第14話 究極の選択
《今朝早くにね…… サキの、サキの遺体が発見されたって……》
一瞬で天井と床が逆転して世界がぐるぐるとまわりだす。胃がキリキリして、のどがカラカラで手足の指先という指先がヒリヒリする。一度、落ち着こうと目の前に置いてあるコーヒーカップを手に取り口をつけてみたが、なんの味も感じられなかった。
「じょ、冗談なんだよな…… だって昨日まであんなに元気だったっていうのに。」
《ごめんなさい。冗談なんかじゃないの…… 朝、警察の人が来て教えてくれた。多分そっちにも行くと思う。サキは今朝の明け方、神道山の山奥の崖から落ちてそのまま亡くなったみたいなの。
警察の話によるとその場所は切り立った崖で足を滑らせたような形跡もないって…… もしかしたら自殺じゃないのかって……》
「そんなことはありえないよ。だ、だって昨日までそんな素振りは……」
《うん、アタシもね、一応警察にはそう、言っておいた。》
「……一応?」
《ねえ、有馬君…… 本当にそう思ってる? 本当に昨日までそんな素振りがなかったと思う?》
「ど、どういうこと……」
《サキはね…… なんだか少し前から様子が変だったのよ。何か隠しているようなところがあった…… でもね。昨日、様子がおかしかったのは有馬君の方だよ。なんか、いつもと少し口調が違っていたような気がするんだけど…… もしかして昨日より以前の記憶が正確ではないんじゃないの?
ねえ、何か隠していることがあるんじゃない? だったらちゃんと話して、アタシにできることなら力になるから……》
「別に、何も隠してなんかはいないよ。ただ、ただ、ちょっとしばらくそっとしておいてくれないか? あ、あまりにも現実が受け入れられない……」
《あ…… ゴメン。アタシ…… 有馬君の気持ちも考えずに……》
「いや、こちらこそすまない。」
俺は通話を着るとコーヒーをもう一口飲んだ。やはり味はなにも感じられなかった。
もちろん。隠していることはある。だが、そんなことは言えるはずがない。
何も知らない芹菜に俺は君が死んでしまった未来からやってきて、過去を変えてしまったら君は死なずに済んだが、今度はサキが死んでしまった…… そんなことを言って誰が信じるものか…… 信じたところで誰も救われない。だったら俺はどうすればいい?
2015.8.20 その日の時点で俺の恋人だった人間は必ず死ぬ運命にあるとでも言うのだろうか。もし、運命だとして、それにいったい何の意味があるというのだ。
笹木さんは何を隠していたというのだろうか、警察の見立て通り、本当に自殺だったとして、一体何に対して笹木さんは自ら死を選ぶほどに悩んでいたというのだろうか。
もう一度、もう一度戻れば笹木さんを救えるだろうか。もう一度時間をもどしてやり直すことができたとしたら…… 一体どうすればもう一度過去に戻ることができるだろうか。
あの頃に戻りたい。失敗以前からやり直したい…… たしか、そう強く願うことによって過去への扉が開かれた…… たしか、今まではそうではなかっただろうか…… だからと言ってそう簡単に事が進むわけではない。
わからない 。
とにかく気分を変えるために一度アパートの部屋を出た。真夏の朝は太陽が天高く昇っていて、照りつけるアスファルトからは陽炎が揺れている。世界のすべてがまるで幻のように揺れている。この世界も…… 芹菜のいなくなった世界もすべてが不安定なもの様に思えてきた。そのどちらも俺の望む世界などではない。
なにかをどうにかすればきっとこの世界だって、無かったことにできるに違いない。
その方法を思案しながら俺は駅の方に向かって歩いた。
駅の近くの路地の裏。
「……こんなところに、こんな喫茶店があっただろうか。」
ふと、小さく声に出す。初めてその存在に気付いたはずなのに、なぜかその店をずっと昔から知っているような気がした。まるで夢の中で何度もその場所に訪れていたような…… これがデ・ジャ・ヴというものなのだろう。
まるで吸い寄せられるように、俺は何を考えるでもなくその小さな喫茶店の木の扉のドアノブを握った。ゆっくりと引きながら開けて店内を見回した。左右に広がる店内の右手の方にはカウンター席があり椅子が五つほど並んでいる。少し疲れたような中年のマスターが一人立っている。俺は自分が客であることをマスターに対して目で合図をして、「アイスコーヒーを……」とだけ呟いた。振り返って、店内左手に二つ並んでいるボックス席の一番壁際の席に座った。
壁際の席のすぐ後ろには出窓が一つあって、その淵には立派なハート形のサボテンが置いてあった。それはあの部屋…… 俺と芹菜が二人で暮らしていたあの部屋に置いていたハート形のサボテンにそっくりだった。
目をつむり、あの部屋のことを考えていた。すると偶然、店内にかかっているピアノジャズの曲、ビル・エヴァンスのワルツフォー・デビイが流れた。芹菜が好きでよく聞いていた曲だった。こうして目を瞑っているとまるであの部屋にいるような気がする。そしてすぐそばに芹菜がいてくれるような気がした。
そういえばあの部屋のサボテンはあの日、笹木さんにあげたんだったな。もしかしてあの後、笹木さんがこの店によっておいて帰ったのかもしれないな…… と考えてすぐにそんなことはないと気づいた。たしかあの出来事は今から一年後の出来事で、今現在、ここに置かれているわけがないのだ……
いや、違う。何を根拠にそんなことを言っているんだ俺は、そもそも俺が時間跳躍をしたという事実があるのだ。だったら、もしかして、また、あの一年後の未来に帰ってしまったのかもしれない!
