第四幕




 役場まで戻ると、運転していた木島という男は息急き切って庁舎の方へと駆けていった。

 仮設テントの休憩所に大将と駿の姿を見つけた仁也は、足取り重くそこに向かう。


「どうした、仁也どん。顔が青いぞ」

「ああ……」


 綿布を掛けられた床机板に腰を下ろしながら、仁也は気のない返事をした。


「あんだよ? どったの?」

「そういう駿、お前はさっきどこに居たんだ」


 好奇心の眼を光らせた駿が顔を突き出すも、逆に仁也から問い返す。


「いやさ、クラスの奴がいたもんで話込んでたんだよなー。したら、いつの間にお前が作業着のおっちゃん達に連れてかれててよ」

「……まあ、もういいや。それどころじゃなくなった」

「どういう事かのう?」

「たぶん後で警戒を呼びかける放送が入ると思うんだけどさ、……東四通ヶ岳の山中で……」

「山中で?」

「死体が見つかったらしい。バラバラの」

「うえええっ!? ――マジかよ?!」


 食いつくよう話を聞いていた駿が頓狂とんきょうな声を上げる。


「さ、殺人事件かよっ!? しかもバラバラ殺人!!」

「さあな。まだ確定はしてないだろ、殺人事件かどうか」

「事件じゃないとのう?」

「熊か何かじゃないかって話してたな」

「な、なーんだ……。でもバラバラってやべーよな――普通に考えて」

「普通に考えりゃ、人間をバラバラに食い殺す程の獣は本州には居ないだろ」

「え? じゃあなんだ、やっぱり殺人事件なのか? ……あ、もしかして! ぎ、偽装工作ってヤツか!? 熊に殺させたと見せかけたんだな!?」


 想像力を掻き立てられている駿だが、仁也は冷めた顔色を崩さない。

 その様子を鋭く注視していた大将がのったりと口を開いた。


「その、死体が見つかった場所とは?」

「……東四通ヶ岳――いや、“青竜山”の中腹だよ」

「んん……」


 腕組みをして渋い声色で唸った大将。

 おそらく、仁也の考えている事を即座に把握してしまったのだろう。


 今朝、大将から見せられたあの映像。そこに映っていた黒い影――正体不明の二体の獣。

 断定はできないが、山の横腹をあれだけの速さで横断してみせたのだ。

 おそらく、かなり大型のものだと思っていいのではないか。

 そして、そんな獣達が四方の山々に居たとしたらどうだろう。


「そういえば金曜日、熊の目撃例があって、猟友会が処理に派遣されたってのんを聞いたが……」

「俺もチラシ見たな」

「まさかとは思うが、殺されたのはその人らじゃなかろうか」

「そんなまさか。準備も心得もある人間がそう簡単に……。猟銃だって持ってるんだろ?」

「しかしのう、ここ近辺の山に入る物好き登山客はそうおらんし」

「確かにここいらは見栄えのしない低山帯だけどさ、完全にいないってワケじゃあるまいに」

「あれじゃねーの、山菜取りだろ? 近所の婆さんがよく行ってるぜ」

「考え過ぎかのう……」


 いつになく難しい顔をした大将がまだ腕を組んだまま唸っている。


 しかし、今夜の事を考えると、気分はどうしても暗く淀んでいく。

 “止めろ”と言われたって何をどうすればいいのやら、全く見当もつかない。情報を集めようとしていた矢先にこんな事態が待ち構えていようとは。


 善三は今頃どうしているか。

 もう警察が来て、事情を説明している頃だろうか。


 仁也は気持ちを切り替えるように、両膝を叩いて立ち上がった。

 呆気に取られたような二人が、突然に立ち上がったその相手を見上げている。


「屋敷に行こう。じじいんだ。蔵に何かあるかもしれないって言ってた。幸枝さん――お手伝いの人だが、その人も何か知ってるかも」

「そうだのう。今夜までそう時間があるでもなし」

「え? 何? 今夜って? なんか俺だけ取り残されてる?」

「よし、早速行こう。此処ここからなら、歩いてもそんなにはかからない」

「ん、善は急げだな」

「……あれ? この感じ、前もあったぞ?」


 仁也と大将が何事かを相談しつつ、並んで歩き出した。まるでその他には誰もいなかったという風に。

 ぽつねんと取り残された駿。

 しばらく間抜けな顔でその二人の後ろ姿を眺めていたが、突如泣き出したかのように「お前ら待てようっ!!」と叫んでは、両腕を広げその後に続くのだった。
















 楠見屋敷までの道中に警邏けいらのパトカーによる拡声器での呼びかけがあった。

 死体が発見されたとは勿論触れられなかったが、危険度が高い野生動物の出没を喚起しており、山の方へは近付かないようにといった内容だ。

 そのせいもあるのだろうが、町は別段、緊迫しているという風ではない。

 野生動物が新興住宅街の方に姿を見せる事だって珍しくはない故か。


 仁也達は森の中に出来た小径こみちを辿っていた。

 広大な森だ。

 その中を一本だけ、アスファルトで舗装された道路が続いている。

 ちなみにこれは私道であり、この広い森そのものが楠見家の所有物なのだった。


 歩く事数十分、木々が途切れ、視界が開けたと思えたその瞬間に、眼前には巨大な武家屋敷が出没していた。

 広さにして60坪――凡そ198平方メートルというとんでもない面積を誇っている。

 そこに一階建ての古い日本家屋と広い庭が広がっていた。


「で、で、で……でけぇぇぇぇっ!?」


 駿が表わしきれない驚嘆の念を声を裏返らせて示していた。


「んん、立派なもんだ」


 さすがの大将も感慨深げにその大きな屋敷をくまなく見渡している。


 時代劇に出てくる屋敷さながらの長屋門ながやもん――中央の大門はほとんど使われず、脇にある潜戸せんどという小さい戸口から出入りする――に、カメラ付きのインターフォンが取り付けられているという時代錯誤な門構えであった。


