【第二章】戦役の行方


 まばらに茂る低木の先へ、歩廊が続いていた。のどかな前庭を抜けたイド・ルグスは、そこに造られた石造りの玄門をくぐった。門に詰める二人の衛士を見るが、その表情に反応は無い。痛む肩に手をやり、とりあえず足を急がせる。

 道が尽きた先に拝殿があった。王家の遼臣の為にあるこの建物は、聖密院への唯一の入り口である大聖門の奥に建てられている。聖密院は王都エスーサにある王の住処であり、城市の内城でもあった。

 切り出された白い理石が積み上げられ、入り組んだ壁はうっすらと苔むしている。壁は高い勾配の階段様で、その上に尖端を持つ円蓋が載っていた。壁面に目だった飾りはなく、理石の規則正しい目地と四角い窓孔があるだけだった。周囲には壁に寄り添う支塔がいくつも立ち、そこから繋がる飛壁が拝殿を支えている。

 正面の柱列から中を窺うと、すでに皆が整列していた。王の間の奥、玉座の前には従者を連れた三領家の当主たち。その後ろには王家に仕える地領主の集団。この場所での謁見は彼らにとって珍しい事ではないが、これから現れる新王を初めて見る者が多いせいか、ざわざわとした空気に包まれている。

 そして兵の家の士隊長たちも、落ち着かない様子でその最後尾にいた。イド・ルグスは彼ら四人を目指し、柱沿いを静かに進む。

 背後まで近づいたとき、士隊長のひとりが彼に気づいて振り向いた。参番隊の隊長、オフィルだった。その眼つきには、微かな苛立ちが漂っている。

「陛下は……?」ようやくたどり着いたイド・ルグスが、息を弾ませ問いかける。

「……まだ、お目見えになられん。早く並べ」小さく答えたオフィルが、列の左に目をやる。彼がそこに立とうとしたとき、列の右端にいたスタインが声を上げた。

「お、来たか。……間に合ったようだな」

 振り返ったスタインが、イド・ルグスの肩を見つめた。礼袍の下の傷は、まだ塞がってはいない。カシアスの戦いから、まだ三日しか経っていなかった。そして今日は、王女ダナ・ブリグンドの即位の儀が行われる日でもあった。戦時であるため、先王の喪は無視されている。しかし、王家も混乱しているのか、新王はなかなか姿を現さない。

 儀式は、御所に近い正殿で行われていた。この拝殿から奥は、『王の輩(ともがら)』とよばれる王家の属臣だけが立ち入れる神聖な領域だった。即位の儀が終われば、ここで新王に対する拝謁が行われるはずである。だが、四人の士隊長と共に拝殿へ赴いたイド・ルグスは、肩に染み出た血の穢れを玄門の衛士に見咎められ、やむなく引き返していた。

「どうやって服を替えた……?」スタインが不思議そうに顎鬚をしごいた。「まあいい。お前は先頭だ」彼の親指が、玉座の方を指した。

「……おいスタイン、どういう事だ?」弐番隊の隊長シュマロがそう言うと、四番隊のリュコスも小声で囁く。「同じ士隊長なら、同列に並ぶべきだろう。なぜ先頭に?」

「こいつは、師士だ。儂たちの横はまずいだろう?」

「しかし……。ボルボアン様はもう、おられないのだぞ……」

 先王ボルボアンがイド・ルグスに師士の役目を命じたのは夏の初め、雪解けと共にメディトリアに侵攻したデロイ帝国の先遣隊が、ヒメル死湖の畔で打ち破られた後の事である。勝利に貢献したイド・ルグスは、長らく空位であった師士に任じられた。その務めは、あくまでボルボアン王の在位中に限られるはずであるが、そういった事は全て混乱の中に消え去っていた。

 三人の士隊長たちが表情を曇らせる中、スタインが言った。

「だが、領家から改めて国軍の指揮を任され、王家も黙認している。ならば、まだ師士という事になるだろう」

「スタイン……。今この場において、それに何の意味があるというのだ?」

「……解らぬか? こいつが末席の末席では、先頭にいる御仁らがでかい面をするだけだ。王家の尖兵たる我々が果たした役割を、忘れられては困る」

「しかし、奴の立場を決めるのは、新王ではないのか……!」

 高ぶったオフィルの声に、前列の何人かが振り向くが、その眼はわずかに冷たい。兵の家の従士たちは全員が平民出身であり、それは士隊長といえど同じだった。

「だったら、それまでは俺たちの前ってことだ。……違うか?」

 スタインに無理やり押し出され、イド・ルグスがその前に立つ。オフィルら三人はそれ以上何も言わなかったが、その厳しい眼つきが変わることはなかった。

 王によって招集されるメディトリアの国軍は、王自身が指揮するのが慣わしであった。だが、師士だけは王に代わり国軍を率いる資格があるとされる。イド・ルグスは『兵の家』に所属する従士だったが、王の命により軍が強化される過程で士隊長へと抜擢されていた。その人選を主張したのが、士隊長ファー・スタインだった。

