第9話 パラケルスス 2


僕はその日一日中、朝に古池先輩が言っていた事を考えていた。それは単に古池先輩が勝手に考えた妄想の話に過ぎないことなのかもしれないが、それでも何かそれが重要なことように思えてきた。むしろその説明さえもどこかで聞いたことがあるような気さえしていた。これがきっと〝デ・ジャ・ヴ〟というものなのだろう。

僕はその日の午後、部室には寄らず東西大寺駅の南側にある繁華街の書店に向かった。そこはスーパーやコーヒーショップが立ち並ぶ小さなショッピングモールのような面持ちの場所だ。そこはこのあたりでは一番大きな書店があり、読書家の僕の馴染みの場所でもある。

いつもの行きつけの一階、文芸書のコーナーを通り過ぎ、エスカレーターで二階の教育・実用書コーナーの方に向かった。ほとんど人気のないさびれた科学・物理のコーナーには誰ひとりとしていなかった。

八嶋のヤツはあれでいてなかなか聡い奴だ。ああして黙ってこそはいたものの、古池さんのわけのわからない話をそれないに理解しているのだろう。だけど、僕はまるで駄目だった。

元々コンピ研なんて興味があったわけではないけれどこうまで何から何まで一人置いてきぼりを受けるのは甚だ面白くない。それなりに学んでおこうと思ってこうしてこっそり本屋に足を運んだわけだったが……

結局何の本を読めばいいのかがよくわからなかった。〝相対性理論〟それくらいならなんとなくは解っている。でも、並行世界やら運命なんてものをどう、科学的に扱っているのかさえまるで分らない。〝インフレーション理論〟〝量子論〟このあたりがなんとなくそれっぽい気もするのだが、果たしてそれで合っているものなのか…… 手当たり次第読んでみる、というのには高校一年生の懐事情から到底できなさそうな価格の本だった。いっそ、誰かに聞いた方がよいのだろうかとも思った。

いつのまにかさっきまで無人だった科学のコーナーには幾人かの人がいた。そして僕のすぐ横には背の高い、色白で黒縁眼鏡をかけたいかにも賢そうな大学生らしき人がいることに気が付いた。髪の毛は寝癖だらけだが優しそうな人で聞けばなんでもこたえてくれそうな気がした。

で   。 いったい何を聞けばいいというのだろう。


『並行世界や運命を知りたいんですが、どの本がよいでしょうか?』   とても恥ずかしくて聞けそうにはないことだ。


 仕方なしの僕は量子論の本を手に取って開いてみた。タイトルに〝よくわかる〟とついているので安心して開いたが…… そこに書かれているものは身の毛もよだつような恐ろしい文章だった。なにが恐ろしいかと言えば…… それがわからないほどに何を書いているのかわからない本だった。目眩を抑えながら本を閉じた。いつの間にか横にいた賢そうな大学生らしい人はもういなかった。もはやこれで誰に聞くこともできないだろう。   と、さっきまでその人が立っていた前の本の束の上に黒い、布張りのいかにも安そうな財布が置かれてあった。誰に聞くまでも無くさっきの人が置き忘れてしまったものだろう。それを見てすぐさま、

「あ!」

 といったもは僕ではない。そのすぐ向こうにいた女子高生だった。僕とほぼ同時くらいに財布の忘れものに気付いたようだった。その直後、

「あ   。」

 と言ったのは僕だった。僕の言ったその言葉は財布に対してではなく、その女子高生に対してだった。芸文館の生徒で、スカート丈が嫌に短く、金髪に近いくらいの巻き髪の彼女はとても整った顔立ちで、ギャルというか、ビッチというか…… 言うまでも無く時々駅のホームの向かいで見かける、あの美人二人組の〝白い方〟だ。これに対し、僕は運命を感じられずにはいられなかったが、ともかく今はそれどころではない。さっきの大学生はどこに行った?

 あたりを見渡すが、結構な人がいて、もう、誰が誰だかわからない…… と、いうかそもそもどんな顔の人だったっけ? ついさっき顔を見たはずではあったがいまさらもう、思い出すこともできない。そういえばもともと僕は人の顔を憶えられないタチの人間だった。

「ねえ、あのひとじゃないかな。」

 白いビッチの女子生徒はレジの前に立っている男の人を指差した。顔こそは覚えていないが黒縁の眼鏡、きっとあの人で間違いないだろう。僕は本の束の上に置かれた財布を掴んで猛ダッシュでレジの方へ走っていった。レジの前で男性は「あれ?」というような表情で服のポケットをまさぐっていた。どうやらこの人で間違いないようだった。

「あ、あの    これ、向こうに置きっぱなしになってましたよ。」

 駆け寄って、息を切らしながら財布を渡すと男性は少し気恥ずかしそうにお礼を言いながら財布を受け取り、会計を済ませた。どうやら医学関係の本を買っているようで結構な価格が表示されていた。医学生かもしれなかった。

