(最終話)ばぶみ~BABY! ぎーまいBABY!

「お兄ちゃん、ママと何を話してたの? 変なことはしてないよね?」


「おいおい、血が繋がってないとはいえ母親だよ。変なことするわけないじゃないか」


「えー、お兄ちゃんがソレを言うの? 妹にさんざんいかがわしい事をしといて」


「妹は別腹だからいいんだよ」


「お兄ちゃん、その言い方だと食後のデザートみたいだよ。実際に母親は別腹だけれどさぁ。って、あー。別腹で思い出したけど、そういえばお兄ちゃんの持ってきたケーキ食べてないよ!」


「お前さ、美奈子さんの料理食べておいて更にケーキを食べる気だったのかよ」


「もちろんだよ。いつだって甘いものは別腹なんだよ」


「俺たち兄妹の関係みたいに?」


「そう。私たち兄妹の関係みたいに。甘くて別腹の関係なの」


 その冗談に俺たちは二人で見つめあって笑った。

 美奈子さん公認の恋人同士になったばかりなのに、ずっと以前から付き合っているみたいな親密さがそこにはあった。

 以心伝心。通じあっている感じがとても心地いい。


「で、本当にママといかがわしいことしてないんだよね?」


「えー、俺ってそんなに信用ないかなぁ?」


「だってお兄ちゃんってママのこと大好きでしょ? お兄ちゃん絶対にマザコンだしさ」


「美奈子さんが魅力的なのは否定しないけど、俺はそれ以上にシスコンだから大丈夫だよ」


「まったくー。この変態赤ちゃんはー」


 雛姫は人差し指でグリグリと俺の頬をつっつきながらそう言った。

 文句を言いながらも雛姫は少し嬉しそうだ。


「ところで雛姫。美奈子さんが言っていたんだけれども、俺が誠司さんに似ているって本当なの?」


「うん、似ているよ。少しお茶目で優しいところとか。私のことを大切にしてくれるところとか」


「そっか」


「うん、そうだよ。そういえば最近、一緒に見に行った映画あるじゃない。あの作品は私が一番好きな漫画が原作なんだけれど、お兄ちゃんはどうして私があの作品を好きなのか分かる?」


「うーん。何でかな。将棋のプロ棋士たちの戦いが熱いから?」


「違うよ。対局は熱くて素晴らしいけれど私が好きな理由はそれじゃないんだ。私があの作品を好きな理由はね、交通事故に遭った棋士がその後遺症にもかかわらず、ちゃんと生きて将棋界という天才たちのひしめく過酷な世界でトップに君臨しているからだよ。交通事故にあったのに必死に生きて頑張っているからなんだよ」


 雛姫は俺の前髪を撫でながら寂しげに笑った。

 誠司さんもそうだったら良かったのに、と雛姫は言いたいのだろう。

 だが、誠司さんは生きることができなかった。


「ねぇ、お兄ちゃん。ふと思ったんだけれどさ」


「えっと、何?」


「プロ棋士ってさ、なんだか美味しそうな響きだよね」


 先ほどの寂しげな表情は何だったのか、と思うほど即物的な言葉だった。

 けれども、実に雛姫らしい言葉だ。


「それはピロシキな。お前はどこまで食い意地張ってんだよ」


「ふふ。また今度、美味しいレストラン連れて行ってね、お兄ちゃん」


「おう、次は受験の合格記念に連れて行ってやるよ」


「ありがと。じゃあ受験、頑張らないとだね」


 雛姫は両手を顔の前でグゥに握りしめた。

 俺でも合格できたくらいだ。雛姫ならきっと大丈夫だろう。雛姫はとても優秀だし努力家だ。普段からあまり勉強をせず、受験が近づいて慌てて勉強を始めた俺とは違う。毎日計画的にコツコツと物事を進めていけるタイプだ。勉強量は嘘を付かない。きっと次の春では雛姫は俺と同じキャンパスを歩いているだろう。


「でね、さっきの続きなんだけれど。私さ、三ツ谷七冠が大好きなんだよ。交通事故で頭を打って脳に障害を負ってさ。それでも将棋だけは忘れないっていう意思の強さ。凄いよね。好きなものを続けていたいっていう執念を感じるよ。生きていればきっと何となるって思わせてくれるからさ、だから私は主人公よりも七冠が好きなの」


