第六幕

 



 急斜面の下りの登山道へと身を投げ出した仁也は、真っ先に己の無策を呪った。

 まばゆいばかりの広場から、照明一つない登山道へと身を転じたのだ。眼が光に慣れていて、暗いその場所で視界が確保できるはずがない。そんな単純な事も判らなかったのかと自分で自分をののしる。


 だがそこで異変に気付く。

 山道へ入った直後こそ視界が暗転していたが、数秒もしない内にまるで自分の瞳が何か別の物に切り替わったかのように、暗闇の世界を肉眼で直視できている。

 視界が良好になっている。

 確かに月は出ていた。しかしこんな暗い林の中をどうして識別できているのか。用意してきたLEDライトなぞ、まるで必要ない程に夜の世界が見渡せた。


 そして、坂道を猛然と駆け降りている自分のその足の速さにも違和感を覚える。

 確かに足には自身がある。調子の良い時ならば100mを12秒台を切って走りきる事も可能だ。


 だがこのスピードはおかしい。

 まるで体が軽く、重力を感じないような――


 いや、違う。

 体が軽いのではない。足腰が強力なバネへと変化したように、一歩一歩毎、地面に踏み込んだ足から放たれる感触――その衝撃が凄まじいのだ。

 一歩をまたぐ度に突き抜けるような跳躍ちょうやくをして見せている。

 確かに坂道を転げるよう降りており、高さの分そう感じられるのやもとも思った。


 しかし地面から出張った大きな岩を飛び越そうと、さらに足を力強く踏み込んだ所でそんな感慨は砕け散る。

 背の高い木々のその天辺の生い茂った枝葉に手が届いた。体感で言って地上から4,5m離れた宙空に、その身が踊っていた。


 身体が熱い――

 あの感覚だ。


 心臓から送り出される血液を煮沸しゃふつでもしているのかという程に身体の芯から熱を帯び始める。

 意識していないのに、筋肉がたわみ、骨がきしみ、皮膚ひふが張る。

 呼吸が荒くなるが、息苦しくはない。

 ある種の開放感がその身を駆け巡っている。

 何事もないというのに大声で叫びだしそうだ。


 その時仁也は、自身の周りを取り囲んだ真っ黒い影を――地面から跳びすさびつつ、しかし確実に捉えていた。


 奴等だ。

 真っ赤な眼を向けて、仁也に併走している。

 襲い掛かってはこない。

 奴等は四足で駆けている、おそらく仁也よりも速い筈。

 しかしその距離を縮めようとはしない。一定の距離を保ち、ぴったりと仁也に付いてくる。


 この感覚は何だと、仁也は自問する。

 先程まであんなにも恐ろしかった影達を今はどうとも感じない。恐怖で打ち震えていたさっきが何だったのかという程、今はまるで怖くない。



 と、その時、前方の視界が開けた。


 林を抜けて、幅の広い山道へと至ったのだ。

 その山道のさらに向かい側に、大きな滝が流れ出ている。切り立った崖が突き出ており、その端に木枠とロープで二重の柵がしてあった。木材をそのままの形で利用したベンチのようなものまである。


