第4話 新たなる翼

 怒りが過ぎ去り、コテツの中に残ったのは虚ろ。

 レンヤは言っていた。もうすぐ、ここに……この島にサイレンスの大群が押し寄せてくる、と。

 通った後は生きとし生ける物全てを無に返す死神。そいつが降臨してくる。

 だが……もはやコテツに為す術はない。コテツが信じた軍は、国家は、この島を見捨てるだろう。己の身を護るために。大義も正義もかなぐり捨てて。

 今、コテツが持っているモノは……手の中に残った小銃、拳銃、ナイフが一振り。そして……底なしの無力感。

 どう足掻いたって勝てっこない。座して焼かれるのを待つしか無い。

 いや、自分ひとりが焼かれるのなら、まだいい。自分から死にたいとは思わないし、何も成せずに死ぬのは犬死にだと思う。だが……それでもコテツは軍人だ。撃つからには撃たれる覚悟はできている。

 しかし……この島の人たちは違う。彼らは覚悟もないままに、死を強要される。本来であれば、彼らを護るはずのネイヴに見捨てられ。直接手を下すのはアウムであろうが……彼らを巻き込んだのは、紛れも無くネイヴだ。

 「……コテツ?」

 ゆっくりとコテツが振り返る。ハルナが上目遣いにコテツを見上げていた。

 「……ハルナ」

 コテツの瞳が揺れる。

 ハルナの父親は、ネイヴとアウムの空戦に巻き込まれ、理不尽に命を奪われた。そして、もうすぐその理不尽な死がこの島に……ハルナに襲い掛かる。

 まるで足元から世界が崩れていくような絶望感がコテツを蝕んでいく。

 コテツの態度を不審に思ったか、

 「コテツ……まさか、どこかケガしたのっ!?」

 「いや……オレは大丈夫だが……おまえこそ大丈夫なのか?」

 問われ、ギクリ、とハルナが頬を強ばらせた。慌てて左手を背後へ隠す。コテツは強引にその手を掴んで引き寄せた。

 「イヤっ!」

 ハルナは悲鳴を上げ、左手を胸の中に抱える。だが、コテツははっきりと見た。その甲に醜く爛れた火傷の痕があるのを。

 「……おまえ、さっきの……」

 「お願い……見ないで」

 湿ったハルナの呟きに、コテツは言葉を失った。

 痕が残りそうなほどの大きな火傷だ。それを見られることは、年頃の娘であるハルナにとって耐えられるモノではないだろう。

 「ごめん」

 ハルナが謝るが、本来、謝らなければならいのは、自分の方だ。

 「……でも、ありがとう。助けてくれて。

 もし……コテツが来てくれなかったら、あたし……」

 無理矢理ハルナは笑う。

 そんな顔で無理矢理笑うなよ。おまえを……島のみんなを傷つけたのは、オレの同胞だ。おまえにはオレを責める権利がある。

 「……すまない」

 「……何で謝ってるのよ?」

 ハルナが苦笑を浮かべた。

 「あの連中のことなら、あたしは気にしてないわよ。

 コテツはあんな奴とは違うじゃない。

 あたし達を……あたしを助けてくれたんだから」

 違う。もちろん、それも謝らなければならないことだが……ここはもうすぐ、塵一つ残すこと無く、焼き尽くされる。ネイヴに見捨てられ、アウムの手によって。

 そして……翼をもがれたコテツにできるのは、共に焼かれることだけだ。

 コテツが信じた正義が、コテツが殉じた大義が、ハルナを焼く。

 「オレは……オレは……」

 俯き、拳を震わせる。震える声でただ呻く。

 「もういいって」

 ハルナは湿っぽくなった空気を振り払うように、努めて明るく、

 「ところでさ……アレ、何?」

 ハルナが座礁した被曳航船を指差した。

 「あ……あれは、あいつらの忘れ物ってところかな」

 呆然とした口調で答えるコテツ。

 「ねぇ……見てみない?」

 「は?」

 「ほら……だって、気になるじゃない」

 畳み掛けるハルナの声音は、どこかわざとらしい。今のコテツにすら、慰めようとしてくれていることが分かるほどに。

 「……そうだな」

 こみ上げる苦い思いを飲み込み、コテツは無理矢理笑う。

 もう運命は変えられない。この島が焼かれる未来を変える術はない。なら……ハルナがそれを知る必要はない。同じ死ぬ運命さだめなら……その時まで何も知らず、幸せに生きていた方がいい。だから……コテツは何も言わない。そう決めた。

 

 ザブザブザブザブ。

 中肉中背のコテツが辛うじて足が届く程度、小柄なハルナは完全に足が届かない深さに、被曳航船は打ち上げられていた。

 コテツは船べりに手をかけ、水底を蹴る。水の浮力も手伝って、コテツは軽々と甲板の上に上がった。

 甲板上でくるりと振り返ると、ハルナに向かって手を差し出す。

 「ありがと」

 軽く礼を言ってハルナは差し出された手を掴む。

 コテツは足腰の力をうまく利用して、一気にハルナの小柄な身体を引き上げる。座礁したとは言え、波に揺れる不安定な足場での見事な体捌き。見る者が見れば分かる『柔術』の応用だ。

 「ひゃっ!」

 思ったより高々と持ち上げられ、ハルナが小さな悲鳴をあげる。コテツは掴んでいたハルナの手を離し、両腕を広げた。ハルナはその腕に包み込まれるように、すっぽりと胸の中に収まった。

 「や……ひゃ……あの……」

 しどろもどろな呻きを漏らすハルナ。その顔は耳まで真っ赤だ。ハルナにとって幸いだったのは、彼女の身体を抱え込んでいたため、コテツには紅潮した顔を見られないで済んだことだろう。

 だが、

 ドクドクドク。

 密着してしまっているだけに、早鐘のような心臓の音に気づかれているかもしれない。そう思うと、どんどん鼓動が速くなっていく。悪循環もいいところだ。

 と、

 トン。

 あっさりとコテツはハルナを甲板に下ろした。どうやら、ハルナの心臓の音にも気づかなかったらしい。

 「……この鈍感」

 ハルナは上目遣いにコテツを睨むが、

 「ん? どうした?」

 コテツはキョトンとした表情を返すのみ。

 「何でもないっ!」

 ハルナは怒声をコテツに叩きつけると、さっさと甲板の上の積み荷の方へ行ってしまった。

 コテツはわけがわからない、とばかりに後頭部を掻くと、黙ってその後を追った。

 

 バサっ!

