第一幕



 遠い、欝蒼うっそうとした山腹に、ちかりと光るものがあった。

 緑色にたなびく光だ。


 山道を通る車のヘッドライトの類かとも思ったが、どうもおかしい。


「何だ……?」


 深夜のベランダで夜風に涼んでいた楠見仁也くすみじんやは、濡れた髪をタオルで粗く拭いながらその光点を目で追った。


 しばらくそうしていた仁也はある事に気が付く。

 何時いつの間にか、その緑色をした光点が二つに増え、片方が片方を追走するという形になっている事に。

 そしてまた重なって一つとなるや、次の瞬間には明滅するように不確となって消え入る。


 その光を見た時、形容できないような胸走りが仁也を襲っていた。

 ざわっと心がささくれ立つようでいて、しかしその事で不安や恐怖の念を呼び起こすことはない。

 奇妙極まりない感覚。


 そういう事に感性が鈍いというわけではない。ただ、どうしてか、不思議と懐かしさのようなものを感じたからだ。


 消えた光点を探すようにベランダの欄干らんかんに身を乗り出してみるも、遠くの山々の暗い影はとくに変わらない。



 そんな折、ベランダで繋がったもう一室の窓が開けられ、一人の少女が外に出てきた。


「――兄さん! またお風呂上りで髪を濡らしたまんま外に出たりして……風邪をひくっていつも言ってるでしょ」


 もはや聞き慣れたそのヒステリー気味な声に、ものぐさに振り返る。

 そして予想通りの取り澄ましたおかんむりの顔と対面する。


「体が冷える前には戻るって」


 部屋からの明かりがななめに差込み、寝巻き姿の少女の華奢な身体を照らしている。

 