 だが、灯りも何も無い中で、そのベンチに人影があるのを仁也はしっかりと捉えていた。

 人影は二つだ。ベンチの上で重なる様一つになっているが、見間違いはない。


 突然に林の奥――ほとんどその上空からに見えたろう――から飛び出してきた仁也の影を向こうも判別できたらしい。

 急調子の間抜けな悲鳴が響き渡った。


 声からも知れたが、どうやら一組の男女のようだ。

 睦言むつごとの真っ最中らしかった。こんな所でよくもまあと仁也が呆れて心持ちを緩めかけた、まさにその次の瞬間――


 それまで忘れていた身を引き絞るような恐怖が背骨を縦に貫いた。


「――逃げろおぉぉっ!!」


 がなり立てる様にそう叫んだ仁也の警告は意味を成さなかった。

 息も吐かせぬ間に仁也の両脇を駆け抜けた真っ黒い影達が、勢い余るようにして切り立った崖の端の方まで移動していた。

 気付けば、山道の中心に仁也を置き、前方の崖と後方の林のその全てに奴等が展開している。

 相変わらず距離はまだあるが、包囲するように輪を形作っていた。


 そして勿論、崖の端付近に設置されたベンチに居る一組の男女の傍にも、その黒いおぞましい影が降り立っているのだ。


 絹を裂いたような悲鳴がその場にとどろく。

 暗くてはっきりとそれを識別できなくとも、すぐそこにに異形の化け物が何体も出現した事は理解できたのだろう。

 女の方が高い悲鳴を発した。


 だが、その行為こそが命取りだった。

 その甲高い音に誘引されたように、近場の二体が男女を振り返る。


「おいっ! よせ……」


 直感的な恐怖に思わず声を上げたが、それは虚しくその場に木霊したに過ぎない。


 奴等がまるで腕を広げるようにして、二人に飛び掛かった。

 どうっという地面に何かが押し倒された音がして、そしてその恐ろしげな悲鳴がさらに音量を上げた思いきや、瞬間くぐもったように押し込められた。


 奴等がその喉仏に喰らい付いたのだ。

 めちり、みちり、という奇妙な音が響いた。同時に、液体をしたたらすようななめらかな音も。

 仁也の立つその場所からは奴等の背中が邪魔をして、直接の光景は見れない。だがむしろ、音だけの方が容易にその場が想像を起こさせる。

 ぱきゅっという骨の継ぎ目、軟骨の類を噛み砕く音が一層際立って鳴り響く。鶏の手羽先などを千切る時に聞く、あの音だ。


 奴等がまるで満足したように頭を上げ、仁也の方へと向き直った。


 その後ろに、はっきりと見てしまった。

 壊れた人形のように手足をあらぬ方向にもたげ、横たわったいるむくろ達――

 男の方は首から左肩にかけてくぼみのようにえぐられ、女の方は顎の下の肉がごっそりと無くなってその白色めいた骨を覗かせている。

 その女の顔がごとりと向きを変えて仁也を見る。動いたのではない、肉が無くなって支え失い重力に引かれたのだ。


 青い月夜の下だというに、まるでその赤々とした血のにじみが見えた気がした。


 男女を食い殺したその内の一体がゆっくりと立ち上がった。


 べたり――

 べたり――


 という足取りで、輪の中心へと進み来る。


 思わず身構えた仁也のその真正面へと、その息遣いを感じれる距離まで、先程までの俊敏な動作と打って変わった緩慢とも言える動作で至った。


 その他の奴等は動かない。そいつ一体だけが、仁也と真向かいに立つ。


 初めて仁也はその面を間近で観察できた。

 背が曲がっているため、ほぼ目線が仁也と同じだ。

 そして、やはり人のようでも獣のようでもない――その中間のような顔立ちであった。

 赤く充血した白目の真ん中に黄色い黒目がある。

 鼻をつんとする獣臭さ。

 顔を覆う黒い毛並みが今は血液でダマになっている。


 見開いた眼で、それから視線を外すことのできない仁也。


 すると、目の前の化け物が不意にかぱっとその大きな口を開けた。

 あまりの唐突さに、仁也は怯えるよりも呆気に取られる。

 その化け物は何を意図してそんな事をしたのか。ただ見えたのは、鋭い牙のならんだ口内に赤黒い肉片がこびりついている事だけだ。服の切れ端のような繊維の欠片もある。

 だが、一体それが何だと言うのだろうか。



 しかし――

 仁也は震えた。



 それは恐怖にではない。

