第6話 ペットを探してたはずだった
バレーボールみたいな水の塊が飛んできて、熊の腹にヒットする。水がはじけるのと一緒に熊が吹き飛んだ。だが、すぐにごろりと起き上がる。
俺はタバコに火をつけようとするが、うまくライターが点けられない。まただ、くそ。もうライターを素早く点ける練習だけでもしねーと俺いつか死ぬ。
「なるほど」
どこか楽しそうな声が言った。悠々と霧の中を歩いてきて、俺たちの前に出る。
「松下さん、危ないです!」
鈴木が叫ぶが、仁王立ちしていた松下さんが、低い声で言った。
「だいたい読めた」
どこか楽しそうだった。
四つん這いの影が吠える。霧の向こうから鼻先が伸びてきて、松下さんの目の前で鋭い牙をむき出しにして、また吠えた。大きな下顎が震える。音の圧で鼓膜と頭が痛い。
だが松下さんは少しも怯んでいない。きれいに整えられた眉毛がギリギリとつり上がった。
「来るな! 人を脅かすのも大概にしろ! この、狸が! 狸鍋にして食うぞ!」
またものすごい怒りの波と、怯えが体中を走って、腰が引けた。
だがそれよりも、いやいやいや、というツッコミが俺をその場に縫い止めた。
熊に向かって狸とは。狸鍋って。意外と食い意地張ってんのか。
時々、本気で怒ってるのに、謎な罵倒をする人がいる。すごい深刻なのに、ボケナスとかタコスケとか言われると、ちょっと笑っちまうから勘弁してほしい。
松下さんは腰に手を当てて、怒鳴るではなく、力いっぱいの声で言った。
「そこにおとなしく座って、一緒に、家に帰りなさい!」
子供の頃、母親に叱られたことを思い出した。
熊がそんなの聞くわけがない。だが松下さんと熊がにらみ合ったのは、ほんの1,2秒のこと。
熊は音を立てて、その場にうずくまる。犬みたいに伏せをした。
――なんでだ。
熊はもう唸ることもなく、その場にうずくまって、上目遣いに松下さんを見ている。服従した犬みてーだ。なんでだ。
俺はずっとライターを点けようとカチカチやってたが、力が抜けたのが良かったのか、やっと火がついた。
あーやれやれ、やっとタバコが吸える。
俺は無意識に、くわえていたタバコに火をつけた。肺いっぱいに煙を吸い込む。意味不明の動揺が少しだけ落ち着く気がした。熊はまたいつ突進してくるかわからねーし、また心臓がバクバクいっているが。
「宮田さん!」
鈴木が叫ぶ。――あ、しまった。
「いや、熊が」
「熊はもう大人しくなりましたよ」
「いつでも対応できるようにしとかねーと」
「そんな必要ありません!」
必要ないわけあるか! 俺はまた無意識にタバコを吸った。鈴木の顔がいっそう険しくなる。何気なく、顔を背けて煙を吐き出した。輪っかにしたわけじゃない。ただ、吐き出した。――熊の方に向けて。
突然、熊が消えた。
ついでに、辺りを覆っていた霧も、きれいさっぱり消えた。
腰に手を当てて仁王立ちしている松下さんと、俺をにらみつける鈴木と、うずくまったままの栄が、緑の山の中にくっきりと見えた。熊が、あのデカい黒い塊がいなくなっている。あんなにデカいものが消えるとかどういうことだ。
いきなり視界が開けて、晴れ上がった青い空と日光が眼球に突き刺さる。ものすごく眩しい。目が痛え。頭がくらくらする。
「なんなんだいきなり」
さっきからもうついて行けねえ。
「タバコだよ」
松下さんが笑った。
「全部、犯人はこいつだ」
目の前の地面を指さす。その先には、茶色と黒の毛並みの小さな生き物が、緑の草の上にうずくまっていた。
「あれ? それって。あれ?」
栄が起き上がって、バッグから写真を取り出す。写真と動物を見比べて、叫ぶ。
「ペットの犬!」
「これは犬じゃない」
ずんぐりむっくりした毛並みを見下ろして、松下さんは言う。
「狸だ」
「はあ?」
腹の底から、不信でいっぱいの声が出た。
「我々は、狸に化かされていたんだよ。犬っぽくないペットに、幻術に、タバコを嫌がるからおかしいと思っていた。化け狸や狐はタバコの煙を嫌うそうだ」
そうなのか。幽霊も嫌うし、化かされても逃げられるし、すげーなタバコ! 人間だけじゃなくて霊とか化け物にも嫌われてるって事だけど、役に立つなタバコ!