 一つ違いの妹の楠見由希ゆきだった。


「兄さんがいっつもそうだらしがないから、私がこうして口を酸っぱくしなきゃならないんです」

「はいはいはい、おっしゃる通り。わかったから、病み上がりのお前はもう部屋にもどれってば」

「私は、兄さんと違って自分の体調管理ぐらい出来てます」

「ここ二日、どこの誰に看病して貰ってったんだっけか――ええ? お嬢さん?」


 仁也は軽妙に言いながら、病弱な妹のその繊細な身体を柔らかく押しやる。


「自分が馬鹿で体力だけが取り得だからって、良い気にならないで下さい」

「いや、馬鹿は余分だろ……」


 しばらく、日常の恒例行事と成り果てたそんな押し問答を繰り広げて、やっとの事で妹を部屋に戻す事を成功する。

 首を傾けて嘆息した仁也は、だるそうにまたベランダの手すりに両肘を預ける。


 そしてまた、遠いシルエットだけの山々を眺める。

 何か特別な理由があった訳でもない。

 それでも、先ほどの光を探し、あるいはもう一度現れるのを待つようにして、20分以上その場に佇んでいた。



 そんな時――

 仁也は、砂嵐の音のような既知感のある雑音――ノイズが、自分の頭の中に流れ込んでくるのを感じた。

 ふっと気が遠くなる時のような気配が、背筋を伝わって抜ける。


 その名状できないもの中に、何者かの“声”が聞こえた気がした。


 声は「満たせ……」と、短くそう言っていたように思えた。

 しかしそれらは全てほんの一瞬に内包されていて、後にはわずかな怖気しか残らない。


 額に嫌な汗が浮かんでいるのを自覚しながら辺りをゆっくりと見回すが、深夜の静寂は相変わらずだ。


 やがてその怖気のような不快感も薄れ、次第と平静が取り戻される。

 未練がましく黒々とした山影を眺めてみるも、結局あの光は二度とは現れなかった。












 神治飛鳥かみちあすか町――

 それがこの山裾やますその田舎町の名前だ。


 釣りの名所らしい「龍神池」などと言うご大層な名前の大池を中心に、それを連続した山峰がぐるりと囲んでいる妙な地形。

 その連峰をひっくるめて四通ヶ岳よつがたけと呼んでいた。


 中途半端に地方開発の手が入っており、新興住宅街と田園風景が両側に並んでいる。

 大池を真ん中に据え、山の境界より内側で、変に区画がきっちりと分かれているのだ。

 町の南西には新興住宅街。

 その北西にはそれを受けてのショッピングモールやらの繁華街。

 南東は平原のような一面の田畑。

 そして北東は、手付かずの原生林が広がっているという様相だった。





 大池へと通ずる川の本流に沿って、等間隔で植えられたけやきが春風に揺られていた。

 空は穏やかに晴れ、降り注ぐ朝の光は実に心地良いと言えるもの。


 そんな爽やかな情景の中、生欠伸あくびを噛み殺そうともしない盛大な間抜け面をお天道様に捧げ、楠見仁也は大儀そうに足を運んでいた。

 特に何のおもむきもない黒の学生服に身を包み、手提げ鞄を脇に挟んでだらしなく歩いている。


 まるでうだつの上がらない学生然としているが、その体格は驚くべきものだった。


 身長は190㎝弱あり、俗に言うひょろ長いという印象ではく、がっちりと筋肉質で身体に厚みがある。

 単に背が高く、肩幅が広い恵まれた体形をしているというだけではない。

 一流のアスリートにすら匹敵し得る、重度の鍛錬によって形成された肉体がそこにあった。

 首も胸も、腕も脚も、分厚く太い。

 学生服の第一ボタンどころか第二ボタンまで開け放っているのは、締め付けられるのを嫌ってだ。

 初見ではまず、十七歳という年齢に見られなかった。


 また仁也が鼻孔を広げ、大口を開閉しては眠気を持て余す。

 すると、前を歩いていた――大きな図体の仁也に相反するかのような線の細い華奢な少女が、立ち止まって後ろを振り仰ぐ。


「そういう馬鹿な顔を世間様に惜し気もなく晒すのはやめてください。一緒に歩いてる私まで間抜けと見られてしまいます」

「……相変わらず、素敵なまでに口の悪い妹様だ」


 仁也は頭を掻きながら、目の前の相手を困った風に見遣る。


「兄さんの為にと、心を鬼にしてるんです」


 少女――由希は取り澄ました口調で、兄の顔をほぼ真下から見据えた。

 肩より上で切り揃えられた真っ直ぐなセミロングの髪は、色素が薄いのか、光の角度により亜麻色に見える。

 また、彼女のその華奢な印象と違わず、繊細でさらさらと流れている。

 細い眉に長い睫毛のきっぱりとした目元。鼻や口、顔の輪郭なども小さく整っていて、十分に端整な容姿だ。

 ただ、美人というよりは愛らしい幼い顔立ちである。

 にもかかわらず、常に取り澄ましたような――気取った大人の感を漂わせている。

 傍目から見ればあどけないルックスであるため、どこかアンバランスな雰囲気があるのだった。

 白地に明るい色合いの青がポイントとなっているスタンダードなセーラー服に包まれた四肢はあまり発育が良くなく、やはりか細いというイメージを拭えない。

 小さい頃より、病気を繰り返していたのが原因だろう。


 大きな黒目がちの瞳が、今もまた兄である仁也を責めるように向けられていた。


「こんな陽気の日は誰だって眠たくもなるって。特に朝は」

「兄さんは天気や時間に関係なく、何時だって眠そうにしていると記憶してますが?」

「いい事じゃないか。ほら、あれだ――“寝る子は育つ”」

「それ以上育ってどうするつもりですか……」


 由希は頭痛をおさえるように眉根を寄せた額を手で覆っては、溜め息をついていた。

 実際、仁也の肉体はまだ成長期にある。格闘技のヘビー級選手として通用するポテンシャルを既に持ちながら。


「妹よ、取り敢えずだな、飯と睡眠とあと筋肉――この三拍子が揃っていれば、だいたい人生は上手くいくもんだ」

「兄さんの短絡的すぎる人生哲学はどうでもいいです」


 ぐぐっとポージングしている兄を差し置いて、由希は前を振り返って歩みを再開していた。

 いつもの妹の御小言が止んだのを見計らって、仁也もまた大儀そうに歩き出す。



 彼らが通うのは町唯一の公立高等学校、三雲川みくもがわ高校だ。今年の春から、一つ下の由希も仁也と同じ高校に通い始めている。

 まだ入学式から一ヶ月近くしか経っていないが、朝のこのような風景が様になってきていた。

 毎度のように飽きもせずこんなやり取りを繰り返している二人で、同年代のほかの兄妹に比べれば幾らか仲むつまじいと呼べる。


 だが実の所、彼ら二人に血縁上の繋がりはなかった。


 一見しても、二人にははだかった違いがある。男女という差を鑑みても、二人は似ても似つかない。

 仁也は不細工でこそないものの、その骨格同様に顔の造りも大味で唇や顎なども分厚い。

 鼻筋は通っており、末広がりの奥二重のなど鋭く勇ましげではあるが、褒めるとしても精悍な顔付きと呼べど美男子だとはとても言い難い。

 対する由希は、人目を惹くほどに愛らしく見目麗しいと言える容姿である。その一つ一つがガラス細工で出来たように儚げで細緻な印象を受ける。

 周りからも似ても似つかない兄妹と揶揄やゆされていた。


 幼少の折、楠見家へと由希が養子として迎え入れられたのが始まりだ。

 詳しい事の顛末――なぜ彼女が養子として仁也の家に迎えられたか、凡その経緯は把握しているものの詳しい部分まで分かっていない。

 皆その事について、語るのを良しとしない空気があった。

 今では仁也の母親は既にこの世に亡く、父親も仕事にかこつけけてほとんど姿を見せる事はない。


 そんな事情もあってか、二人の寄り添ってきた時間は血縁に関係なく密度のあるものだったろう。



 周りを水田に囲まれた三雲川高校は住宅街から遠く、交通の便という意味では少々厄介だ。

 ただまあ、瑞々みずみずしい風景が広がるのどかな場所だと言える。

 特に今日のようなうららかな春の日は、四方を囲む山脈の方まで視界がひらけ、絵に描いたようだった。



 しばらく呆れてこっちを振り向こうともしない妹の背中を眺めながら、それに続いていた仁也。

 校門の手前まで差し掛かると、反対方向から歩いて来る大柄な人影が目に付いた。


「よお、大将――」


 仁也は向かってくる相手と校門の真ん前で落ち合って、そう声を掛ける。


「仁也どん、由希ちゃん、おはようさん」


 声を掛けられた相手は、独特のイントネーションで朝の挨拶を口にする。

 周りの同じ学生服たちと比べても頭一つ分大きく、仁也に劣らずの身長だ。

 だがそれはまさに、巨漢と言い表すに相応しいのだった。――樽のようなという比喩が実に的を射ている。


 彼の名前は杉浦すぎうらまさる

 仁也のクラスメイトで、学校一の変人として噂されているとかいないとか。

 高校に入って知り合った二人だが、お互い馬が合うらしく、特に仁也は彼を何かと頼りにしている節があった。

 恰幅の良い胴体に、でんと丸刈りの大仏のような頭が乗っかっている。

 周りからその高校生にあるまじき貫禄を讃えられ、「将」の部分に大の字を足して「大将」と呼ばれていた。


「おはようございます、杉浦先輩」


 由希は折り目正しくぺこりと頭を下げて挨拶を返した。

 学校で一、二を競う体格の二人に挟まれた彼女は殊更に小さく見える。


「ん。由希ちゃん、もう風邪の方は平気なんか?」

「はい、おかげ様で」


 由希は薄く笑んで、社交辞令のようなやり取りを交わしていた。

 仁也から見れば、おおよそ妹の由希は他人に対していつもこんな調子である。

 年上年下同輩関係なく、常に敬語で話すのも特徴だ。人見知りを拗らせたとでも言えばいいか。

 昔馴染みの前でもなければ、彼女は完璧なまでのこの社交スマイルを崩しはしない。


「それじゃ兄さん、私は先に行きますからね」


 まだ呆れ果てているようで、ちらりと仁也の顔に視線を傾けた後、由希は校門を抜けて校舎の方へとさっさと行ってしまう。


「また兄妹喧嘩かの?」

「ま、いつも通り平穏無事な日常ってこった」


 投げ遣りな軽口を叩いて、仁也も学校の敷地へと足を進め入る。

 顔の肉が厚すぎて表情筋が働かないというのは本人の談だが――糸のような細目にもこれといった感情は読み取れず、ただ無造作に仁也の後に続く大将であった。










 「よおーっす!」


 後ろの戸から教室に入った途端、そんな能天気な声が掛けられた。

 扉側の列最後尾の仁也の席の前、椅子の背もたれに腹を付けて座ったクラスメイトが底抜けな陽気さで笑みを広げていた。


 仁也の生涯の悪友とも親友とも呼べる、桜野さくらの駿しゅんの姿だ。

 背が低いくせして態度と意気地だけはすこぶるデカイが、何より目立つのはその頭髪で、趣味悪く染めた金髪をぼうぼうと伸ばし放題にしている。

 制服の上着も前を全開に、同じように悪趣味なベルトやらインナーやらをこれ見よがしにしている。