 血だ。

 先程まで男女の体内で巡っていた血液がある。


 そこに、仁也の意識は集約される。


 口を大きく開けながら、けれども周りに酸素がないかの如く仁也はあえぎ苦しむ。

 その喘ぎが、身震いとなって全身に”おこり”――そしてやがて息をく。

 それはまるで焦れた女のような甘い吐息であった。


 その血に濡れた牙や舌が、なんともなまめめかしい。むっと漂ってくる血の匂いが、なんともかんばしい。


 そうだ。

 その通りなのだ。


 これまで仁也はずっと血を見るのを忌避きひしてきた。

 理由は、他人の血が怖いからではない。他人の流した血に、自分が抑えようもないたかぶりを覚えるからだ。


 初めてそれを意識したのは、あろう事か母親が自殺したあの古井戸でだ。


 手首を切り、身投げしたその現場は多量の赤色で彩られていた。

 こびり付いた赤――

 水で薄まった赤――

 井戸の縁に、井戸の中に、最愛の者の赤い血潮があふれていた。


 その時はまだ、小さな違和感のように胸の奥底を刺激しただけだった。


 だが長じていく内に、否が応でも自覚せざるを得なくなった。

 自分が流す血には何の気も起こりはしないのに、自分以外の血を見ると心臓が喜びで身震いをするようかのように激しく脈打つ。


 誰もが彼を血に怯える図体ばかりのお臆病者とさげすんだ。

 だが怯えていたのは血にではない。その血を見ておかしくなってしまう自分自身にだった。


 成長してからは自分のこの異常さを隠し通してきた。

 そういう部類の性的異常者なのだと、自分に杭を打ち込んできた。

 他人の血――それも鮮血さえ見なければ、どうという事はない。怪我を負った時に見る自分の血や、動物の血、あるいは酸化した血、加工された血などでは何のときめきも覚えない。


 ただ、人が流す事のできるそれ――

 その命の源であるそれらが今まさに花開き”散って”いくさまに、こらえようもないものを感じる。

 たまらないものを感じる。

 欲情すると言って差し支えない。

 あるいは人間がその命の分量をまき散らすという事実に欲情していたのか。


 だからこの秘密を死ぬまで止めておくつもりだった。



 そのたがが、今まさに外れようとしている。



〈呑まれるな――〉


 あの声が頭に響いた気がする。

 しかし、もう仁也の興奮は止めようもないものへと変わっていた。



 目の前には、相変わらず間抜けのように大口を開けたその顔がある。

 何故だか無性に、その不気味な筈のつらが憎らしく思えた。

 自分をまるで嘲笑あざわらっているように見えた。


 仁也の右の口角の端が、ぴくり、ぴくりと、痙攣する。

 やがてそれが次第と大きく上にせり上がっていった。

 それは狂喜の笑みであった。

 歯をいた、愉悦に歪んだ、恐ろしげな微笑であった。


「……ぃぃぃ」


 歯と歯を軋ませ、食いしばったその奥から、奇妙とも取れる呼気が漏れ出る。

 同時に仁也は身体を大きくふりかぶっている。弓をひくように右腕を大きく後ろに下げて、体幹を右側に捻ってその足と腰と肩とに力みを作っている。


 次の瞬間――


「――ぃぃあああああッッ!!」


 引き絞るよう緊張させていた筋肉を最大限に爆発させ、その右拳が猛然とした勢いで放たれる。

 音と圧を固形物のように引き裂きながら突き進み、仁也の拳が目の前の化け物の顔を打ち貫く。


 ごしゃり――

 鈍く重い音がその場で鳴り響く。


 黒い毛むくじゃらは上体を大きく仰け反らせたが、倒れ伏しはしない。あくまでもゆらりと、曲がった上体を戻してくる。

 その顔は突き出た上顎が醜く斜めにえぐれていて、折れた骨とそこに繋がった肉の破片がだらりと垂れている。


 だが、殴りぬいた仁也のその拳も勿論無事ではない。

 手の甲から白いものが肉を破って突き出ていた。折れた中手骨が皮膚から突出するほどに拳が変形している。


 「ひゅう」――と、笛に似た奇妙な呼気を漏らした仁也が、体を屈め短距離走のスタートダッシュをするように地面を蹴りぬく。

 凶悪な一個の肉の弾丸となり、瞬きの間もなく顔を潰した毛むくじゃらのその胸の内へと迫る。両腕をガードするように頭の上に揃えて掲げて、突っ込む勢いで相手の後頭部を抱え込んだ。