(困った……。スタイン殿の引き立ては有難いが、今のままでよいのに……)

 背後の視線を感じ、イド・ルグスの気が重くなる。ようやく三十になったばかりの彼は、役目を果たすごとにオフィルたちとの溝を感じていた。彼以外の士隊長は、皆ふた回りは年上である。心配すべき事は、ほかにもあるのだが――。彼が、ため息をつく。

 デロイ帝国最強といわれる第一軍団を退けたとはいえ、メディトリア軍の被害も甚大であった。重傷者を差し引き、民兵たちも帰した軍勢の数は、戦う前の五割にも満たない。特に王遼騎兵は悲惨な状況である。勝利の代償は、余りにも大きかった。

 だが、この国の人々の暮らしは、次第に平穏を取り戻しつつあった。メディトリア各地から従士や家士、民兵が総動員され、その後は祈るように過ごしていた彼らであったが、この戦勝によって暗い影は一掃された。また、ボルボアン王が神託を授かっていた事が明らかになると、彼らの信仰はより強まった。

 この地に禍ある時、神託が下る。古から信じられてきた伝承の実現を目の当たりにし、彼らは次の王が速やかに即位する事を願っていた。王家においても内外の動揺を避けるため、今日の儀式は異例の迅速さで執り行われたのである。こういった一連の動きは、先王ボルボアンの死によって生じた巨大な空白が、真空のごとく周囲のものを吸い込んでいる様にも思えた。

 奥室の扉口を隠す幕が揺れ、二人の男が玉座の左右へ向かう。ひとりは王家の家宰、サンク・タルム。もうひとりは侍従長のジジ・スタコック。共に『王の輩』の重鎮である。

 そして、輝く絹の装束をまとった王が幕から出てきた。彼女の小柄な身体は、眼を除いてすべてが喪を示す深い蒼に包まれている。メディトリアの新たな王、ダナ・ブリグンドであった。侍女を従えて玉座の背後まで歩み、こちらを向いた。皆が静まった時、家宰のタルムが咳払いをした。

「遼臣諸君……! ここにおわす陛下は、つい今しがたアルダネス朝の王位をご継承なされた! 我ら『王の輩』はその忠実な僕として、謹んでこれを諸君らにお伝え致す」

 そこまで一息に言い、家宰はさらに言葉を続けた。

「今日をもって、暦は改められるものとする。だが、このたびの即位の儀は特別の事情により繰り上げられたものであり、未だ先王の喪は明けてはいない。よって、玉座は何人たりとも侵すことはできぬ」

 家宰が王の間を見回した。侍従長は神妙な表情を崩さない。

「本来なら、陛下は玉座にて遼臣諸君の祝賀の言葉をお聞きになるが、この儀は後の機会に行う事とする。これより、王のお言葉を文書で与える。謹んで拝領せよ」

 侍従長が抱えていた獣皮紙の束を、それぞれ領家の当主、地領主の主席、そしてイド・ルグスに慇懃なしぐさで渡す。侍従長が元の位置に戻ると、家宰が再び言葉を続けた。

「なお、諸君らの役目、序列は変わらぬものとする! 諸君らが、引き続き忠勤と重任を果たす事を期待したい。戦時である故、賓殿での歓餐も先の事とする。今後の指図については、追って報せる。儀は、以上である――」

 家宰が唐突にそう宣言すると、王は侍従長を伴って静かに奥室へ退去した。王の間の壇上から降りた家宰が、領家の当主たちを拝殿の外へ導いてゆく。

「何て書いてあるんだ……?」イド・ルグスが開いた文書を、スタインが覗き込む。

『吾の下僕たる、兵の家の各士に告げる。此度の戦勝の労いは、戦役の完全な終了に伴って行う事とする。現在、吾は敵国との講和を準備するものであるが、士隊長各士においては次の戦の備えを怠らぬよう配慮せよ。また、士隊長イド・ルグスを引き続き師士に任じる。以上をもって吾の言葉とする』文言を確認した五人が、顔を見合わせる。