 ハルナが勢い良く積み荷に掛けられた幌を外す。

 「って、これ……飛行機?」

 「……たぶん」

 ハルナはともかく、現役の飛行士であるはずのコテツですら、自信なさげに返した。

 幌の中身は確かに飛行機―単座戦闘機に見える。

 胴体があり、主翼があり、尾翼があり、プロペラがあり……基本的な構造、おおよそのサイズはコテツのかつての愛機、飛鷹とほぼ同じだ。

 だが……コテツとハルナが共に断言できない理由。端的に言ってしまえば、飛鷹と、否、一般的な単座戦闘機と比較して、前後が逆さまなのだ。

 機体後部にプロペラ、そして機首には四門の機関砲。主翼は根本から翼端にかけて、前方に向いて傾いている。ちょうど、鳥が翼を広げたかのようだ。主翼より前に通常の飛行機で言うところの水平尾翼―この場合、機首付近に装着されているので、尾翼と言うのは不適当であるが―が装着されている。垂直尾翼はプロペラを避けるように、機体の左右に分散して二枚取り付けられていた。

 一瞬、自分達の方が前後を間違えて見ているのではないか、そんな疑いを持ったが、砲口やコックピットの向きを考えれば、間違うことはあり得ない。砲口に関しては、攻撃機や爆撃機、夜間戦闘用の複座戦闘機であれば、後方に銃口が向いていたり旋回機銃が搭載されていたりすることはあるが……高機動戦闘を主任務とする単座戦闘機で後方に砲を向けることはまず無い。コックピットに関しては言わずもがな。

 「……これ、飛べるの?」

 「……飛ぶんじゃねぇか?」

 ハルナの問いかけに、半ば投げやりに答えるコテツ。

 形状からしたら飛ぶのかどうか非常に微妙なモノがあるが……いくら窮状に陥っているとは言え、さすがに飛ばないシロモノを前線に送るとは思えない。状況から考えたら、この異色の戦闘機がネイヴ軍の切り札、新型戦闘機であることはまず間違いあるまい。

 コテツは風防を開け、コックピットを覗き見る。と、シートの上に紙束が置かれていた。

 コテツはその紙束を手に取り、

 「単座戦闘機『島風』……」

 表紙に書かれている文字を口にする。

 「……島風? それがこの飛行機の名前?」

 「たぶんな」

 気もそぞろに答え、コテツは紙束をめくる。

 中身は、どうやら機体のマニュアルらしい。

 パラパラとめくると、操縦法のページに行きつく。機体の形状は風変わりだが、基本的な操縦方法については、飛鷹や他のネイヴの機体とそうは変わらない。

 まぁ、当然だろう。操縦法が機体ごとに違ったら、乗り換えるたびに都度覚えなおさなくてはならない。非効率的だ。そうでなくても搭乗機種が変わる場合は、機種転換訓練を受けるのが一般的だ。自動車などと違い、航空機は機体ごとにその特性が大きく異なる。操縦方法が同じでも、挙動が全く違うため、訓練も無しにいきなり実戦で飛ばすのは、機体の挙動を掴みきれず危険極まりないのだ。もっとも、今のネイヴにはそんな余裕はないため、乗り換えの際にもぶっつけ本番が増えてきてはいるのだが。

 さらにページをめくる。と、その手が止まった。

 「……ウソだろ、おい」

 記述された性能諸元に、軽く目を見張る。

 エンジン出力は飛鷹の倍近く、水平飛行時の最高速は時速七四〇キロ。飛鷹どころか、アウムのエセックスよりも一〇〇キロ近く速い。しかも機首の機関砲はなんと三〇ミリが四門。こんな強力な火砲を備えた単座戦闘機、他に見たことがない。

 これならサイレンスですら、墜とせるかもしれない。

 (サイレンスを……墜とす?)

 自分の思考に思わず問い返す。

 ムリだ。

 自分の中の冷静な部分が、即座に否定する。

 そもそも、サイレンスの撃墜記録はほとんど無い。エセックスなどとは比べ物にならないほどの重装甲である上に、対空機銃が針山のように搭載されている。撃墜するどころか、近づくことですら難しい。そのあまりの頑強さ、強大さから『難攻不落の空中戦艦』と言う二つ名で呼ばれているぐらいだ。

 しかも相手はサイレンス単体ではない。航空戦艦をも簡単に沈めるほどの大戦力。その強大な敵が本腰を入れて攻めてくる。

 ネイヴ艦隊の全てを総結集しても、戦線全てを支えきることは難しいだろう。それをどうやって、たった一機の単座戦闘機で食い止めると言うのだ。桶一つで大津波を食い止めるようなモノだ。

