第五幕





 傾き始めた太陽が、庭に設けられた井戸の傍に立つ仁也の背中を斜めに差す。

 その古井戸のふちで、凍りついたように身動きをしない。


 やがて意を決したように、その分厚い木板を横にり落とすようにして蓋を開けた。


 果たして、そこには水井戸などは存在しなかった。

 井戸の中身がそっくり黒々としたセメントで埋め立てられていた。


 夕刻間近の西日が、コンクリートの塊となったそれと、傍に立つ仁也とを照らして長い影を作る。


 当たり前の話か、そこにあの日の光景はなかった。

 まるで全て無かったかのように、灰色に塗りつぶされていた。


 幾分か強張りの取れた顔で、再び木板の蓋を持ち上げてそれを被って隠した。

 そしてそのまま――被せた蓋を掴んだまま、やはり身動みじろぎをしないのだった。



 そんな彼の背中に、労わるような優しげな声が響く。


「若旦那さま、こちらでしたか」


 仁也は振り向きもしなかったが、幸枝の声だと分かった。

 土を踏むゆっくりとした音が次第に仁也のその背中へと近付いた。


「お懐かしゅうございます。……若旦那さまは覚えておいでですか? あの時はまだ、私の腰元にその両肩があったというのに……」


 その大きな背中をすっと優しく撫でるように幸枝のかいなが持ち上がる。


「……ほら、今では私めがこのように腕を高く掲げないと、若旦那さまのその両肩をいだいてさし上げる事もままならないのですよ」


 背伸びをした幸枝が、背中から抱き締めるように――左右の腕を仁也の両脇の下から伸ばし、前から肩を包み込むようぴったりと手の平をつけている。

 そうして背中に額を当て、身を預けていた。


 柔らかく、あたたかい感触が背中にある。

 それはどこか懐かしい感触でもあった。


「奥様の……有紀さまのお墓参りには、ちゃんと行っておられますか?」

「……」


「そんな事ではいけません。有紀さまもきっと寂しがっておられますわ」

「……」


「和志さまは毎月必ずおいでになっていますよ」

「――あいつが?」


 それまで微動だにしなかった仁也が、首を巡らして自分の背中の幸枝を見遣る。


「若旦那さま、自分の親を『あいつ』などと呼んではなりません」

「……親か……」


 似つかわしくない、自嘲的で尖った声を漏らす。


「確かに親には違いない。血縁はどうあっても切れないもんな」

「どうしてそのように申されるのです……? ただ一人の父親、家族ではありませんか……」


「あいつは確かに俺の父親だ。あいつが居なければ、俺はこの世に存在してないんだろうな。でもね――」


 ゆっくりとまた視線を眼前の古井戸に移し、仁也は奥歯を噛み締めるように顔を歪めた。


「あの男がいたから、母さんは……死んだ」


 ひどく切なく、そして遣る瀬無く、そう口にした。


「違います! きっとあれは……!」

「違うものか。あの男が、楠見和志という男が……母さんを苦しめた。そして、狂わせたんだ。……だから母さんは”自殺”なんてしたんだ……」



 それは、仁也が五つの時だった。

 母――楠見有紀が手首を切り、その古井戸で投身自殺を図った。


 絶命した有紀を最初に発見したのは、仁也本人だった。

 まだ幼い仁也に事態を理解することなど出来なかった。ただ、井戸の底に浮かんだ母親に声を掛け続けていた。もう返事が返って来る筈もないのに、そんな事などまるで解らず。


 その場を発見した幸枝が不審に思い、井戸の縁へと近付いて事が発覚した。

 覚えているのは、屋敷中が騒然とした事。幸枝に抱きかかえられてその場から引き剥がされた事。


 当時の仁也にはまだ「死」という概念がうまく理解できていなかった。

 その日より屋敷から母の姿が消え、ただ幼い彼は母を捜して歩き回り、そして母の名を呼びながら泣いていた。

 屋敷の者にそんな彼をどうする術もなかったという。


「あの時はよく分かっていなかった。でも今でも忘れられない、あの時の母さんの顔がさ。だって笑っていたんだ、あのいつもの微笑みで。今なら理解できる気がする。ああ、そうか、あれはあの男への当てつけだったんだって。――嘲笑の微笑みだったんだって」

