第七幕




 それはまるで夢精の後のような感覚だった。

 妙な余韻よいん倦怠けんたい感、そんなものが後を曳いている。


 仁也が気づくと、そこは山と町の境界にあたる広い国道のすぐ脇だった。

 野生の鹿などが這い出て来ぬように鋼鉄製のフェンスで区切られた、その山側のはしに立っていた。


 今までどうしていたのか記憶がない。

 いやおぼろげには覚えているのだが、ここに至るまでの決定的な記憶がないのだ。


 取り止めもなくその場に立ち尽くしていた仁也。


 ようやく思い立ったように辺りをきょろきょろと眺め回し、ともかくこのフェンスを越えて町に戻ろうと切れ目を探して歩き出した。

 しかし、このフェンスはどこまで行っても続いていそうだった。


 仕方がないので無理にでもよじ登る事にして、苦心の末、やっと国道側に出る。


 車通りは疎らだ。

 もう深夜にでもなってしまったのだろうか。


 幹線道路を横断し切った所ではたと気がついた。

 ――そうだ、駿達は何処へ行ったのかと。

 携帯電話を探してズボンを漁ったが、ズタズタに切り裂かれて用を成さないポケットを目にした。上着はどこにやったかと考えて、思い出せずに諦めた。


 その時、国道の脇にある無人のガソリンスタンドを見つける。

 公衆電話がないかと路側帯を伝って近付いていった仁也は、その休憩所の窓ガラスに奇妙なものを見た。


 窓ガラスに黒々とした何かが映りこんでいる。

 それは人間の様に二本足で立って歩いている。

 だが決して人間でない。


 毛むくじゃらで熊のようで――

 そこまで気付いた仁也が悲鳴を上げた。

 

 そこに映りこんでいたのは自分の姿だ。


 だが傍を通った車のクラクションが高く鳴り響いたと思うや、そこにはさっきの化け物の姿はない。

 そこにはボロボロに近い服装のいつもの自分が映り込んでいる。


 奇妙な汗が伝う。


 よくよく近付いて、自身の姿を確認する。

 ズボンもシャツも何かに切り裂かれたようにズタボロで、顔と言わず体中が泥で黒く汚れている。

 一体今までどこを彷徨さまよってきたのだろうか。

 顔の汚れを拭おうとするが、かさかさに張り付いて取れない。

 辺りを見回すと、スタンドの脇にホースで繋がった水道の蛇口を見つけた。水で洗い流せば取れるだろうと思い、どうせボロクソな恰好なのだからと頭から水を被った。

 夜気が冷えてはいるが体が火照ほてっていたためか寒くはなく、気持ちが良かった。

 

 だが、その時――

 流れ出る自身の水跡が赤黒く濁っているのを仁也の目が捉えた。


 自分の体中にこびりついているもの、それは血だった。


 そしてようやく仁也は全てを思い出す。


 ――どうなっている?

 ――奴等はどうなった?

 ――自分はどうしてここにいる?


 鋭く息を呑むと同時に、そんな疑問が急速に浮かび上がる。


 ……だが、答えはない。


 自分は確か大怪我を負っていたと思う。体を奴等の爪や牙で引き裂かれ、拳も原型を留めない程に潰れていたはずだ。

 しかし、今の自分の体はどうなってもいない。全身こびり付いた血で汚れているが、どこにも怪我一つとしてないのだ。


 奴等はどうなったのか――あの場所にもう一度戻って確認しなければと思い立ち、そもそもここは何処なのかと辺りを見回して驚いた。


 あの“玄武山”が遠くに見えた。


 幹線道路と山の位置から、ここはかなり北西の四通ヶ岳付近であると知れた。

 今からあそこに向かうには骨が折れる。何より今は何時で、駿や詩帆はどうなったのか、ともかく町に戻ってみなければ。

 もしかしたら、あの山頂での騒ぎがもう知れ渡っているかもしれない。


 仁也は繁華街の方へと足を急がせた。


















 町に戻ってみたはいいが、繁華街はいつもと変わらなかった。

 もう深夜を回っているという事は知れたが、人通りはまだ多く、町にこれといった異常が見受けられない。


 あのロープウェイ頂上の広場での一件はどうなったのだろうか。

 知られていないとでも言うのか――いや、有り得る話かもしれない。パニックが起こったのは事実だが、その原因がおそらく不明なのではないか。


 そもそも、奴らの正体は何だと問われて、答える事が出来ない。

 確かに大勢の人間が、あの場所で真っ黒な人型をした大きな生物を見たと話すだろう。だが、その痕跡をどう証明するかだ。


 あの時、奴等は仁也が引き連れて行ってしまった訳だから、もうその時点で広場での混乱は治まりつつあったのかもしれない。

 そうなると、警察やらにどう証言すればよいのかとういう話になる。

 奴等がどうなったかはともかく、これまでその影すらも人に気付かせてこなかった狡猾な相手だ。行方をくらますことなど容易いだろう。そもそもがあんな数をして山の中に見つからずに隠れていたのだから。


 これが本当にただの新種の野生動物の類であったなら、毛や糞尿なりの痕跡を残しているのだろう。

 ところが、生憎と奴等はそういうことわりの埒外に居る存在だ。


 仁也自身、あれだけ肉体と肉体をぶつけ合った物理的な感触を有しながら、一度その姿が見えなくなるや、途端にあやふやな――まるで水蒸気のような手応えしか残っていない事に気づく。


