第2話 南洋の島

 「またやってる……」

 ただでさえつり目気味な目をさらにつり上げ、少女は空を見上げた。

 蒼天の下、炎の花が咲き誇っている。

 人によっては花火が蒼穹を彩っているようにも見えるかもしれない。

 だが、生まれてこの方、南洋の小さな島から出たこともない少女は、花火の存在すら知らない。ただ、あれが戦の焔であり、人の命を奪う残虐な光であることは知っている。

 そして……その光が別世界の出来事ではなく、一つ間違えば己の身に降りかかる火の粉であることも。

 「ヨソでやれってのよ」

 十六の少女らしい涼やかな声が、十六の少女とは思えない重々しい響きを伴って、形の良い唇から紡がれる。

 と、紺碧を閉じ込めたのような蒼い瞳が空を漂う異物を捉える。禍々しい紅蓮の花が咲き乱れる中、たった一つ、純白の小さな花びらが頼りなげにふわふわと風に流されている。

 「あれは……」

 目を凝らし、白い花びらを視線で追う。島育ちで広い海と高い空を見て育った少女の瞳は、今日のように晴れた日であれば一○キロ先の戦闘機すら見つけることができる。訓練されたパイロット顔負けの視力だ。

 少女の顔に浮かんだ険しさが増す。漂う白い花は落下傘。と言うことは……墜ちてくるのは恐らく軍人。

 彼女からしてみれば、災厄しか運んでこない最悪の人種、疫病神だ。

 少女が睨みつけるその先で、落下傘は巧みに風に乗り、ゆっくりとその落下軌道を変えていく。

 「……こっちに来る」

 落ちる落下傘を追いかけ、少女は走り出した。

 

 「……いた」

 手頃な岩の陰から頭だけひょっこり出し、少女がボソっと呟く。

 ちょうど、一人の青年が落下傘を使って上から降りてきたところだ。青年は開けた砂浜に危なげなく降り立つと、衝撃を両膝でうまく逃して見事に着地を成功させる。下が比較的柔らかい砂地であったとは言え、ああも見事に落下傘降下を決められる人間なんてそうはいない。

 間違いない。あの身のこなしは訓練された軍人だ。少女はあまり軍について詳しい知識は持っていないが―と言うか、島の外のことに関しては全般的に疎い―黒髪黒目、そして黄色の肌や顔の造りから察するに、フソウの民、即ちネイヴ軍だろう、と判断した。

 フソウとは、海洋皇国ネイヴの皇都のことであり、この場合のフソウの民、と言うのは皇都のあるフソウを含む群島、フソウ群島に住む民族、人種のことを指す。少女のような褐色の肌と紺碧の瞳、彫りの深い顔の造形を持つ南洋民族とは人種からして違う。

 一応、南洋諸島は海洋皇国ネイヴの領土、と言うことになっているが……領土拡張を続けるネイヴがここ近年で併合、あるいは植民地化した地域であり、南洋民族とフソウ民族の間に同胞と言う意識は薄い。

 だが、少女の瞳には、単に異邦人を眺めるのとは違う、明確な殺意の光があった。

 相手は軍人かもしれないが……たった一人。体格も大きくはないし―それでも、同年代の少女の中でも小柄な部類に入る少女と比較したら、明らかに大きいのだが―大した武器も持っていないように見える。拳銃やナイフなど、携帯に便利な小型武器は持っているだろうが、小銃ライフルのような、明らかに目立つ武装はない。

 だったら……不意を突けば……。

 少女は腰の後ろから鉈を引き抜き、その柄をギュッと握りしめる。固い決意と共に。

 

 身を隠せるほどの大きな岩に背を預け、コテツは顔の前に拳銃を構えた。ピリピリとした空気が周囲を包んでいる。空の上でお馴染みとなっている感覚―殺気だ。

 運良く群島の一つ、それも開けた砂浜に着地できたまでは良かったが……その直後に強烈な殺気を叩きつけられた。咄嗟に砂浜に続く岩場に飛び込み今に至る、と言うわけだ。

 コテツの装備は支給品の自動拳銃が一丁。装弾数は薬室に一発、弾倉に八発。そして予備弾倉が二本。これに接近戦用のナイフが一振り。これで全てだ。正直、陸戦をやるには少々、心許ない。

 だが、コテツの装備はもともと不時着した際の非常用。戦闘機乗りのコテツが陸戦を前提とした装備をしている道理などない。

 「……妙だな」

 思わず呟く。確かに強烈な殺気が周囲に満ちている。が、その気配の源が一つしか感じられない。

 アウムの兵士であれば、単独で行動しているとは考えにくい。最低でも二人一組ツー・マンセル、大抵は分隊単位で行動するのが普通だ。

 だとすると……。

 (……この気配は陽動か?)

 一人が囮となって相手の注意を引き、他の兵が有利な位置に回り込むことは十分に考えられる。

 だとすれば……この気配一つに意識を集中させることは危険だ。だが、コテツが考えをまとめるより早く、

 ザっ!

 その気配の主が突っ込んできた。単純かつ直線的な動き。それ故に最短距離を最短時間で突っ切ってくる。

 考えあぐねていた分、コテツの反応が遅れた。その隙を突き、気配の主が背後の岩を一気に飛び越える。そのまま勢いに任せ、頭上からコテツに襲い掛かってきた。

 陽光を照り返し、くろがねの輝きがコテツを狙う。コテツはその一撃を最小限の動きでかわすと、襲撃者の手首を左手で掴み、軽く捻りを加える。襲撃者の身体は掴まれた右手首を軸にくるりと一回転、硬い岩場に勢いよく叩きつけられた。

 ネイヴに伝わる古流格闘技『柔術』だ。ネイヴの軍隊格闘術にも採用され、基礎訓練過程においてコテツも習得している。

 投げ飛ばした相手が立ち上がるより早く、コテツは右手に持った拳銃の銃把を相手の鳩尾に叩き込んだ。

 「ぐっ!」

 妙に可愛らしい呻きを漏らし、襲撃者の身体が弛緩。

 「……は?」

 自らが叩きのめした相手を見下ろし、コテツの目が丸くなる。

 小柄な体躯。スラリと伸びた手足に激しく自己主張する胸、そしてくびれた腰。

 「……どう考えても、女の子だよなぁ」

 年齢はコテツと同じか少し下、と言ったところだろう。褐色の肌、彫りの深い顔立ち、肩まで伸びた黒髪は黒水晶のような光沢を帯びている。たぶん、南洋諸島の原住民だ。どこをどう間違ってもアウムの兵士には見えない。

 「……にしても、目のやり場に困る格好だな」

 高温多湿の南洋諸島では、男女問わず薄着が基本だ。この少女もその例に漏れず、胸と腰に申し訳程度の布しか巻いていない。コテツからしてみたら、下着姿も同然だ。特に彼の故郷であるフソウ群島では、嫁入り前の娘は極力人前で肌を晒さないのが美徳とされるだけに、余計に少女の姿は刺激的に映る。

 だが、目を逸らしてばかりもいられない。何せ、コテツはついさっき彼女に襲われたばかりなのだ。敵である可能性がある以上、放置しておくわけにもいかない。……と言うか、警告もなしに襲ってきておいて敵ではありません、なんて話もあるまい。

 コテツは気を取り直すと、少女の身体を調べ始める。

 装備に関しては鉈が一本。

 ……まぁ、武器にならなくもないが、もともと兵器として造られたモノではない。それこそ、殺傷能力だけで比較すれば、コテツが持っている軍用ナイフの方がよっぽど上だ。

 他に武器になりそうなモノはない。正直、この薄着では暗器の類を持っていたとしても隠しようがないし……隠していたところで裸に剥かなければ、見つけようもない。気絶している少女を脱がすなど、軍人の……否、男の風上に置けない行為だ。絶対ムリ。

 少女が目覚める気配はない。

 手持ち無沙汰に頭上を見上げる。敵の気配は無いが……それでも、ここは目立ちすぎる。何せ、何もなく開けていたからこそ、コテツ自身が着地ポイントに定めたのだから。鳥の目を持つ航空機からしたら、丸見えもいいところだ。