 だが服飾のセンスの割には、快活とした人懐っこい笑顔をいつも見せる。


「なに笑ってんだ、気持ち悪い」


 足を投げ出すように粗略に席につく仁也。

 何かやたらと嬉しそうな駿が、ガタガタと椅子の脚を揺らして近付いてきた。左隣の席には何時の間にかぬぼーっとした顔で大将がセットアップされている。


「オイオイ! 朝からとんだご挨拶だぜ!」


 高い声とテンションを織り交ぜてからかうような動作をする。目鼻が大きく童顔なせいか、やたらと愛嬌があるのが癪だった。


「そのノリ嫌いだわ俺」

「えっ? あ、悪い………――ってコラ! 待て待てぇい!」

「ごめんほんと嫌い。主にお前が」

「――オ・レ・ガ・カ・ヨ!!」


 顔をくしゃめ、爆笑できる駿。

 オーバーな身振り手振りは人に構って貰うのが大好きですとでもいうような証拠だろうか。

 仁也とは小学校以来の付き合いになる。有り体に言えば、腐れ縁というやつらしい。


「今日もバカみたいに能天気――略してバカ天気だなお前は」

「あんだよそれ?」


 背もたれにぐっと身を預けて、心底面倒臭げな目を正面に向けた。

 向かいの相手は得意げに表情をキラめかせているのだった。


「で、どうしたバカ天気? 今日はどんな理由でお前の天気がバカになってんだ?」

「やー、それがさ、気付いちまったんだわ俺。まさに昨日、自分の新たな才能が花開く瞬間ってのを?」

「お前、先月もそんな事言ってたろ。というか実際、月が変わる毎に言ってるな」

「まあなー、どうも月イチで俺の才能って開花するみたいでよー」

「本気で言ってる口振りだな。躊躇いのない口振りだな。びっくりだな」

「まあいいから聞けってば」

「聞きたくない。というか先月に言ってた、音楽的インスピレーションが何だのはどうした? ギター買うから金貸せってしつこく言ってきたよな?」

「あー、あったなー。そんな事」

「遠い目すんなやタコ。先々月は『白銀の世界が俺を呼んでいるぅー』とか叫んで、ボード買うから金貸せってやっぱしつこかったよな?」

「あったあった、そんな事。冬だったからなー」

「季節が関係あるのか。そうなのか」

「いや、マジ今回は本気マジなんだって」

「暗に今までのが本気じゃなかったて認めたぞおい」


 始業の鐘はまだ鳴りそうにない。教室の中は、いつもと変わらない喧騒に溢れている。

 仁也はだるそうに首を反らしながら、目の前のバカの相手をしてやっている付き合いの良い自分自身を今更ながら呪った。


「つーか今回のはさー、才能ってーか、特殊能力みたいな?」

「やだこの子――言い出す事が予想の斜め上!?」

「あれだよあれ、予知夢ってあんだろ? ほら、夜に夢で見た事が次の日に本当に起こるっていう」

「うーん、やっぱり病院かあ。今までそうじゃないかと薄々感じてたが、やぁーっぱり頭のお病気かあ」

「ホントなんだっつーの! 今日の朝飯、夢で見た通りだったし!」

「なんだそれ? 朝飯ごときで判断すんの? ちなみにメニューは?」

「トーストとベーコンエッグとレタスとトマトのサラダ」

「いや……だいたい朝はそんなもんだろ。高確率でそんなラインナップだろ。全国津々浦々つつうらうらの皆さん、朝の忙しい時間帯はそんな感じで済ますだろ」

「いやっ! 夢の通り、今朝は教室で誰よりも早い登校だったし!」

「学校から家がアホみたいに近いお前は、大抵一番に来てるよな? その上、日曜の子供ばりに無駄に早起きなんだからな? ただの気のせいだな? そうだな?」

「ちげ―し! お前らが来る時間帯だって、あらかじめ夢で知ってたから、教室入ってくるタイミングで直ぐ声掛けれたんだし!」

「あのさぁ、こっちだって生活のリズムがあんだから登校する時間くらい見当つくだろ。はい、もう解散なんです」

「まーじーだって!! 能力に目覚めたちゃんとした経緯があるんだっつーの!」


「経緯だ?」


 思わず尻上がりの変な声を出していた仁也。


「おーよ! 昨日の夜中、ふと目が覚めた時に窓の外がなんか光ったんだよ。そんで気になって見てみたら、遠くでヘンな光がピカピカッと動いてたんだ!」 


 駿の手振りを加えたその説明を聞いた時、仁也は思わず息が詰まった。


「そんでその光を見た時に、こうなんつーか……って、おい仁也、聞いてんのか?」

「ん? ああ、聞いてる聞いてる」


 反射的に素っ気無い応答をするものの、跳ね上がった心拍数はまだ収まらずいた。


「だからさ、その摩訶不思議な光を見た時に、何らしかの異変が俺の身体に生じたと思う! あれが、俺がこの特殊能力に目覚めたきっかけだったに違いないぜ!」


 心中を顔色に出さないのが仁也の特技だ。

 彼はさも面倒臭そうな表情を崩さず、相手を注意深く見遣る。


「マジで信じろっての! ほんとに俺、予知能力が身に付いたんだって!!」


 駿の表情は真剣そのもの。


「……そこまで言うならわかった。それじゃあ、次の授業の内容をずばり予言してみろよ。もしそれが本当だったら、信じる」


 そうにべもなく言って返した。


 軽く息を吐いて動悸を整える。

 若干の期待と不安が仁也の胸中では鎌首をもたげている。それを確かめるかのように、ムキになっている駿の紅顔をっと眺めた。


「はあ? 夢の中だって授業なんか聞いちゃいないんだから分かるワケないだろっ」

「お、おう……」


 そういやこいつ真性バカだったと、仁也はよくよく思い返す。












 昼休みのチャイムがなると同時に、購買部へ一番乗りを果たすというのを信条にしている駿が駆け出して行く。

 教師の怒りの声を背中にまとって遮二無二爆走するあのエネルギーはどこから来るのかと、軽い感動すら覚えていた。


 教室の中でも、思い思いの声が飛び交い始める。

 賑やかな活気が再び舞い戻ってきたようだ。


 横の壁に背を付ける形で椅子に座り直し、教室全体をぼんやりと眺めていた。


 基本的に目立つ言動はしない仁也だが、その世紀末チックな体格のせいで怖がられ、無駄に存在感だけはあるらしい。

 また付き合う人間――主に駿というイメージ最悪の輩――のせいで、クラスでは悪い意味で一目置かれていた。


 視界の一番手前で、四段重ねという重箱弁当を広げた大将が黙々と箸を運んでいる。

 ちなみに、いつも一人でその量をぺろりと平らげる。言わずもがなか、彼のこの世で一番の楽しみが食べる事であるそうな。


「そういやさ、大将」

「んん?」


 重箱を片手にしながら、のっぺりした顔だけがこちらを向く。


「いや、今朝の話なんだけどな。駿が騒いでいたあの話」

「予知夢がどうだかってのんか?」


 むぐむぐとしっかり咀嚼した後に、要所のみを訊ね返す。

 極力無駄な言葉を発しないのが彼のスタンスであった。


「まあ、そうなんだが……それ関連で昨日の夜、東側の山の方で奇妙な光がどうとかって話が――」


「――なにそれ? 何の話?」


 仁也のすぐ後ろ、開け放たれた内窓から、見慣れた顔の女生徒がひょっこりと顔出して話の合間に強引に入ってくる。


「なんだ、お前かよ」


 話のを圧し折られた仁也は、少し不満げに闖入者ちんにゅうしゃの顔を横目で一瞥いちべつした。

 そこに居たのは、幼馴染の桐沢きりさわ詩帆しほだ。


 気の強さが感じられるような、形の良い太眉とつり上がった卵形の眼。何かしらの自信で溢れている口元は常に口角が上向きだ。癖が多い髪質のせいか、短めの髪は所々でねている。

 身体付きは発育に恵まれていて、そこに歳相応の健康的な肉感があった。


 仁也と駿、それに由希を加えれば、四人はもうかれこれ十年来の付き合いになる。小学校以来、なんだかんだでこの腐れ縁が続いていた。


 詩帆は隣に扉があるというのに、廊下と教室を仕切るその窓枠を造作なく跨いでくる。片手を支点に、両足を閉じたままの下半身を斜めに、腰の高さもあるそれを軽やかに跳び越えさせた。

 その際スカートの片裾が窓枠に引っ掛かり、色つやが良く張りのる太ももが垣間見える。しかしまるで恥じらう素振りもなく、堂々と手で払ってそれを直す。

 表情と同じく、その動作にもエネルギーにあふれた闊達さがあった。


「ちょっと『なんだ』とは何よ? 随分なご挨拶じゃない」

「お前、発言の内容が駿と同レベルだな」

「げっ!? う、嘘でしょ……」


 心底嫌そうな顔をした詩帆がのけぞるように身を引いた。

 よほどのショックらしく、さっきまでの溌剌はつらつとした顔が青ざめて歪んでいる。


「人類史上類を見ないあんなバカと被るなんて、とんだ屈辱だわっ!!」


 声を張り上げる昔馴染みを割かしどうでもよいという風に、仁也は流し目で視界に捉える。

 過ごしてきた時間が古すぎて、異性なのに異性とは思えない友人というのが実情のものだった。

 その為いつもどうしてか子供染みた接し方になってしまうのだ。


「で、毎度の事ながら何しに来たんスかね――隣のクラスの桐沢さん? なんで昼休みになるとこっちに来るんスかね――隣のクラスの桐沢さん? 正直なところ、同じクラスに友達いないんスかね――隣のクラスの桐沢さん?」

「――うっさいわっ! クラスにだって友達ぐらい居るわよ!」


 そう言うや否や、『隣のクラス』という部分を入念に連呼していた仁也のその顎へと詩帆の左膝が制服のスカートをひるがえして跳ね上がった。


 突如の事、しかし仁也を上体が仰け反らせてからその膝を”受け”に入る。

 椅子に座っているとは言え、長身の仁也の顔面まで上がった下半身の柔軟性と瞬発力は相当のものだったろう。

 それを辛くもガードで凌いだのだ。詩帆も――そして仁也も、堂にっていると呼べる技術を持っていた。


「そりゃあ、その……ちょっとあたしがみんなよりズレてるっていうか、少しばかり感性が独創的なのは分かってるし! 若干、空気が読めない人と言われてるのも認めるわよ! 確かにあたしが話の輪に入ると、どうしてか会話が止んじゃうし……。だからってねぇ! クラスに馴染んでないとか、そういうのは無いんだから! 本当よ!?」

「そんな事よりもまず……そのいきなり暴力に訴える癖なんとかしない限り、友達の一人も出来ないと思うんですが……?」

「――だから! 友達ぐらい居るって言ってんでしょうが!!」


 頬に冷や汗を浮かべた仁也が、恐る恐る口にする。その彼の太い首に向かって、今度は二度三度と続け様に肘鉄が打ち下ろされた。


「ちょっと、おまえ……! ほんと暴力は……!」


 大事な頭を守るよう机に伏せって丸くなる仁也。そこに容赦のない追撃が継続される。


 ぶっちゃけ、涙をたたえた必死の形相の詩帆であった。

 決して嫌われるような人格ではない彼女だ。しかしずばり言うと、正直過ぎて遠慮のないその口ぶりや、女子にしておくには勿体ない男前なその気風きっぷが、主に同性から距離を置かれる要因となってた。