 未だ声を立てながらテンションを高くしている駿が、塀に沿って駆け出してはまた戻ってくるという風にはしゃいでいた。

 しかし当の仁也本人はかなり表情が薄く、ただぼんやり屋敷を眺める様にしていた。

 あるいはそれは、努めて表情を閉じ込めようとしている時のそれだったろうか。


「仁也どん、どした?」

「ああ……いや、ちょっと懐かしいなって思ってな。……はは」


 渇いた響きの笑い声を引き連れたまま、仁也は呼び鈴を鳴らす。


 少しの間を置いて、何やら屋敷の奥から、慌ただしい雰囲気が漂いだして来た。

 それが、バタバタと人が動き回る音として耳に聞こえ始める。

 そして次の瞬間に、脇の潜戸が勢いよく開けられ、中から取るものも取りあえずな様子の妙齢の女性が出てきた。


「若旦那さまっ! まあ、若旦那さまじゃございませんか!」

「あー、お久しぶり。幸枝さん」

「まあまあまあ! 若旦那さまがお屋敷にいらっしゃるなんていつ以来の事でしょう!」 


 驚き――あるいは喜びでか、声が上擦るように高くなっている女性。

 浅葱あさぎ色の単衣ひとえの着物に前掛けではなく洋風なフリルの付いたエプロンを付け、頭には三角巾である。随分と奇抜に映る取り合わせだ。

 後ろで縛ってある腰まで伸びた古風な黒髪が目を惹き、少しふくよかだが美麗な顔立ちをしている。

 切り込みをいれたようなくっきりとした二重の大きな垂れ目。その目元に笑いじわが刻まれていて、顔全体から優しそうな印象が滲みでている。身体のラインもいかにも女性的な美しさがあり、豊満な体付きと呼べようか。

 美人ではあるがまるでとげがなく、母性的とさえ言える魅力を持った人だった。


「仁也、おい! 誰だよこの美人は!?」

「あれ? お前会った事なかったのか。幸枝さんだよ。中学に上がる前ぐらいまで、家で面倒見てもらってた親代わりの篠山幸枝さん」

「あ! 何度か話は聞いた! え、えっと、は――はじめまして! 自分っ、仁也の大親友の桜野駿ですっ!!」

「大親友って何だおい」

「ん、杉浦です」


 駿と大将の二人が頭を下げる。

 それを見た幸枝はさらに嬉しそうな声を上げた。


「まあまあ! お友達までご一緒だなんて一大事でございます!」


 そう言うや否やぱんぱんと諸手もろてを打ち鳴らし、大門の向こうに聞こえるように声を張り上げた。


「ご開門! ご開門っ! 若旦那さまがお友達をお連れになられました! 一同、お出迎えの準備を!」


 するとギィィという重苦しい木擦れの音を立てて、長い年月閉ざされていたと見える大門が左右に開かれていく。

 その向こうに広がった光景に、誰よりも仁也本人が度肝を抜かれていた。


「 「 「 お帰りなさいませ! 若旦那さま! 」 」 」


 屋敷の正面玄関へと続く外通路の左右に整列した使用人一同が頭を下げ、完璧なまでに揃った声でそう挨拶をしたのだった。


「仁也お前、何者なんだよ?」

「俺も今、それが知りたくなった……」


 仁也の記憶の中では屋敷にこれほど使用人がいた憶えなどないし、こんな待遇をされた憶えもないのだった。


「ささっ! どうぞどうぞ、若旦那さま! ご自分のお家だと思ってごくつろぎ下さい! ――あら! まあやだ、元々ここは若旦那さまのご実家じゃありませんかぁ!?」


 そう言った幸枝がさも可笑しそうに声を立てて笑っている。

 どうも何か、その言葉の奥に含まれた言い分でもありそうだった。きっとそれは、仁也がもう十年もこの屋敷に帰ってきてない事が関係しているのだろう。


 仁也達が玄関までの通路を往く中、左右でお辞儀している使用人一同は微動だにしない。


「俺、こーゆーのヤクザ映画で見たぞ!」

「んん、楠見の家はやっぱり未だ豪族なんだのう」

「やめろ。すっげぇ恥ずかしい」


 申し訳ないような――気まずいような、そんなで通路を抜けてようやく玄関へと辿り着いた。

 戦国絵巻のような絵柄で犬と人が描かれた大きな立掛け屏風びょうぶが目につく玄関で、やっと一息ついた仁也。

 靴を脱いでいるそこで、幸枝が今気付いたように問いかける。


「ああ、今は大旦那さまは出かけていらして留守ですの。それで若旦那さまは、どういったご用件でしょうか? ――いいえ! 勿論用などなくても、何時でもいらして構わないんでございますよ!? なんならこちらにきょを移されますか!? ――そうなさいますかっ?! ――是非そうなさいませ若旦那さまっ!!」

「ちょっと落ち着いて」

「あら、いやですわ若旦那さま。わたくしは落ち着いておりますわ。――それで何時お移りになられますかっ!? ――今ですか!? ――今すぐですかっ!? ――わかりました!! ――すぐにでも由希お嬢様もお迎えに上がらせますのでっ!!」

「うん、あのね幸枝さん、住まいは移さないよ」

「まあ……」


 それまでの勢いが嘘のようにしおらしくなった幸枝が、仁也達を客間の方へと案内する。

 庭が見渡せる広い畳張りの部屋だった。

 それぞれ容易された座布団に腰を落ち着けた。


「それでなんだけど……幸枝さん、蔵の鍵って置いてある? 中でちょっと調べたい事があんだけどさ」

「はあ、蔵の鍵ですか。一応、屋敷の鍵は全て私めが管理しておりますが、一体全体どういう事でございましょうか」

「んー、その、実は……」


 仁也は先ほどまで善三と一緒だった事や、善三についた嘘の課題の事などを話し、そしてさっき起こった出来事を幸枝に告げた。

 無論、それ以上の事は一切として話に含めずに。


「まあ! そのような事がございましたなんてっ! ――ああ、おいたわしや若旦那さま!! そのような怖い目に遭われて、ご心労の事この上ないのではございませんか?! 宜しければ2,3日はこちらでゆっくりご養生なさいませっ!? ――いえ! 2,3ヶ月!! ――いいえ! 何なら2,30年はこちらにっ!!」

