第5話 呼んだのはお前じゃない

「こういう映画ありましたよね。町が霧に包まれて、閉じ込められた住民がどんどんおかしくなってくるやつ」

 栄が空になったペットボトルをもてあそびながら言う。その姿も白く霞んでいる。

 状況整理をかねて、昼食タイムにしたところだった。

「不吉だなあ」

 俺はコンビニのおにぎりのゴミをビニール袋に詰め込みながら苦笑する。

「逃げた犬と、霧に包まれた山に熊。宮田さんと鈴木が見た人。鈴木のドッペルゲンガーとか、色々ありすぎなんスよね」

「宮田君たちが見たのと、鈴木のドッペルゲンガーは同じものの可能性も高いな」

 松下さんの声はよく通る。力を使ったかどうかわからなくても、霧で霞んでても、どこの辺りにいるかは分かる。

 この山は、今は人がいるはずねーんだから、普通の人と変なのがうろついてたっていうより、変なのがひとりうろついてたっていう方が、確かっぽい感じはする。

「霧も自然発生のものではないし、鈴木が水でないというんだから、幻術にかけられた可能性がある。術士がうろついているのかもしれない」

 ぐるぐる同じ場所をまわってるのもそのせいなのか。

 栄は、バッグから取り出した犬の写真をまじまじと見る。

「それに、なんか変なんだよなあ、この犬」

「ちょっと見せろ」

 ほい、と霧の向こうから差し出された写真には、やっぱりもっさりした小型犬が写っている。霧でわかりにくくて、目の前に近づけて見るが、やっぱりもっさりしている。茶色っぽい毛並みに黒い耳。目がくりくりしている。目の周りの毛は真っ黒だ。

「うーん……確かになあ」

 この、目の周りの黒い毛。

「依頼人が犬って言うから、犬なんでしょうけど。これ犬なんですかねえ……?」

「柴犬なんかは、海外で狐に間違えられたりするって言うし、他の動物に似た雑種がいてもおかしくは無いと思うけどな」

「世間話として依頼人に聞いたんですけど、子犬の時に道ばたで腹をすかせて倒れてたのを拾って、飼ってるらしいんですよね。ちょうど夫婦二人で寂しくて何か飼おうと思ってたからって言ってましたけど、いい人だなあ~って思ってたんですよ。だから写真見せられて、なんか変だなあと思っても言いにくくて」

 俺と鈴木は依頼人に会っていないが、ペットがいなくなってしょんぼりしている老夫婦につっこみにくいところはあるだろう。

 しかも、犬の出所がまったく不明なわけだ。

「栄と同意見って言うのは気にくわないけど、わたしも犬っぽくないとは思ってました」

 鈴木のド派手なタイツが霧の向こうでしゃべった。いや鈴木がしゃべったんだが、ド派手なタイツしか認識できねえ。

「うちの実家でよく見かけるのに似てるんですよね」

「お前んちって山の中だろ」

「そんなに言うほど山の中じゃないです!」




「とにかく、どんどんおかしくなるくらいここに居る気はない」

 松下さんは苦笑しながら言った。

「だが手こずりそうだな。16時に離脱するのは厳しいか」

 腕時計を見ると、ちょうど13時だった。16時に離脱するには、14時には下り始めないと厳しい。

「仕方ない。今日の息子のお迎えはわたしの当番だが、夫に頼む。すこし電話をさせてくれ」

 誰からともなく、どうぞ、と返す。しばし沈黙が落ちた。

 今の間にタバコ吸っとこう。ジャケットのポケットをごそごそとあさって、電子タバコのヒートスティックの箱を見て、気づいた。休憩のたびに吸ってるうちに、吸いきったらしい。しまった。仕事用のは残ってるが、これに手を出していいものか。

「何だって!?」

 突然、松下さんのイラだった声が聞こえて、俺はビクっと肩をふるわせた。叱られたかと思った。

「ちょっとみんな、携帯電話の電波を確認してくれないか」

 そう言えば、山を登るのに必死で、スマートフォンを全然チェックしていなかった。

「あー……」

 栄が遠慮がちに声をあげた。

 霧が邪魔でよく見えない。振り払えるもんじゃねーが、無意識に手でパタパタとしながらスマートの画面を見てみると、着信もメールもSNSとかからの通知もない。右上のアイコンを見てみても、4G回線どころか3G回線ですら無い。バツ印がついている。