 「コテツ?」

 ハルナの声が、コテツの意識を思考の底なし沼から引きずり上げた。

 「どうしたの? そんな難しそうな顔して?」

 「いや……別に」

 歯切れの悪い返事を返すコテツ。

 ハルナはそんなコテツを上目遣いに見上げ、

 「あ、あのさ……この飛行機、飛ぶんだよね?」

 「? ああ。たぶんだけど、な」

 眉をひそめつつ、コテツ。そんなことはさっきも言ったではないか。なぜ、繰り返し聞く必要がある。

 「……帰っちゃうの?」

 忘れていた。

 そう、コテツはもともと、所属部隊に帰る手段を模索していたはずだ。紆余曲折があったとは言え、無傷の単座戦闘機が手元に転がりこんできた。これは千載一遇のチャンスと言っていい。

 そうだ。自分はもともと軍人だったのだ。軍人としての本分を果たすのなら、これに乗って部隊に戻ればいい。それを責める人間など、誰もいないはずだ。

 ウソだ。

 即座に否定の声が上がる。他ならぬコテツの胸の奥底から。

 もはや、ネイヴ軍にコテツの信じる正義も殉ずる大義もない。戻る意味も存在理由も居場所も、だ。

 だが、戻ってこの島を護ることを進言すればどうだ? コテツ個人ではムリでも、軍が動けばこの島をサイレンスの爆撃から護ることも出来るのではないか?

 ダメだ。

 そもそも戦力に余裕が無いからこそ、軍事的に重要でない箇所から切り捨てられているのだ。少なくとも、この島には、作戦権を持つ軍上層部を説得できるだけの材料があるとは思えない。それでなくとも、コテツのような整備兵上がりの飛行士の発言は軽視されがちだし、コテツ自身も弁が立つ方ではない。

 では、この新型機を取引材料として、アウム側と交渉するか?

 ……考えるのもバカバカしい。

 たった一機の単座戦闘機を手土産にしたところで、軍隊が作戦目的を変更させるはずもない。そもそも、アウムがこの機体を脅威に感じるとも思えない。

 開戦当初、飛鷹が未だに最新鋭機として戦場に君臨していた頃ならまだしも、今のアウムの航空戦力は質、量、共にネイヴのそれを大きく上回っている。今更、新型戦闘機を戦線に引っ張り出してきたところで、戦局がガラリと変わるなんて考えてもいないだろう。

 だいたい、それが可能であるならネイヴは今頃、アウムを圧倒しているはずだ。

 「……やめようよ」

 ポツリ、と消え入りそうな声で、ハルナ。一瞬、聞き逃しそうになり、コテツが眉をひそめた。

 「もう、やめようよ」

 今度は先ほどより大きく、だが、やはり弱々しい声でハルナが繰り返す。困ったような笑みを浮かべたその姿は、普段のハツラツとした彼女からは想像できないほど痛々しい。

 「やめるって……」

 「軍なんかに戻らないで、この島で暮らしたらいいじゃない。その……」

 ハルナは一旦言葉を切り、もごもごと言い淀んだ。

 コテツが怪訝そうに眉をひそめていると、意を決したかのように、

 「あたし……達と一緒に、さ」

 顔を真っ赤にしつつも一気に言い切った。

 「一緒に……この島で?」

 呆然とハルナの言葉を繰り返すコテツ。

 もはやネイヴ軍にコテツの正義はなく、恥も外聞もかなぐり捨て、アウムに投降する意味もない。

 何もできない、何も成せないのならば、ここでハルナ達と共に島の民として暮らすのもいいかもしれない。少なくとも、この島で暮らした一ヶ月、コテツは戦いに身を投じて以降初めてと言っていいほど、心の底から安らぐことができたと思う。

 猶予は一週間。その一週間が過ぎればこの島は爆撃に焼かれる灼熱の地獄と化す。だが、残された時間をこの島に吹く風に身を委ねて、穏やかに過ごすのも悪くはない。

 こいつが一緒にいてくれるなら……。

 「……な、何よ?」

 ハルナが未だ赤いままの顔を隠すように、そっぽを向いた。

 突如、その背後にある島が突如爆発した。

 コテツは愕然とその様を眺める。意識が完全に固まってしまっている。

 一体何が?

 混乱し、思考停止を起こしたコテツを余所に、次々と火の手は上がる。

 その上空を巨大な翼が悠然と通り過ぎてゆく。

 サイレンス。

 大空の支配者。難攻不落の空中戦艦。そんなモノがなぜ、今、ここに存在する? 爆撃作戦は一週間後ではなかったのか?

 ―一週間後? そんなモノ、おまえ達が勝手に思い込んだ都合のいい妄想だ。

 冷徹な声が頭の中で響く。

 しかし、レンヤからの情報では……。

 ―バカか、おまえは? 敵前逃亡を企てた末端の下士官の言葉など、真実である保証がどこにある?

 返す言葉もない。

 ―そもそもあの男はネイヴの下士官だ。アウムの一大作戦に関する正確な情報など持っているわけがないではないか。

 ネイヴがアウムに劣るのは、物量や組織連携力だけではない。情報戦においてもだ。いや、実はネイヴはこの分野をもっとも軽視している、とすら言える。そのネイヴの下士官が敵の作戦の正確な情報なんて持っているわけがない。むしろ、偽の情報をつかまされた挙句、敵の手の上で踊らされていた、と言う方がまだ現実的ですらある。