「平気だから。それで幸枝さん、鍵は?」

「まあ……」


 やはり急にテンションを落とした幸枝がそそくさとその場から離れていく。仁也はこの面倒な幸枝の性格を熟知している。――無論その対処の仕方も。

 しかし次の瞬間、気落ちしたようだった幸枝は何か閃いたというような嬉しげな顔付きで振り向いた。


「そうですわ! ちょうどこのようなお昼時ですが、皆様はご昼食の方はお召しになられたのでしょうか? もしまだでしたら屋敷の者一同、丹精を込めてご用意させて頂きますがっ!?」

「別にそんな――」

「ん、頂いていきます」

「ゴチになりまーす!!」

「おい、お前らよ」


 してやったりという風に、幸枝が弾むような足取りで去っていく。














 楠見屋敷の客間――

 まるで会席料理顔負けのラインナップで、攻め立てるような質と量の昼食が仁也達をもてなしていた。


「ああー、やっべー……もう食えねー……つーか動けねー」

「ん、わしここに住みたい」

「どっからこんだけの料理を」


 育ち盛りに加え、大食漢である大将や仁也をもってさえすら、その運ばれてくる怒涛どとうの料理を処理し切れずにいた。


「つーか、マジなんなんだよここ、こんなもてなし馬鹿高い料金の旅館に泊まったってされねーぞ。俺、生まれて始めてこんな高級そうな料理たらふく食えた」

「時に仁也どん、わしを婿養子にしてくれんか?」

「とりあえず大将、正気に戻ろう」


 ようやく配膳されてくる料理が止まったものの、みな流石にこれ以上は食指を動かす事はできそうにない。


「ああ、くっそー、こんな高級そうな料理、もう二度と食える機会ねーってのに……ダメだ、もう少しも入らねー」

仮令たとい胃袋が破けようとも出された物は食す。それだけはげられんのだのう」

「いや、ほんと無理しなくていいからなお前ら」


 やがて戦いは幕を閉じた。

 無論結果は、仁也達の大敗だった。

 駿はもうダウン状態で床に寝そべっている。少しでも動けばリバースの危機らしい。

 大将は座禅のように胡坐をかいて、表情が読み取れなかった筈のその面持ちを悲愴に歪めている。よほど誓いを枉げた事を悔いているのか、今まさにそこで腹でも切って果てそうだ。

 一方、仁也はちゃっかり幸枝から胃薬を貰っていた。


「まあまあ、皆様これでは直ぐには動けませんね。――いえいえ! 良いんでございますよ! お好きなだけ居てくださって!!」


 両膝を付いて仁也の背中をさすりながら、上手く事が運んだらしい幸枝が嬉々とした声を上げていた。


「只今、お風呂の準備もさせておりますから、食休みなされた後にはどうぞごゆるりと」

「だからさ、俺達急ぐ用事があんだって」

「なんですか! 学校の宿題などという雑事! そんなものはこちらの者にやらせておきます故! 若旦那さまは何もお気になさらず私めにお背中を流されてくださいませっ!!」


 激昂したような勢いで、幸枝がずいっと仁也に向けて顔を近づける。


「そもそも風呂は一緒には入れないから」

「そんなつれないお言葉っ……! ひどいでございます――若旦那さま! 前までは、いつも私めが一緒でなければお風呂に入ってくださらなかったではありませんか!?」

「……おぃぃ……どうゆうことだぁぁ……仁也ぁ……」


 畳に横向きに寝そべったままの駿が、身動きもせずゾンビのような声を出していた。


「幼稚園の頃の話だ。食いつくな」

「そのような物言い、私、悲しゅうございます。ちょっとお傍を離れていた間に、そのように筋骨たくましく身体を大きくなされたからと言って、まだまだ若旦那さまは私めにとっては小さな子供でございますよっ!?」

「いや、小さくはないだろ」

「まあ! なんですかっ!? そう仰られるなら、どれほどご成長なされたか、私めが直にご検分差し上げたいと存じますっ!! ――さあ早く、お風呂場で私めに身体の隅々まで調べさせてくださいませっ!! 若旦那さまのがどれほどご成長しあそばれたか私めにじっくりとご検分をっ!?」

「何言ってんのこの人?」

「……仁也ぁぁ……てめぇぇぇ……どこのを見せびらかす気だぁぁぁ……」

「お前ももう喋るなよ」

「仁也どん、わしは少し自分を見つめ直す旅にでようと思う」

「大将ぉ、戻ってきてぇー」


 よっぽどのショックだったのか、彼は立ち上がって庭から遠い空を見上げている。そのまま帰ってきそうにないほど哀愁漂う背中だった。


「――ちょっともう! 本当に急がなきゃなんないんだって! 幸枝さん、いいから鍵持ってきて」


 収拾のつかなくなりそうな予感に、仁也は無理矢理に声を荒げてその場を締める。

 やはり「まあ……」と言って急に大人しくなった幸枝がすごすごと下がり、次に戻ってきた時にはちゃんと鉄輪に連なった鍵の束を持ってきた。

















 蔵は屋敷の外れに位置していた。


 だがそこで大きな問題が生じていた。

 この屋敷には蔵の数が三つもあり、そしてその全てがほぼ満杯な状態でひしめいている――すなわち様々な物であふれているのだ。

 この中から目的の物を探し出すのは至難だが、ここまで来たらやるしかないと覚悟を決め、それぞれ一人一棟ずつに分かれて蔵の中へと突入していく。


 中は年季の入ったほこりかびの独特な匂いに満ちていた。

 仁也はずいかにもな書籍類を探してみたが、帳簿のような物しか出てこず、そもそも効率を考えずに粗探ししかできない状況だ。

 正直な所、まるで時間を無駄にする術であったかもしれない。

 

