第二幕





 白色電灯の眩しい明かりがまぶたを透かして眼球を突く。それが鬱陶うっとうしく、お陰で意識が次第と冴えてくる。


 温度のある柔らかな感触が頭の後ろにあった。

 視界を取り戻した仁也は、自分を真上から覗き込む濡れそぼったその瞳と視線を重ね合わせる。


「兄さんっ!?」


 聞き慣れた声。

 少し鼻に掛かったような愛らしいその声。

 言葉の端々に含まれる表現し切れない感情、それが吐息となってもれ出るような――そんな声だ。


「……えーっと……どうなってる?」

「もうっ、バカですか!」


 そこでようやく、こぼれ落ちそうなほどに湛えられた瞳の涙を指で拭って、安堵の表情を浮かべた由希。

 背中は冷たいが、頭の後ろにだけ温もりがある。床に大の字に転がっている仁也を由希が膝枕をして介抱しているのだった。


 鼻を啜りながら何度か目元を拭って、由希はその赤い眼で仁也をにらんだ。


「どれだけ心配したと思ってるんですか!? ほんとうに、いきなり倒れるなんて……目を覚まさなかったら、私……どうしようかと……」


 怒っているのだろうが、次第に声が掠れてまた涙声に戻っていく。


「あー、多分、のぼせたんかな」

「何やってるんですかっ! まったくもう……」


 仁也はすぐ間近にある由希のその泣き顔を眺めた。

 白い頬に涙の跡が見て取れた。さすがに心配を掛けたなと、申し訳ない気持ちに陥る。


「……心配させて、悪かったよ」


 その仁也の声に、いつものあの軽薄な調子はなかった。

 太い唇には優しげな笑みが浮かんでいる。それは、時折彼が垣間見せる情愛の篭った真摯な眼差しであった。

 由希はその普段は見せない真剣な眼に気づいたのか、若干の気恥ずかしさを紛らわすかのように、少しずつ顔色を明るいものへと戻した。


「兄さんが倒れるところなんて、初めて見ましたよ……」

「そういや俺も、意識を失くしたのなんて初めてかもな」

「ハンマーで頭叩かれても、失くしそうにありませんもんね」

「そりゃさすがにない。いや、下手したら死ぬわな」


 すぐ近くの、そのおどける様に顔をしかめた仁也を見て、薄く笑みをもらした由希。

 今鳴いたからすがなんとやらだと、軽く嘆息する仁也だった。


「一体俺、どれくらい倒れてたんだ? というか由希――お前身体を冷やすぞ」


 薄い寝巻き姿のままの病弱な妹をこのままにしていてはまずいと、そう起き上がろうとした仁也。

 だが当の本人は首を浮かせたその額を手で押さえて、自分の膝の上に戻す。


「まだダメです。安静にしてないと」

「俺はもう平気だよ。それよりお前が……」

「一度意識を失くした人が、何言ってるんですか。もしかしたら、何か厄介な病気かもしれないんですよ」

「いや、だから俺ならピンピンしてるから――」

「ダメです。兄さん、いつも言ってる事じゃないですか。――『身体の調子が悪い時は意地を張らずに甘えろ』って」


 つんと澄ました顔になった由希が、得意げに眼を伏せっている。

 その光景に、由希の言わんとしてる本音の部分を察し、仁也は情けなく眉根を寄せた。


「お前な……いつも自分が看病される側ばかりで、俺を看病する事態なんてそう無いからって、そんな得意げに」

「兄想いの妹からの、愛ある恩返しです」

「意趣返しの間違いだろ。おもしろがりやがって」

「ほんとに兄さんの身体を心配してるんです。……半分くらいは」

「おいこら」


 緩く握った手を口元に当てて悪戯っぽく笑った由希のその顔を下から眺めながら、こういうのもたまには悪くないかと投げやりに思うのだった。


 しかしそれでも、夜半の空気は冷たい。

 貧血気味の彼女は身体を冷やさせるのが一番の毒だと医者からも言われている。


 仁也はその大きな掌で、由希の肩に手をる。すっと優しく、撫で上げるように。

 柔らかく包み込んだその細い肩から、薄い生地越しに冷えた体温を感じた。


「ほれみろ、こんなに冷えてるじゃないか」

「それじゃあ、一度ちゃんと病院で調べてもらうって約束できますか?」

「面倒くさいが、わかったよ、言う通りにするからさ」

「……やっぱり、まだダメです。もう少し様子を見ます」

「いや、おい。――というかだな、さっきから俺は背中が痛いんだよ。冷たくて硬い床のせいでな。せめて場所だけでも移動させろ」

「兄さんのその馬鹿デカイ図体を私が動かせたとでも?」

「チャレンジぐらいはしてみせろ」

「結果が目に見えてます」

「ともかくもう、せめてすぐそこのソファーんとこに移動するぞ」

「……仕方がありませんね。許可します」

「許可していただいて恐縮の極みでございます――とでも言えばいいのか?」


 ようやくその頭を離した由希から、仁也は無事解放されて起き上がる。


 多少フラつくような感じはあったが、特に重大な症状も見当たらず、立ち上がって思い切り背中を捻って伸ばした。

 むしろ仁也の頭をずっと膝枕していた由希の方が足を痺れさせているようで、立ち上がるのに介抱していた相手の腕を借りる破目となっていた。


 仁也がひざ掛け用の毛布を由希の肩から羽織らせると、彼女はソファーの一番端に腰掛け、ポフポフと得意げに自分の膝を叩く。


「なあ、それ必要か? というかまた痺れて動けなくなるぞ」


 呆れた仁也が肩を下げるも、由希は相変わらずの取り澄まし顔でまた揃えた両膝を叩いていた。


「わーかったよ。どうぞご随意に」


 観念したようにそう吐き捨て、また妹の太腿へと頭を預けるのだった。


 視線を壁の時計に移せば、午前2時を回っている。

 明日は土曜日とはいえ、妹の体調の事を考えればあまり夜更かしはさせたくないのが実情だった。

 そんな由希はといえば楽しそうにしてるのを悟られまいと澄ましているが、仁也の目から見れば底抜けに面白がっているのが丸解りだった。


 その膝の上でなされるがままになっている仁也は、仕方がないので気が済むまで付き合う決心をした。

 なんだかんだ言って、甘えたいのは由希の方だったのだろう。


「聡明な我が妹殿よ、学校には慣れたか?」

「心配に及びませんわ、頓馬とんまな兄上様。兄上様のそのご威光のお陰で、私は余所余所しい扱いを受けながらも、日々向けられる誤解と戦いつつ、とても充実感のある学校生活を送っておりますので」