 あとはまあ、こういう暴力的な素行であろうか。


「んーふふーふー♪」


 いとも容易く行われる暴戻ぼうれいの最中、一番乗りで目当てのパンを買い揃えてきた駿が揚々とステップを踏んで戻ってくる。

 そして彼は教室に入るや、眼前の光景に抱えたパン袋を取り落とし、ただ慄然する他なかったのである。


「そんでー、仁也どん、何の話だったんかのう?」


 我関せずと重箱弁当を平らげた大将がごちそうさまの合掌を済ますと、窮屈そうに身を捻って右隣へと向き直ってきた。

 ひたすら亀のように身を丸め、無慈悲な暴力の嵐が過ぎるのを耐えていた仁也から、ようやく詩帆は荒い息を吐いて身を離したところだった。


 ボロ布のように机にへばり付いたまま動かない仁也へと、駿が慌てて駆け寄り手を取る。


「――仁也ーっ!! 大丈夫か!? い、生きてるか!?」

「……あ、あぁ……暗い……暗くて、寒い……なにも、見えない……」

「じ、仁也っ!! お、お前、目がっ!?」

「そこに……そこにいるのか、駿……?」

「仁也! ここだ! 俺はここだぞ! しっかりしろっ!!」

「駿……もう、俺は……だめ……みたい……だ……最後に一つ、聴いてくれ……」

「なんだ!? 仁也! 何が言いたいんだ?!」


 掻き消える前の命の炎を渾身に燃やし、仁也は言葉を紡いでいく。


「今日は……黄色と……白の……――横縞ストライプ……!」

「――っ!? 死ねぇぇぇっ!!」


 弱々しく吐き出す辞世の句を涙をこらえて聴き取っていた駿の目の前で、野獣の咆哮と共に放たれる詩帆の凶悪無比な一撃。

 仁也に残された僅かな意識をも刈り取っていった。


 悲痛な駿の叫びが室内に木霊した。

 仕方がないので、大将はまた窮屈そうに身を捻って戻した。












「あー、首がいてぇ」


 授業が終わった放課後の学校。

 部室棟にある空き教室の一室に、仁也、駿、大将の3人がたむろしていた。


 こうして3人で集まっては、何をするでもなく暇を持て余している。

 特に何かしらの部活動に所属しているわけでもない彼らだが、勝手に空いてる教室を占拠してしまっているのだ。

 空き教室は無数にあるため他の部活動の生徒が特に困る事はないが、一応、何度か注意を受けた事もある。

 無論、彼らは全然懲りていないが。


 室内はほぼ予備の机やらの倉庫と化しているが、それらを好き勝手に使い分け、さらに様々な物を持ち寄って自分達の娯楽スペースを作り上げていた。


「やー、でも実際、ほんとよく生きてるよなお前」

「当たり前だ。鍛え方が違わい」


 上着を脱いでTシャツ姿になった仁也がその太い首をさすりながら、片足立ちで股割りをするような体勢でいた。

 右足を床に、見事180度の開脚を保って左足を天井へ向けている。さらに驚くのは、その左足裏に40kg近くのダンベルプレートを乗せている事だ。

 筋力だけではなく、身体のしなやかさや体幹バランスといったものが伴わなければ不可能なトレーニング。素人から見れば、曲芸の一種だろう。


 暇さえあれば、彼はこういう特殊なトレーニングで身体を鍛えている。


 シャツ一枚になるとその規格外の肉体がさらに迫力を増す。

 厚く張った僧帽筋や大胸筋、腹や腰も堅く引き締まっている。

 両の腕も太く隆起していて、黒いズボンに包まれた大腿筋なども内側から生地を押し上げている。


 歳不相応に屈強なこの肉体も日々の鍛錬の賜物であると、仁也は常から豪語していた。

 努力や継続という言葉から地球半周は遠い所にいる駿から言わせれば、スポーツや部活動をやっているわけでもないのに物好きなという事らしい。

 実際、駿に限らず、他の人間から見ても仁也のその肉体鍛錬への執着は並ではないと言える。

 しかしその点について彼はただの趣味であると言い通していた。

 特に深い思考を有さない駿という人間はその言葉に疑いもなく納得し、大将の方も別段これと言って問い質しもしない。

 なんせ、そんな体勢でありながら何事もないよう会話に加わっている仁也をおかしいとも思わなくなっている二人なのだ。


 そんな二人は今、トランプで一勝負していた。

 さっきまでは将棋などもやっていたが、勿論、考えるという行為を知らない駿が一度でも勝つ事などなかった。


「ああ、そうだった。大将、昼休みに言おうとした話なんだけど――」


 左足に乗せた4枚のダンベルプレートを水平に保ちながら膝を降ろすや、今度は右足へと手で乗せ換える。

 そしてやはり、見事なまでに180度の開脚で天井にそれを献上していた。


「んー、結局、何だったんかの?」

「だから、今朝の話。このバカが予知に目覚めただのなんのと」


 凍りついたように手札をにらんでいる駿を顎で指し示す。

 歯をきしらすようなその駿の表情から、勝負の形勢は決していると見受けられる。


 するとその折、空き教室の引き戸が大きな音を立てて開かれた。


「見ぃつけた! こんな所にいたわね!?」


 後背に傾き始めた西日を受けて、なぜかやたらとドラマチックな登場をかましたのは、誰あろう桐沢詩帆その人であった。

 しかし今は制服を着ておらず、中にシャツを着込んだ空手着姿だ。


 その不意の騒音でさすがにバランスを乱し、足に乗せたプレートを滑り落としてしまう仁也。

 だが器用に両手で二枚ずつキャッチする。


「――っと。またお前か……」


 何気なくやってみせたが、10kgの分厚い鉄盤二枚を片手ずつ、指の間に挟むだけで受け止めたのだ。ピンチりょく――指の力までもが規格外らしい。


 固まっていた駿も勝負から引き剥がされ、詩帆の方へ振り向く。


「ちょっと!? どーいうワケよ?!」


「なにがっスか? 縞々パンティの桐沢さん」

「縞パンの桐沢姉貴、オッスオス!」

「――ブッ殺すわよ!!」


 牙を剥いて吠え掛かる詩帆だが、軽口をたたく仁也と駿の二人ともが既に彼女の方を向いてない。駿は目の前の手札に向き直り、仁也も何時の間に椅子に腰を着けていた。

 その様子に、腹立たしげに床を踏み鳴らしながら向かってくる詩帆。

 3人が囲うテーブルの輪へ入り、傍にあった椅子を引き寄せどかっと座り込んだ。


「もう何よ!? こんなとこで無駄に時間を浪費してんなら、あんた達さっさと空手部に入部しなさいよっ!」


 興味なさげに二人の勝負の行方を見守っている仁也へ、その対面の詩帆が身を乗り出して迫った。

 仁也はと言えば、転がす要領でその複数のダンベルプレートを掌の上でもてあそんでんでいる。


「今はもう部員減少で同好会扱いなんだろ? 空手部」

「だーかーらっ! あたしがこーやって勧誘して回ってんのよ!」


 どうやらこんな早い時期から三年生が受験で抜けてしまったという。

 彼女の空手部はそここそこの伝統があるというのに、部活動の最低定員数の5人を下回って廃部の危機に直面していた。


「まじぃ、部活とかー、ちょーダリィんすけどー」


 聞くとは無しに聞いている駿が、机に下顎をつけるほどの猫背というか前屈姿勢で舌足らずな声を挟む。


「誰もあんたに期待なんかしてないわよ――駿! 名前だけ貸しなさいっ!」

「まあ名前だけってんなら、俺も別に入ってやらんでもないが」

「あんたは名前だけじゃダメよ仁也。あんたには残り一年でインターハイ目指してもらうんだから」

「何でだよ!」

「当たり前でしょーが! あんた経験者じゃないの!? ウチの道場に通ってたでしょ!?」


 詩帆は町の寂れた空手道場〈昊心館こうしんかん〉の一人娘だ。

 元々は寸止めではない空手――つまりはフルコンタクトでやっていた〈昊心館〉道場であるが、こんな辺鄙へんぴな田舎では選りすぐっていては道場生など集まらない。

 それ故に今は、街の子供やお年寄り相手にサロンとして場を設けるような事をやってる。――悲しくも『健康空手体操ストレッチ』などと銘を打って。


 幼少の頃、ちょっとした思い立ちで仁也はそこの道場へ確かに通っていた。

 それがきっかけで彼女と見知ったわけだが、その関係がここまで続くとは思っていなかった。


「小学校の時の話だろうが。しかも突き指が原因で一年ぽっちでやめたんだぞ」

「嘘つきなさいよ! 昼間の道場には顔出さなくなったクセに、今もお父さんには稽古つけて貰ってるでしょ?!」

「そりゃお前、丹雄あきおさんが勝手に『手放すには惜しい逸材』だなんだのと言ってきてだな……」


 丹雄とは〈昊心館〉唯一の師範であり、無論そこの館長でもある詩帆の父親のことだ。


「そうよ! その通りよ! 正直、あんたを手放すのは惜しいのよ!」

「なんだよそれ……」


「大体ねぇ! 神様にそんだけ恵まれた身体を与えて貰っておいて、それを生かそうともしないってどういう事よ!? 冒涜ぼうとくものよ! 全世界の競技者達への最大級の冒涜なのよっ!!」