 「……しゃーねぇ」

 さすがに放置しておくのは気が引ける。コテツは少女を抱えると、岩場から移動する。

 ……原住民の少女がいると言うことは、近くに原住民の集落があると言うことだ。そこに行けば、本隊へ連絡がつくかもしれない。

 

 「……ん……んんっ……」

 腕の中から悩ましげな呻きが聞こえる。

 「お、気がついたか?」

 コテツが声をかけると、少女の瞳がうっすらと開いた。その紺碧の瞳がぼんやりとコテツの顔を眺める。

 (……まるで青空みてぇだ)

 コテツはその蒼の深さにしばし心を奪われた。と、どこか寝ぼけていたかのように弛緩していた少女の瞳に意思の光が宿り始め、

 「……え、な……ちょ、ちょっとっ!」

 横抱き―いわゆるお姫様抱っこされていると言う状況を理解した途端、暴れ始める。

 「あんまり暴れると落っこちまうぞ」

 言葉とは裏腹に、コテツは暴れる少女の動きを軽くいなしている。

 中肉中背。さして筋骨隆々と言うわけではない。だが、基礎訓練過程で徹底的に身体を鍛えられている上、コテツの肉体は戦闘機による旋回戦で常に高Gに晒され続けている。また、高速旋回中は、翼が受ける空気抵抗も大きく、操縦桿はとんでもなく重くなる―戦闘機の操縦翼は操縦索ワイヤーによって操縦桿やフットペダルに直結している。故に翼が受ける空気抵抗はそのまま、舵の重さにつながる。加えて言えば、ネイヴの飛鷹は低速低高度での運動性を確保するため、操縦翼面が大きく造られている。この構造は速度が上がれば上がるほど翼面が受ける空気抵抗も二次関数的に大きくなり、その分舵も重くなる、と言う欠点も持つ。その重くなった操縦桿を力ずくで倒しこむのだから、イヤでも腕力は鍛えられる。小柄な少女一人、暴れたところでどうにかなるような貧相な身体はしていない。

 それに少女は慌てているからか、きちんとした武術訓練を受けてないからか―恐らくその両方だろうが―手足の動きがバラバラで重心も安定していない。そんな暴れ方をしたところで、力は簡単に逃げてしまう。ただでさえ体重も軽く体格的に不利なのに、これでは『柔術』を習得したコテツの拘束から逃れられるはずもない。

 「は、離しなさいよっ!」

 暴れてもムダと悟ったか、それとも、とりあえず疲れて一旦休憩しているのか―少女の瞳に宿る勝ち気な光から察するに後者だろうが―少女は手足の動きを止め、代わりにコテツを思いっきり睨みつける。それこそ視線で相手を睨み殺しかねないぐらいに。

 (……間違いない、この殺気だ)

 改めて殺気を向けられ、コテツは先の気配の主がこの少女であると確信する。

 なるほど。原住民の少女が殺気の源であるなら、単独で動いているのも納得は行く。

 だが、こんな正規の軍事訓練も受けていなさそうな、端的に言ってしまえばド素人の少女が、正規軍人に匹敵するような殺気をどうやったら放つことができると言うのか。実際に目の前で殺意を向けられても未だに信じられない。

 親の仇と言うならまだしも、この少女とは初対面だ。恨まれる筋合いはない。ましてや、コテツはネイヴ軍人。そしてこの島を含む南洋諸島はネイヴ領。つまり彼女は皇民であり同胞、コテツが護るべき立場の人間だ。敵国であるアウム軍人であるなら、彼女が殺意を向けるのも道理と思えるが……。

 「ちょっとっ! 聞いてんのっ!? 何とか言いなさいよっ!

 このチカン、スケベ、変態っ!」

 手足を動かすエネルギーを口に回しているのか、ポンポンポンポンと次から次へと罵詈雑言が飛んでくる。

 コテツは思わず顔をしかめた。別にこの程度の罵倒で傷つくような繊細な神経は持ち合わせていないが……とにかく少女特有の甲高い声で、至近距離からキャンキャン叫ばれるのだ。両手は少女を抱えているため、耳を塞ぐことも出来ない。はっきり言って、暴れられるよりよっぽど質が悪い。

 「どうせ、あたしが気絶してる間に、あーんなことやこーんなこととかしてたんでしょ、いやらしいっ!」

 「してねぇよっ!」

 さすがにこれは効いたのか、真っ赤になってコテツが怒鳴り返す。

 「……本当に?」

 上目遣いで少女がコテツを睨む。その顔はコテツにもまして真っ赤だ。どうやら自らの言葉で、いやらしいことをされている自身の姿を想像してしまったらしい。

 「無防備な婦女子に手を出すような、そんな恥知らずなマネできるかっ!

 曲がりなりにもオレは皇国軍人だぞっ!」

 「……軍人なんて、勝手に戦争始めて、勝手にあたし達を巻き込むような自分勝手な人間じゃない。

 その自分勝手な人間の何を信用しろって言うのよ」

 冷たい、まるで地獄の底から這い出したかのような重々しい声音で吐き捨てる少女。

 「……君は軍人が嫌いなのか?」

 「何? 好意を持たれてるとでも思ってたの?」

 コテツの問いかけに、少女は嘲笑で応える。その嘲りには年不相応の凄みがあった。

 (何をどうすれば、こんな年端もいかない女の子がこんな笑い方をできるようになるんだ……?)

 この少女が何を思い、何が原因で軍人を嫌っているかは分からない。だが……軍人としての肩書を信用してもらうことは、恐らく不可能に近いだろう。

 しかし、彼が部隊に復帰するには、この島の原住民の協力は不可欠だ。たった一人では、こんな南洋の小島から部隊に戻ることはおろか、ただ生き延びることさえ困難だろう。

 そして、協力してもらうには信頼を得るしか無い。もちろん、武力で脅して無理矢理言うことを聞かす、と言うことは不可能ではないが……彼らは民間人であり、軍人が護るべき皇民だ。その皇民を武力で脅すなど本末転倒。矜持と誇りにかけて、絶対にできない、赦されない行為だ。

 はぁ。

 一つため息を吐くと、コテツは足を止める。怪訝な表情を浮かべる少女をよそに、ゆっくりと彼女を下ろした。

 少女はネコを思わせる俊敏な動きでコテツから距離を取ると、

 「どういう風の吹き回し?」

 上目遣いにこちらを見上げる。

 「軍が信用出来ない、と言うのなら、オレと言う人間を信用してもらうしか無い」

 言って、コテツは腰のホルスターに手を伸ばす。

 少女が腰を落として身構えた。

 だがコテツは構わず、ベルトごとホルスターを外すとゆっくりと少女の方へ突き出した。

 「何?」

 差し出された拳銃とコテツの顔を交互に見渡し、少女が戸惑った声を上げる。

 「オレに君と敵対する意思はない」

 「その証拠に銃を預けようっての?」

 少女の口元が皮肉げに歪むが、コテツは真っ直ぐな眼差しを返すのみ。

 少女は嘲笑を収めると無言で銃を受け取る。と、間髪入れずにホルスターから銃を引き抜き、銃口をコテツに向けた。

 「あんたに敵対する意思がなくても、あたしにはあるのよ」

 淡々とした口調で、少女。その冷たさはヘタな罵倒よりよほど心を抉る。

 「それとも、自分に銃口が向けられるとは考えてもみなかった?」

 コテツは呆れたようなため息を漏らすと、

 「安全装置を外さねぇと、弾は出ねえぞ」

 「へ?」

 少女が間の抜けた声を漏らす。

 ぷっ。

 その様を目の当たりにしたコテツが思わず吹き出した。

 「な、何よっ!? 何がおかしいってのよっ!?」

 少女の顔がたちまち朱に染まる。

 コテツは口元を抑え、

 「す、済まない。今までの雰囲気とあまりにかけ離れていたからギャップについ……。

 しかし、君も年相応の可愛らしい顔ができるんだな」

 「なっ!? 可愛いって……バ、バカにしてるのっ!?」

 思わず銃を持った手を振り回し、少女が喚き散らす。と、コテツが一気に間合を詰めた。あまりに鋭い踏み込みに、少女の目には瞬間移動したようにしか見えない。

 コテツは無駄のない動きで少女の手首を取ると、

 「安全装置が掛かっているとは言え、初弾は装填されてるんだ。無闇やたらに振り回すと暴発するぞ」

 斬りつけるような鋭い声で注意する。

 「わ、悪かったわよ……」

 ばつが悪そうに視線を逸らす少女。その態度にコテツは苦笑を浮かべ、

 「ほら、ここだ」

 コテツが少女の手首を取ったまま、銃を彼女の顔の前まで引き寄せると、空いている方の手で拳銃のフレーム側面にあるレバーを指差す。

 「このレバー?」

 「そう、そのレバー。それをこちら側に倒し込むと、安全装置が解除される」

 妙に声が近い。

 少女がふと視線を上げると、吐息が掛かりそうな程の至近距離にコテツの顔があった。少女に安全装置の説明をするために拳銃を覗き込んでいたのだが、少女からしてみたら完全な不意打ちだ。