「なんだよそれ」

「はあ……。兄さんは他人から自分がどう見られるのか、ちゃんと分かってますか?」

「そらお前、クールでナイスなホットガイだろ」

セックス暴力バイオレンスを貪り喰う、悪魔大王デビルズロードです」

「ひどい誤解だな――おい」

「どうやら半分の人はその見た目で勘違いをして、もう半分は付き合っている人間で勘違いしてるんです」

「どゆ意味?」

「駿くん達ですよ。中学までは駿くん普通の恰好だったのに、高校に入った途端、なんか頭とか金ピカになっちゃってたし……」

「あー、それは“高校デビュー”ってやつだ。そっとしといてやれ」

「杉浦さんは、何考えてるかのか分からないって理由で不気味がられてるし……」

「風評被害はなはだしいな。ま、実際、大将は何考えてんだか分かんないんだけど」

「――というわけで兄さんは、学校を影から支配する不良の総番であり、血に飢えた恐怖の大王でもあるんです」

「俺が草花と小動物を愛でる心根の優しい森の妖精だと、ちゃんと言っておいてくれよな」

「言葉って無力なものなんです……」


 遠くを見るような流し目で溜め息をついている由希だった。どうやら、生半なまなかには言い尽くせない苦労があるようだ。


 そんな彼女は今思い出したという風に目をしばたたかせ、勢い込んで仁也の顔を上から覗き込む。


「それで、こんな深夜に一体何してたんですか? あんなに汗まみれで」


 由希は仁也が風呂場に入る前の事を問うているのだろう。起き出した時に仁也の姿もどうやら見ていたらしい。


「お前、察しろよ……。男が深夜に一人、孤独に励む事と言えばアレしかないだろ……」


 気色悪くもじもじと頬を染めて目を逸らす仁也を半眼でにらむ由希。


「で? 本当は何をしてたんですか?」

「だから、ナニをだな……」

「――で?」

ほとばしる熱きパトスを激しい運動によって生じる肉体疲労で昇華してました」

「こんな時間にですか?」

「青臭い情動に時間なんて関係ないんだぜ? こちとら高二の春だぜ?」

「なんか隠してませんか、兄さん」

「何が知りたいって? 俺の秘蔵のエロ本コレクションの在りか?」

「真面目に答える気がないなら結構ですっ」


 毎度の軽口が滑りを良くしてきた所で、自分の膝の上にあるその芝居くさい気取った顔をぴしゃりと叩いて止める由希。


 しかし、叩いた指先が、そのまま仁也の額にくっついている。

 そのたおやかな指が額から頬にかけて流れた。


「別に、いいんですけど――」


 また少し不安げに表情を曇らせた由希の、その揺らめいた瞳が仁也のそれを捉える。


「私にばかり無理をするなって言うのは……ちょっとずるいです。兄さんだって、無理をしちゃいけませんよ」

「今回みたいなのは、かなり稀だって」

「うん……ですけど、そうじゃなくて……」


 そう言いよどむ由希を見て、また少し顔付きの変わった仁也が逆に訊ね返す。


「普段の俺は、そんなに無理してるよう見えるか?」


「いえ、その……でも……兄さんは、やっぱりずるいです。だって兄さんは、何でもないように振舞うのがうまいんですから」


 由希の両掌が仁也の左右の頬を包み込むように広がっている。


「私が気付かないようなところで、何か無理をしてるんじゃないかって……何かその……」

「無理なんかしてない。本当だ――誓って言う」

「そう言うなら、信じますけど……」

「ああ」


 いつの間にか、自身の両掌も重ねるように由希の掌の上に添えていた。

 彼女のその手はいつも冷たい。そのひんやりとした感触が、心地良かった。


 仁也と由希、二人の瞳と瞳との距離が少し近くなる。

 何かを言うでもなしに、しかし鏡合わせのように映ったお互いの瞳には、感情の露がありありと帯びている。


 いつからだろうか――

 二人が見せ合う些細な仕草や顔色で、互いが互いの気持ちを察し合ってしまったのは。


 いつからか二人は、積み重ねるよう、日々の暮らしの中で募っていったその想いに明確な決着をつける方法を持て余し、ここまで引きって来た。


 あるいはと、仁也は思う。

 あるいは自分たちが事実上の血の繋がりを持っていれば、果たしてこうはならなかったのだろうかと。

 しかし同時に、そんな事になんら関わりがないという強い気持ちもあった。

 例え血縁がどうのであっても、自分が由希を大切に思っているその衷心ちゅうしんに、何ら遜色そんしょくがないという想いだ。


 だからこその二人の、曖昧模糊あいまいもことしたその距離間であったのだろうか。


 互いを家族として愛している。

 掛け替えのないものがそこにはあって、それ以上の距離に踏み込む事で壊してしまうその“何か”を二人は恐れたのかもしれない。


 こうして、心という容器があふれる想いでひび割れてしまわぬよう、ほんの少しだけ蓋を開けてこぼす事はあっても――

 決してその全てを吐き出してはしまわない。

 そういう約束事が、彼らの間でいつしか出来上がっていた。


 実際、由希の漏らした言葉通り、仁也は自身が演じる道化のその役柄が板に付いてきたと自覚していた。

 そしてその事に、次第と慣れのようなものさえ感じる自分の鈍くなった心を――自嘲しつつも頼りとしてしまっているのにも気づいていた。


 仁也の中にある一つの負い目がそうさせていた。



 恋人同士のような甘い時間ではなく、それでも触れ合った心と心の――そういう距離。そういう空気。

 そんな明確にならない時間を、今日も過ごす二人。



















 夜半の冷えた大気がまだ色濃く残る中、それでも朝の光はまばゆく、まるでその空気と光がけ合ってどこか瑞々みずみずしい透明さを生む。


 仁也は土手沿いの小路を走っていた。

 向かいの川岸に桜並木があり、花びらはもう全て散ってしまったが、その鮮やかな葉の緑もおもむきがあった。


 いつも走っている馴染みの道だ。

 川を山の手へと上っていく。大池からは遠ざかり、南四通ヶ岳のふもとへと向かうルートだ。

 まだ街は眠っているかのように静かで、車の音一つしない。

 けれど、鳥達の声は染み渡るように響いていた。幾つかスズメやヒバリの鳴き声に混じって、やぶの合間からウグイスの高い声も。


 やがて道は住宅街を抜けて、雑木林の中へと続いていく。

 舗装された道路は終わり、湿った土の感触が靴越しに感じられるようになった。


 木々の梢や幹に阻まれ、視界は悪くなる。それでも、土や樹木の匂いが辺りに満ちている。

 何となく仁也はこれらの匂いが好きだった。これらの匂いに触れていると、まるで五感が解放されたように拡がるイメージが湧く。

 何とも不思議な感覚だった。


 仁也は顔を上げて遠くに眼を遣る。木々の切れ間から、連なる山峰の中で一際目立つその地肌の斜面を捉えた。

 昨夜、間違いなくあの場所では何かが起こっていたと思える。

 それを確かめる為にも、今日はこの山道を頂上付近まで辿たどるつもりだった。


 自分の呼吸の音とスニーカーが地面を踏む音とを、等間隔のリズムとして聴く 。

 その音に集中していた時、仁也は違和感に気がついた。


 何者かが、自分の走る速度と歩幅にぴったりと合わせて、背後から追従してきている。静寂の中、まるで偽装するように、自分の息遣いと足音に合わせて走っている。それでも微かな気配は後ろから伝わってきた。


 誰か別のランニング中の人間がいても別段おかしくはない。

 しかし奇妙なのは、追い越す事もせず、只管ひたすらに一定の距離を保って張り付いているという事。

 昨夜の奇妙な体験もあり、一瞬、仁也は背筋に冷たいものを当てられた感覚に襲われる。


 ――なんだ?


 不審さと気味の悪さが同時に駆け昇ってくる。

 試しに蹴り足を強め、走る速度を上げてみた。

 一拍遅れて別の足音が響くが、やはりすぐにも同じ速度と呼吸に調律される。そして、付かず離れずだ。


 ――誰だ?


 そこまで懸念を巡らして、ようやく「あぁ」と思い至った。このような悪戯をする人物の心当たりが、一人ある事に。


 仁也は辟易へきえきとしながら速度を緩め、振り返った。

 自分の後方20メートル程。木々の合間にやたらと目立つ白色があった。空手着だ。端が擦り切れて灰色に変わった黒帯を締め、袖を肘までまくり、運動靴を履いている。

 その中年の男が振り返った仁也の目線を受けて、遠目にもにかっと悪戯っぽく笑ったの知る。


 仁也がさらにペースを緩めると、彼は速度を上げて横に並んできた。


「やあ、仁也くんじゃないか。朝から精が出るなァ」


 どこか空々しく――それでも闊達かったつな声でその人物は白い歯を見せた。


「普通に事案ですよ、丹雄さん」

「何がだい?」

「男子高校生の後を無言で付け回す不審者の」

「失敬な」


 並んだその人物は桐沢きりさわ丹雄あきお。町の寂れた空手道場〈昊心館〉の経営者で、そして詩帆の父親である。


 野太く、屈託がない男だった。

 四角い武骨な輪郭に、平たい潰れた鼻、濃い眉と大きな眼のバランスが様になっている。

 親子という事もあって、詩帆とは勝ち気で朗らかな雰囲気がどことなく似ていた。顔の造形の方はそうでもないというに、笑った時の顔がそっくりになるのは不思議だった。

 仁也とも、子供の頃からの馴染みである。道場自体は一年を満たずやめたが、それ以降も何かと可愛がってくれている。


 丹雄は、傍から見るとずんぐりとした体形をしていた。

 しかしそれは肥満体故でない。生地の厚い空手着を鍛え込まれた筋肉が内から押している。道着の合わせた襟元からは、分厚くせり出たたくましい胸板が覗く。また手首足首が異様に太く、骨格自体に幅があるからだろう。