 「コテツ? どうしたの?」

 コテツの様子を不審に思ったハルナがその顔を覗き込んできた。その頭上に巨大な影が落ちるのをコテツは見る。

 上を見上げた。ハルナの全身よりも巨大な鉄の塊がまっすぐに落ちてくる。

 コテツの意識はそれが落下してきた爆弾であると言うことを認識できなかった。否、できなかったのではない、認識することを拒否したのだ。

 だが、ちっぽけなコテツの思いなど慮る余地もなく、無慈悲にもハルナの頭上で爆弾が炸裂する。

 コテツの目の前で、ハルナが爆風に裂かれ、炎に焼かれる。その身体が絶対的な暴力に蹂躙され、その魂が圧倒的な絶望に駆逐されていく。

 手を伸ばせば届くのに、コテツはただ呆然とハルナが無に還る様を見ていることしかできない。そのことを悔しいとも哀しいとも思わない。ただ、空っぽになってしまったかのような虚しさだけが、コテツの中に残る。

 「コテツ?」

 不意に掛けられた声に、コテツは我に返る。

 「大丈夫? 何か顔が真っ青だけど……」

 「ハルナ? ハルナだよな?」

 「当たり前でしょ? 何言って……コテツ、本当に大丈夫?」

 ハルナの顔に不安げな色が浮かぶ。

 (今のは……幻だったのか?)

 現にハルナは無事だし島も焼かれていない。空を飛ぶサイレンスの姿もなく、風は軽やかに海原を行く。

 張り詰めた神経が見せた白昼夢。行き詰まった心が見せた悪夢。

 現実感がつかめないまま、すがるようにコテツが右手を伸ばす。その手が、ハルナの頬に触れた。

 「……コテツ?」

 びっくりしたように肩を震わせるハルナ。だが、身を委ねるかのようにそのまま、目を閉じコテツの手を受け入れる。

 右手から、ハルナの温もりが伝わってくる。その温もりが、何より確かな存在感をコテツに与えてくれる。

 そう、ハルナは今、ここにいる。それだけで十分ではないか。

 簡単なことだったのだ。

 できる、できないなんて関係ない。

 やるか、やらないか。

 たったそれだけのことなのだ。

 一歩。

 たった一歩を踏み出すかどうか。本当に、ただそれだけのこと。

 コテツはハルナの頬から手を離すと、軽くその肩を突いた。

 「……コテツ?」

 不意打ちを食らったハルナが、二、三歩と後退する。

 「黙れ、土人」

 続いてコテツの口から飛び出したのは、真冬の吹雪よりも冷たい言葉だった。

 

 「黙れ、土人」

 一瞬、コテツが何を言っているのか、ハルナには分からなかった。

 「……コテツ、何を言って……」

 「それはこっちのセリフだ」

 コテツが冷たい声音のまま、畳み掛ける。

 「栄光ある皇国軍人のオレが、おまえら土人と一緒に暮らすだと? 冗談も休み休み言え」

 コテツの言葉にハルナは驚き目を見開く。

 「全く……土人と言うのは察しが悪いらしいな。

 オレがおまえらと表面上、仲のいいフリをしてやっていたのは、帰る手段を模索する間、都合が良かったからだ。

 こうして戦闘機が手に入った以上、おまえら土人に用はない」

 嘲るでも揶揄するわけでもない。ただ淡々と述べるだけ。だが、それが余計に冷淡な響きとなってハルナに襲いかかる。

 「……ウソ」

 足から力が抜けたかのように、ハルナがペタン、と尻もちをつく。

 「だって……コテツは……あの連中から、島のみんなを……あたしを護ってくれたじゃない……」

 訴えるハルナの声は湿り、ところどころ嗚咽が混じってすらいた。だが、コテツは動揺の欠片も見せず、まるで躾のなってない犬にでも接するかのように、

 「あの連中は、恐れ多くも皇王から賜った兵器を手土産に、アウムに付こうとした裏切り者だ。

 本来であれば、この島で殲滅するつもりだったのを、おまえが余計なことをしてくれたおかげで取り逃がすハメになっちまった。

 どうしてくれるんだ?」

 ハルナは紺碧の瞳に涙を浮かべ、ただ力なく首を振る。

 その涙を目の当たりにしてなお、コテツの冷たいおもては揺るがない。

 「まぁ、今までこの島で世話になった恩もある。

 我々皇国軍人は、土人相手とは言え一宿一飯の恩義を忘れない。

 その件は不問にしてやる。

 行け」

 言うなり、コテツは踵を返し、島風のコックピットに潜り込んだ。もはやハルナの存在など眼中にない、と言わんばかりに。

 その耳に、

 パシャン。

 水が跳ねる音が届く。コテツは視線だけ向けてそちらを一瞥。海の上をハルナがゆっくりと陸に向かって泳いでいくのが見えた。コテツの鍛え抜かれた視力は、その細い肩が小さく震えているのもはっきりと見えた。

 ……見たくもないのに。

 コテツはコックピットのシートにどっかりと体重を預け、空を仰ぐ。

 ザーッ!

 突如、南洋特有の集中豪雨がコテツを襲った。

 雨は、涙のように、海に、島に、そしてコテツの上に降り注ぐ。

 

 「邪魔するよ」

 傍らから掛けられた声に、コテツは深々とため息をついてから、コックピットから顔を出す。

 「だから、おまえら土人はもう用済みだと……」

 「ひどい言いようじゃの」

 苦笑を浮かべ、ムツが被曳航船の船縁をよじ登ってくる。

 「やれやれ、身体が言うことを聞かん。年は取りたくないモンじゃの」

 軽く嘆いて見せるが、その身のこなしは老人とは思えないほど軽い。これで身体能力が衰えているとしたら、全盛期はどれほどだったのか。ヘタしたら訓練された軍人をも上回っているかもしれない。