 「ひゃっ!?」

 思わず持っていた拳銃ごと、両手でコテツの胸を突いてしまう。

 コテツは自らの胸に押し付けられた拳銃を見下ろし、目を丸くする。少女は羞恥のあまり、思わずコテツを突き飛ばしてしまっただけだが……コテツからしてみたら、銃を突き返されたようにしか見えない。

 少女もそれに気づいたか、

 「か、返すっ!」

 ぶっきらぼうに吐き捨てた。耳まで真っ赤になってしまっているが、幸いコテツはその意味するところを気づいていないようだ。

 「ありがとな」

 素直に礼を述べる。

 が、少女はビシッとその鼻先に指を突きつけると、

 「か、勘違いしないでよねっ! あたしはあんたなんかを信用したわけじゃないからっ!

 ただ、あたしが持ってても邪魔にしかならないから、あんたに預けるだけなんだからっ!」

 「預けるって……もともとオレのなんだけどな」

 少女の支離滅裂な言葉に、コテツは苦笑するしか無い。

 少女は頬を膨らませ、

 「うっさいっ!」

 言語道断、一刀両断に斬り捨てる。

 「だいたい、問答無用で人を気絶させておきながら敵意が無いなんて、説得力なさ過ぎっ!」

 「その点については謝罪する」

 コテツはあっさりと頭を下げた。あまりにもすんなり謝罪されたため、少女の方が呆気に取られる。

 「な、何よ。調子狂うわね……」

 「不意を突かれたとは言え、明らかにやり過ぎた。あれは完全にこちらの落ち度だ」

 正確には、不意を突かれたことに驚いて反撃してしまったわけではなく、彼女の放つ強烈な殺気に反応してしまったわけなのだが……過度の反撃を加えたことに違いは無い。

 少女は頭を下げるコテツを困ったように見下ろし、

 「……ハルナよ」

 ボソっと呟いた。

 意味が分からず、思わず顔を上げるコテツから目を背け、

 「あたしの名前。ハルナ」

 ハルナと名乗った少女は、あさっての方向を向きながら、ぶっきらぼうに繰り返す。

 「コテツだ。よろしく」

 言って右手を差し出すコテツ。あえて所属、階級は告げない。彼女が軍人に嫌悪を抱いている以上、それを言葉にすることは憚られた。

 が、ハルナはあさっての方向を向いたまま、

 「か、勘違いしないでよねっ! 別にあんたに心を許したとかじゃないからっ! いつまで経っても君とか呼ばれるのも、鬱陶しいから教えてあげただけなんだからっ!」

 コテツは所在なげに右手をぷらぷらと振ると、おとなしく引っ込めた。

 ハルナはくるりと踵を返すと、

 「ほら、さっさと行くわよっ!」

 コテツの返事も聞かず、さっさと歩き出す。

 「行くって、どこへ?」

 コテツの問いにハルナはピタリと足を止め、

 「あたしの村に決まってるじゃない」

 何を今更、と言わんばかりに振り返った。

 「そりゃ助かる。ありがとな」

 礼を言うコテツを冷たく一瞥すると、ハルナは再び前を向いて歩き出す。

 「コテツ……か。……軍人のクセに変な奴」

 そう呟くハルナの口元には、柔らかい微笑みが浮かんでいた。


 「おじいちゃん、ただいまー」

 「おかえり、ハルナ。……おや、お客さんかい?」

 ハルナに続いて家の中に入ってきたコテツの姿を目の当たりにし、老人が目を丸くした。

 「お邪魔します。自分はネイヴ海軍南部方面第十一飛行隊所属、コテツ一等飛空士であります」

 コテツは直立不動で敬礼。

 「こりゃどうも。ワシはムツ。ハルナの祖父じゃ。

 しかし、この島にお客とは珍しい」

 対するムツの顔には好々爺とでも言うべき柔和な笑みこそ浮かんでいるが……その目は全く笑っていない。さすがにハルナほどあからさまで強烈な敵意を向けてくることは無いが……あまり好意的と言う態度ではない。

 どうやら、軍を嫌っているのはハルナ個人と言うわけではないらしい。ヘタすりゃ島全体が軍に対する嫌悪感を抱いている、と言うことも大いにあり得る。

 (軍人としての身分を明かしたのは失敗だったか?)

 脳裏にそんな後悔が過るが、どのみち身につけた軍服を見られれば軍人であることはバレる。それに、最終的には軍人として彼らに協力を仰ぐことになるのだから、遅かれ早かれ、身分を明かすことになる。だったら、さっさと明かしてしまった方が良いだろう。

 どのみち、コテツは一兵卒であり、ただのパイロットだ。細かい駆け引き、交渉事は本業ではない。舌先三寸で相手をごまかそうとしても、うまくいくとは到底思えない。であれば、多少嫌われても正攻法を貫き通した方が、まだマシだろう。少なくとも相手を騙している、と言う良心の呵責に苛まれない分、気が楽だ。

 「そこで拾ったのよ」

 「……人を犬みたいに言うな」

 「犬じゃない、軍の」

 「これっ! ハルナっ!」

 ムツが叱責の声を飛ばすが、ハルナはそそくさと外に出てしまった。

 「全く……すまんな、孫が失礼なことを言って」

 「いえ……事実ですから」

 実際、コテツは軍人であるし、軍人とは不本意であろうと命令に忠実であるべき存在だ。その様から軍人を犬と揶揄する者は少なからずいる。もっとも、犬は飼い主に忠実な動物であることから、その『犬』と言う言葉を肯定的に捉える軍人も少なくないのだが。

 「で……軍人さんがこんな辺鄙な島に何の用かね?」

 「空戦で撃墜され、この島に緊急脱出したのですが……所属部隊と連絡が取りたい。通信機があれば貸していただきたいのですが……」

 「無いよ、そんなモン」

 まだまだ未開と言える南洋方面では、通信機どころか発電機すら、あるのはかなりの人口を抱えた大きな島か、軍事基地がある島に限られる。そもそも、軍事基地があるのであれば、わざわざ原住民の集落に立ち寄り頭を下げる必要もなく、基地から所属部隊に連絡を付けてもらえば話は済む。

 「……では、定期便はいつ来ますか?」

 「そんなモン、来るわけなかろう」

 ここで言う定期便とは、島々を巡回する大型商船のことだ。だが、そのような商船が定期的に立ち寄る島は、やはりかなりの人口を抱えた島、軍事基地が存在する島だけだ。定期便を所有、運用するのは、基本的に民間企業だ。彼らは、何も慈善事業で島々を回っているわけではない。あくまでも商売だ。巡回するのはそれなりのメリットがある島―利益が見込めるだけの人口、市場規模を誇る島、確実に売買が成立し、しかも支払いが確約される軍事基地、その島特有の特産物があり、その島でしか入手できない生産物を出荷している島に限られる。それに定期便ともなると、大抵は大型の船舶を用いることがほとんだ。複数の島を巡回して回るのに、小型の船では積載力が低く、航続距離も短い。故に何度も母港に帰港する必要があり、効率が悪い。洋上で何らかのトラブルが発生した場合についても、大型船ならその場でリカバリできる可能性はそれなりに高いが、小型船では致命傷に繋がり、最悪はそのまま漂流、難破、沈没に繋がることだってあり得る。が、大型船舶を使うには、相応に充実した港湾施設が不可欠。電力すら満足に確保できない小さな孤島にそんな港を維持管理できるはずもなく……造ったところで利用する者もいないだろう。