 常人が仁也と並べば否応なく見劣りしてしまうが、彼にはそれがなかった。

 身長で言えば170半ばに満たない。しかしその身にまとう肉の量感とでも言うべきものが、退けを取らぬのだ。おそらく体重は仁也の上をいっていよう。


「一体、いつから後ろ走ってたんすか?」

「うーん。住宅街を抜けるまでは気づかれてなかった筈なんだが」

「ちょっ、そんなに前からかよ」

「君はあれだね、まるで野生の獣か何かみたいだ。森や山に入ると、途端に感覚が鋭くなる」

「人の話、聞いてます? このまま交番に駆け込みますよ? 怪しいオジサンに付きまとわれてるって」

「君に良からぬ企てを試みる不審者がいるとも思えんなァ。それに何より、君と私の仲じゃないかね――仁也くん」


 言いながら、隣を走る仁也の尻をスウェット越しにわしっと掴む。


「はい、もうこれ言い逃れできない痴漢っすわー。ガチの犯罪者っすわー」

「照れなくともいいよ」


 仁也の反応を面白がるように、丹雄は並走しながらももや背中にまで手をまわしてきた。

 すると、悪戯っぽくしていた顔をふとと怪訝に塗り変える。


「おや? だいぶ筋肉が張っているね。熱も内にこもっているようだ。……無理な鍛錬でもやってしまったかな」


 外部から触っただけで、仁也の身体の状態を的確に言い当てて見せた。

 彼の言う通り、昨夜は異常なたかぶりのせいで許容範囲を越したハードなトレーニングをしてしまった。

 普段、これでも仁也は理詰めで肉体を鍛えている。しっかり休息を挟み、無理のないトレーニング行程を組んでいるのだ。


「過度に体をいじめると、筋細胞の修復が追いつかず、地力が損なわれてしまう。所謂いわゆる、オーバーワークというやつだね。君にしては珍しい事じゃないか」 

「ちょいと、その……りきが入り過ぎまして」

「ふぅん」


 自分から訊ねてきた割りに反応が素っ気ない。

 しかし、そういういい加減さがまったく嫌味にならない丹雄だ。


「まァ、若い時分はそんな事もあるだろう。なんせ、若さとは持て余すものだからね」


 そして、さもそれらしい事を言っては白い歯を見せるのだ。

 まるでプロレスラーのようないかついおっさんと形容できるが、その中にどこか稚気ちきのような愛嬌が備わっていた。


「そうだ仁也くん、なんならこのまま道場に来なさい。マッサージで強張っている筋肉を解してあげよう」

「いいっすよそんな」

「こらこら、子供は遠慮なんかするもんじゃないよ」

「あ、すいません。遠慮じゃなくてガチの拒絶っす」 

「わっはっは、仁也くんはホントに面白いなァ。――じゃあ、行こうか」

「拒否権ナシじゃないっすかー。やだもうこの人ー」


 強引に引っ張られ、そのままUターンをさせられては、仁也は街の方へと連行されていく。















 当てカン――という物があるらしい。


 打撃系統の格闘技にいて、最も重要視されるセンスだそうだ。

 打撃の流れを作り、最高の一撃を相手に浴びせる為の布石のようなもの。そのコンビネーションの攻防も、実際の試合の最中では一秒の何分の一という速度でやり取りする。

 考えてから動いていては遅いのだという。

 故に、ほぼ天分の勘によって肉体を動かす。筋繊維の一本一本、細胞の一つ一つに、それらの動きを委ねる。

 脳ではなく、動かす全身の骨や筋肉そのものに思考を持たせるのだと、丹雄はそういう風に説明した。


 そして、仁也にはそれが並外れて在ると。


 丹雄が仁也の事を何かと目に掛けてくれるのも、単に驚異的な肉体の素質があったからだけではない。

 彼に言わせれば、それだけの恵まれた肉体にそれだけのセンスを持って生まれたというのは奇跡に近いという。



 町の東、新興住宅街から大池を挟んだ対角上のその場所に〈昊心館〉道場はあった。

 この土地の東側はほとんどが田圃と野原と森林だ。

 年季の入った木造家屋も点在しているが、西側と比べればその廃れ具合が目につく。

 湖ほどの広さを有する大池――それを見渡すほとりに数軒の住宅があり、その一つの立派な瓦屋根がこの昊心館である。


 板張りの道場内部、マットが敷かれたそこで、仁也は交差させた前腕に頬を預けてうつ伏せになっていた。

 まだ朝早くという時間帯なので、道場には仁也達の他には誰も居ない。もっとも、昼を過ぎようがこの道場が人で賑わうという事もないが。


「――という訳だよ仁也くん。勿体ない、実に勿体ない事だ」

「へいへい」


 慣れた風に仁也はその話を聞き流している。

 しかし毎度なんだかんだと言い含められ、挙句、道場をやめた身であるにもかかわらず立ち合いの手ほどきや稽古につき合わされてしまう。

 体を動かす事自体が好きな仁也も仁也で言う程には嫌っていない。何より、この丹雄という人柄――その面白味に惹かれている部分があった。


 この丹雄、もう40を中ほど超える年齢であるが、どこか可笑しな人物であった。

 接している内に歳相応に見える事もあれば、まるで同年代のように思える時もある。さらには、自分より年下な子供を相手にしている気分に陥らされる瞬間さえあるのだ。

 俗に言う”真っ当な大人”というタイプではないからかもしれない。


 丹雄が語るに、彼はこれまでまともな職に就いた事もなく、若い頃から全国各地を放浪して過ごしてきたのだという。

 今は結婚をし、詩帆という一人娘にも恵まれ、この地に根付いているが、生まれた時は天涯孤独だったらしい。持っていたのは己が身一つ。その身一つで、これまでやってきたのだと話していた。


 丹雄とはそのような人物であるから何かと気安いのかもしれない。

 

 それでも仁也に、全精力を注いで丹雄の空手流派に打ち込むというつもりはない。

 それを彼も知っていながら、それでも自身の稽古相手に仁也を引っ張ってくるという始末だった。



 そのぶっとい掌で仁也の肩や背中を力強く包んでいた丹雄が、ぱんっと背中を一度はたいて終わった事を示す。

 うつ伏せていた仁也はもぞりと起き上がろうとした。


 その不意の間際に――


「まだ”怖い”かね」


 愛嬌のある面を全くと変えず、しかし、そろりと、まるで口の中に入り込んでしまった針を舌で押し出すような慎重さで丹雄はそう言った。


「……」


 起き上がる動作の途中で、ぴたりと動きを止めている。仁也は黙したまま、その問いには答えない。


 やがてその起き上がる動きを再開し、向かい合うように胡坐あぐらをかいた。


 仁也は空手をやめた理由を、周りには突き指で怪我をして嫌気が差したと話している。

 だが本当に仁也が空手を忌避し出した理由を、丹雄は知っている風であった。


 もう八年は昔の話――

 今はもうこの町を離れ、実は名前も顔もよく憶えていない同い年の道場生の一人に、練習中仁也が怪我を負わせてしまった事があった。

 怪我と言っても大した物ではない。

 しかしそれ以来、仁也は積極的に稽古に来る事がなくなり、取り分けて誰かを相手どる組手をやるのを嫌がるようになった。

 やがてし崩しではあったが、道場自体もやめていた。


 その事に、丹雄は何か思う節があるようだ。


 言葉を挟まず――もしくはどう言葉にしていいか分からず、ただ仁也は相手の眼をっと見る。


「そういう性分なら……ま、仕様がないけどね」


 ふっとした呼気をもらし、取り繕う感じを一切と見せずに丹雄は磊落らいらくに笑って見せた。


 武道とは、目的はともかく、手段としては相手の肉体を破壊する事にある。

 それに耐えられぬ人間が居ても当たり前であり、むしろそのような事に心血を注ぐ人間の方が異常だというのも充分心得ている。

  ――と、そういう風に丹雄は、仁也の事を捉えているようだ。


「……そう言う丹雄さんは、なんでまた空手家なんかに」

「何でかと訊かれても、気づいたらこうなってたとしか言えんなァ」

「そういう、もんすか」

「学もないし取柄もない私だが、”コイツ”にだけはたのみを持っていた」


 そう言って自身の分厚い岩の一部のような拳を持ち上げた。

 長い年月、そして多くの回数、人や物に打ち突けてきて、こわいくらいに歪んでしまっているその拳だった。


「でも丹雄さんは、スポーツ選手として空手をやってる訳じゃない」

「まあね」

「なんでまた、『実戦空手』なんて銘を打ってんです?」

「その方がなんかカッコイイじゃないか」


 本気なのか冗談なのか掴めぬ顔で、しれっとそう言う。


 丹雄は、アスリートとして公式の大会に出て、賞金を得て生計を立てている訳ではない。今のこの現代で、単純な武道家として生きる道を選んでいる。

 彼の平たい潰れた鼻は、生来のものではなく、何度も殴られ蹴られた結果として鼻の軟骨が変形してしまったが故だ。

 顔の右側面、顎から額にかけて太いミミズ腫れのような跡が目に付く。それは先の鋭い刃物などではなく、尖った硬い物体――例えば割れた瓶の破片などで抉られた時につくきずである。

 そういうあまり公にはできない、いくつかの修羅場を潜り抜けてきた証なのであろう。

 時代錯誤と言っても過言ではない選択だ。

 それでも自身の流派をこうして道場を開く事で教え広めているだけ、それなりに大したものだろう。


「どういう、感覚……なんすかね? 相手を叩きのめすっていうか、破壊する事に至るまで痛めつけるってのは。少なくともそんな事に対して人生捧げてる訳じゃないすか、丹雄さんは」


