第5話 幽霊なんかいない
急いで会計をすませて、くだんのカーブミラーのところへ向かう。
鏡にも何も写っていないし、俺はなにも感じないし、何も見えない。
しかし鈴木さんは、腕を組んで難しい顔で、一点を見ている。
「どうしてここにいるんですか」
何もない空間に話しかけだした。
「分からないって、分からないわけないでしょう。子供たちに声をかけて怖がらせるのやめてください。まあ、子供のうちは見える子も多いですからね。大人が分からないのは仕方ないんじゃないですか。何も覚えていないんですか? どこから覚えてないんですか?」
独り言をいってる怪しい人物にしか見えない。
「だから、あなたは子供にしか見えてないんですって。わたしは特別です。有能ですから」
あーこの人だめだ。交渉とか全然駄目だ。
俺は、心の底から力いっぱい、ため息をついた。
霊とかなんとか、そういうのはいねーけど、やっぱり見えない物は信じられねーけど。だけどもだ。タバコの煙を爆発させたのは現実で、しかもこんな会社に転職しちまった手前、変な現象のことを全否定するわけにもいかない気がする。
本当に、実際に、そこに何か居るとして。
「なんで「こんにちは」なんだ」
俺は鈴木さんに問いかけた。鈴木さんがオウム返しにカーブミラーに問いかける。
「時間の感覚がわからなくなったそうです」
「いつからそこにいるんだ」
「わからないそうです」
鈴木さんは、俺を見て、やれやれという感じで言った。
「やっぱりこの人、死んだ自覚がないみたいです」
もやもや、と空気が動いた気がした。
「おい、鈴木さん、なんか変だぞ」
「わたしは変じゃありません」
「いやそういうお決まりいらねーから」
思わずつっこみの手をあげていた俺の耳に、ざわっと、変な物音が聞こえた。それから。
「死んだなんて、そんな……! そんなはずがない……!」
声がどこからともなく聞こえた。
鈴木さんを見てる俺の目の端で、何かが動いた。
げっそりした老人みたいな顔のジャージの男が、ゆらゆらとぶれながら、そこにいるのが、見えた。
「うおおおおええええええ」
俺は思わず声を上げていた。
モーションキャプチャーみたいだ。後ろが透けて見える。
「おえええって。人を見ておえええはないだろ」
よれよれの男が、げっそりした顔で俺を見た。透けてる。AR。これはARだ。仮想現実だ。どこかにプロジェクターがあるんだ。
「なんだお前! なんでいきなり現れたんだ!」
「見えるんですか? ここにいる霊ですよ」
鈴木が平然と言った。
「なんで、なんで見えるんだよ!」
「霊の感情の高ぶりというか、そのせいで力が増したのかも知れません。見えない人の前に出てきて悪さをする霊とか怪談でよくあるじゃないですか」
「お前がおちょくって挑発するからだろうが!」
「お前って言わないでください。そんなに仲良くありませんよ、失礼な!」
「いやいや、意味わかんねーし、いまそこか!?」
俺は無意識に懐に手を入れて、内ポケットからタバコを取り出した。鈴木がしかめっ面で俺を見る。いやもう知らん。路上喫煙がどうとかいわれようとも、気を落ち着けないと駄目だ。
何はなくとも一本くわえてから、ライターで火をつけようとする。だが、チャイルドロックのついたライターは固くて、なかなかうまくいかない。親指が何度もから空振って、カチカチと音がする。
焦れながら火をつけて、肺いっぱいに煙を吸い込む。幽霊なんかいない。いやいるけど。いたけど。いや怖くない。唱えてる間に思い出した。ええーと、仕事用とプライベート用とタバコを分けろっていわれたんだが、どうだっけ。ボックスタイプのと、ソフトタイプの箱で分けようと思ってたんだが、今のこれは仕事用か。もうわからん。
ふうう、と煙を吐き出した。
それと同時に、鈴木さんは突然、おっさん幽霊に向けて正拳突きをくりだす。
びっくりして、手からタバコを落としそうになった。
ふわん、と鈴木さんの拳がおっさんを突き抜ける。そして立て続けに、上段蹴りをかます。それも、おっさんの顔をふわんと突き抜け、鈴木さんは勢いのままくるりとまわって止まった。
「おいこら鈴木!」
びっくりしてでかい声が出た。
「呼び捨てにしないでください、新人のくせに! それとくさい!」
「うるせえ、年下のくせに! いきなり暴力振るうな!」
しかも、なんだ今の、素人の動きじゃねーぞ!
