第2話 人はいないはずだった

 舗装はされていないものの、土の地面は歩きやすく固められて、石段や木で作った階段もある。登山と言うにはぬるいトレッキングコースだが、そんなもの関係ない。夏を目前にして、空は晴れ渡り、とにかく暑い。

 張り切って先頭を歩く鈴木とは裏腹に、俺は最後尾を、ゼエゼエ言いながら登っていた。

 一時間ほど歩いた先に、休憩所のようなところがあった。売店かいくつかと、座る場所がある。だが、平日とは言え売店は閉まっていて、人の姿も無い。

 昼食は持参と言われていたのはこのせいか。それにしても、人がいなさすぎる。

「初心者向けトレッキングコースはここまで。気楽な運動にやってくる人は、ここの売店で飲食して引き返す」

 松下さんは、額の汗を拭きながら、辺りを見まわした。そして現在地の看板の前に立つと、俺と鈴木に説明をした。

「山頂を目指す人は、この先の道を行く。AコースとBコースと二つのコースに別れている。Aコースはより道が険しいコースで、山頂までは早く着く。Bコースは緩やかに遠回りしながら登る」

 看板を指さし、道を指さした。

 いきなり道は狭くなり、獣道みたいになっていた。いきなりハードル高くなってねーか。

「我々は登山に来たわけではないので山頂へ向かう必要はないが、栄の調査では、犬はAコースの方へ逃げたようだ。栄がサイコメトリーしながら進むから多少時間はかかるだろうが、変に行きにくい山中へ入ったのでなければ、なんとか足取りはつかめると思う」

「マジか」

 思わず声が出た。より険しい方か。マジか。

 松下さんは腕時計を見た。10時集合で、ここまで登るのに1時間ほど。戻る時間を考えると、16時離脱には、14時までには犬を見つけないと間に合わないだろう。

 そして松下さんは、腰に手を当てて俺と栄を見た。ひょろひょろの栄は、俺と同じように汗だくで、すでにぐったりしている。

「まだはじめたばかりだが、ここで一度休憩しよう」

「ありがとうございます~」

 栄は松下を拝むようにした。



 喫煙所らしき場所を見つけて、一服することにした。

 栄がやってきて、俺の横にしゃがみ込んで、スポーツドリンクを飲み出した。

「お前、吸わないのか? 喫煙者って言ってただろ」

「あ、すみません、正確には元喫煙者です。禁煙して一年になるんで、もう吸ってないんですよ。お金かかるし」

「なるほど」

 禁煙、の言葉に、俺はため息と一緒に煙を吐き出した。

 俺が禁煙したくなったらどうなるんだ。また転職か。ブラック企業から転職して、少しは人並みの生活を送れる感じになってきたけど、もっと健康に気を遣いたくなったらタバコやめたくなる時も来るかも知れない。

 まあ今のところはねーけど。

「時短勤務の人とコンビって、どうなってんの?」

「現場に出て、夕方あの人が先に帰宅するので、俺が定時までに報告書まとめて、翌日チェックしてもらう感じっす」

「ふーん」

「あ、押しつけられてるって思ったでしょ。あの人を知らないからそんなこと思うんですよ。あの人、もともとマネージャーまで昇進して、現場でも一線で活躍してた凄腕ですからね。俺どうせ危険手当の希望出してないし、日帰りできる範囲で派遣されて、あの人のサポートでちょうどいいんです」

 栄は空を流れる雲を眺めて、笑いながら言った。

「出世とかねえ、別にねえ。俺、人に指示出したり、向いてないんで。定年まで現場でほどほどにがんばって、退職して嘱託になって、若い人のサポートしながらほどほどにやっていきたいっす」

 野心バリバリの鈴木とは正反対だ。そりゃ性格もあわねーだろうな。しかし、これも野心と言えば野心か。自分の進む方向性をきっちり決めてるのは同じだった。

 俺の方が適当にやってるな~。とぼんやり考えながら、煙を吸う。

 ブラック会社で流されるまま働き続けて、変なきっかけで転職してみたものの、先の展望などまったくない。




「あ」

 視界の端で何か動いた感じがして目で追うと、人の後ろ姿があった。すぐに、木陰に消えてしまったが。

「いま誰かAコース登っていかなかったか」

 登山とかトレッキングスタイルでもない、ちょっと散歩という感じだった。

「そんなまさか」

 栄は笑って手をひらひらさせただけで、俺の言うことを軽く流した。

「あれ、お前気づかなかった?」

「気づくも何も、いませんでしたよ」

 そんなはずはない。さっき確かに、茶色っぽいジャケットにジーンズの若い男が歩いて行った。――気のせいか?

「10分たった。そろそろ出発するぞ」

 Aコースの入り口の「Aコースはこちら」と書かれた看板の前で、松下さんが手を振っている。



 俺は首をひねりながら、皆と一緒に登山コースへ足を踏み入れた。

 栄が地面を探りながら先へ進むはずなんだが、気づいたら出発時と同じく、鈴木が元気に先頭を歩いて行く。当の栄は地面を見て、キョロキョロしながら、心ここにあらずといった様子でふらふらと山を登っていく。

 道幅は狭く、木の圧がすごい。今は木漏れ日がスポットライトのように差し込んでいるが、木の葉が密集して、夕方などすぐ真っ暗になりそうだ。時短がどうのという制約がなくても、早く引き上げないと遭難しそうだった。時々木の根が地面から隆起してて、気を抜くと足を引っかけそうになる。