 短くない逡巡をしていた仁也だが、変わらずの軽妙さで問うた。

 それを受けて、丹雄の方も表情は変わらず、しかし唇を固く結んでいた。


 ややあって、丹雄は逆に仁也に問いを発する。


「仁也くん、君も思うかね」

「――?」

「こんな銃も爆薬も発達した現代で、ただ一つ、素手――己の五体にのみ恃みを置き、同じ人間をぶっ壊す事に励んでいる。……まるで異常だ、と」


 丹雄は自分の太いその拳を胸の前でくるくると動かすように手首を捻っている。

 道化の仕草でありながら、しかし、そのひとみに何かぬらりとした光沢が一瞬だけ宿った気がする。


 それに気後れしたよう、仁也の方も数舜言葉に詰まった。


「そこまでは言いませんけど……」

「ま、普通に考えたら、頭オカシイよねぇ」

「そこ、自分で認めちゃうんすか」

「まあ、ね。どう説明しようか。こう、――つまりは技術な訳だよ」

「技術?」

「それがどういう系統であるかはともかくね、必死で身に着け、磨いてきた己の技術な訳だよ。そういうものはねぇ、どうあっても使いたくなってしまうものさ」


「技術……」


「それが、野球の投球だとか打球だとか、将棋の詰め方だとか、楽器の演奏だとか、比較的世間に受け入れやすく、”まともな”と言ったら違うかな? ……ともかく、そういう部類であったなら、そんな悩むべきものでもないんだろうね。けれど悲しいかな、私がこうして磨き上げてきたものは、若干日本の法に触れている訳だねぇ」

「若干どころじゃないっすよ、丹雄さん」

「結局は、まあ、その程度の話さ。つまり、私にとってはね」


「……」


 その話を聞き、知らず神妙な顔になっていた仁也。

 それを見て取って、丹雄が続けて訊く。


「この答えでは、満足いかないかい仁也くん」

「あぁ、いえ――」

「もっとこう、哲学的で奥深い話を期待していたかな? 『そこに山があるから』みたいな」


 丹雄は楽しそうにこちらの顔を覗きこんでくる。

 だが見せているその表層とは裏腹に、その太い眼の奥が、こちらの心の底を見透かそうとするような動きを見せた。


 ぞくりと緊張する。

 真面目なのかふざけているのか、愚かなのか賢いのか、いまいち掴みかねる丹雄という人物。


 仁也は、心内を面に出さない事に長けている。少なくともそう自負している。

 その自分の奥底に渦巻いていた誰にも知られる筈の無いものを、感付かれたかという危惧を抱かせる――そういう眼であった。


「そんなものを、丹雄さんに期待しても無駄なのはとうに知ってますって」


 しかし次の瞬間にはもう、仁也は呆れた半眼で相手を見遣っていた。おもしろがっている、その相手の外面に迎え合わせるが如く。


「ストレートに失礼だねぇ君」

「実際問題、『実戦空手』なんて御大層に掲げてる割に、そんないい加減なスタンスだから入門者も募らないんでしょ。丹雄さんが、道場生を真面目に指導してるとこなんか見た事ないっすよ」

「君には手取り足取り、私の秘奧を教えてるじゃないかね」


 その資質故か、確かに仁也にだけは、彼の言を借りるならその培ってきた技術の真髄を教え込んでいた。

 そしてそれが、真っ当な空手の範囲に収まらない事ぐらい仁也も薄々気付いている。つまり”競技”ではなく、まさに”実戦”にならった立ち回りの術である事を。


 仁也の行う奇抜なトレーニング法は、みな丹雄から教えて貰ったものだ。

 さらに時折だが、何かを思いつくままに丹雄は仁也へ“技”を見せてくれる。あるいは組手の真似事の流れでそれらを披露してくれる事も。

 仁也はただそれに応じるだけで、本格的な立ち合いを行う事はない。


 常に軟派さと器用さで立ち回り、茶番では許せても本気の争いごとを嫌う傾向にある仁也。

 それでも時たま、そんな型の演技に熱が入る事はある。それすらを、仁也は怖がらずにいられる。

 それはひとえに相手が丹雄であるからだ。

 万が一にも、目の前のこの人物をどうにかしてしまえるとは思えない。

 もしも仁也が全力で拳を打ち込もうとも、その太い首に支えられた顔面を揺する事すらできぬだろう。

 同時に丹雄が自制できぬほど“熱く”なるというような事態は、想像も付かないのだった。

 そういう安心感があった。


「そうじゃないっすよ。丹雄さんは曲がりなりにも館長なんですから、もっと道場の主として、生徒を受け持つ立派な指導者としてのあれですよ」

「ご大層な訓示くんじでも垂れて、精神がどうたらと説教しろと? やだねぇ、私はそういうのが一番苦手なんだ」


 丹雄は自分の広く頑丈そうな額をぺしっと叩いて、「まいった」という顔をしている。


「確かに道場生が日に日に減っていくのは切実な問題だよう。近年は娘にせっつかれ、お遊戯と変わらないものまで始めざるを得ないし」

「あれって詩帆の発案だったのか」


 ここ数年になって昊心館が始めた『健康空手体操エクササイズ』の事を言っているようだ。ここの生徒を少しでも増やそうと、主に暇な主婦やお年寄りをターゲット層にした試みであった。


「まあ、仕方ないですって。第一こんな人口過疎のど田舎で、まして本格的な武道を習いたいと思う人間なんて元からごくわずかっすよ」

「だよねぇ」


 子供のごとく、困った風に眉を八の字に下げている。

 一家の大黒柱がこれなのだから、桐沢家の家計はどうやらのっぴきならないらしい。


「そもそも疑問に思ってたんすが……丹雄さん、神治町ここの出身じゃないのに、なんでこんな人の少ない所で道場を開こうと? 都会の方が都合良いでしょうに」

「いや、そういうトコはあれだよ、他所との競合とかが激しいからね。それに知らないかもだが、そういう団体の派閥とかだってあるもんだよ」

「へえ」

「何より土地が高い。道場の広さを考えると、これが一番の問題なんだなァ」

「そりゃまた切実な。確かにこの敷地の広さ、甲斐性なしの丹雄さんによく購入できましたね」

「仁也くん、さっきは私は『子供は遠慮するもんじゃない』と言ったけど、やっぱり君はちょっと遠慮を持つべきだねぇ」

「いや、割かし真面目な話っすよ」

「そうかァ、私は真面目に罵倒を浴びせられたんだね」


 何かを噛みしめるよう、うんうんとしきりに頷く丹雄である。


「で、どうなんです?」

「君の言う通り、私はこの歳でネクタイの締め方も知らないような人間だけどね。それでも、交友関係には自信があるんだ。言ってしまうと、それなりの“貸し”を昔につくってやった友人がいてね。彼に……まァ、口利きしてもらったわけだよ」


 丹雄のその陽気な人柄を思えば、確かに顔は広そうだ。何かと頼られる性質たちというのも納得できる。


「ちなみに、どんな人なんです? その友人って」

「そうだねぇ……言わば、色んな意味で不器用な奴かな。――“君”と、まるで正反対な人物だよ」


 その時、丹雄が凝っとこちらを見つめているのに気づく。いつもの様なからかった素振りがない、穏やかな目をしていた。

 しかし疑問を眉根で表す仁也を見るや、ニカッとした毎度の野太い笑みをひけらかす。


「まあ他にも、色々と切実な問題があった訳だけどね。でも実は、この地で道場を開こうと思った一番の理由は、とある伝承を耳にしたからだよ」


 胡坐の足を組み替えて、丹雄はそう話を変えた。


「とある伝承?」

「だいぶ古い言い伝えらしく、平安時代とかそれくらいの大昔から在ったそうだ」

「一体、どういう?」

「昔からこの地方には、人喰いの……大熊か何かが頻繁に出没したんだってね。それで古今の武芸者が、腕試しにと山へけ入ったという言い伝えが残っているんだ。それも多くが帰らぬ身となったとか」


「あんま聞いた事ないっすね。ちょっと、詳しく教えて下さいよ」

「いや、私もよくは知らんよ」

「へ?」

「そりゃだって、別に私は民族学者という訳じゃないから」

「まあ、そうでしょうけど。……え? でもじゃあ丹雄さんは、軽く聞き触れた程度のその伝承を元にしてこの町に? 正確には、その伝承がこの地のものであるという確証だってないのに?」

「うん。そうなるね」

「えぇ……」

「あ、いやいや、この地方にそういう伝承が残っているのは事実らしいんだがね。うん、多分きっと」

「どっちなんすか」

「それがねぇ……言い伝えにある地理を照らし合わせると、その伝承の発祥地はここじゃないかなって気がするんだよ。素人の当て推量だけど。なのに、実際に私がこの神治町でそういう伝承がないか軽く触れ回ってみたら、これがからっきしで」