 実体を持ち得ていようと、詰まる所の化け物、妖怪――

 そういう類だろうか。


 となると、決定的な証拠はあの場所で殺された二人の男女という事になる。

 その捜索そうさくがまだされていないか、されていたとしても町中に警戒が出される程の案件として処理されていないのではないか。

 おそらく、だからこの町は変わらずに平和なのだ。


 もしくは仁也が仕留めた何体かの奴等の屍骸しがいが発見されれば、事は発覚するかもしれない。

 勿論の事、屍骸が残っていると仮定しての話だった。かすみとなって消えていたってもう驚きはしない。


 いずれにしても、今はすぐにでも家に帰りたい気分だ。


 こんな服装な上、ともかく酷く疲れている。

 腹も減っている。

 財布は確か詩帆にとられたんだっけかと、仁也はあの出来事が遠い夢だったかのように思えてきた。いつもの日常に戻った気分になっていた。


 ああ、そうだ。

 由希に逢いたかったのだと思い出した。


 きっとこんな時間まで連絡を寄越さなかったのだから、はなはだご立腹なされているだろう。

 どう言い訳してやろうか考えると、心なしか冷めた気分も弾んでくる。


 道行く人間が仁也のその異様な風体に眼を白黒させて、ある者は指を差して笑ったりしている。

 まあ当然の反応だろうと、仁也は開き直る事にして家路を急ぐ。















 仁也が繁華街の端、商店街裏に差し掛かった時だ。


 前方の路地から数人の不穏な声が聞こえてきた。――如何いかにも粗野ながなり声だ。

 およそ想像がつきそうな現場。

 こういう場合、いつもの仁也なら厄介事を避けるための機転を巡らす。

 だというのに、その時はふらふらと流されるよう、特に進路も変えずその路地へ足を向けていた。


 案の定、路地では5,6人の人だかりができていた。


 まるで典型的といえるような服装の若者達が、一人の背広姿の人間を取り囲んでいる。

 どう見てもそのサラリーマンはもう地面にうずくまるようにして身を丸めているというに、その若者達の内の一人が喚き散らしながら執拗にその体を蹴り続けている。周りの連中はそれをさも面白可笑しそうにはやし立てているだけで、止めるつもりはないらしい。


 酔ったリーマンが喧嘩でも吹っ掛けたのか、それとも若者グループのただのカツアゲか。

 どちらにせよ、度を越えて熱くなってしまっている。


 無鉄砲な駿ならばいざ知らず、いつもの仁也ならばすぐさま警察に駆け込む場面。

 金持ち喧嘩せずが信条で、無駄な争い事など馬鹿のやる事と彼は普段から豪語していた。


 だが――

 その時はどうしてか、まるで光に誘き寄せれる羽虫のように、何かを期待する面持ちで近付いていった。


 その異様な風体と体格の仁也に、若者達がすぐにも気が付いて色めき立つ。


 はじめ、全員がその姿に呆気に取られたが、次第と笑いの渦が巻くようになった。


「なんだコイツ、バカか!」

「何、おにーさん? すっげーオシャレじゃん? ――どこで買ったのその服?」

「マジで笑えんだけど」


 年齢はみな仁也と同じくらいか少し下だろうか。もっとも、相手側は仁也を同年代とは捉えないだろう。


「なんだよテメェ――コラァ!?」


 先程までリーマンを蹴り続けていた一人の少年が、興奮冷めやらぬていで仁也に喰ってかかった。

 頭にり込みが入っており、眉も剃って落としているらしい。

 頬エラが張っていて随分と小さな目を精一杯に険しく寄せてガンを飛ばしていた。


 その目線を受けて、仁也はあろう事か微笑んだ。


「――あァ?! 何か可笑しいかよオイ!! なめてんのかッ!?」


 背丈は仁也の顎元までだ。がなり声で首を突き出し、上空にあるその仁也の顔を目一杯ににらんでいる。


 その時、仁也は必死で考えていた――

 どうすればいいのかと。

 どうすれば、この目の前の相手の肉体を徹底的に破壊しても許されるのだろうかと。


 それは、有り得ない話だった。


 決して仁也は、相手が誰であろうと他人に本気で暴力を振るわない。冗談で済まないような怪我を負わせる行為を良しとしない。

 それは自身のおぞましい性的嗜好を抑える為。――と同時に、彼は本来、聡明というよりは臆病な筈だったのだ。


 だが今、仁也はどうすれば目の前の人間を命に関わるような状態まで追い込んでも、自身が社会的に破滅しないで済むのかを考えている。


 それはもう、仁也という一つの人格の破綻だ。


「何とか言えやテメェッ!! ぶっ殺すぞッ!?」


 癇癪かんしゃくをおこしたように少年が一方的に唾を飛ばす。

 しかし仁也はその少年を惜しむように、あるいは慈しみさえ宿した温和な顔で変わらずに微笑みかけていた。


 内なる期待に胸を膨らますよう、どうしたらいいのだろうと考えあぐねている。


 そのあまりの異様さに、少年達の品の悪い声が次第としぼんでいく。

 横目で目配せし合い、先程までの余裕を無くしていた。


「喧嘩売ってんのかって訊いてんだよ――おいッ?!」


 唯一、目の前の坊主頭だけが激昂げっこうしたままだ。

 いや、彼の矜持きょうじとして、ここで少しでも怯えている事を表に出すのが恥ずかしいのだろう。

 それ故、必要以上に強い態度に出ているのだ。


 本当に相手の事を格下と見ているなら、何も声を荒げる必要などない。自分が下に見られるのが嫌で、こういう手合いは必死で大きな声を出す。

 それが、無性に仁也には微笑ましいのだった。


「いい加減にしろやテメェ!! 本気でブッ殺されてぇかよ?!」


 その時、目の前の坊主頭がズボンの後ろポケットから何かを素早く引き抜いた。街灯の光に鋭く反射した銀色があった。

 気付いた時、彼は折り畳み式ナイフをその手にしていた。

 おそらく不敵に笑う仁也と、その異常な体格に気後れしそうになったのだろう。最後の気概として残しておいた切り札を抜いてしまったのだ。


 刃先を仁也の剥き出しの腹に突きつける様に、下から斜めにかたむけた顔で凄んできた。


 その瞬間――

 仁也の口角がさらに吊り上がる。


「刺せよ」


 ゆっくりとした口調で、含み聞かせるよう仁也は言った。


「あァ?! ほざくな、強がり言ってんじゃねェぞ!」

「いいから刺せよ、ほら」

「……調子こくのも大概にしろよ、オイ!!」

「早くしろって。腹でもどこでも好きなとこ刺せよ」

「な、何言ってんだテメェ……!」


「ほら、こうすんだよ」


 そう言った仁也がまるで優しく手引きをしてやるかのように、相手の握ったナイフをその掌ごと上から掴んで自分のむき出しの腹へと力一杯に引き込んだ。


 ぶっつ――という、皮膚と肉を貫く音が路地に木霊した。


「う、うわあっ!! マジかコイツ?!」

「――キチガイかよ!!」


 悲鳴がどよめくように周りを囲んだ若者達に広がった。


 だが次の瞬間に、車の衝突事故のような重苦しい音を聞いた気がして、みな一様に虚をかれた面持ちでその光景を見ていた。


 仁也に突っ掛かっていた少年の姿が消えている。

 その仁也の体が沈むように低い。身体そのものを横に傾けたように――軽く膝の曲がった右足を高々と上に、左足は地に着けて、後ろを振り返ったような体勢で、頭が地面を擦りそうなほど上半身は下がっている。