「そのような事……嗚呼あぁ……」


 幸枝は声にならない声を上げて、より一層その大きな背中を抱き締めた。しかし、仁也の身体はそれを拒むように、千切れんばかりに硬く強張っている。


 そうして必死で耐えている。

 震えを抑えようと、さらに全身に力が入った。


 仁也はそれ以上口を開けなかった。

 ただ黙して胸の内の激情が去るのを待った。



 やがて、わずかに息を吐き、仁也はその両肩に掛かった幸枝の手をゆくっりと解く。


「ごめん、少し取り乱した。もう平気だから、幸枝さん」


 そう言って、逃げるように井戸のほとりから離れた。


「若旦那さま……」

「平気だって。もう、子供じゃないんだ。自分の感情の整理ぐらい付けれるようになったよ」


 それから仁也は幸枝を振り返って「ありがとう」とそう言った。


 それは仁也の虚勢であった。

 しかし、ただ自分の感情を無闇に吐き出すだけの子供の頃からに比べれば、それを自身の成長だと思いたかった。それが強がりであっても、強さの一部だと信じたかったのだ。


 そんな仁也は幸枝にどう映ったのだろうか。


 ただ彼女は複雑な色合いに満ちたその眼をぐっと閉じて、そして静かに一度頭を下げてからきびすを返した。



 一人残った仁也は、視線をかつて母と自分が住んでいたその部屋に向ける。


 父親――和志はその当時から、この屋敷にさえ姿を見せる事があまりなかった。自然と仁也の世界は母親と二人だけの物となっていた。

 憶えているだけでも、母は自分に付きっ切りだった。

 勿論、善三や屋敷の使用人たちが居たのは知っていた。それでも幼い仁也の世界は、母とたった二人だけの狭く限られたものだった。


 だからその部屋は、自分と母の二人だけのものなのだ。


 父と母のその関係が、当時を振り返った今にして思えば、とても人並みであったとは言えない。

 どこかしらいびつなものであったのは容易に思い起こせる。


 父親は何日もこの家に姿を見せない事の方が多く、そんな夫を母であり妻であった有紀は一体どういう風に捉えていたのだろうか。


 夫婦の間に愛情がなかった、とは言えない気がする。

 少なくとも母――有紀に関して言えば、和志の事について欠片の情もなかったとは思えない。

 和志が稀にこの屋敷に姿を見せた時のその有紀の様子から察しても、そういう冷めた夫婦間には見えなかった。


 あるいは表面に出ないだけで、その情はもっと強く激しいものではなかったか。


 仁也はこれまでずっと考えてきた。

 本当に自分は母に愛されていたのかという事を。

 本当に自分は母に“子”として愛されていたのかという事を。


 もしかして自身は、彼女にとってただの道具に過ぎなかったのではないか。

 父である和志を振り向かせる為の、この屋敷に少しでも長く留め置く為の――そういった手段の一つではなかったろうか。


 そして、その手段すらも通じないと知った母は、だから自分を一人残して、最大限の当て付けとしてその身を井戸へと投じた。


 本当に母が自分を愛してくれていたなら、子を残して一人で逝くなど――きっとそんな事はしなかった筈だ。

 彼女にとっては、和志を引き留める手段として成り得ない自分などにもう価値などなかった。

 それがあの一連の出来事の顛末てんまつだと、成長するにつれ、仁也はそう思えてならないのだ。


 つまり、父母二人の歪んだ愛憎劇――

 自分はただ、そんなものに巻き込まれたに過ぎなかった。


 それでも、そうであっても、母への想いは今もついえない。

 そしてまたその歪んだ心情はとげとなり、残ったもう一人の親――父である和志にその矛先を向けざるを得なかった。


 それが育っていく上で仁也の精神を正常に保つための、只一つの手段であったからだ。無論その事に、仁也本人が気付いていなくとも。



 そんな自身でさえ明確に表せない幾重もの複雑な感情を引き連れて、ただ仁也は夕日に染まりつつあるその場所を眺めていた。


 在りし日を思い返すようにそんな記憶を辿りつつ、だが仁也は、自身の中にあるもう一つの掛け替えのない記憶をもそこに見ていた。


 その大きな戸棚の脇――壁と棚とのごく僅かな隙間に、幼い少女が膝を抱えるようにして身を隠しているのを幻影のように見ていた。



 その少女こそが由希だ。



 母が“消えて”、半年と過ぎていなかったろう。

 和志が一人の少女をこの屋敷に連れてきた。

 そして、仁也に彼女が新しい家族になると紹介した。


 その時の事は、記憶が曖昧すぎて分からない。

 自分が少女に何と言ったのか――いや、その少女の事などどうでも良かったのだろう。

 ただ「母さんは?」と和志に問いかけ続けていた事だけを記憶している。


 そしてその少女について初めて意識したのは、自分と母だけのその部屋――その空間に、ある日、少女が居座っているのに気付いてからだ。


 不安げな目をして泣いていた。

 何かに怯えるようにそこに身を隠していた。

 少女はユキと名乗った。


 ――その時、自分が激昂したのを覚えている。


 ユキとユウキ――母さんと同じような名前――まるで似たような名で、自分と母だけのこの空間に勝手に入ってきて、そうして訳も分からずに泣いている。

 そのいきなり現れた“異物”を自分は激しく憎んだ。


 「出ていけ」と声を荒げた。

 ――「出ていけ」「なんでお前のようなのがいるんだ」「ここは自分と母さんの部屋だ」「ここは自分と母さんだけのものなんだ」「出ていけ」「出ていけ」「出ていけ」「早く出ていけ」――


 そうまくし立てた。


 怯えて縮こまってしまったその少女を尚も激しく責め立てた。

 物を投げて、大声で喚いて――

 異変に気付いた屋敷の人間が駆けつけ、その場は収まったのだろう。


 その次の日だ。

 少女も屋敷から姿を消した。


 夜になるとその事が知れ渡り、屋敷の人間が総出で探し回っていた。


 そして二日後、屋敷の周りのその広大な森の中で衰弱した少女が発見された。

 あと少し発見が遅れれば、命が危うい状態だったという話だ。


 少女は、自分の居場所がここにはないと、幼いながらにそう察して出て行ったのだ。舗装された道を行けば容易に発見されると考え、敢えて森の中を抜けようとした。そしてその森で道を失い、あやうくと命を落とすところだった。



 成長してから聞いた話――

 由希は、両親と兄の合わせて3人の家族を一度に失ったらしい。

 事故か何であるか、詳しい話は聞けずじまいだが、ともかく彼女は一挙に天涯孤独となり果てたそうだ。

 その彼女を、どういう経緯で和志が連れてきたのか。


 ただ、仁也はその事を思う度に、自分で胸の奥を捻り潰したくなる激情に駆られる。


 世界で誰よりも愛していた母が消え、自分がこの世界で唯一の不幸者だとでも勘違いしていた。図体ばかりのどうしようもない甘ったれで、周りが見えていない大馬鹿だった。

 自分は十分に恵まれていたのだ。こんな大きな屋敷で、周りの人間に気遣われながら、何不自由なく暮らしていたではないか。


 だがその少女には何も無かった。

 知らない場所に連れてこられ、知らない人間に囲まれて、ただ恐ろしかったのだろう。

 あの場所に隠れていたのはおそらく、仁也を気遣って屋敷の人間が誰もあの部屋には立ち入らなかったからだと思う。

 少女は押しつぶされそうな孤独を抱えたまま、誰も訪れる事のないあの場所を見つけ、逃げ込んだのだ。


 そして自分がその彼女をさらに追い詰めた。


 母を惜しんで募った行き場のない感情を――自分よりももっと大きな悲しみを背負った少女にぶつけて満足していた。

 糞ほどに甘ったれた自分自身だ。


 その記憶を思い返す度に忸怩じくじたる念に苛まれる。

 慙愧ざんぎの至りに達して、自分で自分の胸を引き裂きたくなる衝動が湧き起こる。


 それがあらましだった――

 自分が犯した過ちと、その後に立てた誓いとの。


 あの時から、その少女を決して哀しませはしないとこの胸に決めた。

 甘ったれた自己を断ち切り、誰かを守れる「兄」としての自我を芽生えさせた。



 仁也は茜色に染まりつつある空の下、庭に立ち尽くすようその部屋の一部を――怯えて縮こまった少女の幻影をずっと眺めていた。


 そんな昔の事を考えていたからか、ふと由希の顔が脳裏に思い浮かぶ。


 無性に逢いたくなった。

 あの得意げに澄ませた声を聴きたくなった。

 俯くように照れて笑うあの仕草をまた眼にしたくなった。


 しかし――

 と、仁也は思いとどまる。


 そうだ、自分は何の為に強くなろうとしていたのか。

 由希をもう二度と傷つけないように自分は強く在ろうとしていたのではないのか。


 この馬鹿でかい図体は何の為にある?