「全くそういう話は出てこなかったと?」

「うーん、そういう事になるのかな」


 丹雄はそう言って言葉を濁した。それははぐらかすというより、何か説明のつけようがないという口振りだった。

 さして深い興味もなかった仁也も、なあなあでそれに合わせる。


「よく分かんない話っすね。それで、その不確か伝承にあやかってこの町で道場を開いたんすか。人喰いの、熊の伝承を元に」

「それを討伐するために赴いた多くの武芸者に肖って――だよ」

「なんでまた?」

「多くの名も知れぬ武芸者と、人喰いの化け物が死闘を演じたかもしれない土地だよ? なんか、カッコイイじゃないかね」

「……はあ」


 また本気とも冗談ともとれない顔でそう言い切る。

 幼稚さと貫禄とを兼ね備えた丹雄のちぐはぐなそういう振る舞いに、いつも仁也は頭を捻りたくなるのだった。




















「未確認飛行物体だ!! UFOだっつーの!!」


 昊心館からの帰り、駿に呼び出され彼の家へと足を運んでいた。

 その駿の自室で矢継ぎ早にまくし立てられる。どうやら昨晩の続きらしい。


「UFOってお前な……」


 そう言って、興奮し過ぎて自分でも収まりつかなくなってる駿をなだめた。

 既に呼ばれていたらしい大将も、ぬぼっと二人のやりとりを静観している。


「つーか、仁也お前! 俺が折角教えてやったのに見なかったのかよ!?」

「真夜中だぞ、普通に寝てたわ。というかだな、ちょっと落ち着いて、整理して一から話してみろよ」


 内心はおくびにも出さず、仁也は落ち着いた声で諭すように言い聞かせた。


「だーかーらっ!! 変な光を見たんだって昨日も! 絶対アレはUFOだって! 二度目だぜ――二度目!! 俺実は一昨日も目撃してたんだぜ奇妙な光?! この先、まだ絶対何か起こるって!」

「聞いた聞いた。そんでお前、予知夢がどうのは?」

「予知夢? んだよそれ?」

「……いや、なんでもない。話続けて」


「見たんだって――UFOを!!」

「それはもう分かったって」

「あれだっ! キャトルーミューティレーションだ!」

「なんだ今度は……」

「隣向こうの松田さん家、5ヶ月くらい前に飼っている柴犬が子犬産んだんだよ! それが、今朝からその一匹が行方知れずなんだってよ!」

「で、それもUFOの仕業だって?」

「ヤッベーよ!! まじヤッベーんだよ!!」

「あのな……」

「ヤッベーよ!! 見たんだって! マジで見たんだってばっ!!」


「――落ち着けこのアホ! というか割と本気で、ちょっとしばらく深呼吸でもしてろ!」


 不満げな顔を仁也に対して向けるも、わりと素直にその言を聞き入れ深く呼吸を繰り返しては息を整える駿。


「……あれ? ……何だっけっか?」


 そして次の瞬間には、100%の本気度で疑問符を浮かべてる駿が首を傾げている。

 わなわなと震え出した右拳を持ち上げるも、大将に肩を掴まれてむ無く下ろす。見遣れば、表情の薄いの彼のその顔にも諦観ていかんの色が窺えた。


「ああ、もうくそっ!」


 大きい脚を無造作に広げるよう伸ばし毒づく仁也。

 しかし、若干の躊躇ちゅうちょの後、心を決めたように脇の大将へと向き直った。


「実はさ大将――いや、このバカと同じに思われると困るんだが、俺も見てるんだ、こいつが言ってる昨日と一昨日に出現したっていう奇妙な光」


 昨日学校で何度が口にしようと迷っていた事柄を観念したように吐き出す。


「そら、本当なんか?」


 その言葉を受けて、大将は普段めったに見せる事のない驚愕の表情――と言っても片眉が釣り上がるだけだが――で、発言の真意をただす。


「残念ながら、と言ったらいいのか。ともかく、一昨日の夜、飛び交うような奇妙な光を見ちまった。気のせいだ見間違いだと思いたかったんだが……次の日、このバカが同じ様な事で騒ぎ出したもんで、内心気掛かりでしょうがなかった。そしたら、昨日だ――」

「見たんか? 同じものを?」

「いや、正確には違うんだ。一昨日は東四通ヶ岳付近で緑の光。――そんで、昨日は南側で赤い光だ」


 わずかだが身を乗り出す程に興味をそそられたらしい大将と、手振りを加えてこれまでの経緯を説明し始めている仁也。

 取り残された駿だけが疑問符を顔に貼り付け、口を半開きにしてその二人を交互に見比べていた。


 仁也は光を目撃した時の様子は詳しく述べていたが、それ以上の事は伏せておく。まだ予断をしておく方が賢明だと感じていたからだ。


「とまあ、そんな具合」

「んー……。それが、駿坊の言った通りの、UFOかどうかはともかく、興味深い話ではあるのう」

「――そうだっ!! UFOだ!? 絶対アレはUFOだった!!」

「もうお前は帰れ! ――でなきゃ引っ込んでろ!」

「ここ、俺の部屋だぞぅ……」


 その剣幕に押され、今にも泣き出しそうな駿がすごすごと部屋の隅っこに縮こまっていった。


「二日続けてというのが、気になるのう。もしかしたら、今夜も何かしら起こるんじゃなかろうか」

「俺もそれは考えてた。三度目があれば、確実にただ事じゃないよな」

「仁也どん、東側南側とは言うても、具体的にどの山だったか、それは覚えとるか?」

「ああ、多分だけど。一昨日のやつは、お池から見て東にある一際背の高い山だった。そんで次のは、やっぱりお池から見て南に位置してる禿げ上がった山だ」


「“青竜山”に“朱雀山”か……」


 腕組みをしながらより一層真剣めいた顔色を見せている大将が唸るよう呟いた。


「セイリュウとスザクって? ゲームかなんかで聞いたな」

「ただの方角の事だな。中国の慣わしで『四獣』とか『四象』とか言うんだが、単に東西南北をそれぞれに対応する霊獣に守護させるっていうもんだ。日本でも、それなりに馴染み深い風習で、聞いた事ならいくらでもある筈」

「――それと何か関係が?」

「まだそうとは言っとらん」


 勢い込んで訊いた仁也が足払いを喰ったようによろける。マイペースと言えばよいのか、決して独自の調子をぶれさせない。


「……ただのう、古くからこの町でも、そういう事象にならった言い回しがあるそうでな」

「この町に? この神治町にも?」

「ほれ、さっき仁也どんも言っとったが、お池を中心にほぼ前後左右90度ずつ――つまり東西南北の位置に、それぞれそういう名前のお山があるらしいんだのう。まあ正確にはちょっきし90度というわけではないそうだが」


 その事を聞いて、すぐさま仁也は部屋の窓に取り付いた。

 駿の部屋には北と東に出窓が付いている。その北側の窓から顔を出し、晴れ渡った町の景観を眺める。


「お池から北が一番分かり易いかのう。ほぼ真北の山の一つ――頂上から大きな滝が流れとるだろう? 近年ロープウェイが開通したやつだな。あれを“玄武山”と呼んどる」

「おお、確かに。それっぽいのがある」


「んで真東には、特に目立って標高の高い山があると思う。木々が鬱蒼うっそうと生えとるやつ。それが“青竜山”だと」

「……俺が初めに光を見た山だと思う」


「ここからじゃ見えんが、真南には山火事のせいで草木の絶えた禿山がある。それは“朱雀山”だのう」


 東側の出窓も開け放ち、精一杯そこに身を乗り出して、仁也は昨晩奇妙な光を見た禿げかかったあの山を視界に捉えようとする。しかし、この位置からではまともに見えなかった。


「それから真西にも“白虎山”ってのがある筈。これも草木の生えとらん禿山なんだが、ゴツゴツとした岩が無数に転がっとるし、元から岩山なんだろう」


 言葉を失くしたように、仁也は窓辺から離れて元の位置に腰を下ろした。


「あと、言うてた光の色も何か気になるのう」

「色……?」

「その『四獣』ってのには、それぞれ季節や色も象徴させて奉っとるんだそうな。つまりまあ、名前についとるそれぞれの色の事だのう。青竜は青――正確には緑だけんど、昔は緑も青と呼んどったらしい。朱雀は朱――赤だな。白虎は白。そして玄武は玄――つまり黒だ」