 「……他の島へ行く手段、いや、連絡を取る手段でもいい。何かありませんか?」

 すがるような思いでコテツは尋ねる。

 ムツはシワだらけの顔を渋面にして考え込むが、

 「無いな」

 数秒後、あっさり諦めた。

 「……何一つ、ですか?」

 なおも食い下がるコテツに、

 「無いのう」

 ムツはすげなく答える。

 「……では、舟を一隻、貸してください。できれば海図も」

 「……何に使うんじゃ?」

 「自力で他の島へ行きます」

 通信手段も訪れる者もいないのなら、自分からこの島を出るしかない。コテツはそう決断したのだが、

 「やめておきなさい」

 ムツはゆっくりと首を振り、

 「この島にあるのは、せいぜい近海で漁をする程度の小舟だけじゃ。近くの島にたどり着くぐらいならどうとでもなろうが、ここら一帯は全て無人島じゃ。この島を除いてな」

 外洋まで出れば、人のいる他の島まで行くこともできるかもしれない。だが、外洋は波も高く風も強い。小舟程度で漕ぎ出せば、あっさりと転覆しかねない。熟練の船頭でもいれば、それでも乗り切ることは不可能ではないだろうが……残念ながら、コテツは操船についてはド素人だ。戦闘機の操縦については一流、陸上における戦闘、及び墜落時のためのサバイバル活動についてもひと通り訓練を受けているために素人と言うわけではないが……さすがに船乗りの経験もなければ、操船訓練も受けてはいない。

 「お若いの。なぜそうまでして帰ろうとするのかね?」

 「自分は軍人です。軍人は戦うことが仕事です。だから所属部隊に戻らないとなりません」

 即答するコテツ。なぜそんな問いかけをされるのか、分からない。

 「それは自分が殺されることになっても、かね?」

 「無論です」

 自ら死にたいとは思わないが……殺されることを恐れていたら、軍人なんて務まらない。

 「それは他人を殺しても、かね?」

 「……殺人を肯定するわけではありませんが……これは戦争です。そして戦うのは軍人です。自分がそうであるように、相手も覚悟はしているモノと信じています」

 今度はやや躊躇を挟んだモノの、それでもはっきりと言い切る。

 「おまえさんの戦いは、他者の……そして自分の命を犠牲にするに値するのかね?」

 「皇国軍人は国と皇王、そして皇民を護るために戦っているのです。

 そして、それらを護ることは我々の名誉であり誇りです。もちろん、同じ皇民であるあなた方、南洋民族も我々軍が護るべき対象です」

 模範解答のように、すらすらと答えるコテツ。彼からしてみたら、戦う理由など今更考えるまでもない。そんなことをいちいち考えながら引き金を引いていたら、いくら命があっても足りない。

 「そうか」

 ムツはゆっくりと頷きながら、

 「では、もう一度、この島でゆっくりと考えてみるといい。おまえさんが何のため戦うのか、何のためにその命を使うのかをな。

 幸い、考える時間はたっぷりある。

 島にいる間はこの家に滞在すればいい。

 ワシらも生活に余裕があるとは言い難いので、大したもてなしはできんがな」

 (オレは一刻も早く戻りたいんだがな)

 こうしている間にも、戦友たちは空に散り、護るべき国は敵の砲火に焼かれていく。

 その焦燥を胸の奥底に押し込み、コテツはムツに頭を下げた。

 

 目が覚めたら、見知らぬ天井だった。

 (ここは……?)

 頭がボンヤリする。状況が整理できない。

 とりあえず身を起こしてみた。拘束はされていない。と言うことは、別に捕虜として捕らえられた、と言うことではないらしい。

 一応、国際法では捕虜の扱いについては規定されており、端的に言えば人道的な扱いをするように定められているが―もっと端的に言ってしまえば、拷問や自白の強要、私刑リンチの禁止である―実際に守られているかどうかは疑わしい、と言うのが実状だ。捕らえられたネイヴ兵がアウムの極北送り―アウム極北地域の開墾事業における強制労働だ―にあった、と言う噂もある。もっとも、極北送りは生きて戻れぬ片道切符。実際に生きて戻ってきた証言者がいないので―正確には死体になっても極北から出ることはできず、遺体は現地で遺棄される―噂自体が眉唾、ネイヴ軍上層部が自軍の兵士が簡単に投降しないように流したデマ、と言う噂もある。

 いずれにせよ、捕虜になった経験などなく、捕虜にされた時のことなど事前に考えるような後ろ向きな性格でもないため、その扱いがどのようなモノかなど、コテツには皆目見当もつかないし、興味もない。

 周囲を見渡してみる。明るい陽光が窓から差し込んでおり、扉は開きっぱなし。材質や造りから判断するに、壁も薄く、そもそも扉に鍵がついているかどうかすら怪しい。

 いくら国際法で捕虜の扱いが規定されているとは言え、さすがに拘束、監禁まで禁じられているわけでは無い。捕虜であるなら、こんな無防備な形で放置していることはあり得ない。

 と、

 「おお、目が覚めたか」

 老人がひょっこり扉から顔を出した。南洋民族特有の褐色の肌に紺碧の瞳。そう、名前は確か……ムツと言ったか。

 「おはようございます、ムツ」

 ようやく記憶が戻ってきた。自分は空戦で撃墜され、この島に落下傘降下したのだった。そして、このムツとその孫娘ハルナの家に厄介になっていたのだ。

 「よく眠っとったの」

 「……何時間ぐらい寝てましたか?」

 「さぁ?」

 コテツの問いにムツは首を傾げた。

 「ここには、フソウで使われとるような正確な時計なんぞ無いからの」

 一日の始まりは日の出と共に、一日の終わりは日の入りと共に、と言うアバウトな生活スタイルが南洋の基本で、一年中温暖な気候が続くため季節の移ろいにも疎い。時刻に厳格なフソウ民族とはえらい違いだ。

 「食器が片付かん、とハルナが怒っとたぞ」

 見れば部屋の片隅に料理が入った食器が置かれている。

 「ま、よっぽど疲れとったんじゃろうがの。何せ、夕べはいきなり倒れたと思ったら熟睡しとったからの。

 あまりの見事な寝入りっぷりにハルナなんぞ死んだかと思って大慌てしとったぞ」

 意地の悪そうな笑みを浮かべつつ、ムツ。

 言われてみれば、昨晩、いきなり記憶が途切れている。そこで眠ってしまった、と言うことか。

 考えてみれば、昨日は飛鷹の作戦行動半径限界近く、実に三時間も掛けて遠征した上で即空戦、いきなり孤立無援の状態に陥りつつも孤軍奮闘、だが健闘虚しく最後は撃墜、と言う目まぐるしい一日を送ったのだ。運良く近隣の島へ脱出できたこと自体は不幸中の幸いと言えるが、朝、出撃してから撃墜されるまで、一切の休み無し。一人乗りの単座戦闘機では途中で操縦を交代するわけにも行かず、それどころか、索敵、航法もパイロットが全てこなさなければならない。これでは疲労困憊に陥っても仕方あるまい。昨晩もいきなり寝入ったと言うより、緊張の糸が切れたことにより、限界を超えていた疲労に肉体が耐え切れず気絶した、と言うのが正しい。

 ぐうぅぅぅきゅるるるる……。

 コテツの腹が凄まじい勢いで空腹を訴える。思い返してみれば、昨日は疲労困憊で気絶するほど働いていながら、何も口にしていない。もちろん、携帯食糧の類は機内に持ち込んでいたが、食べる暇なんて無かったのだ。