 間を置いて、空から少年が


 どちゃりとしたむごたらしい音をその場に響かせ、意識の無い目が虚空を見据えた状態で、――そうして地面に大の字に倒れている。

 服の上から、その腹腔がクレーターの様にへこんでいるのが判った。


 唖然として声を出す者が誰もいない中、脇腹にナイフを生やしたままの仁也が体勢をゆっくりと元に戻す。


 そして、至極嬉しそうに声を張る。


「お前らも、なんか凶器を持てよ」


 上下の歯を剥き出した、好色そうな笑みを浮かべて。






















 繁華街を逃げる様に走り抜けて――実際に逃げていた――、仁也は住宅街の外れにある自宅の前まで息き切って辿たどり着いた。


 荒い呼吸を整えるように、わき腹に手をやった仁也が驚愕する。


 横っ腹にナイフが刺さったままなのだ。

 今の今まで痛みなど感じていなかった。


 それをどうすべきか迷う。

 深々と刺さっているそれを無闇に引き抜いたりしたら、出血多量で死んでしまうかもしれない。

 だが同時に、そんな些細ささいな事で死ぬ自分ではないという根拠のない自信にあふれていた。

 ――勿論その傷は些細な事などでは済まない。



 仁也は先程の路地での場面を思い返す。

 血気にはやったというよりは、恐怖に後押しされた風に若者達は手に得物を携えて襲い掛かってきた。

 鉄パイプのようなもので頭を数発殴られたと思う。


 その後だ――


 一人を、膝頭をを蹴り砕いてから拳で顎の骨を打ち砕いた。

 がくんと糸の切れた人形のように、人間の身体がああも見事に意識を失うのは感動的だ。倒れた際、血と粘液に混じって砕けた歯が口蓋から流れ出る様にも惹かれるものがある。


 一人を、鼻孔に指を無理矢理に捩じ込んだ状態から投げ落とした。

 鼻の奥まで一指を突っ込んだ時の、あの凄絶な叫び声が耳を離れない。人間にあんな声が出せるのかと震えた。指先のあの感触は脳幹の一部だったろうか。そのまますぐにも頭を地面に叩きつけてしまったのが悔やまれる。


 一人を、首相撲からの膝で顔面をぐちゃぐちゃにした。

 とうに意識を失っていながらも執拗に顔面整形を施してやった。意識が回復した彼が、自分の顔を見たらどんな感想を抱くだろうか。しばらくは口も使えず、流動食の日々を送る事だろう。


 一人を、足首を斜めにした金的で思い切り蹴り上げて片方の睾丸を間違いなく潰した。

 聞いていた通り、睾丸を潰されると射精するというのは本当だった。ただの射精ではない。血液と砕かれた睾丸の一部が尿道から噴出するのだ。真っ赤に染まる彼のズボンのその色柄は、得も言われぬ感慨があった。


 瞬く間に4人の少年を瀕死のきわに追いやった。

 残った1人が悲鳴も上げれずに腰を抜かし失禁している様を見て、思いがけず自分のやった事の恐ろしさが呼び起こされた。


 そうして脇目も振らずに逃げてきた。



 一体、自分はどうしてしまったのか。



 否定のしようもなく、あの時自分はその行為を楽しんでいた。

 自らの鍛えこまれた肉体と培われた技術を惜し気もなく駆使して、相手を徹底的に破壊する喜びに没頭していた。


 あれでは弱いもの虐めではいか。

 自分は強くなりたくて一心不乱に身体を鍛えていた。しかしそれは強さを誇示したいが為ではない。

 誰かを――そう、由希を守るためのものだった筈だ。


 そうだ、由希だ。


 今はこらえ様もないほどに彼女に逢いたい。

 逢ってその身体に触れたい。

 その華奢な肩を思い切り抱きしめたい。驚く彼女の頬に口づけをしたい。その細い首を――そのひと息でし折れてしまいそうな首を――その首を――その首を――その首を――


 びくりと、自分自身の奥底に宿ったくらい欲求に脅かされる様に体をすくめた。


 今、自分は何を考えていたのか。

 今、自分はとんでもなく恐ろしい事を際限無く思い悩んでいた気がする。


 また息が荒くなった。

 

 もういい――

 もう何も考えず、ただ由希の許へ帰ろう。

 また膝枕をして欲しい。そして、その優しい膝の上で今日あった事を全て忘れ去ってしまいたい。


 それだけを念頭に置くようにして、門を開けて、家の敷地を跨いだ。


 その時、灯りの消えた真っ黒な庭に何かがいるのに勘付く。

 瞬間、脳裏に覚えのあるあの大きな黒い影がそこに居る気がして、仁也は素早く身構えた。



 だがそこからは、想定していたものよりも随分と小さな影が進み出てくる。


「お前……!?」


 そこに居たのは、ふわふわとした毛並みの柴犬の子供。

 あの頭の中の声の主であり、広場で詩帆に抱きかかえられていたあの子犬だった。


「――おい、どうなってんだよ!? 奴等は一体どうなったんだ?!」


 庭にお座りの状態で固まった相手に駆け寄って、その身体を抱え上げた。


「なあ、おい! あいつ等はどこに消えたんだよ!? まだ山ん中に潜んでるのか?!」


〈奴等がどこに居るか、知りたいか〉


 あの声が仁也の脳内に、また明瞭に響き渡る。


「当たり前だ! それで、奴等は?」


〈ならば左を向いて、覗いてみるがいい〉


「左? そこは家だろ……――っ!?」


 仁也がそこまで言って、声にならない悲鳴を上げた。


 自宅のリビングに通じてるガラス戸に確かに奴等が映っている。

 いいや、正確には奴等ではない。そこに居るのは一体だけなのだから。


 そいつは子犬を掲げてガラスの方を見遣っていた。


 だが呼吸を再開した次の瞬間には、そこにはやはり自分が映っている。

 子犬を掲げ、恐怖に引きった顔でガラスをにらんでいるのだ。


〈言った筈だ。奴等はお前の半身、お前の影だと〉


「……なんだってんだよ……」


 茫然自失と、ただ仁也は見開いたまなこでガラス戸に映った自分から目が離せない。


 そんな彼に構わず、頭の中の声は淡々とささやき掛けてきた。


〈彼方の昔、力を求めた一族があった。この霊験あらたかな地に根付き、幾年も歳月をかけて禁忌の術を完成させた一族〉


「禁忌の……術?」


〈その一族は自らの血脈を媒体にして、代を重ねる毎に大きな力を手にしようとした。この地に宿る力を一度に吸収する事はできない。人の肉体という器は、それほど強靭には出来ていない。だからこの地に根付き、徐々に力を我が物としていった。それと同時に、呪いをその内に宿していった。未来永劫えいごう晴れる事のない苦しみを代価としする呪いをな〉