 しかしそんな折、別の棟を探していたはずの駿が蔵の戸口に駆け込んできた。


「仁也!! 見つけたぞーっ!!」

「何――本当か!?」


 さっきまでぐったりしていたのはどこへやらの駿が、キラキラと輝いた得意げな顔で戸口に立っている。


「見ろよ!! ――日本刀だぜ!?」


 そう言って突き出した駿の手に、細かい紋様の入った筒状の布袋が握られていた。布の質感からして絹製だろう。


「あほ、真面目にやれっ」

「なあなあ? これって本物かな?」

「模造刀だろ。いいからちゃんとやれって」


 馬鹿らしいと、仁也はもう駿の方から視線を外して探索に戻っていた。


「つーかさー、昔の事が書かれた和じ本とか言われてもさー。忍術の秘伝巻物とかならテンション上がるんだけどさー」

「なら、もういいから帰れ」

「んだよー?」


 不貞腐ふてくされた様な駿が、仁也に構わずその場で布袋の縛りを解きはじめた。

 中からは艶やかな紅塗りの鞘が目を奪う、一振りの刀が姿を見せる。長さはそれほどなく、脇差程度のものだった。


「うおおーっ!! かっけぇぇー!! 知ってんぜ、これ小太刀とか言うんだろ?!」


 まるっきり新しい玩具おもちゃを貰った子供の様に駿が騒いでいる。


「元あった所に戻して来い」

「なー、これほんとに模造刀かぁ? なんかすげえ迫力あんぞ?」


 気付けば既に刀身を鞘から抜き放っている駿。

 そうして無謀にも、その刃に指を当てて滑らせているのだ。


「うわっ!! 切れた!? イテェ――これ本物だ!」

「バカ! お前何してんだよ!?」


 仁也が見遣れば、駿が指先から血の雫を一条垂らしていた。

 どうやら、それなりに深く切ったらしい。血の塊がぼとりと落ちて、戸口の地面に固まった。


 その光景に怯んだような仁也が、掌で視界を覆うよう目をらせた。


「さ、幸枝さんとこに行って、手当てして貰ってこいボケ」

「あー? こんぐらい平気だっつーの。なんだよ仁也、顔なんか背けちゃって」

「うるせえ、いいから行ってこい」

「……あー、そういやお前って血ぃとかダメなんだっけ? 情けねーよなー、ほんと。――ほーれほーれ」


 駿がからかうように血だらけの指を仁也に向けて突きつける。


「やめろ――」


 はえを払うような仕草で手を振りかざして、仁也はそれから顔を背ける。

 しかし、おもしろがった駿は執拗に仁也の目線にまわり込むよう血だらけの指を見せる突けるのだ。


「いい加減にしろ!!」


 滅多に見せない怒りをあらわにして、仁也が本気でがなり立てた。


「ま、マジでキレんなよ……。わ、悪かったってば」


 怒られた子供のようにバツを悪くした駿が数歩後ずさる。


「……もういいから、手当てして貰ってこい」

「お、おお」


 駿が気まずそうに去っていった後、その額ににじんだ脂汗をえり口で拭って息を整える。

 そして地面に固まった先ほどの血を忌むように土を蹴って被せ、処理したのだった。


 しばらくしゃがみこんだまま、時間を無為に過ごしていた仁也。

 だが、ふと視線を巡らした先、戸棚の下に昔話にでも出てきそうな竹編みの葛篭つづらのようなものを見つける。

 埃を被ったそれを引き出して中身をあらためると、かなり大量の和書が出てきた。しかも紙の状態がかなり悪く、だいぶ年代を経ていると素人の仁也にも判る。


 わずかにだが期待を募らせた。

 慎重にその何冊かを手に取りページをめくってみるが、それらの書体が旧字体な上にかなりの達筆で、知識のない仁也では書かれている内容を正確に読み取ることは不可能そうに思えた。

 しかし、表紙の一部分に「元和」と書かれているらしいのを辛うじて読み取る。確か江戸時代初期の年号であると記憶していた。


 他にも幾つか漁って、見覚えのある年号と漢数字の日付のようなものが書かれているとまで判断する。

 つまり日記のようなものだろうか。

 しかし、それにしては間隔が広い気がする。一冊に年号を3つ4つ跨ぐ事がままあるのだ。


 その時、一冊の書物からぱさりと紙切れが落ちる。

 茶色く変色した、折り目に年季のある古紙だ。開けば、そこに筆で描かれた水墨画のような地図が広がっている。


 仁也は息を呑んで立ち上がっていた。

 その地図には見覚えがある――と言うよりも、特徴が有りすぎるのだ。


 中央に池のような物、そこから四本の川が伸び、周りをぐるりと山が囲む。そう、この山裾やますその町――神治飛鳥町だ。その地図の当時はちょっとした部落か山村だったろうが。