 コテツは甲板まで上がってきたムツを刺すような視線で睨めつける。が、ムツは飄々とその視線を受け流し、

 「なるほど。昨日からハルナの様子がおかしいのは、これが原因か。暇さえあれば風の翼の丘に行って、祈りを捧げとる。

 おまえさんは帰ってこんしの」

 「……そのまま、オレがあの連中と一緒に島を出た、とかは考えなかったのかよ?」

 「おお……それは思いつかんかったの」

 コテツの吐き捨てた皮肉を真に受けるムツ。と、その顔に柔和な笑みが浮かび、

 「ま、島の誰もそんなこと、考えもしてないじゃろうが」

 「……なぜだ?」

 「おまえさんは行動で己のありようを示した。

 島の者が皆、あのならず者達の暴力に怯え、ただ見ているしかなかった中、たった一人で立ち向かって行ったじゃろ。

 あの姿を見てなお、おまえさんを疑う者などおらんよ」

 「……一人ばかり例外もいるようだが? おまえの孫は人を見る目が無かったってことか?」

 「ん~、それはどうじゃろうな?」

 立て続けに放たれた皮肉に、今度は意味ありげな返事を返すムツ。

 「ま、あの娘が重症なのは確かなようだがの。

 何せ、こんなわざとらしい、ヘタクソな演技にコロっと騙され、あそこまで落ち込むぐらいなんじゃからの。

 何て言ったかの。おまえさん方、フソウの言葉じゃ『大根役者』と言ったかの?」

 「……そんなにヘタですか?」

 「幼子のウソの方がマシなレベルじゃ」

 素に戻って聞くコテツに、トドメを刺すムツ。

 士官でもなければ、調整官でもない、単なる一兵卒であるが故、謀略の類に慣れていない自覚はあったが……、

 「だいたい、そんな痛々しい顔しとったら、誰一人騙せんじゃろうよ」

 「……そんなに痛々しい顔をしてますか?」

 「見てるこっちが辛くなるわい」

 ムツの遠慮のない一言に、コテツは肩の力を抜いた。

 「ようやく観念したか」

 コテツが弱々しい笑みを浮かべる。人生経験の差なのか、もはや誤魔化しも効きそうにない。

 「で、何があった?」

 「この戦闘機を使って、オレは帰ろうと思います」

 「それだけか?」

 ムツの鋭い声音に、思わずコテツは肩を震わせた。

 「他に何が……」

 「単に帰ると言うだけなら、今更わざわざワシらを土人呼ばわりする必要はあるまい?

 あえて、そこまでしてワシらと距離を取ろうとするのはどうしてじゃ?」

 「そうしないと、踏ん切りがつかないと思ったんですよ」

 「ふむ。島の者が、か? それともおまえさんが、か?」

 ムツの指摘に再びコテツの肩が震えた。

 「図星のようじゃの」

 「……あなたは人の心を読む力でもあるんですか?」

 「そんなわけなかろう」

 愕然とした面持ちでムツを見返すコテツに、ムツが苦笑を返す。

 「おまえさん、顔に出るからすぐ分かる。……で、どんな理由があったんじゃ?」

 「……もうすぐ、この島に、正確にはこの海域一帯にアウムの大規模絨毯爆撃が行われます。恐らく、爆撃後には島は焼かれ、灰になっていることでしょう。

 だから、オレはこれを使って島を出るつもりです」

 「……そのまま、一人で食い止めるつもりか?」

 「……本当に心を読む力、ないんですか?」

 「そんなモン、心なんて読まずとも状況から考えれば分かるじゃろ。

 島から逃げ出すだけなら、それこそあのならず者達と一緒に島を出て行けばいいだけの話じゃ」

 「……ネイヴに、敵の全勢力を止める戦力はありません。故に軍は軍事拠点のある島、資源のある島、海運輸送路の確保に全力を注いで、そこから外れた離島は見捨てるつもりです」

 「なるほど、この島には何もない。見捨てられた、と言うわけか」

 ムツは力ない苦笑を漏らした。

 「……今、軍に戻れば、上層部の都合のいい場所の防衛に回され……結果的にオレはこの島を見捨てることになります」

 「だから、一人でこの島を護る……というわけか。

 何とも短絡的な考えじゃのう」

 「深く考えるのは苦手なモンで」

 「……勝てるのか?」

 「さぁ」

 気楽に肩をすくめてみせるコテツ。

 「正直なところを言えば、本当のことを話した上で、島のみんなには避難して欲しいところではあるんですが……絨毯爆撃の範囲はここら一帯の海域、作戦決行が一週間以内、となると避難できる場所も手段も確保できないのが現状ですから」

 「そうじゃのう。何もできないのであれば、定められた滅びに怯えるより、何も知らずに残された時を穏やかに過ごした方が幸せかもしれんのう」

 「……それじゃ、まるでオレが敗けるみたいじゃないですか?」

 「……勝てるのか?」

 ムツが同じ質問を繰り返す。

 「勝てるか敗けるか、できるかできないか、じゃないんですよ。

 ……島のみんなの命が掛かっている以上、不謹慎だってのは分かってるんですがね」

 そこでコテツは言葉を切り、

 「やるかやらないか、ただそれだけです」

 決意を込めた瞳を蒼天に向ける。

 「……できるかできないか、ではなく、やるかやらないか、か」

 ムツは苦笑を浮かべ、

 「おまえさん、筋金入りのバカじゃのう」

 「返す言葉も無いってのはこのことですね」

 ムツは苦笑を引っ込めると、

 「……おまえさん、ハルナを嫁にもらってはくれんか?」

 「は?」

 いきなり降って湧いた話題に、コテツは素っ頓狂な声を漏らした。

 「祖父のワシが言うのも何じゃが、あの娘はなかなかの器量良しじゃぞ?

 料理はうまいし、家事もできる。

 嫁としてもらうには申し分ないと思うがの?

