パラダイムシフト 有馬真 21歳

第10話 概念移行(パラダイムシフト)


概念移行(パラダイムシフト)   有馬 真言  21歳


 電車に乗っていた。突然に降り出した雨にもかかわらず手にはちゃんとお気に入りの傘を持ていた。電車が到着して駅のホームに降り立つ。改札口の向こうには突然の雨に呆然と立ち尽くす制服姿の最上芹菜が立っている。傘を持っていないらしかった。

 

    俺は今、夢を見ているんだなと気づく。そしてその夢の中が過去に体験した出来事であることも理解しているし、それがいつの出来事だったのかもはっきりと覚えている。

たしか、高校一年生のあの日、季節は梅雨入りしたばかりのころの出来事だった。

 いつもよりも遅い電車に飛び乗って遅刻ギリギリの時間に駅に到着した。そこには突然の雨ふりで傘を持っていなかった彼女がどうしようかと戸惑いながらそこに立っていたのだった。

 あの時、俺の彼女に対する認識は、クラスメイトの笹木紗輝の友達、ということでなんとなく名前を知っているくらいだった。遅刻時間ギリギリの駅にはもう生徒の姿はほとんどいなくて、駅に立ち尽くす彼女はイヤでも目立った    と言えば少し言い訳じみているかもしれない。芹菜は言うまでもなくかわいい子で、もちろん俺の好みどストライクだった。俺は彼女に声を掛けた。 

 二人で俺の持っていた傘に二人で入り、身を寄せながら学校まで歩いて行った。当然のように学校には遅刻したが、空は雨模様だったが、俺の心は晴れやかだった。

 思えばあの日のことがきっかけで二人は交際するに至ったのだと思う。今からもう6年も前の、色あせない思い出だ。

 その日の出来事を今日、こうして夢に見ている。

 もし、フロイトの退行のように、これが失敗以前の出来事だと考えるのなら…… それはきっと俺の深層心理が、彼女と傘を共にして歩いたこと自体が間違いだったとでも考えているのだろう。それはつまり、彼女と恋人同士になったことがそもそもの間違いだったということだ。

 もし、二人が恋人同士にさえなっていなければ今のような失意の毎日を過ごすこともなかったのだろう。そんなことを考えながら、夢の中の俺は駅の改札をくぐり、立ち尽くす彼女のそばに歩み寄った。

 

 手を伸ばせば届くほどの近くに立っている彼女は隣の俺には見向きもしない。それも仕方ないことだろう。このころの俺達は恋人同士でも何でもなかった。それでも顔と名前くらいはお互いに知っていたはずだ。笹木さんを間に置いた友人同士くらいの関係ではあったが……

それでも今の俺ははっきりと知っている…… 俺達は未来の恋人同士だということを。

 本当は今すぐ抱きしめたい。たとえそれが夢の中の出来事であったとしても…… 現実世界では芹菜を抱きしめることどころか、その俺の映った瞳を見つめることも、声を交わすことさえもできないというのに。

 だが、今の俺がやらなければならないことはただ一つ、彼女とすれ違うこの瞬間をつくることだ。

 果たしてそれが本当に正解なのかはわからない。だが、そうすることで俺の魂が少しばかり救われるような気がした。夢の中のほんの些細な行動ではあるものの、そうすることによって、もしすれ違っていればという可能性を想像することによって俺は彼女との過去を清算することができるかもしれない。ただ何となくではあるがそう思えるのだった。

 今、まさに芹菜にかけようとする自分の声が緊張で思いのほか震えているのがわかる。それを押し殺すように声を掛ける。

「ね、ねえ、セリ……」芹菜と呼ぼうとして思いとどまった。今まで繰り返し何度も、何度も、朝も昼も夜もうれしい時も悲しい時も呼び続けた名前だ。だが、この時点でその呼び方は正しくない。気持ちを整理するように一呼吸おいて…… 「さ、最上さん……」

 芹菜がふりかえり、言った。

「あ…… えっと、アンタたしか……」

    やさしく、少しかすれた響きのある声…… その声を聞いただけで思わず涙がかぼれた。

「え…… どうしたの? 泣いてるの?」

「い、いや、そんなことはない。ちょっと雨のしぶきが散っただけ……

 最上さん、傘、持ってないんでしょ。」

「え…… ま、まあ、そうなんだけど……」

「こ、これ、使いなよ……」

 俺は手に持っていたお気に入りのコバルトブルーの傘を彼女の方に差し出した。」

「え…… でもそんなことしたら、アンタ困るんじゃない?」

「い、いや、お、俺は…… いいんだ。走っていくから……」

「い、いやいやいやいやそれはよくないよ。」

 これ以上の問答はおそらく彼女に言いくるめられてしまう。そう思って俺はそのまま何も言わずに雨の中を芸文館高校に向かって駆けだした。これでいい、きっとこれでいんだ。

 うしろの方から芹菜の呼ぶ声が聞こえる。でも…… もう立ち止まってはいけない。


「   ねえ! アンタ! アンタの学校…… そっちじゃない!」


 その言葉に俺は自分の着ている服を見た。   これは。芸文館の制服ではない。隣の東西大寺高校の制服だ。俺は確か芹菜と同じ芸文館高校の生徒のはずだった。

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