もう、訳わかんねーな!
「依頼人も化かされてたってことか?」
「いや、写真はこいつそのものだからな。老夫婦は狸を拾って、犬だと思って飼っていたんだろう。そういうことがまれにある」
あるのかよ。
「でも俺がタバコ出す前に、どうやって熊っていうか狸を大人しくさせたんだ?」
「ああ、宮田くんに説明している途中だったな」
松下さんは、ふう、と息をつきながら言った。
「わたしの能力はコンクラーっと言ったりする。テレパスの一種だ。それでこいつを引きずり出して、大人しくさせた」
「え? ……ええ?」
テレパスなんて、俺でも知ってる類いの超能力だ。ってことは。今日会ってから俺の思考全部聞こえてたって事か!
だが、松下さんは慣れているのか、動揺した俺に笑った。
「安心していい。わたしは受信はできない。送信専用なんだ。それも、明確な言葉を伝えることはできない」
変に動揺したのがなんか申し訳なく、ちょっと恥ずかしい。俺は意味も無く頭をかいた。
「スマホかわりにはなんねーのか」
「そう、不自由な能力ではあるよ。自分の感情や意志を相手に伝播するんだ。触れていればより強く伝えられる」
「さっき俺の気分悪いの治してもらったんですよ」
さっきまでへたり込んでた栄が、横からひょこっと顔を出した。「すごいでしょ」とおばちゃんみたいにヒラヒラと手を振っている。
「ああ……へえ、便利だな」
「とても、便利だよ」
松下さんは意味ありげに笑う。
自分の感情や意志を相手に伝播するというのは、言葉を明確に伝えるよりも不便だが、さっきみたいに気分を落ち着けさせたりと使い方はあるのか。
「コンクラーってどういう意味?」
「征服者」
――――は?
「物騒だな」
「そうだよ。本人の知らない間に、自分の思う方向に誘導することができる。自分の意志を相手に命じるわけではないから警戒されにくい。洗脳もできる。能力について知られたら、とても嫌がられる部類にかわりはないな」
さっき、すごく逃げたくなったのはそのせいなのか。
その気になれば人を操ることも、洗脳して教祖様になることもできるのか。能力を持ってる人間の性格や使いようによっては、恐ろしい能力だ。
「鈴木は純粋だし、栄は信頼してくれているから、影響をうけやすいところがある。宮田君は肝が据わっているな」
「純粋、純粋ねえ」
ものは言いようだ。
肝据わってると言われるのは嬉しいような感じだが、俺も散々振り回されたけどな。なんかもう、つっこみが先に立つことが多かったから、振り回されっぱなしにならなかっただけじゃねーか。
「生き物に働きかける力はとても疲れる。人間にしても動物にしても、意志や本能という行動規範や理念がある。それをねじ曲げるんだからね。そんな疲れること、そうそうやりたくはない。まあ感情が高ぶると無意識に力が働くこともあるから、精進しないといけないが」
なるほど、すごく落ち着いた雰囲気なのは、そうやって自分を律している結果なのか。まあ、なんていうか。すらりとして、仁王立ちで腰に手をあてて、淡々としゃべる感じは何というか。
――女王様って感じ。
「さて、お前の処遇だが。どういうことか、説明しなさい」
松下さんが、足元の動物に言う。
ずんぐりした犬――もとい、狸は顔をあげて、上目遣いに松下さんを見た。
「久しぶりに山に来て嬉しくて、人おどかすの楽しくて、遊んでたんだ。うろついてたら、ばあちゃんたちとはぐれちゃったんだよ」
高い子供の声のようなものが聞こえた。
「松下さん……」
「言っておくが、わたしが腹話術したわけじゃないからな。遊んでいる暇も、そんな芸も持ち合わせていない」
え、ていうことは――うわ、しゃべったのか、狸!