 僕はそのまま立ち去ろうと踵を返そうとしたところで会計を終えた大学生に呼び止められた。

「ホントに助かったよ。君にはなんてお礼を言ったら。あ、そうだ。」

 大学生は財布を開き、そして一瞬「しまった」というように顔をしかめた。

「ごめん。お礼をしたかったんだけど本を買って残りこれだけしかないんだ。」

 言いながら財布の中に残された最後の一枚の千円札を差し出した。

「い、いや、そんなつもりでやったわけでもないですから。」

「でも、それじゃ、ボクの気が収まらないから、助けると思って受け取ってよ。これで、そちらの恋人さんとお茶でもして。」

    そちらの恋人さん? そう言われて後ろを振り返るとさっきの白いビッチが僕のすぐ後ろに立っていた。手には僕の荷物を抱えて…… 財布手に取って追いかけてきたはいいが、どうやら自分の荷物をその場に置いてきたんだと気づいた。彼女は自分と僕の物とのふたり分の荷物を抱えて追いかけてきてくれたようだ。僕の恋人と間違われたことに機嫌を損ねてしまったか、少し膨れたような表情で白いほほを少しだけ赤く染めていた。

「……あ。」と、何か否定する言葉を探したが思うような言葉が見つからなかった。その隙に大学生は僕の手にその千円札を握らせると少しはにかみながら立ち去ろうとした。

「   あ、ちょ、ちょっと待ってください。」

 立ち止まり半身で振り返った彼に僕は尋ねた。聞いておきたかったことだ。

「う、運命って、なんの本を読めばわかりますか!」

「ん?」首をかしげながら躊躇した。

    たしかにこれは言葉が足りなさすぎる。急いで声を掛けたため、あまりにも要領のえない言葉を投げかけてしまった。

「   運命か。いくら本を読んでもわからないと思うよ。

 ……でもそれはきっと自らの行動でつかみ取るもの……なんじゃないかな。」

 大学生は少し照れくさそうに笑いながら立ち去った。

「   プッ。」僕の背中側からさっきの白いビッチの思わず噴き出した声が聞こえた。

「笑うなよ……」今度は僕が照れくさそうに振り返った。

 白いビッチは白い肌が真っ赤にしながら両の肩をがくがくと震わせていた。

「ご、ご、ごめんなさい。だ、だっていきなり運命なんて……」

「い、い、いやあなんかちょっと気になることがあって…… つい思わず。あ、に、荷物ありがとう。」僕は荷物を右手で受け取って、今度は左手を差し出した。その手にはさっきの千円札が握られている。「君のお手柄だから、これは……はい。」

 彼女はしばらく僕の手に握られた千円札を見つめて言った。

「そう、これがあの時、言っていた運命ってものなのかもしれないわね。」

「ん? あの時? 運命?」

「うん、やっぱり覚えてないか、まあ、仕方ないわよね。」

「……えっと。」

「ううん、何でもないの、忘れて。それより君、さっきの人の言ってた話、ぜんぜん聞いてなかったのね。さっきの人は恋人さんと一緒にお茶でもって言ってたのよ。」

「あ、あああああごめん。」

「なんであやまるの?」

「いや、なんか変に誤解されちゃって……」

「ううん、いいのよ。それよりも早くいきましょ。」

「え、行くってどこに?」

「だから    二人でお茶しに行くのよ。それともウチと行くのは嫌なの?」

「い、いや……」

「え、本当に嫌なの……」

「い、いや…… て言うか、そうじゃなく…… うれしい……です。」


 僕たち二人はその本屋に併設されているチェーン店のコーヒーショップに入った。僕はアイスコーヒーを、そして彼女はブルーベリーラッシーをそれぞれ注文してセルフで受け取り、窓際の席に座った。店内は午後五時過ぎとあって、学校終わりの生徒や仕事帰りのサラリーマンたちでそれなりににぎわっていた。僕はなるべく多くの人にこの光景を見てもらいたいと願った。テーブルを挟んで向かいに座っている彼女はこうして間近で見ても恥ずかしいくらいに美人だ。八嶋に言わせれば僕らとは住む世界が違うという人だ。なんだったら一番、八嶋に見てもらいたい。偶然にもこの窓の向こうを通らないかと思うくらいだった。しかし八嶋がこんなところを通るなんて考えられないし、そもそも通ったところでガラスに描かれているクロワッサンのお店のロゴが邪魔で僕たちの顔は外からでは見えにくいだろう。ああ、なるべくたくさんの人に自慢をしたい。今度はこの間のような夢じゃなく現実なのだ。目の前にはいつも遠くから眺めていただけの憧れの彼女が座っているのだ。

「じ、自己紹介から始めた方がいいよね。ぼ、僕は有馬真言っていうんだ。は、はじめまして。」

「ウチの名前は笹木紗輝です…… で、でも、はじめましてじゃないのだけれどね。」

 その言葉に胸が締め付けられるようにうずく…… そうか、やはり彼女は覚えていてくれたのだ…… 

「あ、お、覚えていてくれたんだ。」

「う、うん、いちおう……ね。」

「よく、向かいのホームで見かけますよね……」

「あ…… えっと、うん、やっぱりそういうこと…… なんだね。」

    笹木さんが一瞬、左の目を少しひきつらせたような気がした。……何か失敗したか?

