第6話 パラライズ 3
次の日の土曜日。レストランでの仕事は、昼こそは忙しかったものの夜は土曜の夜にしては比較的に落ち着いた一日だった。早々に家に帰った俺は次の日の準備をしてノートパソコンを開いた。書きかけの原稿に行き詰まり、考え事をしているうちにそしてそのまま眠りに落ちてしまったようだった。
きっと髪を黒く染めた笹木さんと〝退行〟の話なんかしたせいだろう。その日見た夢はいつもより、もっと以前の記憶のものだった。
つまりは芹菜と出会うよりもさらに以前。俺の深層心理が芹菜と出会うこと自体を〝失敗〟と判断し、それ以前の退行を試みた結果なのかもしれない。
それは芹菜と出会うよりも少し前、中学三年の夏の出来事だった。
高校の受験を控えた中三の俺は夏休みに市立図書館に通いながら勉強をしていた。
そこには同じ年頃、おそらくは俺と同じように高校受験の勉強をしているのであろう人たちが多く集まっていた。当然のことではあるが、その中の何人かは馴染みのある顔があったりもした。かといってそのほとんどの人とは会話をすることなく、当然名前も知らない人ばかりだった。
勉強しながらつい、ウトウトと居眠りをしてしまった俺が目を覚ますと図書館のテーブルを挟んだ向かいには同世代の少女がやはり俺と同じく勉強していた。
その少女は図書館の常連で俺も何度かあったことがあるという記憶がある。
黒髪のきれいな、黒縁眼鏡の色白なおとなしい印象の少女だった。
が、今、改めて滑稽だと思えることがある。
その黒髪の少女が誰なのか、今までは記憶に中にいたその黒髪の少女は俺にとって〝たまに見かけるよく知らない子〟に過ぎなかった。
しかし、21歳の俺にははっきりとわかる。つい、昨日。目の前の少女と同じ黒髪の姿を見たばかりだった。
それは15歳の笹木さんだった。
もしかして俺が中三の時に会っていたあの少女は笹木さんだったのかもしれない。
あるいは先日会った笹木さんの印象が、そのまま俺の夢の中のあやふやな過去の印象を塗り替えてしまっただけなのかもしれない。
そんな、15歳の笹木さんをしばらく見ていると、彼女は俺の視線に気づき、その瞬間に二人は見詰め合う形となり、時間が止まったような感じがあった。15歳の笹木さんは白い頬を紅潮させながら目線を反らした。当然、俺のことなど知らないという行動だった。それを少しばかりいじらしく感じた俺は彼女に言った。
「ねえ、笹木さん。」彼女は知らない俺に名前を言い当てられて困惑している様子だった。俺はいたずら心が生じて、続けて言った。「笹木さん。たぶん俺達は一年後、再び再開することになると思うよ。もう、それは運命なんだから。」
事実。彼女とは一年もたたない間に出会う。あるいは再会することになる。同じ高校に進学して偶然同じクラスになった笹木さんとは友達になり、彼女の親友の最上芹菜と恋人同士になる。それが俺の知る未来だ。とはいうものの俺は高校で再開した笹木さんに対して、今の今まで初対面だと思っていた。それというのも高校で再開した笹木さんは明るめの茶髪で眼鏡もかけていなかった。見た目はまるで別人だ。
「ね、ねえ。」俺の言葉を不審に感じた笹木さんは質問をしてきた。「再会する運命って、君はどこの高校受験するつもりなの?」
なるほど、それもそうだ。見た目からしてお互い受験生なのだ。一年後に再会する運命っていえば大概同じ学校を受験するのだろうというくらいの予想はつく。そこで俺は偽りもなく。「第一志望は白明で、滑り止めに芸文館。」
そう答えた。事実としては第一志望の白明の受験に失敗して、滑り止めの芸文館で彼女と再会するのだ。だがしかし、高校で出会う笹木さんは金髪で眼鏡もしてなくて、今の今まで同一人物だと思ってもいなかった。(でも、これは俺の夢であって実際は気づくどころか本当に赤の他人なのかもしれないが)そして、そのとき不意に先日のフロイトの退行の話を思い出した。もし、俺が芹菜と出会ったこと自体を〝失敗〟と感じていて、それ以前からやり直したいと思う気持ちが夜ごと俺にこんな夢を見させているというのなら、いっそ出会わない未来であったなら…… その時、そう考えてしまったのは事実だ。そして夢の中の俺は手元に置いてある受験用の問題集の合い間に埋もれた、学校提出用の進路志望票の第二志望、〝芸文館高校〟を消して、その隣にある高校、〝東西大寺高校〟の名を書き込んだ。それはほんの些細な気休めというか、ちょっとした思い付き。もし、最上芹菜と同じ高校に通うことがなければ彼女を失う〝失敗〟もまた、ありえないんじゃないか…… そんなくだらない思いつき、夢の中の世界のほんの思いつきの、些細な行動だった……
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