ってもうなんかだんだん、驚くのもめんどくせーわ。
「うわー狸ってしゃべるんだ~」
「宮田さん、だるそうなのちょっとは隠して」
栄がつっこんでくる。うるせー。もう疲れたわ。
「それからもずっと人を脅かして遊んでたのか?」
「帰れないしどうしよーって思ったけど、おもしろいし」
おもしろいって。おもしろいで熊とかドッペルゲンガーで人をビビらせるな。
「お前はどうしたいんだ。山で暮らしたいのか、老夫婦の家に戻るのか」
松下さんの問いに、狸は起き上がる。きょどきょどして前足をもじもじこすり合わせながら、小さな声で言った。
「帰りたい。でも、じいちゃんばあちゃんの家は居心地がいいけど、もっと自由に動きたい。たまに山に遊びに来たい」
「それとなく伝えておこう。お前は人間に化けられるんだったな。野良犬……狸が外をうろつきまわっているとまたつかまるだろうから、そのあたりはうまくやれ」
「うん」
狸は顔を上げて、くりくりの目で松下さんを見上げた。松下さんは、優しく狸に微笑みかける。
「ただし、二度とイタズラをするな。化け物に人間の理屈を説くのはお門違いだが、お前はこの山の人に散々迷惑かけて、飼い主夫婦を心配させたんだ。人間とうまくやっていきたいのなら、反省して、二度とこういうことをするな」
「うん」
松下さんが笑みを深める。
「もしやったら、またおしおきだからな」
狸が固まる。俺たちも固まった。
「……はい」
こわばった高い声が、明るい日の降り注ぐ山に響いた。
結局、熊はいねーし、ドッペルゲンガー鈴木もいねーし、霧も狸の仕業だったのか。
あーもう、どっと疲れが襲ってきて、俺はその場に座り込んだ。
「疲れた……」
食われるかと思ったり、なんか走馬灯のような嫌な思い出ばかり頭の中を巡ったり、散々な目にあった。
「宮田さん、タバコ消してください! 火気注意です!」
鈴木がうるせえ。
「あーはいはい、すいませんね~」
狸が嫌そうに俺を見ている。
俺はタバコを携帯灰皿にぐりぐりとねじ込んだ。
「さて皆。わたしはとても疲れた」
にっこり笑うと、松下さんは、あっさりと言った。
「そういう訳だから、後は頼む」
言うや否や、ばったりと倒れた。
「だから、なんでだ!」
思わず俺は叫んだ。
「あんなむちゃくちゃな力使うから。あ、大丈夫ですよ、エネルギー切れです。少し休んだら復活しますから」
栄は慣れているのか、松下さんを背負いあげようとした。――したが、こいつも体力の限界か、その場にへたり込んだ。
「ほんっと、使えない!」
鼻息荒く鈴木がデカい声を出す。松下さんはそれでもピクリともしなかった。
結局、体力の有り余ってる鈴木が麓まで松下さんを担いで歩き、俺はただでさえ汗だくで暑い中を、犬みたいな狸を抱えて山を下った。理由はひとつ、狸が俺を嫌がるからだ。あんなやたら山の中歩かされて、ビビらされて、簡単に許してやるか。
電波が復活したところで、栄が慌てて松下さんの旦那さんに電話して、お子さんのお迎えを頼んでいた。
ちなみに電波は、もともと不安定な山だったらしい。まぎらわしい。
山を下りても女王様、もとい松下さんは目を覚まさねーし、ずっといたら電車の本数は減るしで、現地集合で車で来てなかった俺たちは、交代で松下さんを担いで移動する羽目になった。
――現場の仕事なんて、あの人がひとりでほとんど片付けてるようなもんですよ。
栄の言葉は、全くその通りだった。
ただし、片付けた後は放置だったが。
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