人狼口碑――リカントロープ――

猫熊太郎

――獣心聖誕編――

序幕


 肉体がそこに在った。

 ぎりぎりと内側から、得体の知れない衝動ではち切れそうな、武骨で荒岩のような野性味のある肉体。


 その輪郭は男のものだ。


 一糸もまとわぬ裸体――

 しかし、その立ち姿には一切の違和感も差しさわりもない。

 生まれたままの自若としたこの素直さ、この状態である事こそが紛れもなく正しいと思わせるかのように。


 荒々しく、精悍せいかんで、重厚でありながら、触れようものなら切り裂かれる程に鋭い。

 筋肉の厚みが、骨格の太さが、その肉体から匂いや圧となって放出されているかのようだ。


 その姿は恐ろしかった。

 ――恐ろしく、美しかった。


 ただ、静かにそこに佇んでいる。

 全身を硬直させるでもなく、弛緩させるでもない。在るに任せて、肉体が行おうとする動きの意思――その指向性に身を委ねている。


 だからなのか、動かずに静止しているはずのその五体が、今にも唸り、たわみ、沈み込んで、伸びやかに駆け出しそうな躍動感を有していた。



 そこは不思議な場所だった。


 男が立つそこは、何もない――限りなく何もないような虚無の荒野。

 空と地面との境界もなく、薄い灰色と濃い紺色のコントラストで辛うじてその違いが創り出されている。

 まるで波一つとして無いような湖面。しかし、その水平線上の高さに両の足裏が着いていた。

 限りなく薄く延ばした水溜まりのその中心に、男は立っているかのようだ。


 気がつくと、「構え」を取っていた。


 男がではない。

 それを正面にえて、徐々に距離を詰めつつある――そう、おのれがだ。

 緩く握った右の拳を顎の少し先に持っていき、わずかに肘を曲げた左腕を肩から前方に突き出している。

 左手は拳を握っていない、五本の指先がそれぞれ男へと向けて真っ直ぐ伸びている。

 両足は無理のない範囲で開き、身体そのものは男に向けて半身の構えだ。


 思い至る。

 ――これは「闘い」であるのだという事を。


 何故、この男と闘わねばならないのか。

 何故、この男と闘うような事態におちいっているのか。

 まるで見当も付かないというに、己の意識と身体は、もうその展開へ向けての準備を整え終えていた。


 男は誰で、ここは何処で、――そもそもそう自問する己こそが誰なのか。まるで一つとして覚束おぼつかない。

 にもかかわらず、はっきりと予感している事がある。明瞭めいりょうなまでに見えているものがある。


 数秒後のこの世界で、どこまでも熾烈しれつに繰り広げられるであろう攻防。

 互いの肉体を用いた極限の彼方かなたの闘争。

 肉と肉とが音を立ててぶつかり合うような衝突。


 それは予感と言うよりも、期待と呼ぶべきものかもしれなかった。



 少しずつ、男とのその距離が狭まっていく。

 ――こちらから近づいている。


 この闘い、必ず勝たねばならない事を自覚していた。


 敗けるための闘いを態々わざわざにする者はいない。

 だとしてもやはり、この闘いにだけは決して敗けられぬ。そういう焦燥に似た、強い想いがあった。

 今ここで打ち倒さねば、何か、ひどく大切なものを失ってしまいそうだった。

 

 相手へと向けた左掌はそのままに、時折、左右によじるよう身を振るも、男のそのたたずまいは変わらない。

 直立のその姿勢で、しかしその身を取り巻く空気の粒子が教えている。

 男もまた、完全にこちらへ向けて臨戦態勢を整えているという事を。


 相手のその身体から、行き場を求めてほとばしる熱気がある。

 形容するならば、むせ返る蒸気をため込んだかのような肉の塊――男はそういうものであるかのようだった。

 そして、どくどくとその奥に脈打っている。

 溢れんばかりに絶えず流れ、うねり、巡る事で命の輝きを宿す液体。

 鮮烈なまでのその赤に内包された、源となるものが。

 それが正に今そこで、破裂する勢いで噴き出しそうですらあった。


 その時――

 低い唸りのような獣たちの声を聞いた。


 周りには何もなかった。

 変わらずの寂寞せきばくとした風景。男と己以外、たとえ遠くであったとしても何者の姿も見受けられない地。

 だが確かに、連なりくぐもった獣たちの声がその場に木霊している。


 そして気がついた。

 獣たちのその遠吠えは、果たして、見事なまでに鍛えられた男のその肉の内側から発せられている事を。


 獣たちの声をその身に内包しながら、男がだらりと垂らしていた両腕をにわかに持ち上げる。

 まるで誰かを迎え入れるかのように、そのまま抱擁するかのように。


 その瞬間――

 何の躊躇ちゅうちょもなく、我が身を低くさせ相手へと一直線に跳び込んでいた。


 

 たねばならなかった。

 男が、他の誰でもない〝己自身〟である事を確信したが故に。




  

 





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