 上手く回らない頭で、それでも仁也は事の真相を語るこの奇妙な存在に必死で傾注する。


〈代々その家系には一人の男児しか育たなかった。いや、そうさせたのだ。その男児に過去より連なる一族の大願――即ち土地の力を脈々と受け継がせた。だが、力を受け継ぐのはたった一人。それ以外の子供は、生まれたと同時に代価として捧げられた〉


「捧げられた……? 誰に?」


〈この土地そのものにだ。そうすれば残った一族の者は、この土地を司る神々のその怒りから逃れられるとでも信じていたのだろう。だが、実際は違った。呪いとは即ち、その打ち捨てられた子供達のものだった。いつしかその恨みに濁った魂が獣の姿を借りて、そして一族の中から赤子として顕現し始めた〉


「なんで、そんな事が……」


〈怨みだからであろう。生まれて間もなくくびられていった幾多の怨念だからこその。しかし一族は、それ故にさらに赤子を奉るようになったのだ。生まれてくる人ならざる者をもすら、一族は“力”の象徴とでも思ったか〉


「言い伝えとは、まるで違う話だな……」


〈人から人へ伝わるものを完全に遮る事など出来ぬ。しかし、それらを有象無象に紛れさせてしまう事は可能だ。似たような虚譚きょたんを並べ立てる事で、真実を覆ってしまう事は出来る。そうして誤魔化す事はな〉


「木を隠すには森って訳か。それでつまり、その一族は犠牲にしてきた他の兄弟達にたたられたってオチか」


〈そうだ。長い歳月それらの行為を続けていく内に、呪いの影響は力あるその一族を凌駕りょうがするまでに至った。もう取り返しの付かない事態におちいっていた。生まれてくる赤子に、もはやまともな姿形の者は存在しないまでに至ったのだからな。そこでようやく己達の過ちに気付き、一族は力を放棄し、ただただ犠牲にしてきた何百の兄弟達の供養を図ったのだ〉


「供養って……それで、おさまったのか?」


〈長い年月を懸けてだ。一族はまずこの地に四方陣の結界を張り、まがつ者どものその顕現を抑制した。そうして暫時ざんじの対処を済ませ、力を脈々と受け継いで増幅させたのとは反対に、今度は呪いを代々に受け継がせ、その悠久なる時の恩恵により呪いを浄化しようとした〉


「なら、もう呪いは消えたんだよな?」


〈私もそう思いたかった〉


「………」


〈長きを経て、お前の一族は“力”をいっした。同時に魔を絶つあらゆる方術の類も次第と手放してしまった。故に、今のお前たちは私を使役するすべを持たぬ。だから今の私は、このような不完全な形でしかお前達の前に姿を現せぬ。直接に、手を貸してやる事も出来ぬのだ。だというのに、その“禁忌の力”が再臨さいりんした。かすかな片鱗を――それでも奴らは目敏めざとく嗅ぎ付けたのだ。お前という”器”の大成を狙って、準備を整えていたのだろう〉


「……力って何なんだよ?! 俺はそんなもん持っていやしない!」


〈否、お前は紛れもなく逸した筈のその”力”を持って生まれた。しかし、お前やその一族が事を理解できぬは無理からぬ話だ。あらゆる知識を忌むべき記憶と共に捨て去っていたのだから。く言う我らとて、事ここに至るまで気付けなんだ》


「何だよ、その話は――」


〈呪いは、長き時を経て浄化された筈だった。だがお前は生まれ、その”器”としての役目を完遂させ得たのだ〉


「全部俺のせいだって言うのか?!」


〈何とも言えぬ所だ。お前の存在が引きがねではある。しかし、お前という人間に責任がある訳ではない。しくは始めから、この方法では不完全だったのか。奴等はこの地に捧げられし者。故に土地そのものに結界を張り、その旺盛おうせいを削いだ。だが、お前は奴等と接触を果たした。四方陣の影響を受け付けぬ形で、幾百年ぶりにこの地へ奴等を導いてしまった〉


「導いたって……」


〈そうだ。今も此処ここにいるではないか、お前という形を成して此処にな〉


「――そんな馬鹿なっ!?」


〈光なくして闇は生まれぬ。奴等は、お前という巨大な篝火かがりびをずっと待ち望んでいたのだろう〉


「……どうすればいい?」


〈どうしようも出来ぬ。呪いは見事に完遂された。お前の血の中に、今もそうして宿っている〉


「手立てはほんとに無いのかよ!?」


〈無い。呪いはお前の力と一緒に渾然こんぜん一体と混ざり合った。ある意味で、一族の大願たいがんをお前が成就させたと言っていい〉


「成就って……」


〈お前は自身が望む通りに、己の野望を果たし、願望を叶える。――その血に飢えた欲望をな〉


「そんな……ふざけた話が……!」


〈先程お前が自身の思うがままに少年達の肉体を破壊したように、お前は欲望を強くする分、その力をも強くする素質を持っている。或いはそれこそが、奴等の呪いなのか〉


「……」


〈奴等もまたお前の一族だという事だ。切り離され、打ち捨てられた彼等は、本当は一つになりたかったのではなかろうか。この地の力を得て、思うがままに権勢を振るっていた一族を本当は羨んでいたのかもしれぬ。元は同じ血だ、一つとなり自分達もその欲望を満たしたいのだろう〉 