「短いな……。はは、だがこれで決まりだな!」スタインが笑いながら皆を見た。

「……ふん。そうだとしても、次の戦などあるのか?」シュマロが言い捨てる。

「第一軍団には、デロイ軍の兵士の半数近くが所属してたのだからな。とはいえ、陛下のご命令通りに備えておくべきだろう」そう言ってリュコスが腕を組む。

「そんな事は、すでにしておる。とにかく、足りんのはあの兵器だ」と、オフィル。

「……兵器は全て使いきりました。後は、カイネ殿の調合次第です」

 イド・ルグスはそう言い、文書を懐に収める。

「おい、そんな悠長な事は言っておれん。何故、人手を増やして作業できんのだ?」

 シュマロが語気を強めて問う。イド・ルグスが答えた。

「焔硝の調合には技術が必要で、彼に任せるしかありません。天候にも左右されます」

「だが、何かやり方があるだろう。どうにかならんのか?」シュマロが眉を寄せる。

「王の裁決を、まずは仰ぎましょう。我々は、王家の学師へ協力する立場に過ぎません」

「しかし、そうであっても何か方法が――」

「……おい、みんな帰っちまったぞ?」スタインが、シュマロの詰問を遮った。

 辺りには誰もいなかった。奥の幕から、侍従長が顔半分でこちらを窺っていた。無表情な彼の眼を見て、五人が一斉に出口へ向かう。外に出て、歩廊を急いだ。

「――ルグス。お前はその怪我が治るまで、おとなしくしていろ。わかったな?」

 スタインの指差した肩に、赤い染みが再び滲んでいた。


      †      †


 兵士たちの頭上に、断崖が切り立っている。峠を下ってきた長い列は、その断崖の狭間にある砦の門を通過していた。ここはノクニィ峠とよばれている。門を抜けると、そこは既にメディトリア領内だった。

 オシア州の街カリナソスから西を目指し、曲がりくねった山道を抜けると、この峠がある。砦は陸の孤島といえるメディトリアへの、たった二つしかない関門のひとつであった。断崖の左右はそのまま険難な山岳地帯へつながっており、門以外に通行できる道はない。

 門の手前の断崖の下に、数騎の騎馬が群れていた。砦を抜け、敵地へ向かう兵卒たちの列の横で、やってきた峠を見上げている。

「……妙な所に砦が造られていますね」

 砦との距離を目測しつつ、中兵長のテベス・ラボアが言った。

「確かに、あの峠の上からの攻撃は防げんだろうな……」

 答えたのは、峠を通過する第二軍団を率いる軍団司、プルー・ダ・プー。実際に、砦は春の攻撃で破壊されていた。そのままメディトリアに侵攻した第一軍団は現在、王都への途上にある都市カシアスの近辺まで進出している。辺りには、その攻撃で使われた投石機からの石弾が、無数に転がっていた。

「彼らは何故ここを選んだのでしょうか。峠への途中に適地はあったと思いますが……」

「その場所には迂回路があるのだろう。ここなら一箇所の防御で足りる、という事か」

「つまり、この砦で守りきる気は無い、と。有事には領内で戦う。賢いですな、彼らは」

 少々皮肉めいたラボアの言葉を聞いて、ダ・プーが答える。

「もう、決着がついているだろう。手柄の無い戦役になってしまったな……」

「獲物のいるうちに、と彼らには随分無理をさせましたが、残念です」

 兵士たちの列を、ラボアが見た。ダ・プーは、峠に注いでいた視線を頭上に向ける。

「……しかし、高いな」

 断崖の片側だけが、塔のように空へ向かって伸びていた。平野ばかりのガルバニアからやってきた彼らにとって、この峠は奇観といえた。第二軍団がここにやってきた目的は、要するに第一軍団との交代である。北方にも敵を持つデロイ帝国にとって、最大の兵力を擁する常勝軍を、この地にいつまでも留め置くことはできない。メディトリア軍が野戦での短期戦と、城市での持久戦のいずれを選択しようとも、第一軍団が確実にガルバニアへ帰還できるよう、支援するのが第二軍団の任務である。だが、名目上はそうであっても、実質的には尻拭いの役目であった。