「誠司さんにもやっぱりそうあって欲しかった?」


「まぁね。パパはさ。知っているかもしれないけれど、認知症のお婆さんに車で轢かれちゃったんだよ。認知症の症状が出てたからお婆さんの家族は運転免許を取り上げていたんだって。でもさ、そんなことしたって意味ないじゃない。免許を取り上げても認知症だから免許がなくなったことすら忘れてるんだから。免許がなくたって車のキーさえあれば運転できるわけでしょ? 免許証にICチップでも埋め込んで車のエンジンと連動させておけば話は別なんだけれどさ、そういう事をしようって動きもないわけでしょ。免許証の更新時の検査を厳しくする動きはあるけれどさ。既に認知症になってしまった人に対して必要なのはそういう物理的な対策なんじゃないの? ETCの時はさ、利権なのか何なのか知らないけれど導入がスムーズに行われたわけじゃない。なのに、どうして命にかかわる重要なことは後回しにされるのかな?」


 淡々と話をする雛姫の口調はとても平坦だった。

 その平坦さが却って雛姫が心の奥底に抱いている怒りを物語っていた。俺は膝枕をされながら、雛姫の怒りを受け止めていた。


「パパを轢いたお婆さんはさ、認知症だから責任無能力なんだってさ。別に私は刑事罰とか望んでいるわけじゃなくて、ただパパを返して欲しいだけなんだけれどさ。パパを生き返らせるなんて無理なわけじゃない。責任能力のあるなしにかかわらず、誰だって無理なわけじゃない。でもさ、人の命を奪っておいて責任はありませんって、やっぱりおかしいよ。でさ、お婆さんの家族が謝りにくるわけ。土下座して、申し訳ありませんでしたって。お婆さんの息子さんが家に来るわけよ。私はよっぽど『パパの代わりにアンタが死ね』って言いたかったし、そう言ってやるつもりだったんだけれどさ。私さ、土下座している息子さんを見てたら気が付いちゃったんだよね。認知症になったお婆さんであっても、この人にとってはママなんだってことに。そしたらさ、私、何に対して怒ったら良いのか分からなくなっちゃったんだよ」


 雛姫は俺の胸を慈しむようにトントンと叩いた。

 抱いている怒りは別のどこかへ向けられていて、俺に対してはその分だけ優しくしたいと思っているみたいだった。外敵には獰猛な怒りを向けても我が子は守り抜こうとする小熊の母親のように。


「お兄ちゃんと話しているとね。たまにパパと話しているみたいに思えることがあるんだ。なんだか懐かしい感じがしてね。お兄ちゃんと話をするのが好きなんだよね」


 それは俺も同じだった。

 雛姫と話をしていると母さんと話をしているみたいで懐かしい気持ちになることは、一度や二度ではなかった。


「ねえ、お兄ちゃん。今からお兄ちゃんのこと、パパって、呼んでいい?」


「別に、いいけれど」


「ありがとパパ。パパは赤ちゃんのままで良いからね。分かったらバブ~って返事して」


「バブ~」


「はい、パパ。よくできまちたね~」


 雛姫はそういって俺の頭を撫でた。

 それはかなり奇妙な状況だった。雛姫は俺をパパと呼び、そのうえで赤ちゃんプレイが行われているのだ。しかも俺たちは義理の兄妹であり更にお互い愛し合っている。


 今の俺は雛姫にとってパパであり赤ちゃんであり兄であると同時に恋人だった。


 雛姫からすれば『私がLOVEなお兄ちゃんは赤ちゃんパパ』という頭の悪いライトノベルのタイトルみたいな状況になっており、俺からすれば『俺の愛する妹ママが何故か娘になりました』というこれまた頭のおかしいライトノベルのタイトルみたいな状況になっていた。


 そんな奇妙な関係がベッドの上では違和感なく成立していた。


「ねぇ、パパ。私とパパとママとで大菩薩峠の紅葉を見に行ったの覚えてる? ママが張り切ってお弁当作ってくれてさ、富士山の見える景色を眺めながら一緒におにぎりを食べたでしょ? あのおにぎりね、半分は私が作ったんだよ。パパが明太子のおにぎりが好きだから、明太子は私が作るって言ってさ。あの時の景色、綺麗だったよね」


「ばぶ~」


 俺は同意した。

 雛姫と大菩薩峠に行った記憶はなかったけれど、今の俺は雛姫のパパだ。

 パパとして娘との記憶は共有されてなければならない。


「でね、パパ。あの時、ほら。富士山の近くの旅館に泊まったでしょ? あの時に旅館の露天風呂から見える夜空がまた綺麗だったんだよ。星空が満天に広がってさ、夜空を光の刃で切り裂くように流れる天の川がさ、とても綺麗だったんだ。でも、パパとはお風呂が違ったから一緒に見れなかったけれどね。また家族、皆で一緒に行きたいなぁ」