 必死で身体を鍛えてきたのは、誰かを守れるような存在になりたかった為だ。


 仁也は先ほどまでの善三たちの話を思い返した。

 楠見の家にまつわる古くからの逸話。あの家系図の奇妙な符号。そして自分にだけ見える光――聞こえる声。


 まだまるではっきりとはしない。それでもこの一連の事柄のその中心に居るのはやはり自分以外にない。


 ポケットに捩じ込んだあの紙片を取り出す。

 地図には印がある。最後の夜、北の山。――この場所ならば、辛うじて判別できるかもしれない。

 そこには何があるのか。あるいは何も無いかもしれない。

 しかし、今は行動を起こす時だ。

 同時に急がなければとも感じる。今夜、日付が変わってしまう前に、何とかケリをつけねばならない気がするのだ。


 大将たちに知らせるわけにはいかない。実際、大将は自分と同じで、何か言い知れぬ存在を意識していたと思う。

 自分はその事を表では必死で否定していた。しかし実を言えば、今日の昼の事件と先程の話を照らし合わせれば、人を簡単に食い殺すような化け物が存在していてもおかしくはないのだ。


 だがそれを証明する手立てがない。


 大将が撮っていたあのビデオの映像を見せれば、少なくとも、あの大きさの野生動物が四通ヶ岳に潜んでいる事は証明できるかもしれない。

 しかし、それが何だという話で終わってしまう。

 まさかこれがお伽噺とぎばなしに出てくる人喰いの化け物なんですと、そう言える訳もなかった。

 故に警察に駆け込んでも意味はない。


 ならば少なくとも確証足りうるものを、自分が見つけなければならない。


 危険な役目である。

 ほんとうにそんなものが実在し、遭遇してしまったら、おそらく無事でいられるとは到底思えない。

 それでもこの役目は自分が引き受けるべきだ。



 ――思いを胸に、仁也はもう走り出していた。




















 なり振り構わず屋敷を出て、ほとんど一直線に北西へと向かう。

 目印となる大きな滝が流れ出ているその“玄武山”は、暮れなずむ中にあってより一層と美しくうつる。

 滝つぼのある崖下から、遊覧用のロープウェイが山の頂上へ向けて折り返しながら続いてる。その頂上付近にちょっとした広場があり、屋台なども出ているため人も多く夜中まで開いている。

 そこを経由すれば正規の登山コースからは外れるが、少し下るだけで滝の根元に着く筈だった。


 時間が足りないのは分かっていた。

 そこまで辿たどりつくのに、2時間以上は必要だろう。そうなれば探索は夜半という事になる。

 限りなく危険で無謀な話だろう。


 だが、どこか気持ちがはやるのだ。

 まるでその場所に呼ばれているような気配すらある。



 町の北側に着くと、取り敢えずの装備などを買うため商店街へと向かう。

 ここからさらに北へ向かえば、町と山の境目として巨大な幹線道路が町を分断している。そこを越えればもう北四通ヶ岳――“玄武山”のはずだ。

 商店街の電器屋で予備を含めた小型のLEDライトや電池などを揃えた。


 そんな仁也が外に出ようとした時、見慣れた金髪頭がそそくさと隠れるように店の軒先のワゴンの陰に引っ込んだのを見つける。


「……何してんだ、お前?」


 本人は隠れてるつもりなのだろうが、台の端からこれ見よがしな趣味の悪い頭髪がのさばっている。

 そのぼさぼさの金髪頭は、否が応でも誰か判別がつく。


「いや、お前だよ。そこのパツ金アホ頭」

「――だれがアホだ!?」


 そこに居たのは先程帰ったはずの駿だった。

 正体がばれたと分かるや立ち上がり、この上なく空々しく仁也に話かけてきた。


「おー、お? なんだ仁也か。き、奇遇だなっ」

「……何?」

「な、何って、別にぃー? お、俺はただ、買い物してただけだしぃ?」

「帰ったんじゃないのかよ。もしかして尾行けてきたのか」

「はぁ? ワケ分かんねぇんだけど? 別にぃ俺、屋敷の前で待ち伏せたりしてなかったけどぉ?」

「待ち伏せてたのかよ」


「……やー、その……」


 これ以上は辛いかと観念したように、頭をがしがしと掻いて駿は溜め息を一つ吐いた。


「大将がさー」

「大将が?」

「おう。なんかわかんねーんだけど、お前が家に真っ直ぐ帰るならよし、じゃなきゃ後を追って必ず一人にはさせるなって」

「そう言ったのか?」

「理由はわかんねーんだけど、必ずそうしろって」

「……流石は大将か。とろそうな顔して、抜かりが無いんだからな」

「でよー、つまりどーゆー事だよ?」


 そうおずおずと尋ねてきた駿をことさら厄介そうに見遣ってから、仁也もまた溜め息を一つ漏らした。


「昨日や一昨日に見た奇妙な光の話だ」

「奇妙な光? なんだそれ?」

「あー、お前にとっちゃUFOだっけか」

「ハァ? UFOぉ? 何言ってんのお前?」

「……女子にキャーキャー」

「――おおっ!! そうだった! UFOだよUFO!」


 ようやく思考回路が繋がったと見える駿が俄然がぜん活き活きとした顔つきになっている。

 やってられんと言う風に頭を抱える仁也だ。


「そんで!? そのUFOがどうなんだよ?!」

「あの山見えるか? あの大きな滝が流れてて、端にロープウェイの架かってる」

「ああ、あれな」

「あの山に今夜UFOが現れるかもしれん」

「――マジかよっ!?」


 正直、危険が伴う場所に人を連れて行きたくはない。

 しかし、この状態ならばどう言い包めても事が大将に知れてしまう。

 何よりバカではあるが、無駄に真っ直ぐなこの駿という人間はきっと大将との約束を守り、自分を一人では行かせてくれはしないだろう。

 どううまこうが、後を辿たどられて山へでも入られてしまえば、むしろ駿の身の方が危なくなる。

 それならば、二人で固まって動いた方が安全なはずだ。


 そう考え、駿のレベルに合わせて話を都合よく改竄かいざんし、言い聞かせてみる。


「そんでその前に、何か異常が見受けられないか調べとこうと思うんだ」

「マジでか!? 俺らでUFOの証拠見つけるワケか!? ――でさ、それがさっき屋敷で聞いた話と何の関係があんだよ?!」

「……あ?」

「いや、だって大将がそんな風な事言ってたぜ」

「なんでお前は、そう物事を中途半端に記憶するのか。面倒臭いなほんと」


「あっ! もしかして、あの陰陽師の話って実は黒幕がUFOなんだろ?!」

「どうしたお前?」

「だからあれだっつーの! ピラミッドとかUFOが造ったって話あんだろ?! つまり、あの話の黒幕もUFOに乗ったエイリアンでさ、黒い毛むくじゃらになっちまうのは遺伝子操作されたウィルスのせいなんだって!!」