「欲望を……“満たせ”か……」


〈今はまだ眠っているに近いが、この先お前は――その内なる力を解放し始めるだろう〉


「そうなると、俺はどうなる?」


〈どうとでも、お前の思うが侭だ。好きなものを喰らい、好きなものを犯し、好きなものを好きなだけ破壊する。そういう存在に、既にお前はなっているのだ〉


「そんな話、……あるかよっ……」


〈いずれは明らかとなる。もはや、我等がしてやれる事など一つとて無い〉


「まっ、待てよ……!」


〈我らが遠き血盟の主よ、らば。このような結末になるとは、……無念だ〉


「おい!! おい――待てってば!?」


 頭の中の声が消えた。

 同時にそれまで微動だにしなかった子犬が、仁也の腕の中で激しく身をよじっている。

 そして嫌がるように甲高い鳴き声を発したと思うと、じたばたと四肢を動かし、仁也の腕から無理矢理にでも逃れようとしている。


「お、おい……」


 危なげなその動作に、掲げた腕を思わず地面近くに降ろすと、子犬は脱兎だっとのごとく腕から逃れる。

 そうして、庭の生垣の合間から外へと抜け出していった。


 その様子を力無く見送った仁也。

 おそらくもう、あの子犬はただの子犬でしかない。



 思わずその場に座り込む。



 すると、家のリビングの明かりが矢庭やにわに灯った。

 カーテンの開く音とガラリとした戸の音。


 緩慢に首を動かして見上げた先、戸口にいつもの寝巻き姿の由希が目を丸くして佇んでいる。

 どうやら物音に気付いて起きだしてきたらしい。


「兄さん――!?」

「由希……」


 ひどく懐かしく思えるその顔を見た時、仁也はどっと全身の力が抜けた。


「――兄さんっ!! 一体全体どうしたって言うんですか!? こんな時間まで連絡も寄越さないで!! 電話は繋がらないわ! おじいちゃんの家にまで連絡までしたんですよ!? おまけに、駿くんや詩帆ちゃんは何だか妙な顔して兄さんを訪ねてくるし!」


 さっきまで目を丸くしていた由希が、あのいつもの取り澄ましたおかんむりの表情になっている。

 今回のそれはかなりの度合いらしく、角でも生えていそうな剣幕だった。


「駿と詩帆、無事だったのか……」

「そりゃ――って、無事ってどういう事です? なんだか二人とも様子がおかしくて、何があったのか訊ねてみても顔を見合わせて言葉を濁す感じで……もう! 本当に何なんですかっ!?」


「そうか、無事か」


 仁也は疲れ果てたという風に、ほとんど這うようにして暗がりから明るい庭先まで身を寄せた。

 途端に由希が鋭く息を呑み込んだ。

 両手で口元を覆うようにしたその隙間から、短い悲鳴が漏れ出る。


「どうしたって言うんです!? その怪我!! ――それにその恰好も!?」


 由希が驚倒きょうとうしそうになるのも頷ける程、その明かりの下に出てきた仁也の姿はひどいものであった。

 服がほぼ原型を留めていないのもさる事ながら、その顔面には額の上から幾条もの乾いた血の線をひいているなど、殴られたあざや血痕などが生々しく残っていた。


「――に、兄さんそれっ?! なな、何を生やしてるんですか!?」


 あまりの事に気が動転し過ぎて、定まらない指先で仁也の脇腹を示している由希。


「あぁ……、何でもない」


 そう力無く笑った仁也が、本当に何事もないかのように、おもむろにその腹に刺さったナイフに手を掛け――

 無造作にそれを引き抜くのだ。

 どぷりと押し止められていた血液が噴出する。またも鋭い悲鳴が由希の口から発せられた。


「――は、早く手当てを!!」

「いいんだ、由希」


 今にも駆け出そうとする由希の手を取って、それを止める。


「だ、だって兄さん!! その傷?!」

「いいから。ほら、もう血は止まった」


「え……?」


 仁也がまるで無感動にそう述べた通り、その傷口からの出血は止まっている。

 手当ても何もしていない上、どう見ても勝手に血が止まるような怪我には見えなかった筈なのに。


「なあ、由希、今は近くに――」


 縁側に腰を降ろした仁也は掴んだ腕を引き寄せて、その細身を自身のすぐ側に置くようにいざなったのだ。


「ちょっと、どうしたんですか」

「頼むから、今はすぐ近くに居て欲しい」

「兄さん……?」


 仁也は戸惑う由希をさらに引き寄せた。

 その背中に片腕を回して、華奢きゃしゃな肩に頭を預ける。

 上擦った声を漏らした由希が驚きを隠せずという風に身動みじろぎをするが、仁也は構わずに彼女を抱きすくめたのだった。


「に、兄さんってば! もう、何するんですか……」


 由希が抗議の声を上げるが、だんだんとそれは小さくすぼまっていった。


「今はこうしていたいんだ」

「お、おかしいですよ……今日は……」


 柔らかいあの匂いがする、由希の匂いだ。

 彼女その繊細に流れるような髪に触れて、その頭を撫でた。

 くすぐったいような吐息がすぐそばから聞こえる。


 いつの頃からか、そういう風に触れ合うのを自分から抑えていた。


 子供の時分ならば、何も気兼ねなどなかったのだろう。

 しかし今の彼らは、触れ合う事でより確信に近くなるその感情を恐れたのだ。

 二人ともがそういう空気を自ずから作り上げていた。

 成長した彼らには、それ以上の解決策など見つからなかったから。


 そういう行為が、家族としてのものだと割り切れない程、彼ら自身の胸の内に一つの強く輝く想いがある。

 それは今こうしている間にも、二人の生の感情を眩く照りつける。


 仁也は思い起こしていた。

 いつからこの少女の存在が、自分にとってここまで大きなものとなったのかを。


 始めはそれこそ、義務感――あるいは罪悪感からだった気がする。


 あの日、死の境までに追い詰めてしまった自分のその悪行を戒めるという気概から、その少女を守ろうと、幸せにしようと、幼いながら精一杯にそう悩み考えた。


 けれど彼女を家族として迎え入れてからの十年以上の時間が、また別の感情を芽生えさせた。


 その少女の優しさ――

 彼女は切ないまでに自身を置き去りにして、周りの人間をかえりみてしまう。誰かの悲しみは分かち合おうとはする癖に、自身の悲しみは独りで背負い込んでしまう。誰に対しても気遣いを向けてしまう、そんな優等生で八方美人。

 あるいはそんな性格は、彼女のその悲惨な過去に由来しているのだろう。

 直ぐ側で見てきた仁也には解っていた。――自分が傷つけたその過去がそうさせているのだと。


 そんな彼女が歯痒くて、その背負った全てに押し潰されぬよう、自分だけは彼女を支えてやれる存在になりたいと思っていた。


 いつしかその思いが、もっと明確に彼女の傍らに在りたいという願いへと変わっていた。


 そう、紛れも無く仁也は由希の事を想い煩っている。


「兄さん、ほんとに平気なんですか……?」

「ああ。何ともないよ」

「でも、そうは言ったって……」


 心配で堪らないというその胸の内を絞りだすような声が耳元でする。

 その声が――

 吐息が――

 脳の一部を麻痺させるよう、次第と抱きしめる仁也のその腕に力をこめていく。


「……く、苦しいですってば……」

 