唐突に明かりが近づいてきて、俺は慌てて道の端に寄った。自転車だ。若者が、わめきあってる俺たちを不審者を見る目で一瞥して、通り過ぎていった。住宅街で妙齢の男女がわめき合ってたら、あからさまに怪しい。通報される。俺はあわてて口を閉ざした。あの自転車の人、幽霊見えたんだろうか。
そんな俺の自制などお構いなしに、鈴木は霊を指さして言う。
「やっぱりこれ、自縛霊ですね。物理攻撃きかないし」
「お前人間だったらどうするんだよ」
「これって言うなああああ」
霊の声がボワンボワンと反響する。
「俺は死んでないいいいい!」
もう訳分からなくなってきたが、ジャージの三十代男性がわめいた。今度は頭を抱えて、おろおろしはじめる。
「七時に帰らなきゃ……七時に帰らなきゃ……七時に帰らなきゃ……!」
右往左往して、その場でぐるぐる回り出した。
「つきあった二周年記念日で。彼女に、絶対に七時のディナーって言われてたのに……定時に帰れなくて……。いつも仕事ばっかりで、今日は遅れてきたら別れるって言われてて……隠れ家レストランで……走ってたらタクシーにひかれて」
つらい。
どんどん暗いオーラが強くなる。なんか嫌な感じしかしない。
カーブミラーの近くに白い看板が立っている。4月16日夜19時30分頃、自動車と歩行者の衝突事故がありました。目撃された方はご連絡ください。
ああ、ディナー間に合ってねーな。
しかし俺は、ちょっとした違和感を持った。彼女と記念日ディナーか。いやうらやましいとかじゃななくて。
「とりあえず、いったん落ち着け」
霊をなだめようと、どうどう、と両手をあげてる。指に挟んだタバコが煙をあげている。幽霊はしかめっ面でそれを見る。なにそれ、幽霊のくせにタバコ臭いとか言うんじゃないだろうな。触れないくせに。
しかし、俺の目線を追っていた幽霊は、頭を抱えるようにして、また大声をあげた。
「えええええ、俺やっぱ死んでるのかああああああ!? 間にあわねーじゃんかああ! しかもこれって、ひき逃げかよおおおおああああ慰謝料よこせよおおおお」
ジャージの三十代男性がまたわめいた。ざわざわざわっと空気が動く。
「いや待て落ち着けって。慰謝料がもらえてないとは限らないだろ!」
それに、そもそも時間には間に合ってねーぞ。
「慰謝料もらえてても俺使えねええしいいいいいい」
「ふたりともがめつい」
「うるせえ、金は大事だろうが」
鈴木につっこまれるとは。
見ると鈴木は、両手を合わせていた。嫌な予感しかしない。
そして俺の目の前で幽霊は不穏な気配をふりまき、街灯の明かりの中にどす黒いオーラをふくらませて、膨張しつつある。
「お前なにするつもりだあああ!」
ジャージの三十代男性が叫んだ。カッと開いた目が光る。
「おい、お前のせいで悪霊になったぞ!」
鈴木のまわりで、ぼこぼこぼこぼこと音がした。そう、なんかまるで、流れの悪い排水溝のような音。――空気と水が混ざり合う音。
「うるさいですよ!」
鈴木もカッと目を見開いた。
そのまわりで、いつの間にか透明の渦が巻いていた。街灯の光でキラキラ光っている。これは、なんだ。向こう側がぐにゅぐにゅにゆがんで見える。
もしかして水か。水の塊か。
もしかして――
「ちょっと、落ち着いてください!」
鈴木が叫んだ。ちょっと待て!!
俺は慌てて、タバコを吸った。
一か八か。
鈴木こいつどうなってんだとか内心悪態をつきながら、焦る気持ちをなんとか落ち着けて、吸い込んで吸い込んで、口の中に煙をためる。
水の塊が、頭の上から落とされた。ああー昭和のお笑い番組かよー。思いながら俺は、口から煙を輪にして吐き出す。
ふわふわと浮いた煙は、水の塊にぶち当たって、爆発した。
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