「ばぶ、ばぶぅ~」


 俺は雛姫の思い出話に赤ちゃん言葉で相槌を打った。

 雛姫の瞳は遠い日の出来事を鮮明に映しており、彼女の瞳は今ここにある現在ではなく家族三人で幸せに暮らしていた過去を見つめていた。


「そうだ、パパは赤ちゃんになったもんね。今なら一緒に入れるよね。今度は一緒に露天風呂に入って夜空を見上げるっていうのも良いね。そうそう、私ね。またおっぱいが大きくなったんだよ。ママほど大きくはないけれど、きっとそのうちママくらいになると思うな。パパもおっぱい飲んで、もっと大きくなりましょうね~」


 雛姫は俺の頭を優しく包むように抱きしめると、その柔らかな胸へと俺の口元を誘導した。俺は素直に雛姫に従って妹ママの母乳を飲むような仕草を真似た。


 幸せな幻に包まれて夢見心地でいる雛姫の言葉に俺は逆らうことはできなかった。

 俺は雛姫の赤ちゃんパパとしての役割を全うしなければならなかったからだ。


 俺には、もう雛姫が何をしたいのか。雛姫が何をしているのか分かっていた。

 誠司さんに似ている俺をパパと呼び、その上で赤ちゃんプレイをしている理由は分かっていた。


『赤ちゃんプレイっていうのは過去の自分に遡ってそれを再体験したりやり直したりする行為なんだよ』


 明石涼子がそう言っていたではないか。その通りだ。

 雛姫はまさに再体験してやり直そうとしているのだ。

 彼女の心は今よりもずっと少女だった頃に戻って過去をやり直そうとしていた。

 雛姫の意図はもう間違いない。


 誠 司 さ ん を 生 き 返 ら せ よ う と し て い る の だ


 死んだ人間が生き返るわけがない。

 現実は漫画やアニメと違う。過去に戻ることできないし死んだ人間が生き返ることなど絶対にない。そんな無情で無常な現実世界において、それでも雛姫は死んだ人間を生き返らせようとしていた。疑似的にではあるが、俺を誠司さんと見立てることで雛姫はそれを実現させようとしていた。


「ふふ、パパは良い子でちゅね~。きっと元気で賢い子に育ちまちゅよ~」


 雛姫は俺の背中をトントンと叩きながら愛おしそうに俺を見つめた。

 それは恋人に対する瞳ではなく、自分の産んだ愛しい我が子に対する瞳だった。

 無条件に降り注ぐ愛の眼差しだった。


「パパの夢はなんでちゅか~。将来は何になりたいでちゅか~。パイロットでちゅか、野球の選手でちゅか? それとも将棋のプロ棋士でちゅか~」


「ばぶばぶ~」


 俺は手足をバタバタさせて元気一杯に振舞った。

 元気に泣いて、元気に笑うことが赤ちゃんにできる親孝行の一つなのだから。


 俺は誠司さんの生まれ変わりとしての赤ちゃんでいなければならないのだ。

 ばぶばぶ~って甘えて可愛がられることで、雛姫の止まった心の時間を溶かして動かさなくてはいけない。そのためには半端な大人赤ちゃんであってはならない。俺は完全に雛姫の赤ちゃんでなければならないのだ。


 俺は、ボクは雛姫ママの胸に顔を押し付けてギュッとママを抱きしめた。

 心臓の音が聞こえた。トクン、トクンとママが生きている音が聞こえた。生命の鼓動、命の音、そしてボクが母さんのお腹の中でずっと耳にしていた原初の音。


「ふふ、パパは元気な赤ちゃんでちゅね~。ほら、パパ~、チューですよ~」


 雛姫ママはボクの頬と唇にチュ、チュ、チュ、と三回キスをした。

 そしてボクと目を合わせると幸せそうに笑った。

 止まったままの心が溶かされようとしていた。時間が動き出そうとしていた。


「パパは可愛いでちゅよ~。いい子でちゅよ~」


 しかし、どうしたことだろう?