「ちょっとほんと何言ってるか分かんないですけど」

「日本人であんたみたいな体格ザラにはいないのよ?! 格闘技においてリーチやウェイトがどんだけ重要か、今更説明するまでもない! 分かったらさっさとあたしと来る!!」


 強引に仁也の胸倉を引っ掴んで席から立たせようとする詩帆。


「や、やめて下さい! 自分ほんと、花とか小鳥とか愛でる方が向いてるんです! ほんと暴力とか荒っぽい事無理なんですぅ!」


 無理して高い声を出し、か弱げさを醸して抵抗を試みる仁也。――どう見ても無理があったが。


「暴力と武道は全然別物よ、この馬鹿っ!!」

「そう言いながら拳を振るってくるこの人何なの!? ――こわい!!」


 がんとして立とうとしない仁也ともはや取っ組み合いになっている詩帆が、遂には握り拳を振りかざし始めた。

 詩帆も全力ではないとはいえ、座った状態でその打撃を易々と平手で受け止めいく仁也。片方の手には出前の蕎麦屋状態のダンベルプレートを乗せたままだ。


 傍から見れば、詩帆の繰り出す突きは十二分に鋭くはやい。だがそれにも増して仁也の反射神経が勝っているのである。

 実際、その肉体的素養だけでなく、格闘技のセンスという点においても仁也は逸材であった。


 頭上で飛び交う拳と掌の応酬。

 それにまるで取り合わず、手札5枚とも全てチェンジというやけくその戦略でボロ負けした駿。

 ようやく、その上空がしっちゃかめっちゃかなになってる机から身を引いて口を挟む。


「じゃあ、あれかー? 大将も格闘技向きなのかー?」

「もちろん! その気があるなら大歓迎よ! 杉浦も即戦力の逸材だわ!」


「んー、わしは医者に止められてるのでのう」

「医者から? なにそれ、どーゆこと?」


 さすがに切りが無いので仁也は重しを床に投げ置き、詩帆の両腕を捕らえて封じる。

 四つ手を組んだその体勢で、詩帆は大将を振り返って問うた。


「ん……膝が、本格的にヤバイんだのう……」

「え? 膝って?」

「膝の軟骨がだいぶ擦り減ってるらしいんだのう。過度な運動は控えるよう言われてもうての」

「えっと……その歳で? ……嘘でしょ?」


 微動だにしないでいる大将の一言で、それまでのはしゃいだ雰囲気が嘘のよう掻き消えた。

 各々が気まずそうに顔を見合しており、深沈とした空気がその場に。


「詩帆、お前さ、人には触れちゃいけない部分があるだろ。ちょっと酷くないか」

「あんたが言うなっ! て、てゆーか、あたしそんなつもりじゃなかったし……」


「そういや大将、体育の時もよく見学してたよな……」

「えぇ? そ、そうだったの!?」

「おい、見てみろよ……大将のあの辛そうな顔。きっと、ずっと気にしてたんだろうなぁ……」

「とっ、特にあたしには表情変わって見えないんだけど?」


「なあ、駿……人として一番悲しいのって、他人に対して思い遣りの心が持てないような輩だと俺思うんだわ」

「ああ、そうだな仁也。マジで引くよな」


 示し合わせたように声をひそめた――それでもちゃんと聞こえる様に調整している――二人の視線が、戸惑いを隠しきれずいる詩帆の顔へと痛いくらいに注がれた。


「だ、大丈夫よ! ほら、あのなんとか酸とかなんとかコラーゲンとか摂ればきっと大丈夫よ! テレビの通販番組で言ってたから!」


 そんな空気を振り払うべくか、詩帆が精一杯の明るい表情をつくり胸の前で拳を握り締めてガッツポーズを取る。


「知ってるか、駿? 人の心を一番傷つけるのって、同じ立場にもなった事のないような人間から掛けられる押し付けがましい無思慮な善意なんだと」

「ああ、そうだな仁也。しかも本人は、それで救ってやったなんて優越感に浸ってるんだぜ。ほんと最悪だぜ」


 絶妙な音量で二人は囁き合い、非難の色合いをさらに強くした視線を投げ掛ける。


 そんな視線の圧力に耐え切れなくなった詩帆。

 先ほどまでの無理ある明るい顔は鳴りを潜め、蒼白な顔となっては徐々に後ずさりを始めるのだった。

 そうして開け放たれたままの教室の扉の近くまで下がると――


「わ、悪かったわよおぉぉ!!」


 耐え切れないよう、涙声でそんな事を叫びながら走り去っていった。

 沈みかけのより鮮やかな夕日が彼女のそんな後姿を横から照らしては、やがて宵の暗闇が忍び寄るのだった。


「ようし、撃退成功だな」


 凝った肩をほぐすように回した仁也が軽く嘆息する。


「んー、ちょっと可哀相じゃなかったんか?」

「あれぐらい詩帆なら平気だぜ。次の日になりゃ、いつも通り」


 ケタケタと笑った駿が、机の上に散らばった物を片し始めた。


 ちょうどそんなタイミングで、校舎のスピーカーからも下校を促す放送が鳴り出す。


 仁也は窓から薄暗くなったグラウンドを見渡し、ぽつりぽつりと部活動を終えた生徒達が帰り支度を始めているのを確認する。

 制服の上着を手早く羽織り、鞄を携えると廊下の方へ出た。


「じゃあ、一足お先。毎回付き合って貰って悪いな」

「別に構わねーし」

「ん、気ぃつけてな」


 振り返って駿と大将とに軽妙な別れの挨拶を交わした。














 次第に人気ひとけをなくしていく校舎を巡って、仁也は体育館の前まで来ていた。

 開いた側面の大扉から中を覗くと、数名の生徒が後片付けをしている。しかし、仁也が探している相手の姿は見当たらなかった。


「楠見せんぱいっ!」


 もう一度よく見渡そうとその高い上背をさらに反らしていた所で、後ろからのいきなりの大声にたじろぐ。

 振り返れば、短いおさげの小柄な生徒が、両腕を後ろに回してニコニコと微笑んでいた。

 橙色のハーフジャージがよく似合っており、練習用のであろう白いバトンが背中から見え隠れしている。くりくりとよく動く、まるい目が特徴的だった。小動物のような印象である。

 そして人を選り好みしない笑みを浮かべているのだが、仁也はその朗とした笑顔の中に――何やら含むものがありそうな気配を嗅ぎ取っていた。


「美鈴か。びっくりした」


 仁也がそう呼んだ女生徒は一学年下の後輩、榎本えのもと美鈴みすずだ。

 妹の由希と同じクラスであり、特に親しい仲だ。

 仁也達ともかつて通っていた中学にて面識があったりする。まあ、そもそもが狭い田舎町である。遠い町外の学校へでも進学しなければ、だいたい同じ面子と顔を合わせる事になる。