 重大な事に直面したかのような面持ちで仁也は顔を上げた。


「なあ大将、仮にだが、もし次も光が現れるとしたら――それはやっぱりさっき言ってた、その“白虎山”でって事になるんだろうか」


 周囲をぐるりと囲んだ一帯の連山。山の多い地方では確かにあるのだが、そういう風に勘繰ってみれば、なんとも奇妙な符号ではないかと思う。


「そう容易く結論は出せんが……。しかし、今夜もそれが起こったとしたら……」


 大将はそう言葉を濁らせた。

 確かに出来過ぎな気もするが、偶然じゃないともまだ言い切れない。


「それにしても、やけに大将は町の事に詳しいな」

「そりゃあわしが、お池の畔にある護森ごもり神社の跡取りだからかのう。方々ほうぼう、古くからの町の逸話は一通り覚えさせられとる」

「そうなのか? 町に唯一あるあの神社って、大将の実家だったのか」


 意外や意外という目をした仁也がおうむ返しに問い返す。


「大将、町の東側に住んでるって事しか知らなかった」

「言うとらんからの」


 さも当たり前という風な口振りの大将だった。


「にしても気になる。そんな目立った光なら、目撃したっていう人間が仁也どんと駿坊の他にもおると思うんだが……。そういう噂はとんと聞かん」

「みんな言うに言えないって事もあるんじゃないか? 実際俺もそうだった」


 難しい顔を突き合わせて、ああでもないこうでもないと論議を始める二人。

 その傍で、話の輪から外されている駿が不満げに口を尖らせていた。


「ネットで調べてみるか。昨日や一昨日の事に限らず、似たような話があったりしてな。奇妙な体験談とか、そういう類の話」

「良い方法かもしれん」

「よし。おい駿、お前んのWi-Fiのパス教えろ」


 そこでさっきから部屋の隅で大人しくしてる駿を呼んだ。


「あー? んだよー、俺だけ仲間外れにしてたクセによー」


 しかし、かまってちゃんの駿はどうやら既にヘソを曲げてしまっている。ベッドに肩肘を付けて、やる気なさそうな目をこちらにくれるのだ。


「ほら、お前が目撃したUFOの謎が解けるかもしんないんだぞ」

「もうなんか、どうでもよくなってきわー」


 さっきまであれだけ一人で騒いで、そもそも自身が呼び出してきたというに、面倒な性格をしている駿だった。


「いいのか?」

「あー? 何がだっつーの」


 しかし、長い付き合いの仁也にとって御しやすい駿の性格などお手の物だ。


「もしかしたら謎が解けて、テレビやらの取材が来るかもだぞ」

「……それってマジかよ?」

「マジ。そしたらお前、一躍町の有名人って事になるかもだぞ」

「……ほんとにマジかよ?」

「マジマジ。そうなったらお前、学校じゃあ大騒ぎだろうな。女子からもキャーキャー言われっぞ」

「……マジかよ――俺やっべぇなぁっ?!」

「ああ、お前はやばいよ色々」

「だよなっ!? マジやっべぇーぜ!!」

「おうほら、早くしろ」

「よっしゃぁぁっ!!」


 バラ色の未来が脳裏に浮かんだらしい駿が飛び起きるのだった。



 二時間ほど検索で調べてみたが、結局それらしい話は出でこずじまい。

 今の所、この奇妙な話の主要人物は仁也達だけである。

 町内会が運営してる定期更新のHPも覗いてみたが、祭りの準備がどうのだの、熊の目撃例がまたあっただの、迷子の子犬を探してるだので、目ぼしい情報は空っきしだった。


 仕方がなくその場は日が暮れる前に解散となったが、今日の深夜、西の山をお互いに注視しながら連絡を取り合うという段取りを組んでいた。



 仁也は、もやの晴れない考えを連れ立ったまま、自宅への帰路についていた。














 その自宅へと帰り着いた際、楽しげな声が家の庭から響いてくるのを耳にとらえる。

 胡乱うろんに目を向けると、自宅の庭には由希と美鈴、それと何故か詩帆の姿までもが見受けられた。

 私服姿の彼女達はガラス戸が開いたままの縁側に腰をおろして、お喋りに花を咲かせてる様子だった。


 およその場合、女子が3人も揃っていれば――これはもう厄介事の前兆のようなものだ。

 そう状況を先読みした仁也は、気づかれない内に家に入り、自室にこもってしまおうと、そろりそろりとその大きな身体をかがめて玄関へと向かう。


 だがその時、すぐ側から発せられた無慈悲なまでに明るい声が仁也の耳を穿った。


「せーんぱい! おかえりなさいです!」


 上から降ってくるその声に身を強張らせる。仁也は観念したよう、忌々しげにその顔を持ち上げた。

 そこには、一見無邪気極まりない最上の笑顔を宿した悪魔のそれがあった。


「やはり貴様か、美鈴……!」

「何がですかせんぱいっ?! わたし達にバレないように家に入ろうとしてた事ですか!?」

「ぬけぬけとよくも」


 そう言って屈めていた腰を伸ばして、今度は上からその邪なる者を見下ろす。


「なにしてるんです、兄さん」

「よっすー。おジャマしてるよ」


 両足を斜めに揃えて行儀良く座っている由希と、右足だけ縁側から投げ出すようにだらしなく胡坐をかいている詩帆の二人が、仁也達の方を向いて声を掛ける。


 仁也の記憶が正しければ、さっきまで美鈴もあの二人の横にちょこんと座っていた筈だ。

 一体いつの間に、そこからこの生垣までの7,8mの距離を移動してきたのか。仁也の中にある美鈴という少女の像は、猛スピードで異形の怪物へと変わっていった。


「あー、お嬢さん方、楽しそうで何よりだ。無粋な邪魔者はこの場から直ぐにも去るので、どうかお気を使わずに続けて――」

「――せんぱい! ちょっと来てください!!」


 まるでホールドアップのように両掌を3人に向け、横歩きで玄関への到達を目論んでいた仁也だが、とび付いてきた美鈴に腕を絡め捕られて足を止めざるを得なかった。


「てめ、美鈴ゥゥゥゥッ?!」


 ドスの利いた声で恫喝どうかつするも、まるで気にも留めてない美鈴がきゃっきゃっと楽しそうに仁也を庭へと引き寄せる。


 仁也を縁側の端に無理繰りに座らせ、自身は庭の中心へと立った美鈴。なにか勿体ぶった態度で一同を見渡した。


「えー、コホン。それではここで、三雲川高校バトントワリング部新一年生のユニフォームを投票によって決めたいと思いますっ!」

「バトン……何だって? というか、ユニフォーム?」

「バトントワリングです。私達の部活動の事ですよ」

「ああ、棒状の物体をもてあそぶぶアレね。そんで、ユニフォームって何? というかなんで平然と詩帆も座ってんの?」

「詩帆せんぱいは空手部存亡の危機に部員集めで駆けずり回っていたので、もういっそのこと諦めてバトン部に入るようわたし達が逆説得してた所なんですっ!!」

「何気にひどいな、それ」

「うう……正直な話、だいぶ心を揺るがされたわよう」


 憔悴しょうすいしたようにがっくりと肩を落としている詩帆だった。

 その詩帆の隣から身体を傾けて顔を覗かせた由希が、相変わらずの冷めた表情で付け加えるように言う。


「けど、やっぱり詩帆ちゃん、空手部を諦めきれないようなんです。というか兄さん、なんで入ってあげないんですか?」

「ばか言え。俺は痛いのとか、……ヤなんだよ。知ってんだろ?」

「ほんともう、図体に見合わない豆腐メンタルなんですから」

「ああー、そういやあんた、昔から血とか見るだけで顔青くしてったけ? 空手やめたのだってそれが理由だったのよねぇ?」


 意地悪そうに眼をすぼめた詩帆が視線を這わせてくる。


「というよりは、兄さんはきっと、他人に怪我をさせるのを恐れての決断だったんでしょうけど……」

「まーた由希はそういうこと言って。コイツがそんな慈しみのある人間かしら」

「まあ、確かに。その割に粗暴で態度も口も悪く、矛盾この上ないんですが」


 冷たい視線と意地の悪い視線が同時に仁也へと当てられる。


 そんな中で美鈴がまた場を仕切るかのように庭の中央で声を張り上げた。


「みなさんっ! ユニフォームの件ですっ!? 議題がれていってますっ!!」

「だからユニフォームを投票で決めるって何だよ?」

「夏に大会があるんですよ。そこで着る衣装の件で揉めていて、決着がついてないんです」

「大会? バトン持ってど突き合うのか? ああ、それで戦力になる詩帆を勧誘してたのか」

「違います。演技審査みたいなものです。基本私達みたいな規模の小さいチームは、個人によるフリースタイルの審査のみで得点を競うんですよ」

「審査? 演技? そもそも何なの、そのバトンなんたらって? 運動系の部活動だって話しか俺聞いてないんだけど」

「バトントワリング。美鈴、ちょっとお願い」

「了解、由希ちゃん!」


 庭の中心で、すぐ傍に置いてあった両端に白いゴムでおもりをつけたバトンを手にする美鈴。その錘はそれぞれ大きさが違うものだ。


「んっふふー、いいですかせんぱい? まずこれがコンタクトと言います」


 美鈴は得意げな鼻息で、その場で持ったバトンを手先でくるくると器用に回し始めた。


「そしてこれがロールですっ」


 今度は手を使わずに肩などに引っ掛けるようにしてバトンをくるんと一回転させる。


「最後はエアリアルですっ!」


 気合を込めて言うや否や、回しながらバトンを空へとぽーんと放り投げた。自分もそこでターンをした後、落ちてくるバトンをしっかりとキャッチし決めポーズまでかましてくれた美鈴だ。