 そして、二歩めの足で地を蹴ってさらに加算された運動エネルギーを左の膝に乗せて思い切り打ち上げる。同時に抱えた両腕を力の限り自分の側に引っ張り込んでいる。


 ごぎゃっ――

 骨をひしげさせる鈍い音がまたも鳴りわたった。


 全体重の加速を乗せた膝に、渾身の腕力を加えた上下からなる強烈無比な圧潰あっかい

 それにより毛むくじゃらの顔面は深く抉れるように損壊し、今度こそ大きく後ろに身を曳かせて倒れこんだ。



「……うおおおおおおおおッッ!!」


 余韻を感じ入るよう倒れ伏した相手をしばし見下ろしていた仁也が、突如たけり狂ったようにそうえ立てた。

 最早、その咆哮ほうこうはどちらが獣であるか判別のつかぬ境地。


 着ていた上着のジャケットを引き千切るように脱ぎ捨てる。

 身体が灼熱の塊のように火照っている。

 体中に張り巡らされた血管に焼け溶けた鉛を流し込まれたかの如く、筋肉が熱を伴って隆起する。その圧に耐えられないとでもいう悲鳴のように骨が軋んで鳴る。


 今その仁也の身体は、はっきりと異常であった。


 ただでさえ筋骨隆々とした肉体ではあったが、今のそれは比べものにならない程に筋肉が膨張し――皮膚を張り破らんばかりに拡がっている。

 糸状の筋繊維の一本一本がその皮膚越しに窺えそうだ。


 身体の内から“力”がみなぎる。

 だが、それは何ら摩訶不思議な物ではない。

 ただただ純粋な“力”。

 そう、骨に沿った筋肉を収縮させて作られる極めて物理的なエネルギー。


 仁也は周りを取り囲む毛むくじゃらどもをめつけて見回した。


 「さあ、次はどうする!?」とでも言いたげに――

 「さあ、どうしてくれるんだ?!」と言いたげに――

 「この胸の高鳴りを、一体どう処理してくれるんだ!?」と言いたげに――


 収まりつかぬほどの喜色満面で、仁也は周りのその怪物に期待の眼差しを向けるのだ。



 まるでそれに応えるよう、毛むくじゃら達が一斉に吼え立てた。



 そして、円の中心にまた別の一体が進み出てくる。

 ここに来て初めて奴等は声を上げ、そしてその牙を鳴らして震えていた。仁也と同じに喜びに打ち震えていた。


 その新たな毛むくじゃらは吠え立てると同時に腕を左右に広げて突っ掛かって来る。

 鋭く伸びた両腕の爪が風を切って迫る。


 先程のはまるで儀式であった。

 仁也の拳を避ける事も防ぐ事もせず、まるで自身を一体のにえのように見立て無抵抗にその身を捧げてきたのだ。

 それはまるでその行為によって始まりを告げるかの如く。

 その行為によって仁也をある境界から引きずり込むが如く。


 だがこれからの相手は違った。


 向こうから進んで仁也を殺そうと飛び掛かってきている。

 その鋭い爪牙によって、仁也の身体をぐずぐずの肉塊に変えようとしてきている。恐ろしい獣の唸りを発し、鉤状に曲げた指先で仁也の肉を抉らんとする。


 仁也は軽いステップを踏み、後方へと身を退く。

 だがかわし切れずに、爪の先端――人間の中指に相当する鉤爪が仁也のたくましい胸を抉って、ピンク色の肉襞にくひだを開かせた。

 間を置いて、そこからぷつぷつと血が玉となってあふれ、次第に割れ目を満たしてこぼれる。

 常時ならば直ぐにも止血をせねばならない傷。しかして、今はそのような事に意識が向く仁也ではない。


 えて傷を負う程の距離で立ち止まった。――それは狙って作ったもの。

 突っ込んでくる相手とギリギリの距離を保っていた事で、間合いを保ち、次の攻撃に瞬時に移行できていた仁也。

 勢いを殺し切れぬ相手は今、前のめりである。


 素早く体勢を整えていた仁也は左足を地面から乖離かいりさせ、しなやかな脚の筋肉に物を言わせる強烈な蹴りをそこへと見舞う。

 それは力任せの素人の蹴りではない。

 くるぶしから膝、股、腰、背骨、全てが一体となる回転によって生み出された見事なまでの上段回し蹴り。繰り返し肉体に覚えさせた空手の技術。超人と言っても過言でないあの丹雄から教え込まれた骨髄こつずいに徹する技。