 「ほれ、早く食ってしまえ。いつまでも残していると、ワシがハルナに八つ当たりされてしまうわい」

 ムツの言葉に一礼し、コテツは食器を手に取る。

 中身は茹でたイモ。フソウでもイモを食べる習慣はあるが、フソウでは見たことのない種類のイモだ。恐らく南洋特有の種なのだろう。

 何はともあれ、今は腹さえ満たしてくれるなら何でもいい。コテツはイモの皮を剥くと、拳大のイモにかぶりつく。

 薄い塩味、そして独特の甘みが口の中に広がる。初めて食べる味だが、悪くはない。

 「ええ食いっぷりじゃのう」

 感心半分、呆れ半分と言った様子でムツ。

 だが、コテツはそんな様子にも気づかず、夢中でイモを頬張っていた。器の中身を全て平らげたところで、

 「……ハルナは?」

 ようやくもう一人の住人の姿が無い事に気付いた。

 「ああ、あの娘なら風の翼の丘じゃろう」

 「風の翼?」

 「この島の護り神じゃ」

 南洋民族の大半は自然崇拝者だ。その信仰の対象は風であったり海であったり太陽であったり自らが住む島であったり、と様々であるが―早い話が島ごとに異なる。この島ではその信仰の対象が風であり、それを風の翼と呼んでいるのだろう。

 「今頃、風の翼に祈りを捧げているんじゃろうて。用があるなら行ってみるとええ」

 好々爺の笑みを浮かべ、ムツが頷いた。

 

 「あそこが頂上てっぺんか……」

 降り注ぐ陽光に目を細め、コテツが前方に視線を走らせる。山の稜線がそこで途切れ、その向こうには雲一つない青空が広がっていた。

 島の中央に位置する小高い岩山。それが風の翼の丘だ。

 標高一〇〇メートル弱。山と言うには低いぐらいだが、島ではもっとも空に近い。

 島はこの丘を中心に、全周で数キロ程度。南洋諸島には有人無人、大小様々な島があるが、この島は有人島としては最小規模と言っていいだろう。

 起伏は少なく、外縁からこの丘に向かって、緩やかな稜線を描いている。島の南側にはコテツが不時着した砂浜、そこからまっすぐ丘の方へ向かうと、ハルナ達の集落。砂浜の左右には岩場が広がっており、それが島の周囲をぐるりと取り囲む形で全周の四分の三を占めている。砂浜から離れれば離れるほど、海岸は断崖絶壁となっていき、北側が海面と陸地との高低差がもっとも大きい。

 丘の麓は熱帯雨ジャングル林に覆われているが、標高が上がれば上がるほど、その土質が岩に近くなっていき、樹高の高い木は少なくなっていく。そのまま草原、そして丘の頂上付近はゴツゴツした岩場のみで構成されていた。

 登ってくる途中で見かけたが、南の稜線には泉が湧いており、この泉水は小川となって島の南側、集落をかすめるようにして海へと流れ込んでいた。恐らく、あの集落は島に流れ着いた先人たちが川のほとりの熱帯雨林ジャングルを切り開いて造ったモノだろう。その集落と小川を挟むような形で小さいながらも畑もある。恐らく、作っているのは今朝も食べた例のイモだ。

 この小さな島に人が住むことができるのは、あの泉のおかげだろう。古今東西、人間の営む社会と水源は切っても切れない関係がある。歴史を振り返ってみれば、水源をめぐる争いは数限りなく多い。

 程なく頂上にたどり着く。頂上は開けた岩棚のようになっており、なるほど、祈りを捧げる祭壇のように見えなくもない。

 その中央に少女は跪き、手を合わせて祈りを捧げていた。

 肩まで伸びた黒髪が、陽光を照り返して絹のような光沢を放ち、祈りを捧げる横顔は、真摯な想いに彩られていた。

 コテツは思わずその姿に心を奪われる。

 ―天使が地上に降りてきた―

 無意識のうちに、そんなことさえ思ってしまった。

 と、少女が閉ざしていた目を開き、その紺碧の眼差しをコテツに向ける。

 「……何よ?」

 瞳が胡乱な色に陰る。そこにいるのは、地に降り立った天使ではなく、南洋の勝ち気な少女、ハルナだ。

 コテツは視線を逸らしつつ、

 「……別に」

 ぶっきらぼうに言い放つ。

 まさか、あまりに綺麗だから見とれていた、なんて言えない。

 「ふーん……。ま、いいけど」

 ハルナもまた、つっけんどんな態度で返す。その頬が少しばかり赤いところから察するに、彼女の方も一心不乱に祈りを捧げている姿を見られて、少し気恥ずかしかったのだろう。

 丘の頂上が、何とも微妙な空気に包まれる。

 コテツは微妙な空気から逃れるように、周囲をぐるりと見渡す。

 「しかし、いい眺めだな、ここ」

 視界に入ってくるのは、雲一つ無いどこまでも広がる蒼天、そして白い波頭を立てる海。

 視線を島の中へと移す。と言っても何も無いのは変わらない。発電施設も無ければ、港湾施設も無い。飛行場など以ての外―航空機を離着陸させるには、相応の長さの滑走路がいる。だが、この島には、それだけの滑走路を造れる平地がない―小舟の類は浜に並んでいるが、付近の島ならともかく、他の有人島があるであろう大海原に漕ぎ出すには些か以上に心許ない。

 ざっと島を一望するに、産業と言う産業は発達しておらず、自給自足の生活を営んでいるようだ。

 それ自体は、特に南洋諸島では珍しくは無い。南洋では島々が海に分断されているせいか、個々の島々における独立気質が強い。また、気候が年中暖かく、食糧の確保が困難になる季節、即ち冬が無い。維持すべきコミュニティが島、と言う小さな単位であることもあり、島ごとの自給自足で事足りるのだ。

 地政学的には、同じ島国であるフソウだが、フソウは南洋と違い四季が存在する―つまり食糧の確保が厳しい冬が存在するため、冬を越すために食糧を余分に生産し、備蓄する必要に迫られた。結果、食糧生産力を向上させる手段として農耕産業が発達した。

 また、フソウは南洋に比べ、同じ島国でも島と島の距離が近い列島だ。故に島ごとに小さなコミュニティを形成してきた南洋と違い、列島として大きなコミュニティ、即ち皇国を形成するに至ったのだ。

 農耕から始まった産業の発展と、列島と言う大きなコミュニティ。この二点が、同じ島国でありながら、フソウをネイヴ皇国として、アウム大陸連邦と肩を並べるほどの大国ならしめた大きな要因と言える。

 「綺麗でしょ?」

 ハルナがコテツを下から覗き込んできた。

 まるで太陽のような笑顔がまっすぐコテツを見つめている。

 「……ああ」

 一瞬、コテツはハルナの顔に見とれた。

 先の神秘的な、どこか浮世離れした美しさとは違う、生命力に満ち溢れた力強い美しさがその笑顔には込められていた。

 「だよね。あたしもここから見える景色、すっごく好きなんだ」

 言って、ハルナは両手を広げて踊るようにクルクルと回る。

 「……あ、ああ」

 (景色のことか)

 呟きが声に出なくて、心底良かったと思う。

 気恥ずかしくなって、回り続けるハルナから目を逸らした。誤魔化すように視線を空に向ける。

 蒼い空。

 そして、碧い海。

 いつも飛んでいたはずの、見慣れていたはずの青に染められた世界。

 だが、いつも見ていた無機質な世界とは違う。何と言うか……こんなにも広く、こんなにも高く、そして……こんなにも輝いていただろうか。

 「そうだな」

 気がつけば、コテツはそう答えていた。

 飛鷹を駆って、間近で見ていたはずなのに―それどころか、そのど真ん中を飛んでいたはずなのに、なんでこうも違って見えるのか。

 単座戦闘機の風防キャノピー越しに眺めていたからか。それとも下から見上げているから、陽光に輝いて見えるのか。この島から眺めた景色が、たまたまそう映るのか。

 それとも……違うのは、物理的な立ち位置ではなく、己が置かれた立場なのか。軍人としての任務、責務から開放され、ただの一人のコテツとして・・・・・・・・・・・・見上げているから、率直に空の美しさを感じることができるのか。

 そうだ。今、自分は何を考えて空を見上げていた? 海を見下ろしていた?