怯えながらも開いた目の前には、いつの間にか、注文していたアイスコーヒーが置かれていた。そしてボックス席の向かい側に知らない男が座っている。一瞬はこの店のマスターかと思ったがそうではない。マスターは中年男性だったはずだ。目の前にいるのは俺と同じ歳か、もう少し上くらい、切れ長の目には生気というものがあまり感じられない。めくれ上がった唇の周りには無精ひげが伸び放題で、髪の毛はぼさぼさ、何日も風呂に入っていないような印象を受ける。思えば少しにおうかもしれない。そして黒いポロシャツの上に何故か白衣を着ている。どう見ても怪しい人間だ。見ず知らずの俺の向かいに座り、いつ注文したのかさらに可愛らしく盛り付けられたジェラートの盛り合わせを食べている。おそらくはバニラ、ベリー、マンゴーといったところだろう。白、赤、黄の三色のジェラートと、添えられたカラフルなフルーツとソースがあまりにもこの男には似つかわしくない。
すぐさま今の現状を理解しようとした。それはつまりこの男がトイレに入っている間、俺が何の気なしにに彼の席についてしまったということだ。幸いとなりのボックス席は空いている。
「あ、すいません。席、移動しますね。」
俺は運ばれたアイスコーヒーをもってテーブルを移動しようとした。
「ああ、お気になさらずに、わたしが意図的にあなたの向かいに座ったのですから。」
「……えっと、すいません。どこかでお会いしたことがありますか? どうも昔から人の顔を覚えるのが苦手なもので……」
男はスプーンにすくった黄色いジェラートを口に運びながら眼鏡の奥の不気味な目でこちらをぎょろりとにらんだ。だまってこちらを見つめたまま口の中のジェラートを堪能して、少し間をおいてからようやく問いに答えた。
「おや、私のことをご存じでない? そうですか…… では、はじめまして。で、よろしいですかね。まあ、もちろん。この世界では ということになりますが。」
普通ならば完全におかしなタイプの人間で、決してかかわりあってはならない人物だろう。だが、この数日(?)の間に起こった身の回りの出来事を考えてみれば、もう、何が起きてもおかしいなどとは思っていなかった。ただ俺は「はじめまして」とだけ返した。
「いえね。あなたが少し混乱しているようなので少しばかり状況を説明しておこうと思いましてね。」
「……どういうことですか? それはつまり……」
「とぼけなくてもいいですよ、私は解っていますので。心当たりがあるはずだ。」
「……」
「なんでそんなことを知っているのだとお思いでしょうが、そうですね。私のことはよく当たる占い師くらいに考えておいてくだされば幸いです。」
「占い師?」
「そんな恰好で…… とでもおっしゃりたいのですか? まあ、占い師というよりはただ単に未来を知ることができる人間だ。と、まあそんなところでしょうか。」
「あなたには特別にもう一度だけチャンスを与えましょう。」
「チャンス?」
「そうです。チャンス。それにヒントを……」
「ヒント?」
「あなたが書いたあの小説の原稿のことです。お分かりでしょう? あの後、少し先の未来ではね。投稿したあなたのあの原稿は出版されて本になります。」
「あ、あれが……」
「そうです。あなたにとっては些細な出来事なのかもしれません。ですが出版されて本になるということはそこに別の意味合いが含まれます。
……つまり、あなたが恋人を失い、その想い出を一つの本にする。それが多くの人たちに影響を与えてしまうということなのです。ですから、未来で多くの出来事と複雑に絡み合う元となる一冊の本は未来において〝書かれなければならない運命〟にあるのです。それは変更できない予定調和なのです。
もう、お解りですよね。……つまりはあの本が未来に存在するためには、あなたが恋人を失うという過去の事実が必要になるのです。これもまた〝運命〟なのですよ。」
「あなたの言うことは解る。それでどうしろというのだ。」
「ですからね。あなたにもう一度チャンスをあげようというのです。誰かを失わなければならない運命だと知ってなお、あなたがどの世界を選ぶのかを選択させてあげようというのです。未来において、誰が死に、誰のことを想いながらあの小説が書かれるのかまでは決まってはいません。そこに関して言えば未定なのです。
幸い、今我々がいるこの部屋は運命を定める選択をすることのできる世界とつながっている場所なのです。私はこの部屋のことを〝ラプラスの間〟と呼んでいるのですがね。
さあ、どうなさいますか? あなたがやり直したい場所を強く念じながらこの部屋の扉をあけて出てお行きなさい。あなたの選んだ世界へ向かってね。」
男は言いたいことはこれで全部だと言わんばかりにそれきり口を閉ざし、ジェラートの盛り合わせを再び食べ始めた。こちらとはもう、目を合わせようとはしない。
俺は腕を組み、そのまま背もたれに倒れ掛かって頭の中を整理した。
……つまりは芹菜か、紗輝か、そのどちらかを選べと言っているのか。どちらかがこの世に存在して、どちらかが俺の恋人となり、死んでいく世界。
そのどちらかを選べと言われているのだ……
目を閉じて、
芹菜の笑顔を思い出した。それは俺にとって生きる力であり、希望だった。
紗輝の優しさを思い浮かべた。一度失った自分を紗輝がもう一度与えてくれた。
これだけ立て続けに荒唐無稽な現実が続けばいよいよもって受け止めなければならない。今の俺はどちらかを選ばなければならないのだろう。
心を落ち着けて考えてみる。これまでの出来事と、これからの出来事 。」
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