 膝から伸びていった左足が、中空の一点にて格納していたすねを展開させる。膝下だけが弧を描く軌跡を取り、相手の奇怪な側頭部に上空斜め左より飛来する。


 その蹴りは、表の道場に通っていた当時とは比べ物にならない威力を誇っていた。


 当たり前の話、子供の頃と比べ、ただ一意専心に肉体を鍛えこんだ現在の仁也のそのポテンシャルは凄まじい。

 そしてこれまで仁也はその本領を発揮させた事などなかった。

 今この瞬間、彼は一切のブレーキをかけず、培ってきた肉体のその最大限を披露した。


 相手が振るった右手も交差するように伸びてきたが、上段蹴りの体勢故に仁也の頭は後方に反るように下がっており、奴の爪は空を切る。


 肉と骨が打ち合う強烈な感覚を足の先が確かに覚えた。

 最高のタイミングと最高のスピードが乗った蹴り――

 それがクリーンヒットすると、骨を穿うがつ硬い感触ではなく、空気圧の気泡が弾け飛ぶような手応えが足の甲に残る事を知った。

 まるで相手の頭蓋が爆裂したのかと思わせる感触であった。


 二体目も盛大な勢いでその場に伏し、ぴくりとも動かなくなる。



「――おおおおおおおううッッ!!」


 またも仁也が勝利の雄叫びを上げた。

 直ぐ様にも、輪の中心へと新たな挑戦者が吼え猛りながら這い出てくる。


 もうそこには、確たるルールのような物が出来上がっていた。円の中心で仁也と闘うのは一体ずつという暗黙の了解がだ。

 実に奇怪極まりない光景だった。


〈止せ――儀式を完遂させるな――“最後の夜”を執り行わせるな――〉


 仁也の頭の中で微かにそんな声が聞こえる。


 だが、もう全ては無意味だ。

 その顔に浮かんでいるのはこらえ切れない喜び――快楽におぼれた者が見せる恍惚こうこつとしたそれだ。

 仁也は自身の力を思うがままに発揮して、相手の肉体を致命的なまでに破壊するというその行為に取りかれていた。

 打ち込む拳に、切り裂かれる身体に、快感を覚える器官ができてしまったかのように。


 次に輪の中心に進みきた相手は、四足で地面を駆け、即座に仁也との距離を詰める。

 そしてその低い体勢のまま、仁也の足元へと突っ込んでくる。

 顔を横に傾け、狼が獲物の足に喰らいついて動きを止めうかの如く、その鋭い牙が仁也の脹脛ふくらはぎを狙う。

 今度は後ろには退かず、むしろ相手と競い合うかのような前傾姿勢で足を踏み出し、迎撃の構えを取る仁也。

 利き手の拳は潰れている。手首の付け根――掌低をピンポイントでその側頭部へと叩き込む算段。飛び込んでくる相手に狙いを済まし、極端な前傾姿勢のまま右腕を轟然と突き出す。

 相手の突進の衝撃が掌から肩に抜けて突き抜ける。やわな肉体をしていたならば、それだけで肩が外れていたろう。

 二つの重苦しい肉体――双方向の力のベクトルはぶつかり合い、その空間に牽引されるかのように相殺された。


 一度怯んだように突進を中断した相手。しかし素早い反応を見せて再び飛び掛ってくる。

 その大口を開けた顔面を仁也は素早く自身の左脇に抱え込む。

 首を堅固に捕らえられている毛むくじゃらが暴れ回る。仁也の背中や尻を引き裂こうと爪を立てる。その鋭い鉤爪が肉にぞっぷりと喰い込むものの、構わずに仁也は相手の胸部を二度三度膝で蹴り上げてから、渾身の力でその巨体を持ち上げる。

 自らの体を弓なりに後方へと反らせ、抱え込んだ相手の体躯を天高く掲げるように――そしてその体勢のまま、一気に自分の体重を加えて相手の頭部を地面へと叩き落した。

 プロレス技で言うところの垂直落下式ブレーンバスターと言ったところ。頭頂部からほぼ垂直に地面へと落下した相手は、大地に突き刺さったかの如くぴくりともしなくなった。


 身を起こした仁也の前に、すぐさま次が立ちはだかった。


 がなり立てるように歯を鳴らした相手は、猛然と鋭い爪の生えた両腕を交互に振りかざしてくる。

 まさにがむしゃらにと言ったていで、コンビネーションなども何もなく、しかしその凄まじいまでの勢いは本能的な恐怖を与える。

 駆け引きも虚実きょじつもないため只管ひたすらに速い。腕の回転が凄まじい。まるで竜巻に吹き上げられた刃物だ。一度でもその直撃を貰えば、自分の骨肉が弾け飛ぶだろう事は想像に易い。

