第3話 楽に追えるはずだった

「あれ?」

 先頭の鈴木が高い声を上げた。

「松下さん、ちょっと。いま、人が……」

 言うやいなや、鈴木は急斜をひょいひょいと駆けあがった。

「すみませーん」

 どこかに向かって声をかけながら、先に進んでいく。なんなんだ、さっき俺が見た人か?

「こら、離れるな。はぐれるとどうなるかわからない」

 松下さんが鋭く声を上げる。鈴木は暴走特急みたいなやつだから、目を離すとどこまで行ってしまうか分からねーが、ここで熊が出たらどうなるか分からないのは俺たちの方だったりもする。

 俺も栄も、また肩で息をしながら、必死こいて道を登る。鈴木の後を走って追えるわけがない。

 何故か、うっすらと視界が悪くなってきた。曇ってきたかと思って空を見上げたが、生い茂る木の隙間から見える空は青い。



 俺の少し前で、栄がうーうー唸りだした。

 呼吸がおかしい。大きく息を吸って、何かをこらえるように止めて、また吸う。登山がきついからって感じには見えなかった。

「どうした」

「気持ち悪い……」

 頭を抱えるようにしてうめく。

「うう、酔った。吐きそう」

「なんでだ。急にどうした」

 乗り物にも乗ってないし、酒も飲んでないのになんでだ。山を登ってただけだ。こんな山、高山病になるような標高でもない。だが栄の肩に手を置いて顔を覗くと、汗だくで真っ青だった。ひょろひょろだし、環境の変化のせいとかなのか。

「めまいか?」

「うう、はい。ちょっと。目が回る」

 栄は口元に手を当てた。

「とにかく座れ。……松下さん、ちょっと、止まってくれ!」

 狭い道の真ん中だったが、どうせ人は来ないからその場に座らせる。松下さんは栄を振り返って頷いてから、道の先に声を上げた。

「鈴木!」

「いま、ちょっと人影が見えました! 怪しいです!」

 あっという間に遠くまで行っていた鈴木は、ひょいひょいと先に行く。そうこうしている間に、更に視界が悪くなる。靄みたいなものが出始めていた。おかしい。汗がにじむほど暑くて、日は天頂に近づいている。霧が出るような時期でも時間でも無いはずなんだが。あたりはさわさわと葉鳴りが聞こえるだけで、静かだった。何も問題がないように思えるが、何か違和感がある。

 鈴木のド派手な登山スタイルが、狭い道の向こうで木陰に消えた。松下さんは眉間にしわを寄せ、拳を握った。

「いいから、戻りなさい!」

 怒鳴るではなく、鋭く命じるように声をあげた。ビクゥ、と俺と栄の肩がはねる。

 ――あ、やばい。はい。すみません、戻ります。

 何故か関係ない俺まで叱られた気持ちになった。

 すぐに、道の向こうから鈴木が顔を見せる。足場の悪い道を、またひょいひょいと戻ってきた。それを見つけて、松下さんは肩から力を抜いた。

 栄は座ってうーうー唸っている。松下さんは、栄の前にしゃがむと、栄の額に手を当てて顔をのぞき込んだ。

「どうした。集中しすぎたのか」

「すみません、サイコメトリーしながら歩いてたんですけど、なんか酔っちゃって」

「とにかく、水分を取りなさい」

「すみません」

 みるみるうちに栄の呼吸が落ち着いて、苦しそうだった表情が和らいでいく。松下さんからスポーツドリンクを受け取って、ひとくち、ふたくち飲んだ。

 上司と部下とか、先輩と後輩というよりは、先生と生徒というか。お母さんと子供みたいな感じだった。

「持病?」

 横から声をかけると、ずっとうつむいていた栄が顔をあげた。顔色がさっきよりずいぶんマシだった。

「いや、そういうんじゃないです。寝不足とかでもないですよ。犬がこの道を駆けてく映像追ってたんですけど、急に変になって。映像ディスクが壊れたみたいな感じっていうか、短い動画を延々と自動ループされてる感じっていうか。早送りで犬が駆けて戻って駆けて戻って延々とぐるぐるぐる。目が回った」

 うう、熱出したときに見る変な夢みたいだ。

 俺まで吐きそうになってきた。うめいていると、鈴木が戻ってきた。ド派手なタイツが、山の緑に浮きまくっている。

「すみません。単独行動して」

 松下さんの元にたどりつくと、頭を下げた。珍しくしゅんとしている。

「いや。本当に人がいたのなら、おかしい。気にとめておこう。だが今は、単独行動は避けよう」

 松下さんは、立ち上がると、声を和らげて言った。

 そうだ。熊がいるかも知れねーし。

 何故か急に疲れた様子の松下さんは、腕時計を見てから言った。

「少し休もう。何かおかしい」

 さっき休憩所を出てから、30分くらいしかたっていない。



 俺は、またちょうどそこにあった「火気注意」の看板がくくられた木の横に立つ。看板は錆びていて、尻尾がなくなったリスが「投げ捨て禁止!」としゃべっている。

「電子タバコ吸っていいですか。火気じゃないんで。投げ捨てしないし」

「問題ない」

 栄のそばに座り込んだ松下さんが、あっさり言った。栄も、手をヒラヒラと振る。

 電子タバコ、こういうときに助かるな。俺は黒い四角い箱を、ジャケットのポケットから取り出した。 ホルダーを取り出して、ヒートスティック差し込み、電源スイッチを押す。

「宮田君は、見える方か?」

 唐突な質問に、ぞわっとする。

「は? ――見えるって、視力ならいい方だけど」

「そうじゃない」

 あきれるでもなく、つっこむでもなく、松下さんは淡々と言う。ああ、はいすみません。ふざけたわけじゃねーんだけど。

「幽霊なら見えない方だけど?」

「じゃあ、やはり霊でない何かいるな。一人だけならともかく、二人も見たのなら、見間違いではないだろう」

「嘘だろ。熊だけじゃなくてまだなんかいるのか」

「人が迷い込んだのかも知れないが、それも危険だ。見つけたら保護しないと」

 どうせ、俺みたいにニュースを見ないで来てしまった、間抜けな人間に違いない。

 電子タバコのLEDランプが点灯したので、俺はホルダーを口に持って行って、一息吸う。途端に鈴木が怒鳴り声をあげた。

「それ、ダメですよ!」

 「火気注意」の赤い看板を指さしながら。普段に無い剣幕だった。

 びっくりして俺は思わず一歩引く。白い蒸気を吐き出した。

「なんだお前、急にどうした。驚かすな。これ火じゃねーし」

「え? でも、あれ?」

 叱られた子供みたいに、鈴木の腰が引ける。

「鈴木?」

 松下さんが眉をしかめる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る