「そんなに首を長くして、誰かをお探しなんですねっ!?」


 やたら元気よく、さらに語尾を弾ませるように発音するのが、どうも彼女の癖らしい。


「まあな。あと声がでかい」


 美鈴はかなり背が小さく、二人が並んで立つと彼女の頭は仁也の胸郭より下の位置にくる。大人と子供ほどは違うだろう。


「それってわたしですかっ!?」

「いや違う。あとほんと声でかい」

「ひどいっ!! もしかしてせんぱい、わたしの事キライですねっ!?」

「そんな事ない。心底どうでもいいだけだ」

「――やっぱりっ!!」


 両目を悔しげにつぶって身もだえしている美鈴だが、そこはかとなく薫るワザとらしさがまた妙に様になっていた。


「いいからもう、お前の片割れ連れて来いよ」

「むぅ! 楠見せんぱいはいつも由希ちゃん贔屓びいきでひどいですっ!! 由希ちゃんとわたしは親友の間柄なんですから、わたしもうんと甘やかしてくださいっ!?」

「そんな理屈は通らん。お前からは、巧妙に隠された邪気を感じる」

「――なな、なんて事言うんですかっ!? これでもわたしは周りからはムードメイカーだと絶賛されてるんですよっ!!」

「他は騙せてもこの俺は騙せん。正体を表わせ――この魔物め!」


 ちょうど掴み易い位置にある美鈴の頭をぐわしと左右から挟んで力を込める。


「やーめーてーっ!! 頭が潰れちゃいますーっ!!」


 美鈴が自分の頭を掴んでいる仁也の前腕に両手を引っ掛けたのを見計らって、思い切りその頭を持ち上げてやる。

 容易く美鈴の体は宙に浮き、「ぎゃーっ」というウソ臭い悲鳴をあげては足をバタつかせていた。


「兄さん――美鈴で遊ばないでください。まったく」


 いつの間にか、呆れた顔で由希がそばに立っていた。

 彼女も美鈴と同じ橙色のジャージ姿で、やはりバトンを抱えている。


「お、もう部活終わったか?」

「まだ片付けがありますから、兄さんは先に帰ってても結構ですけど……」

「いや、待ってるよ」


 そう言うと仁也は、ようやく人間クレーンゲームを停止させた。いきなり離されて尻餅をついた美鈴が、抗議の悲鳴を尚も強くする。


「酷すぎますっ!! 虐待ですっ!! PTSDレベルものの体験ですっ!!」

「なんだ、せっかく身長が伸びる秘蔵の整体術を施してやったのに」

「――マジですかっ!? 今のでわたしの背、伸びたんですかっ?!」

「なワケあるか」


「……あーん!! 由希ちゃぁーん!! 楠見せんぱいがド外道ぉーっ!!」

「はいはい。戻りますよ、美鈴」


 はしっと泣きつく美鈴を慣れた風にあやしながら、由希たちは正面玄関へと通じる外通路を使って体育館の中へと戻っていった。



 館内ではモップを掛けての清掃を行っている様だ。

 手持ち無沙汰に腕を組んでぼんやりとその光景を眺めてる内に、残った生徒達の姿もだんだんと減っていく。

 辺りはもうだいぶ暗くなっていた。校舎やグランド、体育館内の照明だけがやけに寂し気に灯っている。


 ややあって、またも背後から声を掛けられる。

 制服に着替えなおした由希と美鈴の二人だった。


「それじゃあ、帰るか」

 

 仁也を先頭に、三人は連れ立って帰路へとついたのだった。










 田畑の多い田舎道はそのほとんどが真っ暗だ。

 学校側も部活動で遅くなる生徒は極力集団して下校するようにと注意喚起している。


「わお! 星がすごい瞬いてるよ――由希ちゃんっ!?」

「もう美鈴、ちゃんと前みて歩かないと田圃たんぼに落っこちますよ」


 瞬く星空を眺めるように、上ばかりを仰ぎながらくるりくるりと反転しながら歩く美鈴。そんな彼女を由希は馴れた風に言い含める。

 背が低い方に分類される由希よりもさらに美鈴は小さく、そんな二人は同年代という雰囲気がないのだった。

 あるいは取り澄ましたよう気取る由希と、幼子のように天真爛漫に振舞う美鈴の、それぞれの性癖のせいか。


 しかし、さっきまで恨めしそうに泣いていた美鈴だが、今はもうけろっとしている。余程、気分の切り替えが上手いのか、さもなくばやはり全てが演技だと考える方が自然だろう。

 仁也は胸中で美鈴というこの少女の心象をさらに油断ないものとした。


「にしても楠見せんぱいがいれば熊が出てきても安心ですね!」

「期待し過ぎだろ。俺を何だと思ってんだ」

「いよっ――熊狩りの男っ!!」

「やめい、本当に出て来たらどうする」

「そうですよ、兄さんは見かけよりもずっと小心物なんですから。本当に出てきたら大変です」

「えぇー? せんぱいビビリさんなんですかー?」

「バッカお前――見てみろ、熊と聞いて膝が武者奮いを始めたわ! 熊とかワンパン余裕過ぎて常に遭遇する機会を待ちびてるわ!」

「――せんぱい! 見事に歯の根が噛み合ってないですねっ!」


 やがて、田園地帯を抜けて住宅街へと差し掛かった。

 ここまでくると街灯も多く、コンビニやら自販機やらの灯りで風景が一変する。


「じゃあねーっ! 由希ちゃん、せんぱい、バイバーイ!!」


 美鈴は底抜けに元気な声で、自分の家の方向へと駆け出していった。

 それを眺めつつ、騒音で訴えられろと思う仁也。 










 美鈴の家付近まで遠回りしたせいで、自宅への道のりはまだ少しある。


 街灯の並んだ遊歩道を二人、幾つもの影法師は揺らめかせては歩いていた。

 辺りに人影はないが、人々が暮らしていく上での雑多な音、そんなものだけが遠く小さく聞こえていた。


「体、なんともないか? また熱がぶり返してなきゃいいが」

「大丈夫です。ちゃんと自己管理はできてますから」

「そうか、でもあんま無理はするなよ」


 極力遠くを見ながら、それでも意識は由希に向いていて――そんな言葉を掛ける。

 四月を越えたとはいえ、夜の空気はまだまだ冷たい。山間のこの町は、とくに夜気が冷え込むのが特徴だった。

 仁也はこの夜気がその華奢な細身を害しないか、それが心配だった。



「わざわざこんな時間まで私を待っていなくてもいいのに」

「別に構いやしないだろ。俺がしたいからそうしてんだから」

「そうは言いますけど……」

「いつも通り、駿たちと駄弁だべって暇潰してるだけだよ。その次いでみたいなもんだ」

「駿くん達まで巻き込んでるんですか? もう……」

「どうせあいつら暇を余してるからな」

「そもそも無理して兄さんを待たせてる事が問題です。これじゃあ、私のワガママにつき合わせてるみたいじゃないですか」

「体の弱いお前が運動部なんかに入ったんだ。もしもなんかあった時、俺が居なくてどうすんだよ?」

「子供じゃないんですから、そんなの……」


 まるでその反論を次第になげうつかのように、由希は言葉の最後を曇らせる。


 時折、遠くから自動車の排気音が大きく響いた。


 仁也は隣にいる由希の顔を盗み見る。

 相変わらず澄ました様な涼しい顔をしているが、少し俯き加減だ。街灯に照らされたその白い頬に僅かな朱が差している。それで、言葉では不満をぶつけているようで、内心は嬉しがっているのだと判断できた。


 そういう素直じゃない――面倒な機微すらが、それでも仁也には微笑ましいものだと感じる。


「そういや、やっぱり部活の後片付けとかって一年生の仕事なのか?」

「なんですかそれ? ウチの部活は、そんな体育会系の縦社会なんかじゃありませんよ。片付けや雑務はきっちり週毎の当番制です」

「そいつは殊勝な」

「――心配してくれてるんですか? 私はこれでも、人付き合いは上手な方なんですから。なんせ、兄さんのようなぶっきらぼうで無分別で無思慮な人間が身近に居ますからね。ほんと、反面教師様々です」