 そして何より、上下左右に書き込まれた文字。

 上から時計廻りに「玄武」「青竜」「朱雀」「白虎」――これらだけは筆の跡が濃く、後から別の人間がこの墨画に付け加えたと見て判る。

 それらは方角を表わしているのか、それとも四方のそれぞれの山の事を指しているのか。

 その中で見慣れないものが一つ。

 中央の大池に「黄龍」と書かれているのだ。龍神池の事をそう呼んでいたのか、果たして皆目分からない。

 さらには、上下左右それぞれの山に小さい×印が描かれている。それを線で結ぶようにして、ひし形を描いていた。

 一体、どういう意味なのか。

 その×印や線の箇所は、あまりにも大雑把過ぎて詳しくは特定できそうにない。

 唯一“玄武山”の滝らしい絵の根元に書かれているそれだけは、もしかしたら何とか把握できるかもしれない。


 推察できたのはそれだけだった。


 ともかく、その地図をズボンのポケットに捻じ込む。

 まだ何か発見できるかもと仁也は葛篭の奥の方を調べ始め、すぐさま新たな収穫物を見つけ出していた。


 如何いかにもな風体の巻物である。


「……これは家系図か?」


 その紐を解いて広げた仁也が、そう独りでに呟いていた。名前と続柄を結ぶような線、間違いなく家系図のように見える。


楠見うちのか? いや、“狗住”ってなってるな。……ああ、そうか――“クスミ”でいいのか。……にしても細長えな」


 それを追っていった仁也は、その自身の発言そのものに肝を冷やす。

 細長いなどというのではない。

 そこに書かれた系譜が正しいならば、“クスミ”の家には代々たった一人の男児しか生まれていない。それが寸分違わず、脈絡として続いている。

 偶然にしてはあまりにはおかしい。


 奇妙な怖気を感じずにはいられない仁也だったが、下るにつれてようやくその家系図が見慣れた体裁となってくる。

 有り体に言えば、他の兄弟たちがちゃんと生まれていったのだ。


 そして気付く、他の兄弟姉妹が生まれ始めた頃に姓の漢字が“狗住”から“久澄”へと代わっている事に。

 そうして、さらに下の方に行くと“楠見”となっている。


「やっぱり、俺ん家のか……」


 しかしそこに記されている系譜では、代が自分の知っている名前まで続く事はなかった。

 まるでぱったりと途切れているのだ。

 この倉で埃を被って眠っていたという事は、もうこれをつけてはいないらしい。


 その折、蔵の外から間延びした声が聞こえた。


「おおーい、仁也どーん」

「大将?」


 散らばった書物を等閑なおざりに戻して、仁也は外へと向かった。

 外に出てみると、大将が蔵から布の掛かった大きな板のような物を運びだしていた。

 それはどうも立掛け屏風びょうぶの一種らしい。外形が玄関に置いてあったものと酷似している。


「それは?」

「取り敢えず、見てみるといい」


 そう言って掛けられた布を剥ぎ取り、その屏風の絵柄を日の下にさらした。


「なんだこれ?」


 はじめ、仁也はその絵を見てもぴんと来なかった。

 左上の方に水色の川か池のようなものがあり、黄色い地面の右側には薄灰色の木々がまばらに生えている。

 その右側の林の奥から、毛むくじゃらな黒い何かが無数にい出てきているかのような構図の絵だ。

 黒い毛むくじゃらは赤い眼をしていて、あるものは四つん這いで犬のように、あるものは二本足で猿のように――そうしてみな左側を向いている。

 しかし左側には何も描かれていない。

 いや、微かに真っ赤な鳥居のようなものが半分だけ映っていた。


「妖怪の絵か。どっかで見たかなこの絵柄……」

「それよりこの黒い奴ら、見覚えないかのう」

「こいつらを?」


 そう言われ改めて観察していた仁也の脳裏に、今朝見たばかりの映像がよみがえった。

 そう、今日見せられたあのビデオの映像――真っ黒い影、四足歩行で走り抜け、最後には二本足で立ち上がったように見えたあの黒い獣。


「まさか――いや、ほんとにまさかだろ。幾らなんでも、こじ付けじゃないか?」


 大将の言わんとしている所を察した仁也だが、笑い飛ばすように首を振った。

 いかにも関連ありそうと言えばそうなのだが、仁也は素直にそう都合よくは解釈するつもりはなかった。


「なーにしてーんだよっ?!」


 いつの間にか戻ってきていた駿がやたら上機嫌に、並んで屏風を見合わせている仁也と大将の二人の肩を叩く。――叩くというか身長差のせいでほぼぶら下がっているが。


「何だそれ、下手くそな絵だな。俺のが百倍上手いぜ」


 そうしてその肩の間から屏風を一瞥いちべつし、さも得意げな声を上げる。


「まあ、何でございますか? 気味の悪い絵ですこと」


 その後ろから幸枝が続いてきた。

 どうやら駿の怪我の手当てをしてくれたらしく、当の駿の指には包帯が巻かれていた。

 やたら上機嫌な駿の理由もそこに有りそうだ。


「何の絵ですか? 若旦那さま、それが学校の課題なんですの?」

「あー……まあ、そうかな。あれだよ、郷土資料の研究っていうかさ、その中でも古い絵文化のルーツを調べて、歴史の授業で発表するんだよ」


 若干白々しくなるだろうとは身に覚えつつも、怪訝けげんそうにしている幸枝を振り返っていかにもな文言もんごんで言い包めようとする仁也。


「は? 何だそれ? 俺知らねーぞ」

「――お前はちょっと黙ってろ」


 もともと打ち合わせなどしてないが大将ならば気を回して頷く所。しかし無論、駿という抱えた爆弾は思いきり素の顔で口を半開きにしている。


「桜野さまは知らないと仰ってますが?」


 そして鋭く、幸枝はそんな脆弱な連携部分を突いてきた。


「……いやあ、ほんと駿のバカ。課題出たのも知らないとか、ほんとお前はおバカさんだなあ。――こやつめ、ハハハ」

「マジかよ!? やっべーじゃん!? しかも歴史かよー。俺、歴史の田中に目ぇ付けられてんだよなー。マジうっぜーし」