 雛姫の両腕に抱かれているのにボクは急に泣きたくなってしまった。

 完全な赤ちゃんになった状態だったからこそ、急に違和感を覚えたのだ。


 その時、俺は自分の心が二つに分裂するのを感じた。

 兄としての俺と、赤ちゃんとしてのボク。

 雛姫の兄としての俺が心の深い所へと沈み、子供の自我が意識の上層へと浮き上がる感覚がした。子供としての自我が感情のままに俺の心を支配しはじめたのだ。


『ねぇ、どうして母さんはボクをパパって呼ぶの? ボクはカズキだよ?』


 ボクが主張した瞬間、瞳いっぱいに涙が溢れてきた。

 俺のインナーチャイルドが暴れはじめていた。


 インナーチャイルドとは心の中に存在している子供のままの自我のことだ。

 俺の中にいる子供の心が、母さんにパパと呼ばれることを拒否していたのだ。

 だって、母さんがボクをボクと認識していない。

 そのことが、とても悲しかったのだ。


「おぎゃぁぁぁぁぁぁぁ、おぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 ボクは母さんに抱かれながら大声で泣いた、抗議した。


『カズキと呼んでよ! パパじゃないよ、ボクはカズキなんだよ!』


 ボクはそう言いたくて泣いた。

 でも言葉を知らない赤ちゃんだからボクは激しく泣き叫ぶことしかできない。


『おい、馬鹿、止めろ』と分裂した片割れ、兄としての俺がボクを止めに入った。

 だが、泣き止まない。今の身体の主導権はボクにあった、ボクは悲しかったのだ。


「おぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 ボクは泣き叫ぶことで我を通そうとしていた。

 母さんにカズキと呼んでもらおうとしていた。

 母親を泣いて困らせることで目的を達成させることは赤ちゃんの本能なのだ。


「パパ、大丈夫だよ~。ほら~いい子だから泣き止んでね~」


 だが、母さんはボクをパパと呼んだ。

 母さんがボクを見ていない。母さんがボクを認識していない。

 涙が止まらない。叫ばずにはいられない。だって、母さんがボクを見ていない。


「おぎゃぁぁぁ、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん」


「ほら、パパ~はいい子でちゅね~。泣き止んでくだちゃいね~」


 雛姫ママの表情に動揺が浮かんだ。

 雛姫は必死に宥めようとしたが、母さんがボクをパパと呼べば呼ぶほどボクは悲しくなった。雛姫ママに焦りの色が見えはじめた。まるで赤ちゃんが泣く理由が思い当たらない新米のママのように。


「大丈夫、だいじょ~ぶ、だから、ね」


 雛姫は眉間に皺を寄せてオロオロとした口調でボクを宥めようとしていた。

 だが、その言葉はパパと呼ばれたくないボクには意味をなさなかった。


 雛姫の兄としての俺は焦った。

 このまま泣き続けたら雛姫がプレイを止めてしまう。

 だが前回のようにこのプレイを止めるわけにはいかないのだ。

 これは雛姫の心の中で誠司さんを生き返らせる大切な儀式の途中なのだ。


 今は雛姫のための時間だ。俺のための時間じゃない。

 癒されるべきは雛姫であり、俺の中のボクではないのだ。


 だが、相手は子供だった。

 子供に理屈は通用しない。悲しければ泣き、嬉しければ笑うのだ。

 なんとかして、俺の中にいるボクを泣き止ませねばならない。

 今ならまだプレイの範疇で済む。早く、ボクを泣き止ませるのだ。


 考えろ、考えろ、考えろ。

 感情のままに泣き叫ぶボクをなんとか宥める手段があるはずだった。

 俺はそれを知っているはずだ。

 今はボクが悲しがって雛姫を心配させている場合じゃないんだぞ。


 トクン、トクン、トクン、トクン


 ちょうどその時、焦っている俺の耳に雛姫の心臓の音が届いた。

 その音を耳にした瞬間、ふと心が安らいで僅かに身体の支配がボクから俺に譲渡された。

 たった数秒の支配の譲渡だったが、俺はその機会を逃さなかった。

 その僅かな間に俺は泣き止むとボクに語り掛けた。


『なぁ、ボク。耳を済ませてみろ』


 俺はボクに対して優しく声をかけた。

 怒らず冷静に、怯えないように穏やかな声で話しかけた。


「ば、ばぶ~」


 反応が変わった。手ごたえを感じた。

 ボクは耳を澄ませた。トクントクンと鼓動を感じた。母さんの心臓の音だ。

 ボクの知っている母さん温かさと匂い、そして心臓の音だ。

 その音を聞いていると不思議と心が穏やかになった。


「あらあら、元気に泣いてー。パパはきっと強い子に育ちまちゅね~」


「ふ、ふぇっ」


 再び、パパと呼ばれたボクは涙がぶり返してきた。

 しかし、兄としての俺は冷静だった。

 心臓の鼓動が傍にあった。母さんの心音が聞こえるなら大丈夫だという確信があった。


 やるべき事はやらねばならない。雛姫は癒す。ボクのことも癒す。


 赤ちゃんプレイは相互的なプレイだ。

 ならば雛姫とボク、二人同時に癒すことだって両立できるはずだ。


『大丈夫だ、パパはボクじゃない。パパとは俺のことだ。お前は何処にいる? よく耳を澄ませて考えてごらん。ボクはカズキだろ。パパじゃないだろ? だったら今母さんがパパと呼んでいるのは俺のことだと分かるだろ? なぁ、カズキ。ボクは何処にいる?』