「ところでさ、笹木さんはあんなところで何の本を探してたの?」

「え…… あ、うん、ちょっとね。でも、全然意味が分からなくて諦めかけてたところ。」

「じゃあ、僕と一緒だね。僕も因果律だとか、ラプラスの悪魔とか最近周りで聞いちゃってて、調べてみようと思ったんだけど何がなんだかさっぱりで…… 運命を予想するってことはできるのかなとか、なんかそんな風に思っただけ。」

「運命ね、それでさっきあんなこと聞いてたんだ。」

「うん、まあ。なんかあの人、見るからに頭良さそうだったし。」

「みたいね。お医者さんみたいだし。」

「え、大学生じゃないの?」

「名札…… 付けてたわよ。研修医の……」

「気づかなかったな、まったく。」

「ところでさ、笹木さんは運命って信じる?」

「いままでは大して信じてなかったけど、今は信じているわ。だって、こうして有馬君に巡り逢えたんだから。」

と、さらりと言った彼女はその直後、自分の言った言葉の恥ずかしさに気付いたらしい。みるみるうちに白い肌を真っ赤にしながら目を反らした。むしろこっちの方が恥ずかしい。

 運命なんてものがあるのなら、これが運命だと言わず、何があろうというのか。僕にとってこれ以外の運命なんてすべて信じられないように思える。神様か、アカシックレコード様か、ラプラス様か、何でもいいから感謝したい。

 笹木さんは、遠くで眺めていた時に思い描いていたようなビッチなどではなかった。こうして話してみると、その外見とは裏腹に驚くほどまじめで純情な乙女だったのだ。

 それから僕たち二人はしばらく他愛もない会話を交わした。学校のこと、友達のこと、そして趣味のこと。驚くことに彼女の趣味が僕と同じ読書だということだった。町の書店や、私立の図書館が彼女の行きつけの場所だった。「それなら僕たち、きっとどこかで会っていたね。」という言葉に彼女は「間違いなく絶対に会っていたわよ。」と、同意してくれたことが何よりうれしかった。

 

アイスコーヒー 250円、マンゴーラッシー 390円、消費税込みで691円。

 さっきのお礼の千円で支払いをしておつりが309(サンマルク)円、偶然そのコーヒーショップの店名と同じになったことさえも運命を感じずにはいられなかった。

    残ったおつりはどうしようか、ということになってそれでつまらないやりとりとがあった(つまらないと言いつつ、それはとても愛らしい、そしてはずかしいやりとり)その結果、そのささやかな金額で、僕から笹木さんにプレゼントをしようということになった。この日、二人が出会った記念になりそうなものを。

 二人でショッピングモール内を少し歩いて小さな花屋の前で立ち止まった。店先に並んであったのは小さな小さな鉢植えに入った小さなまん丸のサボテンだった。笹木さんはそれが気に入ったらしかった。

「すいません、このサボテンって、花が咲きますか?」

 彼女は優しそうな若い店員に尋ねた。

「この状態からだと何年もかかるかもしれないけれどうまく育てれば咲きますよ。」

「え、サボテンって花なんか咲くの?」

 僕は少し驚いて店員に聞いた。

「きれいな花が咲きますよ。それにサボテンの花言葉は……」

 言いかけたところで笹木さんが「あ!」と、声を発した。そこで店員の言葉は途切れてしまった。「これにします。」と笹木さんが言って、僕はそのサボテンを笹木さんへのプレゼントにした。280円、消費税込みで302円、残りは7円。それを災害募金箱に入れてすべて終了。なかなか見事な使い道だった。

 二人で日が暮れかかった道を歩きながら駅に到着。今までのように駅の線路を挟んだホームに向い合せで電車を待った。いつもと違うのは別れ際に手を振りあったということだった。

 その時に気が付いた。そういえば連絡先を聞いていない。なにしろ夢中だったものでそんな余裕がなかったのだ。でも、心配することもないだろう。彼女とはまたいつでもこの駅のホームで会えるのだから。

 夕日に照らされる茜色に染まる田舎の駅のホームは毎日訪れているにもかかわらず、まるで違った景色に感じた。運命の歯車がようやく噛み合ってようやく初めてこの場所に到着できたかのような錯覚が起きる。   これがジャ・メ・ヴというものだろうか。初めて夕日が愛しいと感じる気がした。

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