 しかし仁也は絶妙な間合いでその左右の大降りな攻撃をなしていく。

 首と上体をしならせて避け、さばき切れぬ危うい一撃には自ら足を踏み込んでその勢いを殺す。打撃点をずらせば、鋭い爪とて威力は損なわれ致命傷には至らない。


 とは言え、それら全てを完璧には躱し切れぬ。

 Tシャツの布地を切り裂いてその身に幾条もの血の筋が刻まれる。痛みはまだ訪れず、皮膚の上を真っ赤に焼けた熱い鎖が張り付くかのようだ。

 それでも、辛くも致命的なものは避けている。天性の――いや野生のカンといったところか。


 相手の胸板に出の早い前蹴りを食らわして一旦距離を空けると、躍起になって再び距離を詰めようとする相手とまるで呼吸を合わせるよう自身も前へと踊り出た。

 だが体を真正面からぶつけて来ようとする相手と、仁也の突っ込むその体勢は違う。まるでサッカーのスライディングを決めるかのように、仁也の体は超低空を滑り込んでいる。

 いち早く仁也の足は相手の奇怪な形をした脚を蹴り抜く。毛むくじゃらはつんのめって体勢を大きく崩す。互いの体が入れ替わるように位置がひっくり変わるが、盛大に転んだ相手と素早く立ち上がる仁也とではもう、次の動作へ移行するタイミングがまるで違っていた。

 ようやく起き上がろうとするその側頭部を、右のローで蹴りに入る体勢の仁也。


「――っせぇいッ!!」


 軸足をしかと地面に杭のごとく挿し込んで、尻まで右の踵を跳ね上げている。腰を回す遠心力と弦のように引き絞った大腿筋の爆発――目標への最短ルートをはしって仁也の蹴りは直撃する。

 凄まじい速度と重量がそこには加算されており、無防備な毛むくじゃらの頭部がそれに弾き飛ばされて、胴から切り離されたかという錯覚を覚えるほど伸びる。

 そのまま弧を描いて地面へと激突し、数度大きく弾んでさえ見せた。


 動かなくなったそれには一瞥いちべつもくれる事なく、仁也は周りを取り囲む異形の怪物どもをかっと睨んだ。


 それに応えて這い出てきた新たな毛むくじゃらは、これまでの輩と少し毛色が違っていた。

 先程の奴らのように、脇目も振らず仁也に突っ込んでこない。

 頭を尻より低くし、伏せたように地にへばりついて仁也をうかがっている。ライオンやヒョウが相手に気づかれないよう草むらから獲物を窺うあの姿勢だ。

 同時に、前腕で土を掻きながら、その身が左側へと回り込むような動きを見せた。


 それを受けて、仁也も前へとは踏み出さなかった。


 相手とは逆の方向、つまり右へとゆっくり移動していく。

 互いの距離を保ったまま、仁也と毛むくじゃらはその場で円を描く。林と崖――周りを取り囲む黒々とした奴らは変わらず、しかしその先に見える風景のみが入れ替わっていく。

 それが何周か巡った折、じわりと相手が距離を詰めた。


 これに仁也も退かず、同じように円運動を保ったまま前へと出る。

 円の直径が見る間にすぼまっていく。

 もう一歩で互いが触れ合う位置へと至ろうしたまさにその時、仁也が妙な体勢を取っていた。

 まるで小石に蹴躓けつまづいたかのように、上体だけが前に落ち行く。それに引きつられ、逆に下半身は上空へと放り出される。地面と鼻先がまさに衝突する手前で左掌によって勢いを殺した。