 トクン、トクン、トクン、トクン、トクン。


 優しい鼓動が響いていた。

 聞きなれた心地いい音色にボクの心がゆったりと穏やかになるのを感じた。

 当然の反応だ。母さんの心臓の音はボクの原点なのだから。


 次第に、揺りかごに揺られるような心地のいい浮遊感をボクは感じ始める。

 ボクは何処にいるの?


『ここは母さんのお腹の中だ。ボクは今から生まれていくんだよ』


 ボクは母さんのへその緒で繋がれた二人で一つの生命体として子宮の中でプカプカと浮いていた。ボクはついに泣くのを完全に止めて目を瞑った。心音に導かれて心地よい微睡が訪れる。温かな一定の鼓動はボクを安らかな眠りへと誘う。


 ああ、そうだ。ボクは今から生まれてくるのだ。

 それまでは、ずっと母さんに大きくなるまでお腹の中で守られていればいいんだ。

 子宮の中でプカプカと静かに眠る安心感がボクを包んでくれていた。


「あらあら、パパ、良い子になったわねー。もうオネムなのかな?」


 母さんの声が聞こえた。

 俺は雛樹のパパとして雛姫に甘えるように抱きついた。

 身体の主導権はどうやら無事にボクから俺に譲渡されたようだ。


 今、ボクは静かに雛姫ママのお腹の中で羊水に浮かびながら眠りについているだろう。


 俺は雛姫の本当のパパにはなれないけれど、たまにならこうしてパパの役を担うことはできるだろう。雛姫の時間が動き出すまで俺は俺の役目を果たしていればいい。


 傷ついた心は完全に癒すことはできなくても、それなりになら癒すことはできる。

 生きていれば色々ある。悲しいことも辛いことも少なくはないのだ。

 そしてそれは生きている者たちだけでなんとかするしかない。


 どれだけ恰好悪くて無様でも、必死に生きていればそういう時だってある。

 弱さを弱さのまま放置しておくよりは、たとえ無様であっても一歩一歩ゆっくりとでも地道に歩みを続ける方が人生にとっては大切なことなのだ。


 俺は再び雛姫のお腹に耳を澄ませた。

 心臓の音が聞こえる。暖かな体温を感じる。安らかに眠るボクがそこにいる。


 このお腹の中でしばらくボクは眠りにつくことだろう。

 母さんの心音を子守歌代わりにしながら安らかに眠る事だろう。

 それはきっと、俺にとってもボクにとっても優しい救済となるだろう。


 ボクがいつ、母さんのお腹から生まれるのかは分からない。

 でもいつかはきっと、生まれてくるはずだ。

 ボクは大きく空気を吸い込んで元気な産声をあげることだろう。


 その時、俺は雛姫と一緒に考えてボクに名前をつけてあげなくてはいけない。

 男の子なのか女の子なのか今はまだ分からないけれど、きっと近い将来、俺は雛姫と結婚して新しい家庭を築いているはずだ。


『元気に生まれて来いよ、俺たちはお前を待っているからな』


 俺は雛姫のお腹に口を当てながら静かにそう呟いた。

 顔をあげると雛姫が俺を見つめていた。


「パパ、寝ちゃったかな。とても幸せそうな寝顔ね~」


 雛姫ママはそういって俺の頭を撫でた。

 俺はそっと薄目を開けるとそこには幸せそうな雛姫ママの顔があった。

 安堵の笑みを浮かべた俺は再び瞳を閉じる。


 きっと彼女こそが俺の奥さんになる人で、ボクの母さんになる人だ。


 俺はそんな確信を抱きながら雛姫の心音に耳を澄ませた。

 トクントクンと懐かしい音がする。

 生まれるずっと前から知っていたとても身近な音だ。


 ああ、そうだ。間違いない。彼女はボクを妊娠している。


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ばぶみ~BABY! ぎーまいBABY! 天ノ川源十郎 @hiro2531

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