第7話 パラライズ 4
目が覚めると、開いたノートパソコンのスクリーンセイバーが虚しく時間と日付だけを表示していた。〝2017.8.20.sun〟その日は最上芹菜の命日であることを確認した。仕事は休みを申請してある。朝の七時には笹木さんが家に来てからそれから一緒に法事に向かうという予定だった。
昨日のうちに法事の準備はしておいた。線香と数珠、それに平服でとなっていたが喪服を用意した。
その日はコーヒーにたっぷりのミルクを入れ、棚の奥にしまいこんでいた栗の蜂蜜をとりだしてコーヒーに入れて飲みながら笹木さんの到着を待っていた。今は亡き恋人、芹菜のお気に入りの飲み方だ。
時計の針が7時5分を指した。時間は充分に余裕を持ってのことだったので別段焦るわけではなかったが時間に遅れたことのない笹木さんが5分遅れるというのは珍しいことだった。そのことが少し気になって電話を入れてみる事にした。コールしてすぐに笹木さんは出た。
「ああ、笹木さん?」
《ねえ! 今、どこに居るの?》少し焦ったような感の口調だった。
「家にいるよ。笹木さんを待ってるんだけど…… まだ時間かかりそう?」
《ううん、大丈夫、すぐに行くからッ》
それだけ言って笹木さんは通話を切った。なにかに対しておびえているような印象を受けた。声も少し震えていたか。
それからさらに15分くらいが経った。時間にはまだまだ余裕がある。それほど焦る必要はない。
玄関の方でガチャガチャと音がする。誰かがアパートのドアノブをまわしているようだった。内側から鍵をかけていたので扉は開かない。きっと笹木さんだろうと思いながら玄関のほうに歩いて行った。何故今日はドアチャイムを鳴らさないのだろうと疑問に思いながら……
サムターンを回して鍵を外し、ドアを開けると笹木さんがいた。少し取り乱している様子だった。
「どうかした?」
俺のその言葉に笹木さんは一度言葉に詰まり、そして深呼吸をした。まるで必死に平常を取り繕うとするかのように。
「ううん、なんでもないのまことさん。ちょっと鍵が見当たらなくて戸惑ってただけ。」
「鍵って…… このアパートの?」
「うん、そうだけど。」
「なんで笹木さんがアパートの鍵を持ってるんだ?」
「え…… だって当然じゃない……」
「いや、当然じゃない。むしろ持ってたら怖いよ、ストーカーみたいだよ。ま、いいか。とりあえず入りなよ。」
「あ……うん。」とりあえず部屋の中へと招き入れた。
「珍しいね。笹木さんが予定の時間に遅刻するなんて、まあ、時間は余裕をもって計画していたから大丈夫だよ。それにしても……」笹木さんのノースリーブシャツとミニスカート姿を眺めながら言った。「いくら平服でって言ってもそれはないんじゃないか。」
しっかり者の笹木さんにしては意外なミスだった。法事の時の平服をカジュアルな普段着だと勘違いするのはらしくない。
すると笹木さんはその場に立ち止り顔を青ざめた。しばらく口を開いたまま微動たりしなかったが少しして、震えながらに言った。
「ねえ、ちょっとそれ、どういうこと?」
「どういうこと? いや、どうもこうも、今日は芹菜の一周忌だろ。」
笹木さんが俺の言葉を聞いて意味を理解するのに少しの時間が必要だったかのように思えた。数秒たってから彼女はその場に崩れるようにへたり込んでしまった。
「だいじょうぶか?」言いながら笹木さんをダイニングの椅子に座らせ、蜂蜜入りのミルクコーヒーを飲ませた。
笹木さんはコーヒーに口をつけながら思いつめたような表情をしていた。
「だいじょうぶか? 今、すごく怖い顔してるけど。」少し落ち着かせようと肩に手を置いた。笹木さんの肩は小さく震えていた。「法事、行けそうかい?」
「うん…… だいじょうぶ。……そうか、今日はセリナの一周忌なんだね。」少したって落ち着いた彼女は「そう、だからウチは今日、髪を黒く染めてたんだね。」と言った。
「いや、それもあるけど就活のためでもある。」