 前転の途中のような不安定な体勢から、仁也の肉体は捻り込むような横回転を見せた。


 驚くべき事に、腕一本で自らを支えたその不安定な状態で、仁也は相手を蹴りに行ったのだ。

 間合いはあと一歩分はあった。しかし、前へと倒れ込むことによってその距離を強引に詰めていた。

 水面蹴り――

 仁也の左の踵が地面すれすれを平行に、周りこんで滑っていく。咄嗟とっさに相手も反応し、その牙を剥くが、先に相手へと到達したのはやはり仁也の足だ。

 その体勢故、低い位置にあった鼻っ面の先を横ぎに見事蹴り砕く。


 それこそ情けない犬の悲鳴をあげた相手に、回転を殺さぬまま立ち上がっていた仁也が肘を振り上げて飛び掛かっている。

 伏せているかのよう体勢の相手に馬乗りでしかかり、その肘を叩き込む。硬い手応えと共に、仁也の右肘は相手の脳天へと垂直に突き刺さる。左掌で毛むくじゃらの片耳を掴み、逃さず、続けざまに、二度三度と右肘を打ち下ろす。

 引き掴んでいる耳の皮膚が裂け、毛と血が混じった破片が粘着質に舞う。仁也の右肘の皮膚も無論裂けている。それでも容赦なく打ち下ろす。相手の身体がその度に、びくり、びくりと痙攣する。


 何度目かの肘を落として、ようやく仁也はその身を放した。――というよりは、引き掴んでいた耳が千切れた。

 息を吐きながら背筋を伸ばしたその頬に、血の飛沫とグロテスクな毛玉が張り付いている。

 そして、仁也はその顔で、唇を吊り上げてわらうのだ。


 次の一体も同じような低い姿勢で、左右に身を振りながら迫ってきた。


 目測をあやまたせこちらの打撃を空振りにさせる魂胆であったか――しかし、仁也は構わずに迎え討つ。


 牽制の為のローキックを数発。

 体重を乗せない、直ぐに足を地面に戻せる蹴り。体勢をほぼ乱れさせずに、そのローで距離とタイミングを測る。そのごわごわとした毛皮で覆われた肩や腹に何度かヒットするも、決定打とはならない。

 むしろその攻撃が相手を調子づかせ、呼吸のリズムを測るべくもなく、相手は両腕を広げて突っかかってくる。


 強引に、間合いの内側へと入り込まれた。

 蹴りを出すには近すぎる距離。出せたとしても威力はその軌道上で潰され、効果的な打撃には及ばない。

 ならばと、仁也は自ら踏み入って膝を打ち上げた。


 しかし、途端に毛むくじゃらの身体がさらに浮かび上がっている。

 両腕を広げ、仁也の喉首を掻っ切らんとしていた筈の相手は、その突進の体勢のまま、さらに地を蹴って踏み込んできた。この距離では、向こうとて腕による攻撃は意味を成さない。

 その醜悪な獣の面が近づく。

 ぬらりとひかる、唾液に塗れた白い牙が正面に。奴は顔を横に傾け、そのあぎとを開げ、仁也の喉元に喰らいつこうとした。

 左右の爪による大振りなフックはフェイント、狙いは最初からこれだった。


 くむう――と、仁也を歯をきしらせる。

 畜生風情が虚実を織り交ぜた攻撃に出ようとは想定していなかった。


 しかし仁也が打ち上げた膝も奴の下顎にはヒットせずとも、その胸郭きょうかくに激しくぶち当たっていた。

 おかげで奴が入り込んでくる軌道がわずかにぶれる。

 首と背を可能な限り後方へと反らす。鼻先で、がちりと硬い物が打ち合わされる。仁也はその黒々とした巨体をまるで抱擁するように受け留めにいった。

 飛び掛かってきた相手と諸共にもつれ合うよう、地面へと押し倒された。


 毛むくじゃらが上で仁也が下。

 ――危うい体勢である。


 だが、素早く相手の胴体に両足を回している。

 体自体を密着させるように引き込んで、自身の右肩を奴の顎の下に押し付け、後ろから斜めに回してきた左掌でその後頭部を抑え込む。

 そうする事により、毛むくじゃらのみつきを完全に防いだのだ。


 自身の胸の内で暴れまわりながら、奴はもがいている。耳元でがちりがちりと、何度も凄まじい音が響く。所かまわず奴は仁也に爪を立て、皮膚を抉って、肉を裂くが、表皮を削る程度のそれでは致命傷とはならない。