「おう、今回はちゃんとやろうな」

「そうでしたの」


 内心は冷や汗ものながら、駿のミラクルな馬鹿さ加減で難を逃れた。


「で、幸枝さん、この絵って何かわかんない? 描かれた年代とか作者とか、何を描き表わしたかったのかとか」

「はあ。生憎あいにくと、私めにはさっぱりでございまして。大旦那さまならあるいは。……ああ、もしくは――」


 長い睫毛まつげのその艶っぽい眼をしばたたかせていた幸枝だが、何かを思い出したようで顔色がぱっと明るくなる。


「庭師の呉作爺やなら、きっと知っておりますわ」

「庭師? その爺やって人、今も屋敷に?」

「はいはい。只今連れて参ります故、少々お待ちくださいな」


 景気の良い声を上げて幸枝はそそくさと舞い戻っていく。


 すると数分もする事なく、幸枝は、袢纏はんてん姿の腰の曲がった老人を引き連れてきた。

 彼がどうやら呉作爺らしい。もしかしたら年齢は善三より上かもしれず、全身余す事なくプルプルと小刻みに震えていた。


「あぁ、こりゃぁ、若旦那さま。ちょいと見ぬうちに、随分とまぁ……ご立派になられましたのぉ……」

「おう、えっと、く――苦しゅうない」


 ほとんどかすれて聞き取れない声で、呉作爺が感嘆めいた言葉を仁也に向けて並べ立てている。

 失礼な事ながら、幼少の折しかこの屋敷に居なかった仁也はほとんど使用人の顔など憶えていない。


「それで呉作爺さま、この屏風なんですけど」

「はい、知っとります、知っとります。こらぁ、玄関とこに飾ってあるやつの、片割れですわい」

「あ、そうか。玄関のやつもこんな風な絵柄だっけか」


 合点がいったという風に仁也がぽんと手を叩き合わせる。

 どこかで見覚えがあったのはそういう事だった。


「そんじゃあ、ちょっと二枚を合わせてみるか。大将、そっち持ってくれ」


 そう言って仁也は、その立掛け屏風を大将と二人して担ぎ上げた。

 途端に「そのような事、屋敷の者にやらせますから!」と幸枝や呉作爺が騒ぎだしたが、女性やまして腰の曲がった老人にやらせるわけにもいかないだろうと無視して歩を進めた。

 広い正面玄関で二つを並べて合わせてみると、確かにこの二つは左右で続いた絵のようだ。

 蔵からのを右に、玄関のを左にすれば、丁度真ん中にある真っ赤な鳥居が完全な形となる。そうすると右の林から出てきた黒い毛むくじゃら達が、左の池を背にして立つ犬と着物姿の人間を追い詰めているような図になった。


「まあ、これで一枚の絵でしたのね」

「爺さん、それでこれは何の絵?」

「はい若旦那さま、こらぁ、お池の伝説の一説でごぜぇます」

「お池? ここに描かれてるのって龍神池か?」

「そう言われれば、この鳥居はうちの所のやつかのう」


「で? どういう場面かわかる?」

「はぁ、これはあれですなぁ……”猩々しょうじょう”ですわ」

「――猩々?」


 その言葉に反応を示したのは、意外にも大将であった。


「はぁ、そうでごぜぇます」


「……おかしいのう」

「どうしたよ、大将」

「お池の猩々伝説ならばわしも知っとるが、それにこんな場面は出てこなんだ筈……」

「そうなのか?」

「昔の村人が、猩々つう猿に似た妖怪だかなんだかと、お池のほとりで酒盛りをしたって伝承だのう。ここの地酒のラベルにもなっとる話だ」

「私もそのお話でしたら聞き覚えはありますわ」

「確かにこいつ等、どんちゃん騒ぎしてるって風じゃねえな」


 屏風の様子を見て仁也達は頷いた。

 絵の構図としては、もっと切迫した感を窺わせるのだ。 


「はて? ……あぁ、もしやこれは……”獣憑けものつき”の伝承の方でしたかのぅ」

「”獣憑き”?」


「――呉作」


 仁也が尋ね返したその時、寄り集まった彼らの後ろから突然に濁声が掛けられた。

 振り返った一同の先、玄関口にこの屋敷の主の善三の姿があった。


「大旦那さま! まあ、いつお戻りに?」

「今さっきだ」

「じじいかよ。そっち、警察はどうなった? 死体の身元とかって判明したのか?」

「儂がそこまで知るものか」


「あぁ、こらぁ、大旦那さま、おけぇりなさいませ」

「うむ。呉作、お前はもうさがってええ」

「はい、そんでは失礼しやす」


 ぺこぺこと頭を下げながら、呉作爺は中庭の方へと蟹股がにまたでかなりスロウリィに去っていった。


 玄関内に足を踏み入れた善三が二つの屏風に近付いて繁々しげしげとそれを観察している。


「また、古いもんを引っ張りだしてきおって」

「じじいも知ってるのかこれ? つか、さっきの”獣憑き”の伝承って何だ?」


 問いを発した仁也の顔にじろりと目線を当てた後、その左右に広がる仁也以外の人物――駿達や幸枝までをも堅い眼で見遣った。

 その大きなに、普段見ないような迫力が点っている事を仁也はすぐにも見分けていた。


「……じじい? 知ってるんだろ、その”獣憑き”って話」


 短くない沈黙を挟み、善三は屏風の方へと顔を向けた。


「なんて事のないお伽噺とぎばなしの一種だ。かつてこの地で、人が獣に変わってしまうという奇病が流行った。――そういう言い伝えのな」

「それ、詳しく教えてくれよ」

「人が獣に変貌をして、人を”喰った”とかいう血なまぐさい話だ。子供に聞かせるもんでもないわ」

「おいおい、俺たちゃもう高校生だぜ? それに調べてこいって、学校の授業の課題だからさあ」


 内面を一切と表に出さず、仁也は危なげなく皆についたその嘘を塗り固めていく。


 再三とせがんで、ようやく善三は口火を切った。


「儂も、儂の爺様から又聞きした話だ――。大昔の事、京の都に陰陽師おんみょうじっちゅうのがおった。中国から渡ってきた占いやら方術やらで、都のまつりごとにあれこれと口を出して、まあ権力闘争に明け暮れとった手合いらしい。その中の一人が政敵に追われ、この土地へと彷徨さまよい着いたのがそもそもの始まりだという」