 得意げに目を伏せた由希が、背筋を張って声色を高くした。


「お前のは八方美人って言うんだよ」


 辟易とした顔で仁也は肩をすくめた。

 そんな滑稽こっけいな様子に、由希が口の中で鈴を転がすような上品な音色の笑い声をもらす。

 つられて自然と仁也の口元も僅かに緩んでいた。


 風の通り道に行き当たったのか、街路樹をざわめかせて夜風が二人の間を撫でていく。

 由希のこまやかで真っ直ぐな髪が、さらりと風に遊ばれ散らばった。白く華奢なうなじが見え隠れしている。

 よく知った、柔らかな匂いが仁也の鼻腔をくすぐる。


 その所為せいだったろうか、懐かしい昔の記憶がいくつか思い返された。

 ほとんどは取り止めのない様なものばかりだ。だがその中に、明瞭な質感を伴って仁也の胸の奥から湧き立ったものがあった。


 それは否応でも胸裏きょうりを掻き乱す思い出だった。


 いつの間にか、その郷愁めいたもの――そして苦く、痛みを伴ったものでもあるそんな感慨に囚われ、足を止めていた仁也。


「兄さん……?」


 間近から見上げるように覗き込んでいる由希のその眉根を寄せた不審そうな顔を認識して、ようやくと仁也は身動みじろぎをした。


「何してるんです? 変な顔して立ち止まって」

「ああ、いや……ちょっと、考え事してた」


 由希まだその細い眉をひそめて、様子のおかしい仁也をいぶかしんでいる。

 そんな事はまるで気付いてもいないという風を装い、由希を促すようにその肩に手を置いて歩みを再開する仁也。


「あれだな、それにしてもお前、兄さんは悲しんでいるぞ?」

「なんですか、いきなり」

「だってお前、おしとやかぶるのだけが取り得なお前がだな、まさか鈍器を振り回すような部活動に精を出すだなんて」

「バトンです」


「あんな太くて長くて硬い棒状の物体の扱いを練習して巧くなって、いったい将来何の職に就くつもりなんだ?! ――はしたないっ!」

「……」

「なんだ? 太くて長くて硬い棒状の物をどうするんだ? 回すのか? ――回してて投げるのか? なんだそれは!? どんなプレイなんだ!? ――どんな高度なプレイなんだっ?! 未だかつて兄さんもそんな斬新なプレイは思い付かなかったぞっ!? ちょっとそれ、一回兄さんにもお願いしていい――ふごぉっ!?」


 一回転分の遠心力が宿った手提げ鞄が仁也の顔面に張り付いていた。教科書の詰まった鞄の威力はなかなかに侮れない。


 仰向いたままの仁也を見向きもせずに、すたすたと先を急ぐ由希であった。











 口も利いてくれなくなった妹をなだめすかして、褒めて崇めて拝んで、なんとかご機嫌を取りながら帰宅した。


 彼らの家は住宅街のやや外れに立っている。若干、手付かずの山際に近い。

 平均的な二階建て家屋よりやや狭いが、庭を含めた敷地面積だけはとにかく広い。日本では珍しいが、ここが地方であるが故か。


 自宅に着くや、由希は制服を着替えて私服姿になる。手馴れた風にエプロンを付け、夕食の準備に取り掛かるのだ。

 打って変わって仁也は制服がしわになるのも気に止めず、リビングのソファーにぐってりと両手両足を伸ばした状態でへばり付いていた。


 大半の場合、この家では家事全般を由希が執り仕切っている。

 由希から言わせれば、仁也に任せれば手間が二倍に増えるだけだという話だ。

 時折、由希の指示に従わず、仁也もその手腕を振るう事もあるが結果は惨たるものだった。決して不器用というわけではないのだが、きっと生まれついての乱雑なその感性が如何いかんなく発揮されてしまうのであろう。


 そんな仁也は、今朝からポストに入ったままだった紙面の注意書きを見て唖然としていた。


「美鈴の奴、これを知ってて言ったのか」


 それは町内会が配布しているチラシで、回覧板の亜種のようなものだ。

 そこには、東四通ヶ岳付近で野生の熊の目撃例があったと注意の呼び掛けがされていた。


「なんですか、それ?」


 後方から、ソファーに座っている仁也の広い肩に手を掛けて、由希もそのチラシをまじまじと覗き込んだ。


彼奴きゃつめ、絶対フラグを立てる気でいやがったな」

「まあ、町の西側まで来ないでしょう。それにほら、猟友会の人が派遣されるって書いてありますし」


 むせ返るほどに自然一杯なこの町では、こういう事もままある。

 特に町と山脈との境界では、人命に関わるような事は稀だが、毎年何らかの事故は起こっていた。


「あいつはやっぱり悪魔の類だ」


 無作法に足を投げ出した仁也が、忌々しげな鼻息と共に悪態を吐き捨てた。


 そんな兄を置き捨てて由希がキッチンの方へと足を向けたその時、室内に電話の音が鳴り響く。

 面倒臭そうな眼で振り仰いだ仁也を制して、由希は素早く台に置いてある受話器を手にとっていた。


「はい、楠見です――」


 子機を片手により取り澄ました声でその応対に出た由希だが、次の瞬間に「あっ」と小さく息を呑み込んだ。

 そしてどこかバツの悪そうな瞳を仁也の方へ一度だけ向けた。その瞳は、まるで何か、腫れ物にでも触れたかの時のものだった。


「……うん。……うん。……平気、大丈夫ですよ」


 あからさまに由希の声が低く落ち、向こうからの電話の声に頷きながら言葉を返していた。


「……うん。……わかった――それじゃあ」


 子機を戻して息を吐いた由希が振り向く。

 その様子を捉えていた仁也は、これまで見たこともない様なかおでいる。

 いつも不敵に――どこか飄々ひょうひょうと得意気ですらあったそのおもてから、一切の表情が消えている。


「”義父とうさん”からでした。変わりはないかって……」


 普段、頼まれてもないのに軽口を叩き出す仁也の口は、今はそう堅く引き結ばれている。まるでそれ以上口を開いたら、自分でも制御できない言葉の連なりが噴出してしまい、そうならないようぐっと耐えているかの様に。