「うん、そこはお前、自分の頭の上に落としてどっと笑いがだな……――いや、いいか。で、結局何なんだあれは?」

「ですから、まあその、ああいう動作を基本とした……創作ダンス……みたいなものでしょうか?」

「なんでお前がそこで疑問形?」

「その……まだ始めて半月ですし、マイナーな部活動な上、先輩方も手探りでやっているそうで……」

「まあつまり、そのダンスを踊る時に着るユニフォームを決めかねてるって話みたいなのよ」


 詩帆が合いの手を入れるように事態を掻い摘んで言葉にする。

 そこで、パタパタと走っていって縁側の端っこに置いてあるトートバッグからスケッチブックを取り出した美鈴。


「――じゃーん!! これがそのユニフォームの候補ですっ!」


 開いたスケッチブックの左右のページには、色鉛筆か何かで描かれたカラフルな衣装が並んでいた。手書きのせいか、随分とコミカルな感じだ。


「製作するのはプロの仕立て屋さんなんですが、なんとそのデザインを自分達で決めれるんですよっ!? すごくないですかっ?!」

「美鈴が描いてきてくれたこの4つの最終候補で、意見が分かれちゃってるんです。別に今すぐ決めなきゃいけないってわけでもないんですが、早いに越した事はないですからね」


 ちなみに、由希達の部活の一年生は彼女達二人だけらしい。


「みんな、譲んないのよねぇー。まったく、何時間こうしてる事か」


 肩でもったという風に手を当てて首を回す由希や詩帆達。

 どうやら、だいぶその事で時間を取られているという事を暗に示してるつもりらしい。

 しかし仁也は、自分が来る前までのあの楽しげな談笑は何だったのかと問いたかった。どうせ関係のないことでぺちゃくちゃと時間を潰していたのだろう――これだから女は、と内心毒づく。


「――と、いうわけで! せんぱいの一票で、栄えある我が新人バトン部の輝かしい未来への第一歩が決定するんですよ!!」

「あのな、どうでもいいわ」

「そんな事言わずにお願いしますぅ!! 3人ともできっちり別れちゃって収拾つかないんですよぉっ?!」


「……ん? 待てよ、分かれちゃってるって、このメンバーでか?」

「ええ。私はこのロングブーツの付いた、セパレートタイプの白制服が良いと思うんです。露出も少ないですし」

「わたしは断然っ! このオレンジのレオタードがおススメですねっ!! フリルのスカートがちょーかわいいんです!!」

「あ、あたしは、このライトグリーンのドレスタイプのやつかな。星の飾りがかなり良い線いってると思うんだ」

「――いや、待て待て」


 思い思いにスケッチブックに描かれた衣装を指差す3人。その中で、最後の詩帆の発言を取り沙汰ざたすように拾った。


「なんでお前、この2人とまるで別のものを推してんの?」

「え? なんでって……」

「だってお前はバトン部じゃないんだろ? あくまでオブザーバー的な立ち位置だろ? ――そのお前がだな、二人のどちらかの意見に加担してやりゃ、それで決着つく話ですよこれ?!」

「あー、まあ、そうなんだけど……。でもそこはほら、あたしも自分の感性を曲げれないっていうか」


 何故かその点だけは尊重しているらしい由希と美鈴もうんうんと頷いている。


「揃いも揃ってこいつら……」


 大袈裟な素振りで空を仰ぐ仁也だった。


「じゃあ、兄さんが私達3人の意見から一つを選んでくださいよ? それでもう決着をつけますから」

「そうですっ! わたし達もそれで文句なしです! ――ささっ、ご決断の一票をば?!」


 美鈴がずいっと仁也の眼前にスケッチブックを広げた。

 それぞれ右から、由希の選んだ白いブレザー&スカート。美鈴の選んだオレンジのスカート付きレオタード。詩帆の選んだ緑のハーフドレス。そして誰も選ばなかった桃色と水色の二重線の入ったレオタードのみの衣装が、それぞれ横一列に並んでいる。


「俺が選ぶのか? どうしても?」

「どうしてもよ! それできっぱり決めるつってんでしょ!?」


 そう詩帆が息巻いている。――だからお前関係ないじゃんという胸の内は、言ってもせん無いのでぐっとこらえておく。


「じゃあ……」


 ほぼ一斉に詰め寄るよう、距離を近くして仁也の顔色を窺っている3人。無駄に息が合ってるのになぜ意見は分かれたのだろうか。

 その無言の迫力に押し負けたように、仁也の人差し指が自身の目線の向かう先へと上がっていく。


「これだな――」


 迷いも見せずに、誰も選ばなかった四番目の衣装を指差す仁也。


「――兄さんっ!?」

「――バカっ!!」

「――せんぱいっ?!」


 同時に声を荒げる3人。


「いやだってお前ら、見ろよ――この角度だぞ? なんだこのけしからんまでの鋭角はっ?! これ、美鈴お前どういう……――ええ?! グイグイくるのか!? グイグイきちゃうのか!?」

「おのれはエロオヤジか!!」


 仁也の顔面へ、怒りの声と共に詩帆の殺人的な正拳突きが飛んでいった。

 本能に従い、四つの中で一番露出度が高く、一番身体のラインを強調させる衣装を選んでいた仁也。

 ――彼に後悔などあろうものか。


















「そうか。思い出した、パレードだ」

やぶから棒になんです?」


 いつものような向かい合わせの二人だけの食卓。

 由希の拵えた手料理に舌鼓したつづみを打ちつつ、どんぶり飯を片手に持った仁也がはたと箸を止めていた。


「5,6年前か。繁華街の方で、自衛隊のマーチングバンドのパレードがあったんだよな? 結構盛大なやつだ」


 繁華街よりさらに北、山峰をいくつか越えた所に陸上自衛隊の演習場がある。そこの楽団隊が近場にある町を巡ってパレードを執り行う事があるのだ。


「ははん。由希お前、それでだろう?」

「そ、そうですよっ。……もう、変な所で頭が冴えるんですから」

「そうだった。パレードの先頭だったよな? バトン持ったお姉さんらが、綺羅きらやかな衣装で行進してたのは」


 若干頬が上気した由希が、ぷいとそっぽを向いてしまった。それをからかうように、笑みをひけらかす仁也。


「どうりであの時、やたらと熱の浮いた目でそれを追っかけてたワケだ」

「い、いいじゃないですかっ! だって、あの時……なんだかすごく綺麗だなぁって。それで、入学時の部活紹介の時に見つけて……」


 いつものきっぱりした口調とはかけ離れ、しどろもどろ弁明するように言葉を探している。

 そんな由希が可笑しくて、つい余計に声を立てて笑った仁也だった。


「笑う事ないでしょう? 馬鹿にして」

「違う違う、馬鹿にしてるわけじゃないって。ただ、昔のお前を思い出したら微笑ましくってさ」

「どういう意味です、それ?」

「いやな、大した事じゃないんだが、昔のお前は幾分あどけなかったよなぁーってさ。いつからそんな『ザ・優等生!』みたいになっちまったのかと」

「そういう兄さんだって。……ああ、兄さんは今も昔もだらしのない渡世人とせいにん然としてましたっけ?」


 眉を持ち上げて皮肉で言葉を彩る由希。


「子供の頃から俺はごろつき認定かよ」


 仁也が顎をしゃくるも、由希はまるで取り合わず箸をすすめている。

 ちょっとからかい過ぎたなと反省の念を起こした仁也が、箸を置いてテーブルに両手を付いた。


「悪かったってば。――ほら、この通り。ほんとに馬鹿にする気は無かったんだよ。俺もその……何だっけ? バトルトワイライトサーガとかいうやつ? ちゃんと応援するからさ」