 話が長くなる空気を察してか、幸枝が玄関脇に置いてあった座椅子を屏風の前に並べ始めた。

 その一つに大儀そうに腰掛けて、善三は眼前のそれを何とも言いがたい表情で眺める。


「その男の一族が、この山裾の村を興したそうだ。人手を集め、田畑を開墾し、この町の基礎を造った。だがこの山間の地には、彼らが来る以前より、化け物の一族が棲んでおったそうな。無論、両者は並び立たず、しかし魔を払う術を知っていたその陰陽師達は力づくでその化け物共を討ち滅ぼしこの地を得たのだと。だがその化け物共に、つまり呪いを掛けられてしまったのだな。村の人間が、一夜ごとに、滅ぼした筈のその化け物と同じ姿へと変わっていった」


 そこで勿体ぶるように言葉を切った善三。

 また屏風の絵をじろりと舐めるよう見遣り、杖の先でそこに描かれた黒い毛むくじゃらを指し示した。


「この絵は、陰陽師の生き残りと、化け物へと変貌してしまった村人との最後の闘いを描いておるのだと」

「こいつらって人間――いや、元人間か」

「おーっ! 何かすっげーそれっぽいな! まるでゾンビ映画みたいだぜ!」


 駿が話が山場に差し掛かった所で、自身のテンションをも盛り上げさせていた。


「この、白い犬みたいなのは?」

「陰陽師が使役するために呼び寄せた、犬神か何かだろう。この地の土着信仰に、確かそんな話があった筈」

「で、その犬神様がこいつ等全部ぶっ殺しておしまいか」


「どうだかな……。生き残った村人がここを再興し今の神治町の礎となったとも言えるが、もしかしたら村人は全滅しておって、別の入植者がここを切りひらいたのかもしれん。まあ言い伝えでは、最後となった陰陽師がその犬神と交わり子孫を残したとある」

「――マジかよっ!? この町のご先祖さま、犬とヤってたのかよ!?」

「ご先祖さまったら、とんだハードコアだろ」

「バカタレ共が。あくまで言い伝えだわい。昔話をそのままの意味で真に受けるな」


「まじかー。今度の歴史の授業で、町のご先祖さまが犬とヤったって発表しなきゃなんねーのかー」

「そこは伏せとけ伏せとけ」


 嘘の課題の話を信じて切っている駿が遠い目をしている。


「さあ、これだけの話を聞ければ、もうその課題とやらはええだろうに。とっととこの邪魔な屏風を元の蔵に戻して来い」


 そう言って善三は立ち上がって、杖を振り上げて仁也たちをせっつく。

 しぶしぶとその言に従い、仁也達はえっちらおっちらとまた屏風を運んでいくのだった。


 蔵まで屏風を運び終えると、また元のように布を被せて在った場所に戻した。

 時間はもう午後3時を回っている。


「仁也どん、今の話どうだったかのう」

「そりゃ、この町のご先祖さまが獣姦趣味ケモナーだったってのは普通にショックだな。――とかいう冗談はさておき、この黒い奴らについてもっと龍神池の伝承を調べる必要があるか」

「その事だがのう……」


 大将が珍しく、影を落とした暗い表情を見せていた。


「わしは、どうも納得がいかん」

「え? 何が?」


「仁也どん、わしん所の神社にまつられとる神様を知っとるか?」

「いや、生憎と」

恵比寿えびす様なんだのう」

「恵比寿さまって、あの七福神の? 商売繁盛の神様だっけか」

「そうだ。元は豊漁の神様で、つまり釣り人に信奉されとる。お池はこの町唯一の名所で、他県からも――特に釣り客はようやって来るんだのう。お陰でわしん所も賽銭やらに事欠かず、正直助かっとるそうだ」

「それが?」

「釣りの名所の傍に、釣りの神様。……随分、都合が良いとは思わんか?」

「ああ、なるほど。そっちにとっちゃ濡れ手にあわなワケか」


「それから、お池に伝わるあの猩々の伝説もだ。猩々ってのは酒呑みで、お陰で地元の清酒のラベルにもなっていて都合がええ。けど元々、猩々ってのは大陸――中国の妖精なんだな。古来中国からは大量の文化が流れ込んできたから、別段おかしくはないのかもしれん。だが日本に伝わった猩々ってのは、多くはふねの上――即ち海に現れる妖怪として語り継がれとるんだ。しかも、さほど人間に友好的でもない。沖合で人間達の舟を取り囲み、おけをわたせと言う。桶を渡せば、それで水を汲んで舟に流し込んで沈めてまう。桶を渡さないとそのまま舟を転覆させられてまう。だから初めから、漁師達は桶の底に穴を空けておくのだという。酒飲みで人間に吉兆をもたらしたという妖怪像は、古典芸能の演目から有名になった話だな」


「作為的だって言いたいのか……」

「んん。そして一番の問題は、うちのやしろには恵比寿様おらんという部分なんだのう」

「どういう意味だ?」

「この町にはのう、社はわしん所しかないんだ。寺の一つだって、四通ヶ岳を越えんとない。墓地すら山向こうにあって、檀家だんかの面々が不便だなんだと言っとる程だ。土地ならいくらでも余っているというに」

「そういや、そうだったか」


「それでさっきの善三さんの話に出てきたあの犬神様……。一体どこに奉られとるのか。この地方を救ったという立派な神様なら、そのルーツがしっかりと地元の神社に伝わっとる筈なんだがのう。あの話、わしも初耳なんだ」


 その言わんとしている所がいまいち掴めず、怪訝に首をすくめる仁也。


「前にもちと触れたが、古式神道の考え方というのはかなり特殊であってな。その教理というか、本髄は、全てを受け入れる――全てを肯定する事にある。精霊信仰の多くがそれだが、元来、万物に善や悪など存在しないという考えが根底にある。だから、それがどんな神様であろうとまつる。福の神であろうと、貧乏神であろうと、社をける事はあっても“無くす”事はそうそうないんだのう」

「……」

「神社一つにつき一人の神様って事はないんだ。例えば、人間側の何等かの事情で神社を畳む際だって、近くの他の社に神様を寄与するんだのう。そうして信仰の対象を継いでいく、受け入れていくんだのう。全てを肯定する――森羅万象を在るがまま。それが根本なんだの」