 ……まぁ、なんじゃ。少々性格はきついかもしれんし、旦那を尻に敷きそうな気もせんでもないが」

 「……それは大問題じゃ……って、問題はそこじゃなくてっ!」

 あたふたと自分で自分にツッコミを入れるコテツ。

 「何を言ってるんですか、あなたはっ!

 今から、オレは死地に赴こうって言うのにっ!

 あなたは自分の孫を未亡人にでもしたいんですかっ!?」

 「おまえさん、死ににいくつもりか?」

 言われ、コテツは思わず言葉に詰まった。

 「……そ、そんなわけないじゃないですか」

 詰まった理由は、本当は死にに行くつもりだったのを見透かされたから、ではない。

 自分が死ぬ可能性なんて微塵も考えていなかった・・・・・・・・・・・からだ。

 冷静になって考えたら、生還の可能性なんてほぼゼロ。にも関わらず、指摘されるまで気付きもしなかった。

 「……だいたい、ハルナの気持ちとかも……あるじゃないですか」

 苦し紛れに話題をそらすコテツ。

 「……おまえさん、本気でそれを言っとるのか?」

 驚きに目を見開くムツ。だが、コテツはその驚きの理由が理解できない、とばかりにキョトンとした表情を返すのみ。

 「……何となく、ハルナを嫁に出すのが不安になってきた……いや、これはこれで釣り合いが取れている、と言うべきかの……?」

 何やら難しげな顔でブツブツと呟き始めるムツ。

 「ま、あの娘の気持ちなら、祖父であるワシにはよぉく分かっとる。

 ……いや、祖父でなくとも、みんな分かっとると思うがの。

 あの娘もおまえさんに負けず劣らず、顔と態度に内心がよく顕れる娘じゃしのう……」

 「……何を言ってるんですか?」

 「残された時間、あの娘と一緒に過ごしてやってはくれんか?」

 戸惑うコテツをまっすぐに見返すムツ。

 「おまえさんを信用してないわけじゃないがのう……。やはりおまえさん一人でアウムの大部隊を相手にするのは、ムチャってモンじゃろう。

 だから、あの娘と結婚して、一緒に過ごしてくやってはくれんかの。

 それが残されたわずかな時間でもかまわん。あの娘が幸せであるなら、の」

 ムツがそう言うのもムリはない。そもそも、コテツが絶対墜とされない、と言うのなら……今、この場にコテツはいない。コテツは撃墜され、この島に墜ちてきたのだから。

 「……それは……できません」

 静かに、だが断固とした口調でコテツが拒否。

 「あいつには……ハルナにはずっと生きていてほしい。だから、あいつを死なせてしまう選択は、オレにはないんです」

 「……じゃったら、あの娘を連れて、その飛行機で逃げればいい」

 「これは単座・・戦闘機なんです。二人は乗れません」

 「あの娘の小さい身体なら、おまえさんの膝の上ぐらいは乗るじゃろう」

 「敵に見つかれば、空戦機動を取らざるを得ません。

 膝に人を載せたままでは戦うことは愚か、振り切ることも出来ません」

 戦闘機による空戦機動は急降下急上昇、宙返り、垂直旋回、螺旋機動、背面逆落としスプリットSなど、三次元的に大空を駆け巡る。当然、中の人間も四方八方、様々な方向からのGに晒される。シートベルトで身体を固定されているならともかく、膝の上にただ載っているだけの者は、コックピットの中を縦横無尽に跳ね回るハメになるだろう。運が良ければケガする程度で済むだろうが……打ち所が悪ければ、それだけで命を失いかねない。

 また、膝の上に載せているパイロットの方も無事では済まない。Gが掛かる、と言うことは体重が何倍にもなる、と言うことと同義だ。自分自身に掛かるGですら、高機動戦闘中はブラックアウト―増加した疑似重力により血液が足元の方へ溜まり、脳に行き渡らなくなる現象だ―を起こして気絶しかねないほどなのに、そこに他人の倍増した体重までプラスされたら……ヘタしたらパイロットは圧死しかねない。

 「……それに、あいつが島のみんなを見捨てて、自分だけ逃げることを是とするとは思えません」

 あのまっすぐな少女が、自分だけ助かることを受け入れるとは到底思えない。それは、コテツよりも祖父であるムツの方がよく分かっているはずだ。

 と、

 ガーガーガー。

 コックピットの通信機がノイズを発し始める。コテツは慌ててヘッドセットを手に取ると、通信機のダイヤルを操作した。

 『……に嵐吹く。繰り返す、天城山に嵐吹くっ!』

 コテツの頬を冷や汗が一筋流れた。

 「……どうしたんじゃ? 顔色が悪いぞ?」

 『天城山に嵐吹く』

 敵機襲来、それも戦略級大規模攻勢を意味するネイヴの暗号だ。この状況でアウムの大規模攻勢と言えば……件の絨毯爆撃以外、あり得ない。

 その後も状況を知らせる怒声が無線の中を飛び交う。

 ネイヴの標準語ではない。シュムシュ諸島―フソウ群島の北にある島々、そこに住む人達の古代語だ。基本的な文法はフソウで使われる言語とそうは変わらないが、発音、単語が独特で、ネイヴ軍では簡易暗号として用いられている。

 情報戦を軽視するネイヴの暗号は、そのほとんどがアウム側に解読されてしまっており、役に立たなくなっていた。その中で、当初は簡易暗号として全軍において使用されていたシュムシュ語だけが、皮肉なことに未だにアウムに解読されていなかったりする。発音が独特で大陸の人間には非常に聞き取りづらいこと、そして何より古語とは言え、一地方で普通に使われていた言語をそのまま暗号に使うと言う発想が、情報戦に重きを置くアウム側には無かったことが功を奏した、と言える。

