは少し飲み過ぎてしまって記憶も少し曖昧ではあるが、いくらなんでもこんなことをして記憶がないなんてあまりにも不自然すぎる。たとえ酔いつぶれたウチにセリナが悪戯を仕掛けたのだとしても、果たしてこんなにうまくできるものなのだろうかとも思う。
まるで鏡の国へ迷い込んでしまったアリスのようだった。鏡の向こうには自分の知らない、それでいて不思議な世界が広がっていて、その世界の自分がこちらの世界の内の姿wp覗き込んでいるようだった。
しかし、当然そんなことがあるわけではなく、事実自分の顔をを手で触れてみると、鏡の自分も同じように行動するし、眼鏡もかけていなかった。髪の毛だって不自然に黒いのは鏡の中の自分だけでなく、鏡の前にいる現実の自分だってそうに違いなかった。
深い深呼吸を一つしてからお手洗いを出て席に戻ると、テーブルの上にアイスコーヒーが置かれていた。
アイスコーヒーにストローをぶち込み、一息で半分以上を吸い上げた。苦味と冷たさとが頭の中を巡り、その時ようやく正気を取り戻した。自分はこんなところで何をしているのだろう。まことさんが死んだという連絡をもらい、ただ、その現実から逃げ出したくてがむしゃらに家を飛び出してきた。おそらくどこまで逃げたところで何かが変わることなんてないのだろう。このままどこまでも逃げたいが、逃げることに意味がないなら受け入れるしかないのだと気づきはじめる。
冷静になったウチは、店内をくるりと見回した。が、店内には時計がなく今の時間がわからなかった。スマホをとりだして時間を見ようとして、電源が切られたままだということを思いだして、しぶしぶに電源を入れた。その時、時間を確認するよりも早くに着信があった。画面に表示されているのは〝有馬 真言〟の名前。それはおそらく今現在、彼の携帯を手にしているであろう警察か、もしくは遺族なのだろう。本音からしても、そのどちらとも話をしたいとは思わない。でも、もう、今更そうもいくまい。
覚悟を決めて着信を受けた。
《ああ、笹木さん?》
その声はまぎれもなくまことさんの声だった。
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