 由希がどこか遣り切れない伏し目がちな視線を向けるも、仁也は決して眼を合わせようとしない。


 何かを言葉にしようと息を吸い込んだ由希だったが、結局、彼女の喉の奥からそれが発せられる事はなかった。

 いつにも増して儚げな印象をただ揺らめかせ、彼女はその場から離れた。














 久しぶりに夢を見た。



 ひどく懐かしく思える昔の記憶の夢だ。

 曖昧なのにきらめいていて、それでいてモノトーンの記憶。

 そこにいたのは幼き日の自分だ。

 何も知らず、何も見えておらず、浅はかで残酷な自分だ。

 愛される事、与えられる事、それが当たり前で、当然の権利だと思っていた。

 その為ならばたとえ自分以外の誰が傷つこうと構わない――そう信じて疑わない愚かで甘ったれな自分だ。


 そして怯えた瞳のいとけない少女。


 彼女は泣いていた。

 理由もわからず泣いていた。

 それが疎ましく、憎たらしく、目障りに思えた。

 おもんばかる事を知らなかった自分は、ただ眼前から奪われた“当たり前”の帳尻を合わせようとしていた。

 ままならないものへの怒り、それをぶつける矛先を求めていた。


 だから自分は、少女を傷つけた。


 か弱く、儚い、本当はこの世に二つとない大切なものだったその少女を。


 決して忘れてはいけない記憶だった。

 くさびのように自身の奥の奥にまで打ち込まなければならない記憶だった。

 げてはいけない誓いの――その証たる記憶だった。


 それらの光景がまぶたの裏に思い返される度、キリキリと体の内部を切りつけられるような痛みが自身をさいなむ。

 しかし、それを受け入れるのが、贖いあがなというものなのだろう。














 聞きなれた電子音が鳴っているのに気づき、徐々に意識が覚醒されていく。それと同時にひどく喉が渇いてるのを感じて、呻くように目を覚ました仁也。


 自室の電灯は点いたままだ。どうやらいつの間にか眠りに落ちたらしい。

 時刻の確認をしようと枕元の携帯に手を伸ばす。日付はもう変わっていた。


 今し方、メッセージが一件届いた様だ。

 だが送り主が駿であるのを確認すると内容も読まずに放りだした。

 早寝早起きのあの健康優良児の駿がこんな時間に起きてるなど珍しい。前にも数度、寝ぼけた内容の文面を送ってきた事があるので、今回もその類であろう。

 そもそも相手が相手なので、それでなくともおよそくだらない内容のものなのだ。


 机の上のぬるくなったペットボトルの水を一気にあおる。そして、首を左右に回しながら何とはなしにベランダへと向かった。

 仁也の部屋は2階の南東の角に位置し、その二辺がベランダとなっていた。

 戸窓から外に出ると、建物の少ない平原のような東側の町並みと、その向こうに黒々と広がる連峰が目につく。

 東西で町の景観が様変わりしているのは、もう見慣れた特徴だ。



 そんな時だった。



 右手側――南の方角で、何かが光っているのを意識する。


 素早く振り向いて、その光景を直視した仁也。

 その背筋が凍りつく。


 南側にある峰の一つ、伐採で禿げ上がったような地肌のその斜面に、真っ赤に輝いた光球が猛烈な勢いで動き回っていた。


 町の南西に位置する仁也達の家からは、南と西側の山々との距離が近い。

 昨夜目撃した緑の光よりもさらに迫力を伴って見える光の球が、山肌を駆けずり廻るように縦横無尽に巡っている。


 あまりにも、異様な光景であった。


 見ている間に光の球は二つに増え、そしてまた一つに戻り、それを繰り返して駆け回る。

 やがてそれらがより一層に動きを速くしたかと思うや――

 ぶつかり合うような速度でお互いが衝突し、そしておもむろに明滅し出し、その光度を下げながら薄く溶け消えた。



 数瞬、仁也は言葉も出せずに固まっていた。



 やがて、ようやく我が身がある事を思い出したかの様に、掌で顔を拭っては息を吸い込む。

 ふらふらと覚束無い足取りで部屋に戻り、ベッドに腰掛けて呼吸を整えた。


 あれは一体何だ――

 そう自問を繰り返す。


 昨日と同じ奇妙な光。

 今日は、昨日よりもそれがはっきりと視認できていた。


 ふと、先ほどの駿からのメッセージに意識が向く。

 枕元に埋まっている携帯電話を手探りで見つけ、画面を開き、そして愕然とした。



 『また見た変な光』――と、簡素すぎるそんな文章が添えられていた。



 ままならない思考の中で、仁也は苦いうめきをもらした。


 学校でも、駿はそんなニュアンスの話をしていた。駿の事だからと話半分にしていたが、この状況ではとても看過できない内容だ。


 どくどくと流れる自身の血流を頭の中で聞いているような感覚だった。


 駿に今さっきこの眼で自分も見た事を電話して告げようかとも考えた。

 だが今現在の自身がとても平常心でない事を省みて、先走るより明日詳しく話を聴いてからのが良いと、結局は携帯を机の充電器に戻した。


 呼吸を整えようとするが、まとわり付くような汗が浮かぶ。

 先ほどの光景が頭から離れないのだ。

 あまりに強烈な印象だった上に、二日続けての体験。

 しかも自分だけでなく、少なくとも一人、第三者の目撃談もある。見間違いや幻覚、気のせいだとは言っていられない。


 動悸が、また激しくなる。

 だがやはり、これは恐怖という観念ではない気がするのだ。


 あるいは明確に表わすとするならば――

 期待と呼べるものではないだろうか。


 何かが胸の内でそそけ立つ。

 ざわざわと底強く、何故だが懐かしき気分にさえなってくる。

 嫌な心持ちはまるでせず、全く以って妙なのだ。


 身体が変に熱気を持っている。

 耐え切れず部屋の中を歩き回り、手足を曲げ伸ばして柔軟運動をしてみるも、まるで治まりがつかない。

 自然と筋肉が強張り、骨がきしむ音が聞こえてきそうだ。

 その常人の域でない凄まじい肉体が、何かに触発された様にたかぶっている。


 こんなのは初めての経験だ。


 いや――

 微かな記憶のうちで、似たような感覚を憶えている。

 もうだいぶ昔に、このようなチリチリと腹腔はらの底から焦がされる感覚を体験していた。

 今日ほど、明確なものではななかったとしても。


 仁也は堪え切れず、らちもないよう常用しているトレーニング器具を使っては、己の肉体をいじめた。


 一つ一つの動作に無理にでも力が篭った。

 片手一本だけで、自身の90キロを越えるその重量級の肉体を支えて懸垂運動チンニングを続ける。普段ならきっちり一回耐えられるかどうかなのだが、その時は十回以上も続いた。持ち手を変えて、やはり同じように繰り返す。

 真っすぐに倒立し、伸ばした身体と壁とを常に平行に保ちながら、両肘を曲げて顎先をギリギリまで床に近づける。その状態での腕立て伏せプッシュアップすら繰り返し可能であった。



 一時ほど経つと、呼吸は乱れ全身滝のような汗にまみれていた。


 仁也は荒い息を撒き散らしながら、1階の風呂場へと直行する。

 その時、由希の部屋の方で人の動いた、起き出したような気配が微かにした。

 だが構う余裕もなく、服を脱ぎ捨て風呂場になだれ込んでは熱いシャワーを浴びていた。


 そしてシャワーの熱湯を頭から受けながら、ようやく呼吸を整える。

 しばらくは何も考えが巡らず、排水溝へと流れていく水流を眺めていた。

 


 数分の事だったか、それとも10分以上そうしていたか、曇りガラスの向こうから掛けられた声によって我に返った。


「……兄さん? 兄さん――平気なんですか?」


 シャワーの音とガラス越しなため掻き消えそうな程小さかったが、仁也がその不安げな声を聞き漏らす事はない。


「あ、ああ! すまん! なんでもない! 平気だ」


 大きな声で返事をかえすと、少し躊躇ためらうように留まったものの曇りガラスの向こうの影はぎって消えた。

 手早く頭と身体を洗い流し、湯気の立った身体を脱衣所へと戻す。


 実際、さっきまでの自分はどうかしていたと改めて思う。

 まるで他の事が頭に入ってこなかった。何かが胸の奥でたぎっていて、意思やら理性やらを押し退けて体内からその何かを発散させる事だけ考えていたようだ。

 今はようやく、平静を取り戻しつつある。


 服を着替え、乾き切ってない髪のまま脱衣所を出ると、リビングの方に明かりが点いているのが見える。

 寝巻き姿の由希が、心細そうにソファーに座っていた。


 バスタオルで力任せに頭を拭きながら仁也もリビングへと足を踏み入れると、その姿を見てようやく息を吐けたかのような表情をする由希。

 しかし次の瞬間には、まるで何にも心を乱された事などないという様な――いつものあの澄ました顔に戻る。


「まったく、一体全体、何だって言うんですか? こんな夜中に大きな物音立てて……」

「起こしちまったな。悪かったよ」

「ほんとにもう」


「なあ由希、お前……窓の外で何か見なかったか?」

「なんですか、唐突に? 窓の外に何が見えたって言うんです?」


「いや、やっぱり何でもない。気にする――」


 そこまで口にした時だ。

 昨夜と同じあの感覚が仁也の耳から脳を直接に襲った。


 自分の頭の中に奇妙な雑音が流れ込んできたのだ。ざざざざっという砂利を直接流し込まれたような感覚。

 そのノイズは、昨日に増して強いものだった。


 堪らずにその場でしゃがみ込んだ仁也。


「――え? に、兄さんっ? ちょっと、どうしたんですか!? 兄さんっ!?」


 悲鳴のように声を高くした由希の言葉が発せられるも、仁也にはその連なりが次第と不明瞭になり始める。


 代わりにくらく尖った囁き声が頭の中に鳴り亘る。

 まるで砂に埋もれてものが、乾いた風に吹かれ、次第その姿を現すかのように。その声が頭壁の内部を反響して跳ね回る。「満たせ……」と同じ言葉を只管ひたすらに繰り返している。


 しゃがみこむ仁也の身体がさらに揺らめき、床に膝を付いて四つん這いに近い形となった。

 その背中を支えるように手を回した由希が、覗き込むように顔を近づけて何事かと声を立てている。


 しかし、もう仁也に彼女の声は聞こえない。


 逼迫ひっぱくしたように不安を募らせている由希の顔が、震えるまぶたの合間から微かに見えた気がした。

 だが、そこまでが限界だった。

 囁かれる声が自分の頭の中から外に漏れ出ているのではないかという程に大きくなり、仁也の意識は途切れる。


 その間際――

 これまでで最も明瞭となった頭の声が「……己が欲望を満たせ……」と、そう言葉にしたのを確かに聞いた。






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