 「……敵が来ます」

 ヘッドセットからの情報に耳を傾けつつ、コテツがムツの方を見やる。

 レンヤからの情報では一週間後、と言う話だったが……やはりネイヴの情報収集能力では精度に欠ける。

 いや……ひょっとしたら、本来は決行が今日であったところ、敵を油断させるためにわざと一週間後、と言うありそうな偽情報をアウムは流したのかもしれない。

 相手を騙すには、一○○パーセントのでっち上げより、真実の中にウソを混ぜる方がはるかに騙しやすい。情報戦、謀略に長けたアウムならば、このぐらいの情報操作、当たり前のように仕掛けてくるだろう。

 恐らく、ネイヴはアウムの仕掛けた情報操作にすっかり騙され、ろくに迎撃態勢を整えられていないに違いない。無線から聞こえてきた悲痛な怒号、それがこの侵攻がネイヴにとって青天の霹靂であることの何よりの証拠だ。ただでさえ絶対的な戦力差があると言うのに、迎撃態勢が整う前に攻め込まれたら……まさに泣き面に蜂としか言い様がない。一矢報いることすらかなわず、完膚なきまでに叩きのめされるだろう。恐らく、司令部は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているはずだ。

 「出ます、離れてください」

 ドルルンっ!

 機体が震え、尾部のプロペラが轟々と回転を始める。

 この島を護ろうと思えば、もはや一刻の猶予もない。

 幸いなことに機体には燃料、弾薬は満載され、整備もほぼ完璧。簡単な調整をするだけですぐに飛び立てる状態になっていた。恐らく、前線では満足な整備ができるだけの時間がない、と判断してのことだろう。

 「……出ますって、どこから飛ぶんじゃ?」

 ムツが聞いてくるのもムリは無い。コテツの、島風の前方には静かな波をたたえた海原が広がっているのみ。

 機体下部に浮揚装置フロートを備えた、いわゆるゲタ履きの水上機、あるいは胴体下部が船舶と同形状で洋上に浮くことができる飛行艇であれば、このような場所でも離水できるだろうが、島風は機体下部に通常の脚を持つ陸上機だ。洋上の離着水など考えられていない。

 「ここから飛びます」

 決然と答えるコテツ。

 「ネイヴの戦闘機は、非常用に短時間であれば洋上に浮揚できる設計になっているんです。

 なので、離水するまでの短時間であれば、ギリギリ浮いていられるはずです」

 さらに言えば、海洋国家であるネイヴの航空機は基本的に短い滑走距離、荒れた路面での離着陸を可能としている。

 離島などに飛行場を造る場合、島の面積、地形によっては長大な滑走路を造ることはできないし、洋上作戦が多いネイヴでは、必然的に空母による航空機運用は多くなる。空母は艦船としては最大級の部類に入るが、その巨大な船体に全通甲板を通したとしても、せいぜいその長さは三〇〇メートル弱。その短い距離の中で離着陸をこなさなければならない以上、ネイヴ軍用機には高い短距離離着陸性能が求められることになる。ネイヴ軍機がアウム軍機に比べ小型軽量であるのは、エンジン性能が劣る、資源が少なく一機あたりの生産コストを下げる、と言う目的の他に機体をなるべく小さく軽く造り込み、短距離離着陸性能を引き上げる、と言う理由も少なからずあるのだ。

 だが、いかに短時間の浮揚能力、高い短距離離着陸性能を備えているとは言え、陸上機を洋上から飛ばす、と言うのは正気の沙汰ではない。考えることすらおこがましいムチャクチャな話だ。

 そんなことが可能であるなら、水上機や飛行艇なんてとっくの昔に廃れて無くなっている。これらの機体を洋上に浮かせる浮揚装置は空中では空気抵抗を増大させ、死重量デッドウェイトになるだけなのだから。そもそもネイヴの陸上機に浮揚能力が与えられているのは、離着水させるためではない。不慮の事故で洋上への不時着を余儀なくされた場合、乗員が脱出する時間を稼ぐためだ。コテツの言う通り、非常用、ごく限られた時間しか浮いていることはできない。

 だが、どのみちこの機体を島に上げる手段が無い。船上の航空機を陸揚げするには、基本的にクレーンを使うことになるのだが……この島にはクレーンどころか、桟橋すらないのだ。この規模の被曳航船では、浜辺に上げることは出来ない。島に近づく過程で座礁したことからも、それは明らかだ。

 そう言った意味では、島風がまっすぐ海に向いた状態で船が座礁したのは幸運であったのかもしれない。陸上機による離水、と言う無理難題に挑戦しなければならないことを考えれば、実質的には五十歩百歩と言ったところだが。

 (だが……五十歩百歩、ってのはなぁ、倍半分も違うってこったろうがっ!)

 無理矢理、思考を前向きな方向にねじ曲げる。これぐらいのことで挫折してたら、たった一人でアウムの大編隊なんて相手にできるわけもない。

 「コテツ。おまえさんに風の翼の加護があることを祈っているよ」

 コテツは親指を立てて、ムツに答えてみせる。ムツはひとつ頷くと、踵を返して被曳航船から飛び降りた。

 コテツはそれを確認すると、風防を閉じ、スロットル出力を上げる。

 キィィィィィンっ!