「意図的に神様を“消す”って事はかなり珍しい話だと?」

「正にだ。そこでさっきの犬神さまの伝承。この地にその犬神さまがったとして、そして何らの理由でその社が潰れたとして、……何故わしんとこにそれが伝わっていないのか……」


「つまり、大将はじじいの話が丸っきりの創作だって言いいたいのか」

「いや、わしが考えとるのはな――仁也どん、それらの一体どっちが創作なんだかという話だ。善三さんの話が全て出鱈目でたらめなのか、もしくは、やたらと都合のええ恵比寿様や猩々の方が新しく作られたもんなのか。意図的に神様を消す事は、余程の事がない限りはあり得ん。……けど、その余程の事があったとしたらどうかのう? この地から消えた信仰と伝承のその空白を埋めるために、都合のよい逸話がげ替えられたられたとしたら……」


 仁也はどうしようもなく言葉に詰まっていた。


 ふと前に丹雄から聞かされた、あの話が仁也の胸中を過ぎった。

 ”人喰いの化け物”――腕に覚えのある多くの武芸者をすらもって滅ぼせなかったという怪物の言い伝え。丹雄自身が調べた所、この地にはそういう伝承があるという。しかしその言い伝えをこの町で訊いて回った際では、誰もそんな話を知らなかったという。

 だが善三の口からそのようなニュアンスの話がもたらされた。かつてこの地の”長”であった楠見家の当主から、そのような話がだ。


 今の大将の口ぶりも含め、何か、奇妙であるのだ。


 胸の内側の皮膚をぞわぞわと虫が這いあがるような不快感を拭えない。

 この町には、どうにも得体の知れない――隠された何らかの因習いんしゅうでもあるのかと思ってしまう。


「何の話してんだー? もうオモロイ話は聞いたろ、課題まだやんのかよ」


 そんな仁也の暗澹あんたんとした心境を、底抜けな駿が吹き飛ばしていた。


「お前はもう帰っていいぞ。後は俺達がレポートにまとめとくから」

「マジで!? ラッキー! じゃあ、頼んだぜぇー!」


 まだこいつには本当の事を話してなかったなと思いつつ――しかし、面倒なのでこのままにしておく事にした。

 そんな駿は、ご機嫌にもう駆け出していった。


「わしも家に戻って、もう少し詳しく調べてみようと思う。仁也どんはどうする?」


 相変わらずのぬぼーっとした顔でだが、大将はまるでこっちの表情をつぶさに観察するような視線を留めている。

 しかし、当の仁也も変わらずの風になびくすすきのような飄々ひょうひょうさで、その相手の視線を辿だどって言葉を返す。


「そうだな、俺も帰るかな。――ああ、いや、折角だから幸枝さんとかにもう少し顔を見せてやっとくか。あの人、あんなだから子離れができてないんだよなあ」


 カラカラと、そんな笑いすら見せて。


「ん、そうか」


 気の無さそうな返事をし、「また今夜」と短い挨拶を残して大将も帰っていった。


 その後ろ姿を見送りつつ、仁也はふと、広大な面積を誇るこの屋敷そのものを振り返った。

 記憶のうちにある光景と今のそれとは、まるで変わらずにあった。


















 大将と駿が帰った後、仁也は独り広い屋敷を練り歩く。


 時折、屋敷の使用人が仁也の姿を見つけては声を掛けて頭を下げていく。

 こちらは全くと言っていいほど相手の事など知らぬのに、みなは仁也の顔をちゃんと覚えているらしい。

 それがとても歯がゆいようで申し訳なかった。


 仁也はおぼろげな記憶を頼りに、屋敷の中の数ある部屋の一つに辿り着いていた。


 その部屋は今も、自分の記憶の中にあるものと寸分も違わずにいた。

 畳の上に敷かれた絨毯じゅうたんの模様。カーテンの色合い。木製の大きなベッドが奥の壁に、そして庭に突き出た縁側に置かれた安楽椅子。


 その場所は自分が居た頃とまるで変わっていない。そのままの形で保存されていたかのようだ。

 誰かが毎日きっちりと掃除をしてくれているのだろう。

 部屋の脇にサイドボードがあり、幾つかの写真立てがある。

 ほこり一つ積もっていない。もうこの部屋を使う人間などいないというのに。


 写真立ての一つを手に取った。

 そこには、長く真っ直ぐな黒髪の美しい女性が、笑っているのか、困っているのか、その両方のような微笑を口元に浮かべて写っている。

 そしていま一つには、その女性と幼子が映りこんでいる。

 幼少の仁也と、今は亡きその母親の楠見有紀ゆうきだ。


 その写真の中の母と、仁也の記憶の中の母とは、やはりまるで色せず美しいままだ。

 誰もが羨むような女性と言えばいいか――

 品のある柔らかい物腰と、この世の全てもが霞むような微笑をたたえた、まさに天上の人だったと形容できる。


 しばらくはその写真を食い入るように見つめる。

 やおらにそれを置き、開きっぱなしの戸窓から庭へと出た。


 緑の豊かな明るい庭の隅に、野ざらしの古井戸が――そこだけ風景を切り取ったかのように違和感をまとって存在していた。

 その井戸の側辺に花が添えられている。まだ十分に瑞々しいそれらが細い花瓶に挿され、地面に安置されている。


 仁也はその花を踏み荒らさぬようにしてそっと井戸の傍へと近付き、四角い厚みのある木板で蓋をされたそれを恐いくらいにっとにらみつけていた。


 仁也の瞳には、決して忘れ得ないあの日の光景がしっかりと焼きついている。


 薄く紅に染まった水の色――

 壁面にこびり付いた鮮やかな赤――


 そしてその口元に、絶世なまでに美しいと称えられた微笑を湛えたままの母の顔。 眼を見開いてる母の顔。


 その日も空が青かった。

 嘘のようなまぶしい明かりが、その井戸の底を照らしていた。


 ――死んだ母親が浮かんでいるその井戸の底を。






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