「まあ、もうそれでいいや」

「やっぱりかっ!? やっべーな――地球の危機ってヤツだな!? 人類全員が毛むくじゃらに取って代わられるのを俺達で防ぐってわけか!!」


 底抜けに気合の入った駿が、腕が鳴るという風に何も無い空間めがけてボクシングの真似事でもするよう拳を突き出している。

 そんな光景を前にして、仁也はただただ苦々しく呻く。



 すると、そんな彼らの背後から覚えのある声が掛かった。


「あんたら、さっきから大声で何やってんの?」


 電器屋の軒先の通り――その人通りの中で足を止めた少女が怪しい物でも見るようにこっちを向いている。

 動き易そうな、ラフな服装をした詩帆だった。


「なんでこう次から次へと厄介が……」

「なにそれ、どういう意味?」


「詩帆じゃねーか。お前こそ何してんだよ? つか、関係ねー奴は引っ込んでろし! 俺達はこれから世界を救うんだぜ!? 女のお前の出る幕じゃねーよ!」

「はあ? 何よそれ? あたしより弱いくせに。――ブッ飛ばすわよ」


 調子に乗っている駿が大口を叩き、その安い挑発に乗った詩帆が険悪そうに拳を揉みながら近寄ってきた。


 そんな彼女の前に、山のような図体の仁也が立ちはだかる。


「好きなだけブッ飛ばしても蹴り飛ばしてもいいから、頼むから気が済んだら帰ってくれ! ほら、どうぞお好きな様に!」

「なによぉ? そういう風に言われると、なんか素直には殴れないじゃない……」


 抵抗の意志なしと両目をつぶった仁也がその身をさらけ出すも、逆に威圧されたように戸惑いを見せる詩帆。


「ていうかさっきから聞いてたけど、UFOがどうたらとか。あんたら頭へーき?」

「うっせーな! 今夜山にUFOが降りてくんだよ! んでそのUFOは人間を毛むくじゃらの化け物に変えちまうから、その前に俺らでそいつらやっつけんだよ!」

「え、待って……あんた、ほんとに頭オカシイの?」

「昔にもあったんだよ! 陰陽師の呪いなんだけど、それがエイリアンの仕業で、そんで俺らのご先祖さまが犬とヤって、この町は救われたんだよ! それがまた起きたんだよ!」

「本気で何言ってるのこいつ……?」

「駿、頼むから、お前は、喋るな」


 強張った顔のまま、一言一句いいきかせるように仁也はゆっくりと言葉を紡いだ。


「――あ、そだ。犬で思い出したけど、この子犬をあたし探して回ってんのよ。あんたらどっかで見なかった?」


 そう言って詩帆は一枚のビラを二人に見せる。

 そこには迷い犬と題して、生後まだ間もないような柴犬の写真が印刷されてある。


「んだよ、松田さん家のいなくなった子犬じゃねーか」

「あら、知ってるの? ――あ、そっか。この住所あんたの家の近くよね」

「なんでお前がキャトられた子犬探してんだよ?」

「キャトられた……? 何でもいいけど、見たの? 見てないの? ――どっちよ」

「知らねーよ。昨日キャトられた事しか。んで、なんでお前が探してんだよ?」


「まあずばり、これも部員集めの一環よ」


 唐突に声高く、詩帆は二人に指を突き付けた。


「部員集め? んだそりゃ」

「空手部に入りたがらない人達の大半の理由はね、やっぱりマイナスイメージなのよねぇ。でも実際、そりゃ練習はキツイし、怪我の危険だってあるわ。それをどうこうは出来ないなら、つまりそれを補うプラスイメージを作ればいいわけ」

「つまり、なんだっつーの?」

「バカね。つまり空手部はこんなにも皆様のお役に立ってますってイメージを作り上げるわけよ。まあ、要は胡麻擦りなんだけどね。でも、いい事? 何もしないよりはマシなの。人助けしてそのついでに空手部に入部してくれる人が現れたらめっけもんって感じね」

「はー、しょっぼい活動だな。その点、俺らなんかは明日にでも世界的な英雄になるけどな」


「さっきからほんと意味不明ね。……まあ、もういいわよ。少し前に目撃情報が取れて、幹線道路に子犬が一匹迷い込んで北の山の方に抜けていったって話なんだけど、こんな時間だから明日にしようと思ってたし」

「――うん! そうだな! 暗くなったら危ないもんな! 気を付けて帰れよ! じゃあまた明日!」

「何よぉ仁也? いきなり喋ったと思ったら」

「そーだそーだ。さっさと帰れって。俺達は今からその山ん中へ行くけど――ぐむううっ?!」


 咄嗟とっさに駿の口をその頭ごと両腕で封じる仁也。そのたまらない筋肉質の両腕で口を塞ぐというよりヘッドロックに近い形で押さえ込んでいた。


「え、うそ、こんな時間に?」 


 だが駿の発言はあまりにも簡潔に、そしてきっちりと要点だけを伝えている。


「今から行くの? あの山? 中まで入るの? まじ? ……じゃあ、あたしも付いてくわ」

「――むぐぐぐっ?! ――ぐむむむぅぅっ!!??」


 駿が言葉にならない悲鳴を上げている。

 彼は今、めきめきと自身の頭蓋が軋み鳴る音を聞いてる事だろう。


「やー、良かった。子犬が山なんかに迷い込んでたら危ないわよね。とは言え、さすがにあたしも真っ暗な山に一人ってのは心細かったのよ」

「ダメだ――絶対にダメだ!! 昼間の放送聞いてなかったのか!? 危険な野生動物がいるかもしれないんだぞ!?」


 その腕の内で駿が今にも気を失いそうな蒼白な顔をしてる事は気にせず、仁也が詩帆へと厳しい目で向き直る。


「聞いてたわよ。だからちょっと怖がってんじゃないのっ」

「ダメだ!! 今すぐ帰れ!!」

「何よー、あんたらは行くんでしょ? ……いーのかしらねぇ。あたしがちょーっと告げ口しちゃえば、大事になるわよきっと」


 詩帆がそっぽを向くように体を横向けたが、いかにもな意地悪い横目で仁也を舐めるように捉えている。

 そんな詩帆を厳しくにらみ、腕の中でついに卒倒した駿を放り出して、仁也は挑むように胸を張って前へと進み出た。


「いくらだ?」

「え――?」

「いくらで満足するんだ?」

「は? 何よそれ?」

「金が目的なんだろ!? そうなんだろ!?」

「ち、ちがうわよっ!」

「ほら、全財産だ! 財布ごと持ってけよ!」


 そう言ってポケットから財布を取り出し、それを詩帆に向かって投げて寄越す。


「だから、別にあたし――」

「なんだ? まだ足りないのか? どうして欲しいんだ? ――土下座かっ!?」

「えっ? いや、あの……」

「ああ、してやるとも! 土下座をしてやるよ! それで気が済むなら、無様にお前の足元に這いつくばってやるよ!!」

「ちょっ! 何やってんのよ?!」


 ドン引きする詩帆にまるで構わず、仁也がアスファルトの地面にごつんっという音を立てて頭を付けた。


「――さあ!! してやったぞ?! 地面に額を擦り付けて!! 今お前の足元に惨めにも這いつくばっているぞ!!」

「ねえ、ほんとやめて……」

「往来のど真ん中で!! 道行く人もきっとガン見だなあ!? ほらみたことか?! なんか周りでスマホのシャッター音が鳴り響きだしたぞ!? きっとSNSにでもガンガン上げるつもりだろうな!!」


 その言の通り、道行く人々の何人かが含み笑いを漏らしながら好奇の目で彼らにスマホのカメラを向けている。


「――そらどうした!? そろそろお店の人が物凄い困った顔で中から出てくる頃合いじゃないのか!? ――ええっ?!」 

「…………………」

「どうだ満足してるか――詩帆っ!? 公衆の面前でっ!! お前は無様に自分の足元にこうべを垂れるこの俺を見たかったんだよなあ!! お前はそういう奴だもんなあっ!!」