 エンジンの回転音が上がり、轟くような低音から響くような高音へと変わる。

 ゆらり、と島風がその身を揺らし、ゆっくりと洋上へ滑り落ちた。

 すかさず脚を引き込む。陸上での離陸と違い、洋上を滑走する場合は、脚など単なる抵抗にしかならない。逆に、脚をいつまでも出しっぱなしにしていたら、そこから浸水してしまいかねない。

 一気にスロットルレバーを押し込む。エンジンが一際甲高い音を上げ、島風の機体が水面を滑る。

 が、地上と違い、海練うねりが機体を翻弄し、翼にしぶきが掛かる。

 水が粘る。エンジン出力を限界まで上げても機速が上がらない。翼が風を捉えられない。

 飛行機は加速することで翼に風を受け、揚力を得る。逆に言えば、加速できない飛行機は揚力を得ることが出来ず、飛び立つことはない。

 いかにネイヴの戦闘機が浮揚能力があるとは言え、それは短時間に限定される。飛行艇や水上機のように恒常的に浮かんでいることはできない。その限られたわずかな時間で飛び立つことができなければ……沈むしかない。

 補助翼エルロン方向蛇ラダーも言うことを聞かない。当然だ。これらの操縦翼面は、風の流れを変えることで、機体を制御する。だが、機速が出ない状態、つまり翼が風を纏っていない状態では、風の流れを変えられない。現状では飛ぶことはおろか、転覆しないように姿勢制御するだけで精一杯なのだ。

 「くそ……ここまでだったとは」

 軽量なジュラルミンでできているはずの機体が、まるで鉛のように重い。コテツの言うことを聞かない。

 と、目の前に壁のように、一際高い波が迫ってきた。あんなのに真正面から突っ込めば、間違いなく呑まれる。水上機や飛行艇なら持ちこたえられるかもしれないが、陸上機である島風ではひとたまりもない。

 「っそたれっ!」

 コテツの左手がスロットルレバーを握り締める。

 できれば、これはあまり使いたくなかったが……背に腹は代えられない。

 腹を括ると、コテツは思い切り良くレバーを押し込んだ。最大出力の、さらに先へ。

 キィィィィィィンっ!

 エンジンが一際甲高い咆哮を上げ、機体が後ろから蹴飛ばされたかのように一気に加速。凄まじいGがコテツに襲い掛かる。そのまま、身体がシートにめり込んでしまいそうだ。

 不知火。

 エンジン内部に亜酸化窒素を噴射することにより酸素分圧を一時的に高め、一気に出力を引き上げる装置。この島風に搭載された切り札だ。

 機体マニュアルには、瞬間的に一.五倍もの出力を発揮できると書かれていたが……エンジンにも相応の負荷が掛かる、との但し書きがあった。まだ開発中の機構であり、安全性、確実性は未だ確立されていない、との記述もだ。

 要は稼働試験も満足に済んでいない実験兵器。まともに動く保証などない、最悪エンジンブローすら誘発しかねない分の悪い賭けだと言うことだ。

 その分の悪い賭けに勝ったはいいが、凄まじいGと迫り来る大波が、勝利の余韻に浸る暇も与えてくれない。

 極限まで高められた集中力が、翼が加速による風を掴んだことを感じ取る。

 「行けっ!」

 裂帛の気合と共に操縦桿を引き上げる。

 島風が機首を持ち上げ、機体が水面から離れた。

 飛んだ。

 砕ける波頭をかすめながら、島風が翼を広げ、蒼天へと舞い上がる。

 

 キィィィィィィィィンっ!

 甲高い、聞き慣れない轟音が響き渡る。

 祈りを捧げていたハルナは、閉じていた瞳を開き、蒼天を見上げた。

 ハルナの頭上を、風の翼の丘の上空を銀の翼が通り過ぎて行く。ハルナは、跪いた状態からゆっくり立ち上がった。その翼に吸い込まれるように。

 「……コテツ」

 我知らず、その名が口から漏れ出る。間違いない。あれは……あの被曳航船に積まれていた風変わりな戦闘機、島風だ。

 島風は島の上空を大きく旋回したかと思うと、丘の直上で一気に垂直上昇。弾丸のように螺旋を描きながら昇っていったかと思えば、上空でくるりと回って背面逆落とし。まっすぐに丘に落ちてきたかと思うと、機首を引き上げ、急降下の勢いのまま、くるりと回って水平飛行。そして機体を旋回させながら、ゆっくりと上昇していく。今度は機体が反転、首尾線を軸にロール回転を繰り返しながら、クルクルと空を流れていく。

 縦横無尽に、自由自在に次々と複雑なアクロバット機動を決める島風。その機体が降下の勢いをつけて急旋回。翼端が雲を引く。

 「……あのバカ」

 ポツリ、とハルナは呟く。

 その視線の先で島風は機速を落とすと、丘を中心にゆっくりと島の周りを旋回し始める。

 ハルナは、そのコックピットからこちらを見つめるコテツと目が合った気がした。何となく、照れて頬を紅潮させている顔すら見えた気がする。今、この瞬間、コテツと繋がっている気すらした。

 ハルナは島風に向かって大きく手を振る。島風もまた、それに答えるように左右の翼を大きく振った。

 やがて、島風はゆっくりと旋回を止めると、振っていた翼の動きもぴたりと止め、一際高い咆哮を上げて蒼天の彼方へ去っていく。

 「……本当にバカなんだから……」

 本当に島の民を、ハルナを土人と蔑んでいるのなら、挨拶代わりのアクロバット飛行なんて、していくはずがない。

 あの言葉は……わざと彼女を遠ざけるための演技だったと、今のハルナには分かった。

 そして、決然としたその後ろ姿から、困難な、生きて戻れる保証などない戦いに身を投じようとしていることも。

 ……今思えば、やたらヘタな演技で、見え見えだったじゃない。

 それを全く見抜けなかった自分のことは棚に上げ、ハルナは胸中で悪態をつく。

 「コテツ……あなたと共に、風の翼があらんことを」

 ハルナは再び瞳を閉じ、島を護る風に祈りを捧げる。

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