 由希をもっと近くに感じたい。

 もっとはっきりと感じたい。

 直接手で触れて感じたい。

 ――そういう諸々の感情のが、行き場がないように体の内を駆け巡る。


 ゆっくりと仁也は由希の肩から顔を上げた。

 直ぐ近く、吐息と吐息が触れ合うほどの距離に由希の顔がある。


 あまりの――そして突然の事に、困惑するようにその瞳は大きく開かれていた。

 しかしそれを見つめる仁也の瞳には冗談の欠片もなく、熱のこもった輝きを帯びている。


 ここに来て、由希がまた大きく息を呑んだ。

 仁也のその瞳の奥の隠しきれない何事かに、ようやくここで勘付いたように。


 それでも由希の瞳は当惑の色を変えない。

 しかし、その奥の奥には、また違った想いが宿っているのが読み取れる。


 その瞳はまるで仁也に問いかけているかのようだ。

 これまで覆い隠してきたその感情を、今ここで全てさらけ出してしまうの――と。

 溜め込んできた想いの詰まったその容器を倒し、その全てを打ち撒けてしまうの――と。

 演じる様にして誤魔化してきたこれまでの日々を、全て無駄にしてしまうの――と。

 その由希の潤んだ瞳が仁也に切ないまでに問いかけていた。



 今そこに、仁也の求めていたものがある。



 その間近の距離に、叶う事を諦めていたものがある。

 今まで躊躇ためらっていた、そのごくわずかな境界の先に確かにあるのだ。


 少しの怯えと、少しの期待が織り交ざって濡れた瞳。

 上気するように朱が差した白い頬。

 可愛らしい小さな唇は精一杯に結ばれている。

 細く華奢なその喉が微かに震えている。


 本当に――

 今以上を望む事は値しないのだろうか。


 この関係を打ち壊してでも、先に進む事はいけないのだろうか。

 押し止め過ぎて絡まったこれらの想いを、どうして吐き出す事が罪となるのだろうか。

 たとえ失う物があれど、それを取り戻せなくなると誰に言えようか。


 何を恐れる?

 何を迷う?

 これ以上どうして決断を先延ばしにする? 