 軍人としての責務を考えるなら、ただボンヤリと空を眺めるなんてあり得ない。コテツにとっての空とは、戦場以外の何物でもない。ある時は敵を探し、ある時は敵を叩き落とし、ある時は背後から敵に襲い掛かる。今だって、敵の存在を警戒しつつ、味方に連絡する手段を全力で探すべきなのだ。

 空に機影はないか。

 海に船影はないか。

 この島はどこにあるのか。

 今、自分はどこにいるのか。

 それらを見える範囲の空と海から可能な限り情報を収集し、全力をあげて部隊へ戻る。それが今、自分がすべきことのはずだ。

 「じゃ、そろそろ行きますかっ!」

 ひとしきり踊り回って満足したのか、ハルナがこちらに手を差し出してくる。

 「行くって……どこへ?」

 「決まってるじゃない」

 何が決まっているのかよく分からないが、ハルナが腰に手を当てふんぞり返る。勢いで形の良い胸が揺れ、コテツは思わず目を逸らす。

 「家事に洗濯、水汲み。畑仕事に晴れた日は漁に行くこともあるし。

 仕事なんて山ほどあるのよ。まさか、タダ飯食べるつもりだったの?」

 「いや……そんなつもりはねぇけど」

 コテツはポリポリ、と頬をかく。事実、自分の食い扶持ぐらい働く必要はある、とは思っていた。部隊に戻ることはもちろん最優先事項ではあるが……何の対価も支払わず世話になることは、軍人以前に人としてダメだと言う程度の分別は持っているつもりだ。

 「そうだな、行くか」

 それに、ここで海と空を眺めていたところで、何らかの進展があるとは思えない。

 海図も羅針盤コンパスもなく、島の正確な座標など割り出せない。友軍が近くを通り過ぎるのを待つにしても、いつ通り過ぎるのかも分からない―ヘタすれば、全く近づかないことだって十分あり得る。

 どうせ進展しないのなら、少しでも島の仕事を手伝って、滞在に対する恩を返した方が、ずっと有意義だ。

 (どうせ、一日や二日でどうにかなるモンじゃないしな)

 自分で自分に言い訳するかのように、コテツは胸中で呟いた。

 

 「精が出ているようじゃの」

 屋根の下から声が掛けられた。コテツは危なげない動きで縁から下を覗き込む。

 ムツが穏やかな笑みを浮かべ、こちらを見上げていた。

 「どうじゃ? 少し休憩したら」

 コテツは屋根の上に立ち上がり、天を仰ぐ。

太陽が天頂に差し掛かっている。ついさっき、屋根の修理を始めたばかりだと思っていたが、思ったより時間が過ぎてしまっていたようだ。

 軍人としては、時間の感覚に鈍くなっていることに多少の危機感を覚えるが―軍事行動には正確無比な時間管理が求められる。わずかな時間のズレが作戦の綻びを生み、部隊の全滅を招くことは珍しくはない―この島に滞在して一ヶ月、時間に追われたことなど、ほとんど無い。時計が無い、と言うこともあるが、何より時間に対して鷹揚である空気に支配されていることが大きい。

 鍛えられた身体はまだまだ体力に余裕がある。特に休憩の必要性も感じなかったが、

 「では、お言葉に甘えて」

 コテツはムツの言葉に素直に従うことにした。何となく、休憩と言うのは口実で、コテツとサシで話があるのだろう、と言う雰囲気を感じたからだ。

 タン。

 軽い音を立て、コテツの身体が宙を舞う。つかの間の空中遊泳の後、下半身を柔軟に使い、落下の衝撃を見事に殺した。

 「……さすがじゃの」

 屋根の上からあっさりと飛び降りてきたコテツに、ムツが目を丸くした。

 「それじゃ、どこか涼しいところにでも移動しますか」

 腕をかざして日差しを避けつつ、コテツ。今日も暑くなりそうだ。


 「どうかの、ここでの暮らしは?」

 適当な木陰に腰を下ろし、ムツがコテツを見上げた。シワだらけの顔はかなりの高齢を思わせるが、かくしゃくとした動き、はっきりとした口調は、この老人を実年齢より若く見せている。

 コテツはムツの横に腰を下ろし、

 「見ず知らずの人間の面倒を見てくれて、感謝しています」

 戸数にして十戸あまり、総人口は百人にも満たない小さな集落だ。そして、この島に住む人間はそれで全部。

 集落の家屋は島に群生する竹や椰子を用いた簡素な造りで、集落付近に造られた畑も規模は小さい。食糧は基本的に、その畑で収穫されたイモの他、近海で得た魚や密林の中から採取した果実、島に住む野鳥や小動物を狩ることで得ていたが、豊かな生活とは言い難い。そんな貧しい集落では、コテツのような見ず知らずの人間を世話することは、小さくない負担のはずだ。

 「いやいや。ワシらの方こそ、おまえさんには感謝しているよ。

 おまえさん、壊れたモノは何でも直してくれるからのぅ。本当に器用なモンじゃ」

 ムツの言うとおり、コテツは家屋や舟、農耕具の修理など率先して行っていた。修理の出来もよく、評判も上々だ。

 「もともと、オレは整備兵でしたから。さすがに何でもは直せませんが」

 「ほう、それは意外じゃの。整備兵から飛行士へ転身したのかね?」

 「まぁ、そうなりますね」

 航空戦力が本格的に戦場に取り入れられたのは比較的最近の出来事だ。故に当初はパイロットの数が不足しており、一から専門の教育を施していってはとても間に合わなかった。このため、ネイヴでは他の兵科から適性のある者をかき集め、即席の飛行隊を編成していたのである。コテツもまた、この際に整備兵から飛行士へと抜擢された。

 もっとも、この場当たり的な人事によって生まれた即席の飛行隊は、皮肉なことに開戦当初から前線に投入され続けたため、誰よりも実戦を数多くこなすことになり、正規の訓練を受けたパイロットよりはるかに高い技量を誇るに至った。

 軍の上層部もまた、正規の訓練を受けてないパイロットなど失っても惜しくはないと考えているのか、積極的に激戦区に投入する傾向が強く、この方針が数に勝るアウムとの航空戦において、ネイヴがなんとか戦える大きな要因となっていた。

 それでも数の差は如何ともし難く、開戦当初の優秀な古参パイロットは次々と撃墜され、徐々にその数を減らしつつある。昨今では組織力に劣るネイヴは劣勢に立たされている、と言うのが現状である。

 また、ネイヴはアウムに比べ、工業生産力、資源の保有量の低さを補うように新型戦闘機の開発に力を入れているが、その新型機は正規訓練を受けたパイロットに優先的に回され、コテツ達古参のパイロットは旧式の飛鷹での出撃を余儀なくされている。これもまた、ベテランパイロットの消耗に拍車を掛けていた。

 それでも、何とか洋上戦線を持ちこたえさせているのは、数多の不利な状況を跳ね返しつつ奮闘しているベテランパイロット達のおかげ、と言って良い。

 「……答えは見つかったかね?」

 ムツが静かな声で話題を変える。声の中にわずかに混じる重さからして、これが本題なのだろう。

 コテツは答えを求めるように、あるいは答えから逃れるように蒼穹を仰ぎ見た。

 空は雲ひとつ無く、ただそこにある。あの空を見つめていると、この島に流れる穏やかな時間に触れていると、今もどこかで互いの命をかけたギリギリの戦いが繰り広げられていることを忘れてしまいそうになる。そして……忘れてしまいそうになる自分を信じられなくなる。

 コテツは軍人だ。軍人が戦いを忘れることなど、あってはならない。それは戦友たちに対する裏切りであり……自身の存在に対する冒涜だ。

 どうせ状況はすぐには進展しない。

 そう自分に言い聞かせ続け、はや一ヶ月。そろそろ自らに対する言い訳も限界だ。いや……もはや自分の本音すらボヤけて見えなくなりつつある。

 自分は……戦場の空ではなく、この島でののんびりした生活を望んでいるのではないか?