「…………………」

「ああ――そうさ!! お前はいつだって女王様さ?! お前のその歪んだ欲求を満たす為だけに!! 俺は毎日、不条理な暴力に苛まれ、挙句こうして地面に額を擦り付けているんだよなあっ!! ほらどうなんだ!? ここまでしてまだお前は満たされないのかっ?! ――まだまだ俺の惨めさが足りないと言うのか!?」 


「……わかったわよ……」

「――ホントに? ――わかってくれた?」


 期待に満ちた目でがばっと顔を上げる仁也。


「あんたがそこまで付いてきて欲しくないならっ!! あたしは意地でも付いてってやるわよっ!!」


 軽く人だかりの出来たその場所で、詩帆は力強くそう叫んで宣言した。



















「朗報よ! 朗報!」


 ロープウェイのチケットを買いに行っていた詩帆が嬉しそうな声を上げて戻ってくる。


「昼間ね、小さい柴犬がゴンドラに迷い込んで乗っちゃってったらしく、上の広場からもそんな報告があったって係員さんが言ってたのよ」

「……はいはい」

「何よ、まだねてんの? 折角あたしがこうしてゴンドラの代金を払ってあげてるっていうのに」

「それどう見ても俺の財布なんだけど?!」

「うん、そうね。さっきあんたがくれた」

「――鬼かっ!?」


 結局、仁也は駿と詩帆の二人を連れて、山頂の広場へと向かう破目となった。


 三人で昇りのゴンドラに乗り込む。

 速度はさほど出ないものの、15分かそこらで山頂に近い大広場に着くだろう。

 日はもうどっぷりと暮れているが、この場所だけは夜景の綺麗なスポットとして人気が高い。人もまばらに居る上、何より人工の明かりがくまなく灯っていた。

 町の北側――繁華街の発展のおかげで、暗い山道を歩いて登らずに済んだと言えよう。


 しかし、町にとっては良い事ばかりではない。

 繁華街の発展は治安の悪さも呼び込み、平々凡々としていた田舎町であるこの地が、不穏な賑わいを見せる事もある。

 交通の便が改善された事により、地元だけでなく他所からもあまり品の良くない輩が集まってこの繁華街で問題を起こす事が多くなったそうだ。


 やがて、ゴンドラは頂上付近の広場へと差し掛かった。

 そこではやはり、まだ大勢の観光客などの姿が見受けられた。


 広場は山頂より少し下った崖の上に造られていた。台座のようになっているその場所を補強し、町を一望できるよう巨大な露台がせり出ている。

 そのベンチなどが多数置かれた大きなテラスはここの目玉だ。

 反対には密度の高い林が連なっており、山頂へと続く斜面を真っ直ぐな木々が埋めていた。

 広場中央には巨大なスクリーンが設置されており、何かのイベントの際に使われるが、大抵はそうして民放チャンネルが放映されている。


 だが、大広場内には眩いくらいの活気と明かりが灯っているが、そこから山道へと出る方向にはまるで人気ひとけがない。

 そこには、登山道へとうっかり客が出ないようにか、ポールとロープで封をし、警告を促す赤字で書かれた大きな看板が立掛けられていた。


 巨大なスクリーンのテレビを見るともなしに眺めながら、花壇のレンガに腰を降ろして待っていた仁也と駿。

 そのもとに、柴犬の事について係の人間に訊いて回っていた詩帆が幾分か気落ちした様子で帰ってくる。


「子犬なんだけど、どうも昼間には係員の人が保護してくれてたみたいなの。でも気づいたら逃げ出しちゃってたらしく……広場にいないとなると、山道の方へと抜けちゃったんじゃないかって」


 やはり収穫はなかったらしい。

 その事は仁也にとっても痛手だ。詩帆の目的は山の中へ入る事でなく、迷子の子犬を見つける事だ。もし、この広場で目的を果たせたなら、詩帆を危険な場所まで連れていかずに済むのだから。


「だからやっぱり、山の奥まであたしも付いてくわよ」

「……」

「まあよー、いんじゃね? 詩帆なら戦力になりそうだしな」

「軽く言うな」


「それで、あんたらは何探してんのよ?」


 仁也が覚悟を決めたように、古びたあの地図を取り出して広げた。


「いいか、今からこの印の場所を探しに行く。大きな滝の根元から、少し外れたこの場所に、何か……あるかもしれない」

「滝? ああ、大きさで有名なやつよね」

「つーか、何かって何だよ」

「だから、それを探すんだ」

「それがエイリアンを倒すカギになんのか?」

「――エイリアン? ねえ、さっきからあんたら本気なの?」


 また性懲りもなく言い争いを始める駿と詩帆の二人。

 仁也はそんな駿達に辟易へきえきとし、首を巡らして巨大なテレビの内容に何気なく意識を向けた。


 まさにその時だった――

 電撃がその身を貫いたように、仁也は立ち上がって見開いた目で大画面を凝視していた。


「なあなあ」

「――静かに!」


 画面の向こうでニュースキャスターが今日あった主な出来事を読み上げている。

 その内容が次の物に移る瞬間――先んじて表示された画面下のテロップの情報は、この状況下では看過できないものであったのだ。


 そして画面の中、ニュースキャスターが次の原稿を言葉にする。


『続いてのニュースです。今日、正午近く、※※県※※市神治飛鳥町、東四通ヶ岳付近の山中において、複数の遺体が発見されました』


 そのキャスターが読み上げた単語に反応し、広場の何人かも自然と声を殺して画面へと視線を釘付けにした。


『発見されたのは、いずれも地元の猟友会に所属する年齢30代から60代までの男性3名で、14日の金曜日より行方がわからなくなっていたとの事です。えー、発見されたのは――』