 答えは始めから知っている。


 触れたいと思ったその時に触れればいい。

 抱きしめたいと思ったその時に抱きしめればいい。


 そう、彼女を愛しているのだ。

 たまらなく愛おしく感じているのだ。


 由希の心も体も、その全てが欲しい。独り占めにしたい。


 その肌に触れたい。

 その声をもっと耳元で聴きたい。

 その吐息を密着した距離で感じたい。

 その細い体を四六時中抱きしめていたい。


 あまりに多くを背負い込むにもかかわらず、まるで頼りないその細身を思い切り抱き締めたい。

 無理ばかりをして、いつ壊れてしまうのかと心配をさせるその華奢な細身を、いっそ自分で壊してしまう程に強く抱き締めたい。


 その唇に口づけをしたい。

 その涙で濡れてばかりの頬にも口づけをしたい。

 そのまだ幼いような薄い胸にも口づけて、どんな声を上げるのかを知りたい。

 その体を余すところなく知りたい、あらわとなったその全身に唇を這わせたい。


 そのか弱げな肢体のなんと繊細で儚げな事か。

 両腕で容易く引き千切れそうなその四肢のなんと脆くやわな事か。

 一捻りで圧し折れそうなその枝のようにか細い首のなんと麗しく艶めかしい事か。



「……あ……がっ……――!!」



 普段のあの鼻に掛かったような愛らしい声が、その握り潰されかけた喉元のせいでひしげるように形を変えて発せられている――

 そのなんとたえなる甘美な響きか。


 さっきまでまるで幸福に感じ入るように濡れていた愛らしい瞳が、突如としてもたらされた驚愕と恐怖によって色を歪める――

 そのなんと背徳的なまでに可憐なざまか。


 もうひと息、腕に力を込めるだけで、容易く愛おしく掛け替えのない存在を壊してしまえるというその得も言われぬ感覚――

 破滅的に逆行するその多幸感――

 それらが極上の快楽となり、その腕から伝わる僅かな感触を以ってして全ての嗜好に勝る絶頂感を生みだしていた。


 仁也のその身体は今、喜びに打ち震えていた。


 その肉体は今、皮膚が張り裂け、骨を圧し潰さんばかりの膨張した筋肉が覆っている。

 眼球の毛細血管がことごとく破裂したように赤黒く染まっていく。

 全身から黒く針のような剛毛が生えだしていく。

 上下の犬歯が太く伸びながら顎そのものが前方へとせり出ていく。

 手足の指の爪が長く鋭く尖っていく。


 その太くおぞましい片腕が、今もそうして由希のか細い首を握り潰さんと捕えていた。


 悲鳴すら上げれない由希のその瞳がさらに恐怖で色を塗り重ねていく。一体何が起こっているのか、彼女にはそれを想像する余地すらもなかった。


 仁也はその由希の表情を赤く染まった眼でさも愛おしげに眺めている。狂おしいほどの面持ちでその一挙一動を見守っている。


 怪物と成り果てて尚、――いや、その姿こそ今は本来のものであろうか――仁也はその恋慕れんぼの情はまるで変わらない。

 ただしその手法のみがいびつこの上なく変性していて、彼は今その最も幸福を得る手段を行使しようとしていた。


 それも一気にではなく、その幸せを噛み締めるように緩やかにだ。


 自身の手から伝わる愛する者の命ある暖かさ、そして耐え切れない恐怖の念。

 嗚呼ああ、この感慨をなんと呼び表すべきか。


 愛しい少女――

 いつも気丈に振舞っているいたいけなその少女。


 生真面目で恥ずかしがりやで、怒りっぽくて涙もろくて、無理ばかりをしていつも心配をかけるそんな少女だ。


 そんな彼女が怯えている。

 訳も分からない状況にただ怯えすくんでいる。


 もう少し、もう少しだ――。あとほんの僅かでも力を込めれば、容易くその首を圧し折れる事だろう。


 その恐怖にどうする事もできず、見開いた眼で助けをうように震えている。

 凄絶なまでに可憐な、なんという表情だろう。


 首の骨をし折ってしまうのが先か、気道が封じられ窒息するのが先か。

 背筋がそそけ立つ。ぞわぞわとほとばしるような、快感の波が脳髄を揺さぶって掻き乱す。


 あの愛らしい少女が、あの痛ましいまでに心優しい少女が、自分の手の内でもう直ぐ絶命するのだ。

 自分が彼女を壊してしまえるのだ。

 なんと官能的で甘やかなのだろうか。


 脳裏に思い起こされるは少女との記憶。


 そうだった。

 あの日、あの時こそが、最も尊い思い出の1ページだ。


 少女が自分のせいで屋敷を自ら後にし、森で生死の境を彷徨さまよい、そして辛くも一命を取り留めて屋敷に戻ってきたあの日だ。

 小さいながら自分の犯してしまった間違いにおくして、少女と顔を合わす事もできなかった。

 だというのにあの時、少女は自分に謝罪をしに来た。

 

 自分と母親の部屋に知らずに勝手に入ってしまった事。

 いきなり自分のような者が図々しくもこの屋敷に招かれた事。

 了承もなしに家族の一員と紹介された事。


 そして言ったのだ。

 「お母さんとの大事な思い出の場所を汚してごめんなさい」――と。


 どうしてそんな事をと戸惑った。

 なんであんな目にまで遭ったというのに、まるで意に介してないような、そんな純粋無垢な言葉で謝れるのか。

 少女は自分が大好きな母を亡くした事について、思い遣ってくれたのだ。

 自分は他人にそんな感情を僅かでも示した事などなかったというのに。


 少なくとも彼女は、大切な家族を一度に全て亡くし、頼れる人間もなく、まるで知らない場所に連れて来られた。


 にも拘わらず、何故そんなにも他人を尊重できるのだろうか。


 いや、彼女はそういう人間だった。

 自分よりも年下だというのに、彼女はきちんと人の痛みを理解できていたのだ。


 そうだ、だから自分は思ったのだ。


 この少女を守ろうと。

 この少女を笑顔にしようと。

 そしてどんな哀しみも彼女を害する事ないように、自分が必ずその笑顔を守ろうと。

 この先、全てをしてでも彼女が幸せになる未来を必死で守り抜こうと。



 あの日、あの瞬間に、そう固く誓った。





 ――その少女は一体誰だ?――





 その少女は、あの日、自分が迎え入れた新たな家族だ。





 ――お前の目の前にいるその少女は誰だ?――





 その少女は、大切な妹であり、そして今はそれ以上に想っている相手だ。





 ――お前がその手にかけようとしているその少女は誰だ?――





 その少女は、まどろっこしい感情を上手く処理し切れず、けれども愛していると胸を張って言える人だ。





 ――お前が今そうやって捻り殺そうとしているその少女は誰なんだ?――





 その少女は、愛される事、甘やかされる事しか知らなかった自分に、本当の意味での人を想うという事を教えてくれた唯一無二の人だ。





 ――その少女は誰なんだ!?――





 その少女は、由希だ。

 今自分がもてあそびながらなぶりり殺そうとしているのは、紛れも無くその由希だった。







「――かはっ!! ――ごほっ……!」


 潰れかけていた気道に急激に空気が押し込まれ、痛々しい咳が鳴っている。

 その見開いた由希の瞳に、掌を彼女に向けるようにかざして後退していく黒々とした化け物が映っていた。


「はぁっ……はっ……。に、兄……さん……?」 


 強張った怯えの色合いはまだ拭えないが、その瞳には何かを必死で探ろうとする意思が有った。

 由希は後ずさる黒い影を追うように、立ち上がっていた。


 庭の端まで後退した黒い化け物は激しい身震いを抑えるように、自分の両腕を身体に回す。左腕を右の脇腹、右腕を左肩の後ろへ。そこに思い切り鋭く尖った自身の爪を突き立てた。

 次の瞬間、耳をつんざく咆哮と共に、その交差させた両腕を勢いよく外側へと引き抜いた。自分の刃物のような爪で、その胸を抉って交わる複数の線を描いたのだ。

 噴出す血しぶきが辺りに血雨となって降り注ぐ。


 悲鳴を上げる事すら忘れてその光景を見入っていた由希。


 すると眼前で、ゆっくりと黒い化け物だったその影が姿をうつろわせていく。


 気付いた時――

 その場には、胸部の深々とした傷痕から酷い出血をしている仁也が、膝を付いて夜空を仰いでいた。


「兄さん!?」


 素足のまま庭へと飛び出し、覚束無い足取りで――それでも勢いのまま駆け付ける様に、由希は仁也のその許に身を伏せった。


「兄さん!? ――兄さんっ!!」


 その由希の悲痛な叫びに、まだ焦点の定まらない目を――しかし、不安で張り裂かれんばかりのその瞳へと向け直した。


「何だっけか……ああ、そっか。――ただいま由希」


 寝ぼけているような顔で言って、自分の発言を確認するよう頷いた。


「一体何がっ……訳が分かりませんよ!? ――どうしちゃったんですかっ?!」


「なにがって……あれだよほら、男は狼だとか言うだろ? 青い春を持て余しすぎると……一時、健全な男子高校生は前後の見境のつかないクリーチャーへと変貌してしまうのだ。良くある話で……そういう時はな由希、見て見ぬフリをしてやるのが優しさだぞ……?」


「何を……――何を馬鹿みたいな事言ってるんですっ!?」


 まだ混乱から立ち直れていないらしい由希が叫ぶ。

 言葉尻が上擦り、視点がせわしなく彷徨っている。


 しかし仁也のその顔はまだどこか力無くとも、いつものあの飄々ひょうひょうとした軽薄な調子に立ち返っていた。


 由希は、まだ止めなく暗褐色の血を垂れ流す仁也のその傷を諸手で押さえるようにして、必死で止血を試みている。

 だがそのか細い手には有り余る大きさの傷だった。

 張り付くようにその身を寄せても傷痕を全ては覆えない。


「お気に入りのパジャマ、汚れてるぞ」

「そんな事どうでもいいですっ!! 本当にもう――馬鹿ですか!?」


 由希が泣いていた。

 あの日から、もう彼女を哀しませないと固く誓った筈なのに、いつもその誓いを破ってばかりだ。

 そんな自分が情けなくてどうしようもない。


 その深手を前に手立ても思いつかず、ただ平静さを失い周章しゅうしょうしている由希を仁也はそっと引き寄せた。

 柔らかなその髪質が頬をくすぐる。


「心配ない……心配ないって。あの日、約束を交わしたろ? どんな場面でも、俺が必ずそばに居て、お前の幸せを守るって。お前を、守るって約束したんだ。俺は変わらない……変わりなどするものか――」