 電波が通じてない。なんてこった。

「アンテナ立ってないなあ」

「俺も圏外っす」

「わたしも」

 ダン、と地面を叩く音がした。もう一度。地面を踏みならして、松下さんが立ち上がる。

「許さない……」

 さっきまで一番冷静だった人が、地の底を這うような声を出した。術を使った気配なんか分からない俺でも、怒りのオーラが伝わってくる。

「何が何でも、16時には離脱する。邪魔をしているのがどこのどいつだが知らないが、もう手加減はしてやらん。術士を引きずり出して、侘びを入れさせる。熊はジビエにしてやる。はやってるからな」

 食うのか。

「うまいんですかね~……」

 栄が遠慮がちにつっこんだ。どこか、怯えているような声だった。

 ふん、と松下さんがちいさく笑う。

「出てこい!」

 よく通る声で、叫んだ。



 唐突に、怒りの波が頭の中をめちゃくちゃに荒らした。ろくな残業代も払わないくせに人を散々働かせておいて品質がどうのこうのという前職の上司とか、既存バグを俺のせいにして仕様変更をただでやらそうとする客先とか、たぶん有能なんだろうけどのらりくらりとしてる部長とか思い出して、感情が高ぶって頭がカッとなって、息まであがってきた。

 訳分からず山の中歩かされて疲労困憊で足も痛くて鈴木がうるせーのとかもどんどん怒りの渦でまともに考えられなくなってから、俺は唐突に、間違えてバグしこんだのとか、仕事なのにタバコ忘れてチェーンソー軍団に襲われそうになったのとかも思い出して、この世の終わりのような気分になった。もうダメだ。俺なんか役立たずで、ここで熊の餌になって、自然界の役に立つのが俺の人生の最大の功績です。

 絶望感が頭から爪先まで浸透して、棒立ちになった。ごめんなさいごめんなさい。

「ううううううう」

 横で栄が頭を抱えてうずくまっている。

「松下さん、ごめんなさいごめんなさい。俺のサイコメトリーが役に立たなくてごめんなさい。もううう松下さんちょっと、ちょっと手加減して!」

「わああーごめんなさい家のお酒くすねてごめんなさいいいい」

 なんなんだ鈴木。

 若者たちの訳の分からない大合唱が繰り広げられている後ろで、ガサガサと物音が聞こえた。

 俺も訳が分からず、ものすごく申し訳なくどこかに出頭しないといけない気持ちになりながら、音の出所を探る。俺のせいか、これは、きっとそうだ、本当に申し訳なくて…………。

 霧の中に、黒い大きな影がいた。見上げるほどに大きい。

 なんだろうもうほんと、すみません。思ったとき、黒い影が咆哮した。地響きを立てながら近づいてくる。それは――

 熊だ。

 大きく開けた口を震わせて、咆哮した。

 空気が震える。 

 自責の念が一気に吹き飛んだ。

 ――――いやお前じゃねーし!!

 お前に出てこいとか言ってねーし!!



「下がってください!」

 鈴木が叫ぶ。突然、何かがものすごい早さで飛んできて、熊をかすめた。

 熊から目をそらさないようにしながら、じりじり下がる。横目で鈴木を見ると、その掌の上に、ビー玉のようなものが何粒か浮かび上がっていた。鈴木はそれを掌で払うようにして、投げつける。水の弾は銃弾のように熊の方に飛んだ。

 近くに俺たちを気にしたのか、霧で視界が悪いせいか。熊が俊敏なのか、かすめただけで当たらない。

「早く離れて!」

 鈴木が叫ぶ。熊が咆哮する。

 腹の底が冷えるような感覚が全身に広がる。だが怖じ気てる場合でもない。栄はうずくまったまま、怯えた顔で熊を見て動かない。

 俺はポケットからタバコの箱を取り出した。電子タバコなんてセットしてる余裕はねーし、そもそもここで役に立たねーし。

「宮田さん、火気注意ですよ!」

 鈴木が、リスの看板を指さしながら言う。そんな余裕ねーだろお前!

「うるせー、万が一引火したらお前がなんとかすればいいだろ!」

 いつも偉そうなこと言ってやがるんだし。

 だが俺がタバコをくわえた途端、熊がまた吠えた。

 まずい。なんでだ。

 ビリビリと空気が震える。そして何故か、完全に俺の方を向いた。鋭い太い爪が掲げられる。

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