「トワリング。バトントワリングです。どんな間違え方ですか」


 不満めいた溜め息を吐いている由希だが、その表情は随分と柔らかいものとなっていた。


 病気がちな体質のせいで、昔から部活を含め運動等を避けてきた由希だ。そんな由希が、自ら憧れ、志願して入ったのがそのバトン部なのだ。

 そういう点からも、仁也は本心から彼女のその思いを応援している。

 叶う事なら、そんな心配をしないでいいよう、自身の無駄に壮健なこの肉体を幾らかでも分けてやりたいと常々思っている。

 何せ、まるで二人は正反対なのだ。――自身らの特性を足して2で割れば、かなりベターな能力値になるんじゃないかと思える程。


「あ、そう言えば、昼間おじいちゃんが来てましたよ。兄さんをご所望でした。居ないとわかるとまた来るって言いながら帰っていきましたけど」

「じじいが? まーた、体のいい労働力として使う気だろうな。くっそ――」

「おじいちゃん行くなら、幸枝さんに宜しく言っといてくださいね」

「だれが自分から死地に飛び込むかよ」


 仁也達の祖父、楠見善三ぜんぞうはこの町で町内会の会長という役職を務めている。

 体力の有り余っている自分を何かに付けて引っ張っていき、主に肉体労働に従事させるのが生きがいのような偏屈者――というのが、仁也の言である。


 町の北東側、ほぼ野原や森林ばかりの土地に大きな武家屋敷を持っていて、そこに多くの使用人と住んでいる。

 聞いた話、楠見の家は昔は豪族に名を連ねていたとかいう。もっとも今は、多少の土地や山を管理してる程度のものだったが。

 しかしその格式故か、町の人間――特に年寄り連中――は楠見家というものに一目を置いているらしいのだ。

 実際、善三が町内会でブイブイ言わせてる裏にはそんな経緯があった。


 仁也達が小学校に上がる前までの幼少の折、彼らも善三の屋敷に住んでいた。

 しかし、ある事情からこの家に引っ越してきた。無論その時は二人だけではなく、ほぼ彼らの育ての親とも言える篠山しのやま幸枝さちえという女性が一緒だった。


 幸枝は楠見屋敷の使用人一同の頭という立場の人間と言えばいいか。

 仁也達の事をこの上なく愛してくれているが、それ故に厄介な性格をした人物でもあった。


 しかしそんな彼女は、3年ほど前に屋敷の方へと戻っていった。

 一つに、仁也達が生活の自立を心掛けた事。そしてもう一つに、善三が老齢を期に体を悪くさせ始めたのが理由だった。

 幸枝にとっては善三は大旦那――雇い主である。仁也達を心残りに思いながらも、優先させるべきは善三の容態だ。もっとも頻繁にこの家に様子を見に来てるので、この兄妹たちは別段、彼女を寂しがってもいない。

 しかしながら、くたばるんじゃないかと思わせていた善三は見事に持ち直し、やっぱり町内会でブイブイ言わせてる。


 この自宅の購入費は勿論、生活費諸々まで善三が面倒を見ているので、彼の権威は絶対的なものだ。


 そんな祖父ぜんぞうじんやの交わす日常会話と言えば――

「ジジイくたばれ! 遺産よこせ!」

「だまれ! 食わせて貰ってる分言う事を聞け!」

 ――と、まあ、そんな感じで仲むつまじい事この上ない。


 基本的に由希に対してはすこぶる甘い顔を見せる善三だが、もしも自分が家に居る時に来たらどうやって撃退しようか――それを思案しながら箸をすすめる仁也だった。














 午後11時50分――

 そろそろ日付が変わる頃だと、仁也は緊張した面持ちで自室の机の前で構えていた。

 昨日も一昨日も、日付が変わってから幾許いくばくもなく例の現象が起こったと記憶している。

 何が起ころうと、心積もりだけは整えていた。


 と、そんな時に携帯が鳴る。

 駿からのメッセージらしいが、示し合わせた時刻よりわずかに早い。

 不審に思って開いてみると、なにやら『命があぶない』などというふざけた一文だけが送られてきている。

 眉をいぶかしそうに寄せた仁也の前で、また新着メッセージが届く。

 今度は『アネキガチギレ』というカタコトの一文だ。


 駿には二つ違いのゆいという姉がいる。駿と同じで負けん気が強い性格だ。今年から他県の大学に進学したそうだが、週末には実家に帰っているらしい。

 今夜、どうやらその彼女が戻ってきているようだ。


「あのアホ、何したんだよ」


 そう仁也がぼやいたまさに次の瞬間に、さらにメッセージが届く。

 内容は『しにたくない』という、やけに悲壮感漂わせるようなものだった。


 止むを得ずに、仁也の方から駿へと通話をかけるが、全くと言っていい程に反応がない。続けて何度か呼び出してみるも、まるで応対されない。電源は切れていないようだが、携帯を手に取ることができないような状況なのだろうか。


 少なくとも仁也の脳裏には、そういう光景がありありと思い浮かぶ。

 それは昔から見てきて記憶に焼き付いた、幼馴染の姉弟が見せる日常という名の一枚の絵だ。

 むせび泣く駿とその頭を踏みつける唯。――そんな思い出深いアルバム写真の一部だった。


「駿のボケナスめ。間が悪い」


 その事にかかずらっていても仕様がないので、仁也は気持ちを切り替えるようにこっそりとベランダへ出た。


 自分の部屋の明かりは消してある。足音を立てないようにベランダの端の手摺てすりから屋根へと慎重に登る。

 足音を忍ばせているのは、また由希を心配させまいとした配慮だった。

 ベランダからでは西側は見えない。庭からなら見えるだろうが、高い位置の方が良いと判断したのだ。

 極力物音を立てず、屋根の中央へと登った仁也は、そこに腰を下ろした。


 田園地帯の東側の風景と違い、住宅街である西側は眩しいくらいに明かりで満ちている。

 そして、各家庭から洩れる光や街灯のそれで彩った夜景の向こうに、黒々とした山脈が横に連なって広がっていた。


 日が暮れる前に確認した“白虎山”は、その特徴的なシルエットのおかげで暗くてもすぐに判別できそうだったが、実際に日が落ちてみると意外と判らなくなるものだ。

 草木の生えていないゴツゴツとした岩山という事だが、南側にある“朱雀山”と違い、木々の生えていない山々が西側には無数ある。


 だがそもそも、今夜光が必ず現れるという確信もなければ、それが西側の山脈であるという確証もない。

 ともかく今は、現れるかもしれないそれらを四方を柔軟に見渡しながら待つだけだ。



 日付が変わったのを確認し、大将の元へ電話をかける。

 瞬く間もなく回線は繋がる。


「そろそろだと、思うんだが」

『んん。こっちも望遠レンズ、物置から引っ張ってきたな』


 携帯を耳に当てながら四方をぐるりと見渡してみたが、まだ何の変化もない。


「駿の大馬鹿は、ユイねえの逆鱗にでも触れたんだろ。それどころじゃないっぽい」

『そうか』


 どちらもそれなりに緊張してるのか、しばらく会話は途絶え、夜の静寂の彼方を感じ入るような沈黙が流れた。


 月が世界を淡く照らす、青い夜だった。


 そんな中で、仁也は四方にくまなく視線を這わせている。

 流れ落ちる滝で幻想的な夜霧を作っている北の山。麓まで鬱蒼とした緑で覆われた背の高い東の山。その一つだけ白っぽい地肌を晒している南の山。そして凸凹と複雑なシルエットをしている西の山々。



 まさにその時だった――



「――!!」


 仁也は確かに見た。

 西の山の一つに白い光点がぽっと宿ったのを。


 自身の息を呑む音をこれまで鮮明に聞いたのは初めての事だったろう。見間違いようもなく、西側の一つ、その山腹に飛び交うような光球が出現していた。


 同時に仁也は気付く。今まであれは、時間と共に二つの光に増えるのだと思っていたが、実際は始めから二つ在ったのだと。

 一から見ていた仁也は理解できた。

 二つの光点が左右の山腹からお互いを目掛けてぶつかっていき、そしてまるでもつれ合うように一つの光点となって、山の表面を縦横無尽に駈けずり回る。

 それが時折、また離れるように飛び退くので、途中から見ればまるで二つに増えたかのような錯覚をさせるのだ。


 その光景を視ながら、一体、あの光は何だと自問する。

 まるであれは、二つの光が戦っているみたいではないかと、そう思えて仕方がなかった。


「……あ、あれ……ほんとに何なんだ……?」

『んん?』


 ようやく声を絞り出した仁也、つかえていた息を言葉と一緒に吐き出す。


「あれって、何だか……争ってるみたいじゃないか……? 身体をぶつけ合うようにしてさ……戦ってんじゃないのか?」

『仁也どん、何を言うとる?』


 興奮を抑えきれない仁也はたどたどしく声を出していたが、電話の向こうから聞こえる自分とは様相の異なる声に違和感を覚える。


「いや、だから光だよ、あの二つの白い光。駈けずり回ってんだよ、山ん中を。光が飛んでいるよう思えてたけど、いま分かった。きっと山ん中に何かがいるんだ」

『二つの光……』

「大将? さっきからどうしたんだよ? 見えるだろ、西側のあの光が。あんなに眩しく輝いてんだ。望遠鏡なんていらないって」

『……仁也どん、あのな――』


 電話の向こうでは、相手が間を置くようにそう言葉を切った。


『光なんぞ、どこにも見当たらん』


「……は?」






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