 自分の右肩に由希の息遣いを感じる。

 なめらかな髪の合間に指を差して、白く柔なうなじに優しく手を遣った。その首筋には真新しいあざが出来ている。

 本当に、自分は何をやっているのかと、心底不甲斐ない気持ちだった。



「……なあ、聴いて欲しい事があるんだ」



 気恥ずかしげな余韻を誤魔化すように、仁也が声を絞る。



「こんな言い方しかできない俺は、卑怯なんだって分かってる。……けどな……」


「……けど?」


 ゆっくりと、由希は肩口から頭を離して仁也の瞳を見つめる。


 吐息も鼓動も、全てが交わるように近付く。

 心音が――互いの鼓動が確かに感じられた。


「由希、お前が大事だ。この世界で誰よりも――何よりも、お前を大切に思っている」


 少女のその潤んだ瞳には、力強くてそして優しいあの微笑が映っていた。

 彼女にとって時折見ることのできるその真摯な微笑は、かけがえのない意味を持っていた。


「……兄さん……」


 まるでその言葉を肯定する様に――始めから知っていたという風に、瞳に湛えられた涙が一度の深い瞬きで頬をまた流れ落ちる。


 仁也はその涙を拭うように、一度だけ少女の頬へキスをした。

 夜空を流れた箒星のように、束の間の輝きのその内に幾つもの纏まりのつかない想いを込めた――

 そういうキスだった。


 それ以上を望むには、この胸の内に引っ掛かって絡まったそんな厄介な全てに明確な決着を付け、そしてそれをきちんと言葉に出来てからだろうと思う。


 今はこれでいい。

 このもどかしい瞬間が嬉しい。



「……あともう一つ、聴いてくれるか? 由希」


「はい……。聴いてますよ、兄さん……」


 収まり切らない思いの丈が吐く息に宿っているよう、由希はか細い声でそう応えた。


「できれば救急車お願い。大至急」


 出血多量によって顔色は蒼白としていて虚ろで、肌がますます冷たくなっている。

 素人目にもかなりやばそうな仁也が、冷や汗を垂らしてそう懇願したのだった。


「へ? ――あっ! そ、そうでした!!」


 ようやくそこに思い立った由希が、今度こそ飛ぶような勢いで家の中に駆け戻っていった。



 その場で、付いた膝から崩れるように仰向けに倒れた仁也。

 胸からの血はまだ流れ続けているが、勢いもなく、血の色も赤黒い。

 傷はそれなりに深い筈だが、分厚い筋肉のおかげで大動脈までには至らずに済んでいる。


 たどたどしい息を吐いて夜空を眺めていた仁也の頭元で、がさりとした物音がした。

 はっとして首を無理に捩じって見遣ると、そこに見覚えにある小さな影あった。



 星明りの下に照らされた、あの柴犬だった。



〈まさかこうなろうとは……。驚かされた〉


 またあの声が脳内に響き渡る。


「どういう……事だ? 奴等は、呪いは消えたのか?」


〈いや、呪いが消える事はない〉


 子犬がまるで無機質に仁也へと近付く。


〈しかし、お前は奴等が幾百年と積み重ね、昏く濁って歪ませていった欲望を――己の意志で捻じ曲げた。お前のその心が奴等にったのだ〉


 頭の中の言葉を呑み込んで、数舜、言葉に詰まるが、直ぐにもそれを吐息と共に吐き出した。


「……でも、奴等は消えたわけじゃないんだな」


〈そうだ。お前自身でさえ気付かぬ精神の奥底に、ほの暗い欲望のその水底に、今なおとして宿っている。それはいつでも顕現されるだろう。しかし、お前はそれをしのいだのだ。何百という怨嗟えんさの念によって生まれたそれを、お前のたった一つの心が打ち破った〉


 一拍、間を空けるようにして、頭の中の声が呟いた。

 ――誇らしい事だ――と。


「こうなる事、知ってたのか」

あるいは、一つの可能性としては。しかしそれは、砂礫されきの中に硝子ガラスを見い出すようなものだった。そんなものを頼みにしていた訳ではなかった。……それでもお前はそのごく僅かな可能性を選び取った〉


 心なしか、その頭の中の声が熱を帯びている気がする。

 もしくは努めて平静を装っている中に、大きな感情の波紋が読み取れるかのように。


「結局、お前は何なんだよ?」


〈言った筈だ。我らはいぬだ。獣でありがら、獣である事を捨てた存在。お前達と共に夜の闇を歩む事を決めた、そういう存在……〉


「なんだそりゃ」


 弱々しく仁也が笑った。

 どこまでも瞭然りょうぜんだった相手のその言葉が、ここに来て初めて疑問を投げ掛けるように色を持ったからだろうか。


 そうして声が続ける。


〈我らが共に歩む事を願ったのは、そう――お前のような人間だ――〉


 その頭の中の声を最後に、目の前の柴犬がふと気が付いたように動き出した。

 まるで、今までぬいぐるみだったそれが生命を得たように、いかにも子犬らしい動作でキョロキョロと辺りを確認する。

 そして、鼻を鳴らして地面を嗅ぎながら、やおらに倒れ伏した仁也の許まで来る。

 手を差し伸べてやると、それを興味深く何度も嗅いだり舐めたりしていた。



 ここに来て、仁也の意識がかすみに包まれたように白み始めた。



 いつしか戻って来ていた由希が、また泣きそうな顔で仁也のその手を取って何事か声を掛けている。

 「大丈夫だ」と声を返してやりたいのだが、口が上手く回らない。

 それでも、仁也は精一杯の頼もしい笑みを浮かべてみせた。


 決してこんな所で終わせるものか。

 約束を――あの誓いを、途中で投げ出したりするものか。


 それらの思いだけで怪我などは癒えてきそうなのだ。



 やがて、遠い彼方から、救急車のサイレンの音が聞こえてくる。


 少しだけ仁也は眠る事にした。




                  






                        【人狼口碑・獣心聖誕編 完】

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