 その後もキャスターはよどみなく原稿を読み上げていたが、もう仁也の耳には入ってこなかった。

 視界が軽く歪んだとさえ思えるほどの立ちくらみに似た感覚に陥っていた。


「なあ、仁也……これって今日お前が言ってたヤツかよ?」

「何? 死体? 神治町ここで? 嘘でしょ――」


 詩帆が不安そうな目で自身の二の腕をさする。

 広場の何人もが同じようなリアクションで騒がしくなっている。


『――という事です。遺体はどれも欠損が激しく、熊などの大型の害獣に襲われたのではないかと見て詳しく調査中です』


 テレビの中ではもうキャスターが違うニュースを読み上げている。

 仁也は立ち上がった時とはまるで正反対にゆっくりと腰を下ろした。


「大将の予想……当たっちまった……」

「なあ、よう――仁也ってば」


 ニュースでは遺体は欠損が激しいなどという控え目な表現だったが、仁也はその実体を聞いて知っている。

 熊の処理に派遣された筈の3名の玄人を肉片になるまで食い殺す事など、一体どういう大型の肉食獣ならば可能なのか。


 そして仁也はあの作業員の話を思い出す。

 「頭が二つ三つは……」――

 そう怯えて取り乱した様子だったが、確かにそう言ったのだ。

 つまり、猟銃を持った三人の男達を一度にその場で殺した事になる。


 一頭の熊に、果たしてそんな事が可能であろうか。

 不意を突ければ確かに猟銃を持った相手も仕留めれるだろう。あるいは一人ずつであれば三人も殺せただろう。

 しかし、状況がそうではないと物語っている。

 明らかにこれは尋常な事態ではない。



「お前ら、もう帰れ……」


 まぶたが下りなくなったかのように、地面の一点を見つめながら仁也がぽつりと呟いた。


「ちょっと! またその話蒸し返す気?!」

「仁也ー、お前ほんとに平気かよ」

「大丈夫だ。俺も、一緒に帰るよ。だからもう今日はやめにしよう」

「――え? あ、そう言う話なら……まあ、仕方ないわね」


 仁也は両手で顔を覆った。

 考えが甘かった。こんな危険な行為に二人の幼馴染を付き合わすわけにはいかない。


 相手が野生動物なら、まだ何とかなるだろう。

 元来、野生の動物とは臆病なものだ。彼らは人間を察知した時、まず隠れる。そうして危険を――接触という最大のリスクを抑えて生き残る。

 そういう部類の存在だ。決して好んで人間を襲うのではない。


 だが今この事件の渦中にある存在は、そういう類でない気がする。


 無論、それは断言し切れるものではない。あくまで推察――想像の範疇はんちゅうではある。

 それでもその強い疑念が、強い不安が、仁也の体の内部よりどんどんとノックをするように自身を揺らす。

 引き返すなら今この時しかない。

 これ以上先に進めば、取り返しがつかない気がする。


 そう思い立って、二人を先導して帰ろうとした時だった。


 次第と数を減らしていく客達のその速い足並みの合間に、まるで見慣れない物を発見した。

 ふわふわとした白茶けた毛並み、つぶらな真っ黒い瞳が仁也を微動だにせず凝視している。


「おい、詩帆あれ」

「今度は何よ……って、ああーっ!!」


 仁也の指差した方を振り返った詩帆が喫驚きっきょうの声を上げた。

 そこには流れる客たちの足の間に、ぺたんと座り込んだ一匹の子犬がいる。そこはかとなく薫る如何いかにもな和風な顔立ち、柴犬の子供である。


「――この子!? ねえ――この子よね?!」


 跳び上がらんばかりの詩帆が、手に広げた張り紙と向こうの子犬とを見比べる。

 そうして「おいでおいで」をするように手をひらひらとさせて、ゆっくりと子犬に近付いていった。

 子犬は逃げるどころか身動き一つせず、素直に詩帆に抱きかかえられた。


「間違いないわ! この子犬だわ! きゃっほっーい!!」


 まさに欣喜雀躍きんきじゃくやくとした詩帆が、子犬を胸に抱いたまま――それこそくるくると踊りながら戻ってくるのだ。


「マジだ。松田さんとこの子犬じゃん」

「こーんな所まで来るなんて、随分と冒険したじゃない!? ――この子ったら」


 詩帆は胸に抱いたままのその小さな頭をわしわしと撫でている。

 しかし、子犬は特にどうでも良いのか、まるで無反応に詩帆のふくよかな胸の合間から相変わらずに仁也を見つめている。


「まあ、無事で何よりだ。じゃあ、目的も果たしたんだから――」



〈どうしてここに来た〉



 その時、紛れもないあの声が仁也の頭の中に響いた。



「なん……――え?」


 突如の事に、仁也はどう反応する事もできなかった。

 ただ茫然自失と、見開いたまなこで、自分を凝っと見つめているその真っ黒な瞳を同じように覗き返す。


〈北の山へは近付くなと警告したが、やはりこうなるは定めか〉


 淀みないような声が、仁也の頭に流れ込んでくる。


〈儀式が前倒しになる。しかし、所詮しょせんは遅いか早いかの違いでしかなかったのだな〉


「ちょっと待て……、お前か……?」


 仁也が凍りついた瞳で眼前を見据えた。


「何やってんのよ、あんた? そんな怖い顔でこっち見ないでよ」


 詩帆がそう言って気味悪そうに身をよじった。

 だが仁也が凝視しているのは彼女ではなく、その胸に抱かれたモノであった。


「お前か……? あの声はお前なのか!? どうなってんだよ……!?」

「ちょっ――ちょっとぉ!? 何よ、こっち来ないでよ!!」

「おい仁也、さっきからお前マジでどしたー?」


 ゆらりと立ち上がった仁也が、魂の入っていないような表情で詩帆へと一歩一歩と近付く。

 その不気味さに押されてか、詩帆の方も子犬を抱えたまま腕を胸の前で交差させるよう退いていく。

 耐え切れず逃げ出そうとした詩帆だったが、その肩を仁也の腕が素早く鷲攫わしづかみにしている。


「――ひぃっ!? や、やめてよ!! あんた何する気?!」


 青い顔した詩帆がわめいて身をこうとするが歯が立たない。その体格からくる膂力の差は歴然としており、仁也の鍛えこんだその腕は詩帆のそれに比べれば倍どころの太さではない。


「やめてったら!! ばかっ――」


 目尻に涙を浮かべる相手をまるで意に介さず、そして仁也は、無理矢理にその発育の良い胸に手を伸ばし――

 詩帆から子犬を引っぺがした。


「おい!! 答えてくれ!? ――お前なのか!? 一体何がどうなってるんだ?!」


「仁也がマジで狂った……」


 目線の高さに両手でつかんだ子犬を掲げ、真剣そのもの表情で声をきつくしする。

 その光景を前に、立ち尽くした駿も、腰を抜かして地べたに座りこんでいる詩帆も、まるで痛いものを見るような目付きだ。



 だが当人は、これ以上ないという程に必死の形相。

 そしてその逼迫ひっぱくした眼差しに応えるよう、仁也の頭の中に再び声が響く。


〈そうだ。奴等が再びこの世に姿形を取り戻したと知り、お前に自制するよう呼びかけたのは私。だが全ては徒労。お前は警告に従わず、ここまで来てしまった〉


「何言ってんだ!? 俺はお前の言葉に従って、最後の夜とかいうのを止めようと、必死でここまで駆けずり回ってきたんだろうが!?」


〈最後の夜は今宵ではない。お前が奴等の誘いに応えず、自身を制御していれば最後の夜は訪れはしない〉


「お前が止めろとか言って、そんで北の山がどうとか言ったんだろう?!」


〈決して北の山へは近付くなと警告をしたのだ。しかし、私の力は今ここに至ってようやくと言った所。やはり不完全な意思しか送れなかったか〉


 頭の中の声が、どこか悔やんだ様子で続ける。


〈ここは鬼門に連なる死の方角、奴らの影響が最も盛んになる場。この地でお前を含む血族の因縁を抑えてきたが、もはやそれも用を成さなくなる〉


「血族って、うちの家系にやっぱ何かが……?」


〈この神治の土地に封じられた力と、お前の中に眠るまがつ者共の血とが再び混じり合えば、この地は今一度血で没する場所となる〉


「……全然分からんが、ともかくなんで俺はここにいちゃいけないんだ?」


〈四方陣の結界だ。四獣を象り、五行を用いて、中央に黄龍の加護を置いた。故に奴等はこの土地に入る事はあたわぬ。だがお前は今、自ら進んでその結界の最も脆い場所にいる〉