「ここってハイキング気分で登山ができるってんで人気の場所だって聞いたけど、人少ないな。平日でも中高年が多いと思ってたんだが」

「何を言っているんだ」

 松下さんが俺を振り返った。眉間にしわが寄っている。

「いや、よくテレビで見る場所だし。その割に今日は、一人しか人を見かけてねーし」

「そうじゃない。人がいるわけがないだろう」

「――は?」

 風に揺れる葉鳴りの音が、静けさの中にさわさわと響く。

「今は自治体が入山を控えるように宣告したからな。禁止までとは言わないが規制されている。わたしたちは会社を通じて許可をもらっている」

「はあ? 立ち入りが規制?」

 ――嫌な予感がする。

 閑散とした登山口、休憩所。いくら平日だからって、人の姿がなさ過ぎる。

 そうですよ、と栄が言う。

「この山この間、熊がでたらしいですし」

「ああ――――――はああ? 熊ぁ?」

 全く予想外の単語が出てきて、声が裏返った。



「それで君たちに来てもらったんだ。知らないのか」

 いや、知らねーし。

「ニュースを見ないのか、君は」

「いや、はあ、熊。っていうかニュース。すみません。あんまり」

「いい年をして、世情を知らないなんて恥ずかしいことだ。前職は激務だったかも知れないが、今はさほどでもないのだろうから、目を配っておいた方がいい。仕事にも役に立つ」

 松下さんに正論を突きつけられて、俺はむかつくよりもショックを受けるよりも、ちょっとびっくりして、ちょっと嬉しかった。叱られて喜ぶ趣味はねえけど、この会社でずっと変な人にばっかり会っていたが、久しぶりにまともっぽい人かも知れない。

 だがそんなこと喜んでる場合ではまったく無い!

 動転している俺に呆れつつも、松下さんは腰に手を当てながら、改めて言った。

「わたしは時短だし、戦闘向きの能力じゃない。栄くんも危険手当を申請していない。だから、応援を頼んだんだ」

 たかがペット探しに。いや、そんなこと言っちゃいけねーけど。これどんだけ経費かかるんだ。いや、てゆーか。熊。だから危険手当。なるほど。しまった。危険手当。忘れてた。この間のチェンソー軍団の件から懲りて、危険手当のこともうちょっと考えようと思ってたんだが。

 中途採用者は三ヶ月は危険手当の仕事は割り振られないって話しだったから、余裕こいてた。もう転職から三ヶ月経ったのか。

「依頼内容を記載された指示メールに記載されていたはずだ」

「見落としてました……」

 なんてこった。俺としたことが。見てたところで、来るしかねーんだけど。心の準備が。

「それにしても、俺は山で使い物にならねーけど、どうやって熊と戦えばいいんだ。ほら、ここにも火気注意って書いてあるし! 俺の能力はどう考えても町中向きだ。部長の采配どうなってんだ」

 ちょうどそこにあった錆びに錆びて赤茶けた看板を指さす。「火気注意」と書かれたところに、ご丁寧にタバコにバツ印が書かれて、リスのイラストから「投げ捨て禁止!」と吹き出しが出ている。

「大丈夫ですよ! 遭遇しなければいいんですから!」

 どこからその自信が来るのか、振り返った鈴木が鼻息荒く言った。

 近頃、あちらこちらの県で人家に近い場所で熊害が出るってんで、俺も興味本意で熊に出くわしたときの対処法を調べたことがある。オフロードのサイクリングで熊に遭遇して命からがら逃げた人のYouTubeとかも見た。

 そして熊への対処については「熊に遭遇しない方法」ばっかりで、会ってしまったらどうすればいいかなんてほとんど見つからなかった。

 だから、鈴木の言うことは正しい。

 正しいが、知りたいのはそうなった場合のことだ! 会っちゃったらあきらめろってことなのか!

 非戦闘員二人と、火気厳禁の山でタバコ≪武器≫が使えない俺と、ひとりだけ戦闘能力高いけど暴走機関車みたいな鈴木とで、どうしろってんだ。

「熊よけの鈴は持ってきてるんだけど」

 栄がショルダーバッグから、カラビナに赤い三角の皮がぶら下がったものを取り出した。まくりあげると、クリスマスのハンドベルみたいな形の金属が出てきて、高い音を立てた。さらにもう一つカウベルみたいなものも引っ張り出す。カランコロンと音が鳴る。

「それさっさと出せよ。最初から」

「肝心の犬が逃げたら困るし」

「いや命の方が大事だろ」

「犬を早く見つけないと、帰れませんよ」

「そりゃそうだが。そうなんだが」

 なんだこのジレンマは。いやそれより、熊って。熊って!

 いや、ということは、あれ? 俺がさっき見た人影ってなんだ。まさか、また幽霊……!

「まあ最近、熊も鈴にも慣れて来たっていいますしね」

「なにのんきに言ってんだよ!」

「ここは、わたしの力の見せ所ですね! 頼ってくださって結構ですよ!」

 鈴木の顔に、出世、と顔に書いてある。

 そう言えば、危険手当からみの出動がなかった俺と組まされていた鈴木も、俺にあわせて三ヶ月は危険な任務には出ていない。この鈴木のことだから、危険手当を申請していないとは思えない。危険な任務をこなせば上にも早く行けるよ! と部長が言っていたから、鈴木からしたら俺と組むなんて、そりゃー嫌で仕方なかったに違いない。今日は俄然生き生きとしている。

 松下さんは、冷静に言った。

「迷子の犬も、山だから水やら食べるものは何がしか見つけられるかもしれないが、食べてはいけないものを食べたりする可能性もある。捕食動物もいるからな。一刻も早く見つけて帰ってやらねばならん」

 捕食動物ね。熊とかね。人間も捕食されるけどな!

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