 そんな疑念すら、時折心の奥底から湧き始めていた。

 「なぁに、サボってんのよ?」

 少女の声がコテツの思考を断ち切った。視線を落とすと、ジト目でこちらを見下ろすハルナと目が合った。

 「誰がサボりだ」

 半眼で睨み返すコテツ。

 「さっきまで、おまえの家の屋根を直してたんだろうが」

 昨日降った集中豪雨スコールで屋根が抜けたのだ。なお、その時に抜けた屋根の真下にいたのは、何を隠そうコテツだったりする。おかげでコテツはびしょ濡れになるハメになった。

 ハルナはふん、と鼻を一つ鳴らし、

 「居候なんだから、それぐらい当たり前でしょ、この穀潰し」

 正直、自分が食べている分以上に働いているつもりではいるのだが……コテツが居候である事実は覆せないので、我慢する。代わりに、

 「……で、てめぇはイヤミ言うためだけに、わざわざこの炎天下の中、出張ってきたのか」

 南の島だけあって、太陽が天頂近くに上る正午前後の暑さは想像以上。湿度も高いから、不快指数はうなぎ登りだ。唯一の救いは海が近く、潮風が吹いてくることぐらいだろう。

 「まさか」

 ハルナはとびきり皮肉な笑みを浮かべると、

 「居候の穀潰しがお腹を空かせて可哀想だと思ったから、お昼を持ってきてあげたのよ。

 このあたしの優しさに涙を流しながら感謝しなさい」

 竹を編んで作った籠を差し出してくる。

 その中からいい匂いがしてきた。

 ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ……。

 匂いに反応し、コテツの腹が情けない音を立てた。

 

 「おいしい?」

 口をモゴモゴと動かすコテツを覗きこみ、ハルナが尋ねる。

 コテツはそちらを見下ろし、

 「うまいも何も……ただの茹でイモだろ、これ」

 初めて出された食事にもあった、あの南洋特有のイモだ。主食であるのか、ほぼ毎食のように食卓に上がってくる。調理方法に多少のバリエーションはあるモノの、シンプルな茹でイモがもっとも多い。

 何はともあれ、イモである以上、茹でるなり焼くなり、かなり適当に調理しても大抵は食えるシロモノには仕上がる。そしてイモは成長も早く、一年中温暖な南洋では年に何回も栽培でき、栄養価も高い。豊富な水や肥えた土壌が必要な穀物類に比べ、小さな島でも容易に栽培できるので、南洋諸島では主食とされてきたのだろう。

 「ふっふーん、そんなことを言っていいのかしら?」

 なぜか挑発的な笑み浮かべ、胸を反らすハルナ。はずみで豊かな胸が揺れ……やはりコテツは目を逸らした。

 一ヶ月もの間、同じ屋根の下で同じ釜の飯を食い続けていれば、それなりに打ち解けてくる。今では、日に数えきれないぐらい軽い言い争いをするほど、互いに遠慮のない関係にはなったのだが……これだけは未だに慣れない。

 もともと、南洋民族は薄着で、コテツ達フソウ民族からしてみたら下着同然の姿をしている上、ハルナはスタイルもよく、俗な言い方をすれば自己主張の激しい、出るところは出て、引っ込むところは引っ込む理想的なプロポシーションの持ち主だ。意識すまいとしても、どうしても意識してしまう。

 さらに言えば、コテツは思春期真っ盛りの時期に徴兵され、軍と言うむさ苦しい男所帯に押し込められていたために、女性に対する免疫が全くと言っていい程ない。加えると、現在のコテツは空母機動部隊に所属しており、一年の大半は海の上で過ごす。故におかとの接点が少なく、余計に女性とは疎遠になっていた。

 だが、ハルナはそんなコテツの様子に気づいていのか、籠の中に手を突っ込むと、

 「じゃーんっ!」

 得意気に中身を取り出した。鼻腔をくすぐる匂いが、コテツの食欲をさらにそそる。その匂いに、コテツは持て余していた煩悩も忘れ去り、ハルナの手の中、匂いの元に視線を向けた。

 「これって……」

 「前にあんたが言ってた、『肉じゃが』って言うフソウの料理よ」

 イモと肉、それに他の根菜を煮込んだ料理。それが簡素な木の器に盛られていた。ところどころ違うが、確かにこれは肉じゃがだ。

 「……どうしたんだよ、これ?」

 「あんたがどーしても食べたい食べたいって泣いて頼むから、わざわざ作ってあげたんじゃない」

 「……一度、おまえのオレに対する認識について、徹底的に話し合う必要があるらしいな」

 少なくとも、コテツは肉じゃがを食べたいなどと、泣いて頼んだ覚えはない。以前、フソウではどんなモノを食べていたのか、何が好物なのか、と聞かれたから、適当に答えただけだ。

 「そう言えば、コテツが出て行った直後から、ずーっと料理にとりかかっていたが、これを作っていたのかい?」

 コテツの脇から肉じゃがを覗きこみ、ムツが呟く。

 「オレが出て行った直後?」

 コテツが家を出たのは、夜明け前だ。そこからずーっと料理に掛かりっきりになっていた、と言うことは……数時間も取り掛かっていた、と言うことになる。少なくともコテツの持つ知識では、肉じゃがと言う料理はそこまで時間が掛かるわけでも、手間が掛かるわけでもない。考えられる可能性と言えば……それだけ、試行錯誤しながら作った、と言うことぐらいしか考えられない。

 「お、おじーちゃんっ!」

 ハルナが真っ赤になってムツに怒鳴る。

 ムツはすっとぼけた顔をして、

 「おやおや、それはコテツには内緒だったのかい?」

 「べ、別に、そんなことはないんですけどっ!」

 真っ赤になった顔をあさっての方向へ向け、

 「ほら、冷めちゃうでしょっ! さっさと食べなさいよっ!」

 両手で肉じゃがをコテツの方へ突き出してくる。コテツは器に入っていた木串を一本取ると、プスっと肉じゃがの中のイモを突き刺し、口元へと運んだ。

 じ~っ。

 「……いや、そんなに睨まれると食いにくいんだがな」

 「男が細かいこと気にしてるんじゃないわよ」

 コテツの口元を睨んだまま、ハルナがばっさり斬り捨てる。

 覚悟を決め、コテツは肉じゃがを口に放り込む。

 何だろう。何で肉じゃが一つを食べるために、こんなに神経をすり減らさなければならないのだろう。

 そんな疑問と共に。

 

 「おいしい?」

 先ほどの繰り返しのように、ハルナが聞いてくる。もっとも、先と違ってどこか不安げな光をたたえた瞳で、上目遣いに聞いてくるその様は、年相応に可愛らしい。

 (……こいつも、こういうしおらしい態度を取っていれば、可愛いのに)

 口の中にイモが入っていたため、胸中で呟くコテツ。声に出していれば、ハルナは夕焼けよりも赤く顔を紅潮させ、嵐よりも激しく暴走していたかもしれないが。

 「ああ、うまいぞ。ちょっと変わった味だが」

 コテツの知る肉じゃがとは、かなり風味が違う―そもそも、この島でジャガイモは採れない。イモはいつも食べてる南洋特有の品種だ。だが、これはこれで悪くない。

 「へへっ」

 心底得意そうに、そして嬉しそうにハルナが笑う。コテツの目には、その笑みはとても魅力的に映った。

 「調味料とかダシとか……コテツの説明だとよく分からないモノがあったから、適当に流用してみたんだけど、うまく行ったみたいで良かった」

 なるほど。微妙に風味が違うのは、イモだけでなく現地の調味料を流用したからか。

 コテツは納得し、肉を口の中に放り込む。

 「これ、ヘビか」

 「正解」

 肉じゃがの肉、と言えば牛肉が定番であるが、こんな南洋の島で牛肉なんて手に入るわけもない。それどころか、実際に牛を見たり食べたりしたことがある島民など皆無だろう。この島で食べられる肉と言えば鳥か野うさぎ、あとはヘビ、カエルぐらいのモノである。