「おーい? 仁也ー?」


 駿が仁也の目の前で掌をかざしている。

 そして子犬に演劇ばりの迫真さで語りかけてる仁也を広場の客達が興味深く目に止め、次第にその輪が広がっていく。


「ああっ! ちょっと! み、見世物じゃないから! パフォーマンスとかじゃないんで集まってこないで!」


 詩帆が恥ずかしさに耐えかねてか、そんな人だかりを散らすように声を立てていた。


「つまり、町に居る限りは安全だと……」


〈そう、奴等は山の境界より此方こちら側では力を発揮できぬ。だから外界から、お前を誘き寄せようと挑発していた〉


「あ、あの光は、何だったんだ?!」


〈あれは、四獣がお前に知らせていたのだ。散逸した筈の凶つ者共が再びこの地に姿を見せ、お前をほっしていると〉


「何だそれ? あの光がなけりゃ、俺は何も知らずに過ごせてたんだぞ!?」


〈長い年月が過ぎた事で、お前の一族が術を放棄しまったが故だ。知識が無ければ理解も出来ぬは道理〉


「術って……占いだとか、方術だとかいうやつか?」


〈だが何より、お前自身に既に兆候が現れていた事こそが問題だ。奴等が自らで演じた儀式――血のにえは、お前がそれを目撃する如何いかんに拘わらず、四方の山々を覆いて、次第その血の匂いをお前へと伸ばした筈。そして、その内なる欲求を刺激したろう。事実お前は奴等の声を聞き、そして感応していた。その稀なる肉体をたかぶらせていた〉


 声は無機質なものから、次第、悲壮さを醸すような口調に変わっていた。  


〈そして、お前のその血へのくらき渇望こそが確たる証拠だ。この数百年間、奴らはお前のような資質を持った末裔を待ち望んでいた〉


「か、渇望? 何、言ってやがんだ……」


〈それを隠し立てる必要はない。お前がその素質を色濃く受け継いでしまったのは、何もお前の所為ではないのだから〉


「……」


 険しい目線が相手を穿っていた。

 いくら動揺しているとは言え、仁也がそんな顔をするのは珍しい。


「……それで、そういうお前は誰なんだ? なんで子犬なんだよ」


〈これはお前に直に接触する為の仮初めの依り代だ。長い年月の経過により、我らの力も衰え、このような不完全な形でしかお前に接触ができない。我らに実体と呼べるものはないが、それでも現世で依るべき物は必要となる。そして我らは、血脈の呪い――その始まりを知る者。お前達の遠き祖先だ〉


「この町のご先祖が、犬畜生だとかいうあれか?」


〈そう、我らはいぬだ。我らは十何万年の昔より、獣である事を捨て、人と共に在る事を望んだ。夜の闇を恐れる人間と我らは手を組み、共に歩むことを望んだ〉


 急遽きゅうきょ、幾つもの情報が舞い込んできて、仁也の頭は混乱を余儀なくされていた。

 それでも努めて冷静さを保とうとしていた。


〈古の盟約の担い手よ、お前の助けになりたかったがやはり無理な様だ。後は奴等に呑まれぬようしっかりと自我を保ち続ける以外ない。決して自らの欲望に身を預ける事なく〉


「ほんとに訳が分からんが、ともかく、その奴等とかいうのに見つかる前にここを離れればいいんじゃないのか? 町に戻って、大人しくしてればいいんだろ」


〈もう、遅いと言っている〉


「遅いって……だってお前、ここにはまだ――」


 仁也は子犬を降ろし、辺りを見回した。まばゆい広場の中には何の異常も見受けられない。

 客足が途絶え、前より人が疎らになっているが、その他は至って平穏そのものだ。仁也を好奇の目で取り囲むちょっとした群衆に、今なお、詩帆が声を荒げてるぐらいだ。


 しかし――


 その視線を広場より外した部分に向けた時、自身の心臓がどくりと外へ響き渡る程に大きく脈打った。


 町を展望できるテラスの反対、その連なった木々の暗い合間、地上数メートルの高さはあろう枝の上に奇妙な物が止まっている。

 真っ黒い鳥かと思った。


 ――だが、違う。


 それは猿のように足を折り曲げて、幹に手を回して枝に止まっている。木の幹から推察すれば、かなりの大きさだ。

 それが一匹や二匹ではない。林の奥の方までずらりと並んで、真っ赤な目を此方に向けている。


 広場にではない。

 それを唖然として見つめる、仁也に――だ。


 視線を下げれば、枝に止まっているのと同じような大きな影が、そのくさむらから顔を出してこちらを覗いている。

 犬のように四足で地面に伏せて、こちらを、仁也だけを真っ赤に光る目で凝っと見据えている。

 それが、左右に幾つも。


 頭の中で、警鐘けいしょうが鳴り響いている。

 遠目から判ってしまうあのおぞましさ、異常さの類。あれが只の野生動物などであるものか。間違いようもなくこの一連の奇妙な事態の中心にいる存在だ。

 そして、あれは人を害する系統のものだ。


 仁也の頬を幾条いくじょうもの汗が伝う。

 背骨から震えが起こって、それが全身へと感染する。

 

 ――あの数はなんだ――

 ――あんな者達がこの山々に潜んでいたのか――

 ――一体どうやって――


 渇いた喉が張り付く。それを耐え、仁也はすぐ傍の駿達にゆっくり向き直る。


「駿、詩帆……」

「お前、大丈夫かよ仁也」

「逃げろ、今すぐゴンドラの方へ」

「何だよ――さっきから何言ってんだかわかんねーぞ?」


 仁也は恐怖で立ち尽くしていた。


 まだ広場の人間はそれに気付いていない。気付けば広場中で途轍もないパニックが発生する。そうなればゴンドラに人が殺到するだろう。疎らとは言え、一度でこの人数は収容はできまい。

 だからその前に、仁也は駿達だけでも先に逃がしたかった。そしてできれば、パニックにならずここの人達全員が速やかに帰ってくれる事を望んでいた。

 だが、その為の手立てが思い付かない。

 