俺はまるで自分のことのように彼女についての説明を与えた。なにが理由かはわからないが彼女はすっかり混乱してしまっている様子だったが、やがていろいろとを理解するかのようにして落ち着きを取り戻した。
俺のアパートの中にはかつて芹菜が使っていた喪服が捨てられずにあった。少しサイズが小さいが笹木さんにはそれを着てもらうことにした。親友の一周忌にその故人の喪服を身につけての出席という事に稀有を感じなくはない。そして、そんな姿の笹木さんとそろって芹菜の一周忌に向かう行為がどことなく笹木さんを芹菜の代理に据えているような感じがして背徳感を憶えた。
笹木さんは芹菜の墓前でひどく泣いた。
今までは泣いているのはいつも俺の方だった。そんな時、いつだって笹木さんはじっと耐えていたというのに。
考えてみれば笹木さんと芹菜の友情は俺と芹菜との間よりもずっと長い。笹木さんが悲しくないはずがなかったのだ。それなのに、いつまでも俺がくよくよしていたばかりに笹木さんはろくに泣くこともできなかったのではないだろうか。そんな笹木さんのためにも一刻も早く立ち直らなくてはならないのだと痛感させられた。
法事が終わり、俺と笹木さんは芹菜の法事の後片付けを済ませ二人で俺のアパートに戻った。
本来ならばその場で解散する予定ではあったが、笹木さんの私服がアパートに置いてあるのでそれをとりによらなくてはならなかったからだ。
アパートについたころ、すっかり日も暮れてしまっていた。俺はジャケットを脱ぎ、ネクタイを外した。笹木さんも着てきた私服に着替え、コーヒーを淹れてテーブルについた。
「服、ありがとうね。助かったわ。あ…… またクリーニングに出して持ってくるから。」
笹木さんは脱いだ芹菜の喪服を紙袋に入れて持ち帰ろうとしていた。
「いや…… もう、持って来てくれなくてもいいんだけど…… ここに置いていても着る人もいなしさ。」
「あ…… ごめん。」
「謝ることじゃないんだけどね…… そろそろあいつの持ち物もちゃんと整理しなくちゃいけないんだけどな…… なんか…… きっかけがなくて……」
甘いミルクコーヒーを飲みながら窓の外を眺め、芹菜との記憶を浮かべた。この部屋で彼女と二人で生活している間、今みたいに静かな日なんて一度もなかったなと思いやった。いつも元気な芹菜は落ち着いて黙っている事すらろくにできなかった。おかげで部屋はいつも賑やかだった気がする。
窓の淵には世話をしてくれる人のいなくなったハート形のサボテンが干からびて萎れてしまっていた。俺の視線に気づいたのか、笹木さんもサボテンの方に目をやった。
「そういえば、ウチもサボテン育ててたっけな……」
「ああ、そのサボテン。芹菜がこの部屋に来たとき持ってきたんだ。どこかの喫茶店でもらったとか言ってた。」
「……ふーん。そうなんだ。」笹木さんは感慨深げだった。「立派なサボテンだね。」
「世話不足で萎れてるけどな。」
「ウチが育ててたやつはこんな立派なやつじゃなかった。ホントに小っちゃい鉢植えに入った、まん丸くて小さい奴だった。……やっぱり愛の大きさでこんなにも成長するものなのかしら。」
「そんなこともないだろうよ。今は愛情不足で萎れている…… そうだ、笹木さん。このサボテンもらってくれないかな。どうも俺じゃあ世話が足りないようだし…… それにどうしても芹菜のことを思いだしちまう……」
「……いいの?」
「ああ、もちろん。そのほうが『サボたん』のためになる。」
「『サボたん』?」
「ああ、芹菜がそう呼んでいた。」
「うん…… わかった。サボたんはウチが連れて帰るよ。でも、芹菜の服はまたもってくるね。ウチが持っててもやっぱりしょうがないし、これはマコ…… 有馬が責任を持って供養してあげて……」
「ああ、わかった。」
コーヒーを飲み干した後、サボテンの鉢植えを抱えて笹木さんは帰っていった。
そしてまた、イヤというほどに静かなアパートに一人きりになった。
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