 肉だけではない。醤油なんて無いから、魚醤―塩漬けした魚から作る調味料で、南洋ではよく使われる調味料の一つだ―を流用し、ダシもコンブも鰹節も手に入れられないから、適当な魚のアラを使って代用。

 そもそも、コテツのハルナに対する肉じゃがの説明が『肉とイモを煮込んだ料理』と言うよく言えばシンプル、はっきり言えばいい加減なモノだったのだ。そこから想像を働かせ、あるモノを使って試行錯誤して作ったのがこの肉じゃがなのである。そりゃ、作るのに数時間も掛かろう、と言うモノだ。

 クォォォォォォォン……。

 遠くからエンジンの唸り声が聞こえる。コテツは肉じゃがを食べる手を止め、空を仰いだ。

 翼を広げた異形の鳥が悠然と蒼穹を泳いでいく。ネイヴの攻撃機、海鷹かいようだ。単独飛行していると言うことは、恐らくは偵察哨戒任務に就いているのだろう。攻撃機は大量の爆弾を積んでの水平爆撃、及び巨大な魚雷を抱えて行う雷撃を主任務とするため、飛鷹のような単座戦闘機に比べて機体も大きく、その分、搭載燃料も多い。故に航続距離も長い。その上、単座戦闘機がパイロット一人で操縦するのに対し、三名の乗員が乗り組むため、索敵能力も高く―基本的に索敵の要は目だ。乗員の頭数が多いと言うことは、つまりは目がそれだけ多いと言うことであり、単純に索敵能力も高い、と言うことである―哨戒任務にも多用される。

 「……やっぱり、気になるんだ」

 抑揚のないその声に、コテツは我に返った。

 見れば、泣きそうな顔でハルナがこちらを睨んでいる。

 「……やっぱり、あんたも軍人なんだ」

 何を今更。

 そんな思いが脳裏を過るが、ハルナの泣き顔に気圧され、何も言うことが出来ない。

 「あんたなんか……あんたなんか……」

 肉じゃがの容器を持った両手を震わせ、喘ぐようにハルナは声を紡ぎ出す。

 「あんたなんか、どっかに行っちゃえっ!」

 容器をコテツに押し付けるや否や、ハルナは一目散に駆け出した。コテツは呆然とその背中を見送ることしか出来ない。

 「すまんな」

 掛けられた謝罪の言葉に、コテツはゆっくりと振り向いた。自律的な行動ではない。声を掛けられたから振り向いた、半ば反射的な行動だ。

 「あの娘は……おまえさんが軍人であることを思い出してしまったんじゃろうなぁ」

 「いや……オレが軽率でした」

 ハルナが軍人を嫌っていることは、出会った時から分かっていたことだ。だと言うのに、飛び交う軍用機に反応を示したら……ハルナだって面白くはないだろう。

 「あの娘は……軍に父親を殺されているからのぅ」

 刹那、ムツのシワだらけの顔がクシャリ、と歪む。明らかにまずいことを口にしてしまった、と言った表情だ。

 「軍に殺された?」

 コテツが眉をひそめる。

 「アウムの襲撃を受けたのですか?」

 島を見る限り、軍の襲撃を受けたとも思えないし……曲がりなりにもここはネイヴ領だ―もっとも、この海域は最前線に近く、ここ最近はネイヴ軍は終始押されっぱなし、と言う戦況からして絶対安全、とは言い切れないのだが。

 ムツはしばし、その顔に逡巡を浮かべていたが、

 「いや……島自体はさして被害は受けていない。それに……撃ったのは恐らくネイヴの方じゃ」

 深いため息と共に、衝撃の事実を吐き出す。

 「……ネイヴが? そんなバカなっ!」

 思わず声を荒げるコテツ。

 ネイヴ軍人が自国の皇民に向かって銃を向けるなんて、ありえない。それこそ反乱分子とか犯罪者であるならともかく。

 「あの娘の父親が漁に出ている時に、上空で空戦があってな。流れ弾が舟に命中したんじゃよ。まぁ、どちらが撃ったかはよく分からん。が……ネイヴ側の飛行機が相手を追い掛け回しとったらしいから、撃ったのはネイヴの方じゃろうな、と言うぐらいの話じゃよ」

 もし、ムツの言うことが全て事実だとすれば……撃ったのは恐らく、ネイヴ軍だ。

 戦闘機―特に激しい空戦を展開する単座戦闘機は、基本的に前にしか銃弾を撃てない。つまり、後ろに回られたら攻撃の手段はなく、追いかけられている側が発砲する可能性は限りなくゼロに近い。

 「もちろん、そのパイロットに悪気があったわけじゃないじゃろう。不幸な事故じゃった、と言うことも理解はしとる。だがな……実の親を殺されたあの娘が、それで納得できるとも思えん」

 コテツには何も言えない。もちろん、コテツが直接、ハルナの父親を撃ったわけではない。だが……コテツが所属する軍の人間、志を同じくする人間が撃ったことには変わりはない。

 何より、国を、そこに住む民を護る、と言う大義名分は軍の存在理由レゾンデートル、いや、もっと直接的に言ってしまえば、人殺しのための免罪符・・・・・・・・・・と言っていい。その信条があればこそ、コテツ達は軍人でいられるのだ。それを故意ではないとは言え破ってしまえば……軍人など単なる殺人鬼の集団、暴力装置の歯車以外の何者でもなくなってしまう。

 「……あの子の母親もまた、夫を亡くしたショックで身体をおかしくてしまってな。

 数ヶ月後に後を追うように亡くなってしもうた。……以降、あの娘は軍を憎むようになった」

 年端もいかぬ少女が肉親を殺されたのだ。言ってみれば、彼女にとって、軍は親の仇も同然。あの素人離れした殺気も……まさに親の仇に向けたモノ、と考えれば納得も行く。

 「ワシらだって勝手に軍人同士で始めた戦いに巻き込まれ、島の民を殺され、海を荒らされた。恨みつらみが無いわけじゃない。

 ネイヴのお上は皇国のため、と言う大義を掲げているようじゃが……ワシら南洋の民からしたら、勝手にフソウの人間が始めた戦争になし崩しに巻き込まれた、ぐらいにしか思っとらん。

 はっきり言ってしまえば、迷惑な話しじゃ」

 「……オレは……」

 「別に、おまえさん個人を責めるつもりなどないよ」

 拳を握りしめ、自戒の念にかられるコテツに、ムツは告げる。ただ淡々と。

 「この島にいる者、それこそハルナも含めて、誰もおまえさんのことを悪く思っとる人間はおらんじゃろう。

 おまえさんは直情的じゃが正直で働き者じゃ。それは一ヶ月の間、一緒に暮らしてきてよぉく分かっておる」

 「……でも、オレは軍人です。軍人なんです」

 「ワシらはおまえさんが着ている制服にも、所属している軍にも興味なんぞ無い。極論を言ってしまえば、国ですら、な。

 ワシら南洋の民からしてみれば、そんなシガラミは眼を曇らせる靄のようなモノじゃ。

 おまえさんの本質はそんなモノには縛られない、その奥底にある。それをワシらはよく知っておるつもりじゃ。

 ただ……あの娘は、ハルナだけは肉親を失った哀しみにまだ心が曇っておる。

 だから、あんな態度に出てしまうんじゃ。

 本当はあの娘も分かっておるはずじゃ。だから……あの娘のことを許してやってはくれんか」

 「許すも何も……本当に許しを請わなければならないのは、オレの方です」

 「……本当にそう思うのなら、おまえさん自身が答えを見つけなさい。

 何が正しくて、何のために戦うのかを。制服や国なんてモノに押し着せられた大義ではなく、おまえさん自身の正義を。

 幸いなことに時間はたっぷりとあるんじゃからな」

 いつかと同じことを告げ、ムツは去っていく。コテツは俯いたまま、動けずにいた。いつまでも、いつまでも。

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