 仁也を取り囲む人垣が次第と薄れていく。仁也のパフォーマンスが終わったとでも思ったらしい。客の流れがまた通常に戻っていった。


「頼むから、言う通りにしろ。駿、今すぐに詩帆を連れてゴンドラに乗り込め」

「別にそりゃいいけどさー、なんだよ改まって。つかお前は?」


 呼吸が乱れる。何故、奴等は動こうとしないのか。あるいはこのまま動かないで居てくれるのか。

 いいや、そんな都合の良い話はない。


「いいか、俺はここに残る。構わずにお前らだけで帰れ」


 そう、ここで自分が動けば、おそらく奴等も動く。

 それは奴等のそのらんとした赤い眼が仁也にだけ向けられているのが証拠だ。無数にあるそれらが、仁也にのみ焦点を合わせているのだから。


「――仁也!! あんたねぇ、ほんとに何なのよ!?」


 人垣が去った事で詩帆が戻ってきた。そしてまたあの子犬を抱きかかえて、かなりの剣幕で仁也へと詰め寄ってくる。


「いい加減にしてよ……って、酷い汗じゃない!? もしかして、本気で具合悪いの?」


 顔からは血の気が失せ、脂汗を浮かべている。

 そんな仁也を詩帆は心配そうに覗きこむ。

 その瞳を見つめ返すように、張り詰めた面持ちのまま口を開いた。


「なあ、俺こんな事言うの初めてだが……なんだかんだと言ってたって、好きだぜ。お前らの事」

「――は、はぁっ?! な、なな、何言ってんの……」

「仁也お前、気持ちわりぃーぞ」


 強張った顔をそれでもどこか頼もしい笑みの形にして、仁也は続けた。


「冗談だと思うだろ? でも、割と本気でそう思ってんだ。だからな、今は――今だけは何にも言わないで行ってくれ」


 途切れ途切れの言葉でそうとだけ強く言った。

 二人はこの上なく奇妙なものでも見たように顔を見合わせて、首をかしげている。


 しかし、駿はすぐさま仁也の表情を窺い見るように視線を戻した。


「んー……よくわかんねーけど、お前がそこまで言うなら分かったぜ」


 そして、思いがけずけろりとそう言葉にしたのだ。


「ええ?! ちょっと駿っ」

「ほら、行こうぜ詩帆。ともかく今すぐゴンドラに乗りゃいいんだろ」


 駿はまるでに落ちないという表情は変わらず、しかし何時いつもはまるで見せもしない仁也のその真剣な眼差しを理解したらしく、疑問符を並べている詩帆の肘を取って歩き出した。

 詩帆は何がなんだか判らずといった風だが、尋常じゃないその二人の雰囲気に言葉を差し挟める余地がないのか、おろおろとしながらも駿に連れ立っていく。


 その様子に仁也は胸を撫で下ろし、またレンガの上に座り直した。


 遠くの対面には黒々とした林の――その最中にある無数の赤くギラつく眼。

 その眼を睨み返しながら、仁也はただ「動くな」「動くな」と念じた。


 広場を横切っていく駿達のその背中を横目で追う。

 詩帆の肩越しから、顔だけを出してこちらに視線を固定している柴犬の子供。時折、詩帆本人もこちらを振り返って気が気でない様子だ。

 だが駿の方はまるで足を止めずにいてくれる。


 そんな二人に、今すぐ「走れ!!」と声を掛けたい衝動をぐっと抑えていた。

 今そのような急激な行動を取れば奴等がどう動くか。

 自分がここで牽制するしか手がないのだ。そうしている限り、奴等は光と闇の境界のその向こう側からは足を踏み入れてこない――と、そう思いたかった。



 しかし、想定していた中で最も厄介な事態が現実のものとなる。



 広場のほとんどの人間は夜景の綺麗な町並みばかりに気を取られ、林の方を見遣る事などなかった。

 けれどその時、仁也の傍を通りかかった一組のカップルが怖いくらいの目付きで林を睨んでいる仁也そのものに関心を持った。

 そして何気なくその目線を同じ方向に合わせた。


 途端、二人ともがびくりとした様に立ち止まる。


「――おい、何だあれ!?」

「――嘘、何よあれ!!」


 ほぼ同じタイミングでそう大声を上げたカップル。

 その声が伝播でんぱするように、広場の内を幾ばくもなく駆け巡っていく。

 気付いた時にはもう遅い。誰かが大きな悲鳴を上げていた。


 たちまちに、広場は緊迫した様相を呈す。


 それまで気付きもしなかったというのに――

 突如として巨大な影が自分達を取り囲む林の中に大勢存在し、そしてその赤く光る眼を向けている事を知り、最も回避しなければと思っていたパニックが沸いた様に起こったのだ。


「くそっ――!!」


 仁也は立ち上がって辺りを見回しながら口汚く罵っていた。


 広場が混乱の坩堝るつぼと化す。

 化け物の存在が目に見えて判明したならば、悲鳴が広場中に連鎖し、穏やかだった人の流れが急変するは目に見えていた。

 駿達はまだゴンドラに乗っていない。その荒れ狂った人の波に呑まれるようにして、彼らの姿が仁也の視界から消えている。


 そして、恐ろしい事に――


 その不穏な空気に触発され、奴等が――闇の世界の住人の様な黒い影達が、のっそりとスポットライトで照らされた広場へとその境界を越えて侵入し始めた。


 パニックがさらに加速する。


 光を浴びて、そのおぞましき形相が白日の下となった。


 果たしてそれを人間と呼ぶべきか、獣と呼ぶべきか。

 二足歩行に適した人間のような真っ直ぐ伸びた胴体。体長は2mを上回るだろうか。わずかに背が曲がっており、前傾姿勢で歩いている。腕は真っ直ぐで人とほぼ同じ形状の掌だというのに、脚は膝間接が獣の後ろ足のように大きく曲がっていて趾行しこう性――爪先立ちである。

 体中を真っ黒な体毛が覆っている。猿の様にも見えるが、顔中にも真っ黒な毛がびっしりと生えている。顔の造形は熊や狼のように顎が前方へと突き出ているが、どうもそれら程に明確でなく、いかにも中途半端な形である。

 それこそ、人と獣のハイブリットのような――ある種の背徳的な気味の悪さ、生理的な気持ちの悪さを醸しだしている。


 それらがのそりのそりと、闇の境界より何体も這いずり出てくる。

 その化け物ども一行の目的地は、無論、強張った顔で立ちすくむ仁也だった。


 屋敷で見たあの屏風の絵とまさに瓜二つのような状況ではないか。


 だがしかし、仁也はそれこそ一世一代の勇気を振り絞っていた。


 扇状に仁也の元へと集い始めた化け物達。

 仁也よりも後ろに、逃げ遅れたらしい観光客が何人もいる。彼らをゴンドラの方まで逃がす策は一つしかなかった。

 即ち、自らがおとりとなって暗い山の中へと入り込み、奴等を全員この広場から誘い出す事。


 仁也は震えて言う事を聞かない膝を思い切り引っ叩き、覚悟を決めた目で眼前を睨んだ。

 そして山道へと通じる、大きな立て看板のある通路へと身を投げだす。


 化け物どもが、仁也のその動きに釣られるよう四つ足をついて俊敏に動く。


 ――囮は成功していた。


 その時、頭の中にあの声が響き渡る。


〈戒めよ――奴等はお前自身だ。抗うのだ――遥かな古来より受け継がれたその忌まわしき血に。奴等はかつて別れたお前の半身であり、お前の影そのもの。敵はお前の血脈に潜んでいる。目に見える恐怖に惑わされるな〉


 仁也はその声に後押しされる様に、ただただ突き進んだ。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る