 だが、この状態では仁也とてどうする事もできない。互いが地面の上で激しくのたうち回りながら、ただ消耗する他ない。


 いや――

 この状態から脱しようと無軌道に暴れ回る相手と、その身を預け、密着した状態を維持しようとする仁也とではその度合いが異なった。

 仁也はごわごわとした剛毛に顔を埋めながら、そのたまらない獣臭さを嗅ぎながら、粘り強く待っていたのだ。


 目に見えて奴の動きが鈍ってきた折、仁也は相手の後頭部を押さえている左手をさらに内側へと滑り込ませた。指が毛の上を滑って、奴の狭い額を過ぎ、目当ての物を探し当てた。

 そう、眼球だ。

 一差し指と薬指を、その両まぶたの間に思いきり突っ込ませ、指を鉤状に曲げて引っ掛ける。眼球の表面を爪が擦り上げ、奴は溜まらず、生理的な恐怖からびくんを背を反らせた。


 瞬間、素早く仁也はその下から這い出ている。

 上にあった相手の身体を側面から抱え込み、するりと回り込むように位置を変える。仁也の股の間で、毛むくじゃらの身体が反転している。


 仁也が上、うつ伏せた相手が下だ。


 そしてその背中に、仁也は既に張り付いていた。

 後背から相手の野太い首を両腕を使って締め上げる。奴の胴体を挟んだままの両足をフックして固定し、同様に相手の首の骨を両腕で封じ込んでいる。頭蓋と頚骨の太さの違いにより、その腕が外れる事はない。――柔道でいう裸締め。


 ただそれは締めるというよりは圧し折ると言った方が正しかった。

 その極めた両腕を自分の方へと全身全霊の腕力を込めて引き寄せると――隆起した力瘤が相手の頚動脈を圧迫するより早くに、肉の中に埋もれた硬い物が、ぐぎりとした手応えで圧し折れる感触を仁也は知った。


 流石に荒い息を吐き、ぐったりと動かなくなったそれを放りだし、ゆっくりと立ち上がる。

 腕と言わず、背と言わず、さっきの奴の爪によりズタズタにされており、削り取られた皮膚の一部が垂れ下がっている箇所さえあった。


 ダメージは蓄積されている。

 その眼前に、新たな毛むくじゃらはやはり立ちふさがってくる。


 しかし、仁也はなおも笑むのだ。

 まだまだ物足りていないという風で、大きく口で息をしながら、それでもまるで好色そうに欲深い笑みを浮かべているのだ。


 突如、勢いよく地面を蹴って跳躍した相手が、宵闇よいやみの上空より襲い掛かってきた。

 反応が遅れた仁也に、その重量はさばきれない。相手のその爪が肩と胸に、そのあぎとが直前にガードした腕に食い込む。

 黒い塊が仁也の上半身をほぼ丸め込む様に張り付いていた。

 仁也は身体中の力を込めて筋肉を堅く隆起させて、その鋭い爪牙が決定的な動脈を傷つけるのを防ぐ。

 相手の分の体重が掛かってぐら付いた足腰に構わず、そのまま自ら跳び込むように身を投げ出し、腕を咥え込んだその頭を地面に向けて放りこむ。


 相手の体を下にして倒れこんだ時、骨を砕く大きな音が広がったように聞こえた。それでも相手は腕をくわえたまま放さない。

 そのまま馬乗りの状態に持って行き、空いた左の拳を相手のその額に上から打ち突ける。

 何度も、何度も――

 自身の拳が変形しようとも、続けざまに――その自分と相手の血がねっとりと絡みつく、不気味なオブジェと化した顔面を殴りつけていた。


「ぐわあっ!! ぐがぁッ!! があアッ!! ガァァァッ!!」


 ――饗応きょうおう、だ。

 それは狂った獣達による、晩餐の宴に他ならない。



 そこにはもう、人間など一人もいなかった。



 仁也は気付きもしなかったろう。


 自身のその目が赤黒く染まっていった事を。

 口の中からせり出るように犬歯が大きく伸びてきた事を。

 身体中が黒々とした体毛で覆われ始めた事を。


 自分と相手の区別などつかなくなっている事に――

 仁也はもう、気付きもしなかった。






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