「先ほどオシア人の馬丁から聞きましたが、メディトリアに害を成す者がここを通るとき、あの岩山が崩れてくるという言い伝えがあるそうです」

「なに、本当か……?」

 ラボアの言葉に、ダ・プーは再び見上げて耳を澄ませる。鳥がぴちぴちと鳴いていた。

「……俺がいるのに、崩れてこんじゃないか。ふん、その話は嘘だな」

 不満そうに言い捨てる。少しだけ歯を見せたラボアの後ろから、不意に声が上がった。

「ははっ、いいっすね、その考え方! ははは……」

 断崖に笑いが響く。だが、それは周囲の沈黙の中で徐々に小さくなると、やがて止んだ。取り繕うように、声の主が口を開いた。

「いや、閣下の仰る通りっすよ。……昔の人って、馬鹿ですよね」

「ダンテ、お前は黙ってろ」ラボアが睨む。「我々は、すでに敵地にいる。あの向こうでは、貴様を殺そうと何者かが待ち構えているのだ」

 その時、彼の指差す方向から味方の早馬らしき二騎が駆けてくるのが見えた。ラボアがそれを制止し、報せを聞く。

「――カシアスの東の平原で、メディトリア軍の主力と交戦した第一軍団が敗北致しました! 軍勢は損害を受け、軍団司のハニアス様は手勢をまとめて後退中です!」

 その報告に、ラボアらがざわめいた。だが、ダ・プーが冷静に問い返す。

「では、お前たちが第一報だな。戦闘の状況を説明できるか?」

「敵はメディトリア軍主力、約三万。イド・ルグスという男が率いていたと聞きます。情報では、寄せ集めの軍勢との事だったのですが、戦闘が始まると……上手く説明できませんが、我が軍の右翼に落雷の様なものが……。その後、味方は敵に包囲され、その……た、退却を……」

「……要するに、敗走したのか。ハニアスはそれを見て逃げ出した、だな?」

 ふたりは、目を伏せて沈黙していた。ダ・プーは何も言わず、彼らを通してやった。

「閣下、大変な事になったようです……」

 帝都を目指して駆け去る二騎を見ながら、ラボアが言う。その言葉に現実感はない。

「……さて、どうするかな?」ダ・プーも、他人事のように呟いた。

「味方の兵士が、後退してきます。彼らの為にまず、この砦近辺を固めるべきかと」

「それにも一理あるな。だが、俺たちはカシアスを目指すぞ。急がせろ――」

 視線が交わされ、やがてラボアが騎馬を引きつれて駆け出す。言いたいことは山ほどあった。だが、彼はこの男の決断が覆らぬ事を知っている。そして、自分たちの行動が帝国の命運を左右しかねない事も。

 彼が後ろを振り返った。視線の先で、ダ・プーはまだ断崖を見上げ、佇んでいた。


      †      †


「――やはり、ここに居たな」

 ウル・メイノスは、厩舎の先に人影を見つけた。並んで繋がれている馬の一匹に寄り添い、その首に手を廻している。だが、メイノスが彼に近づくにつれ、影と馬の一体感が失われてゆく。ぶるる、と馬が鳴いた。

「お邪魔しちまったようだな」

 彼の前で足を止めたメイノスが、悪びれずに言った。馬が落ち着きを失い、体を捩っていた。その首を抱き留めたイド・ルグスが、鬣をゆっくりと手でといてやった。

「お……。こいつ、怒ってやがるのか」

 何度も地面を蹴る馬を見て、メイノスが下がった。

「この馬は、お前の匂いが嫌いなようだ……」

 鬣に絡ませていた手を首から肩に滑らせ、イド・ルグスが呟いた。

「おいおい、お前こいつと話せんのかよ……?」呆れたように言う。

「……それが出来ればいいんだがな」イド・ルグスが、久々に笑みをこぼす。肩の傷は、明らかに快方へ向かっていた。その表情を見たメイノスが、胸に残していた不安を払拭する。飄々とした態度の裏で安堵を覚える彼に、神々への不信はもうない。

 通常、戦場で大きな傷を負った者は、その半数が敗血症で死ぬ。だが、ここメディトリアでは違っていた。過去にこの地を襲った病魔や災害に対し、神託は幾度も下され彼らは救われた。その過程で生み出された多くの知識が、この地を守っていた。王家の薬師が、彼に直々に処方した秘薬もそのひとつだった。

 そして、王朝の始祖であるマハ・アルダネスは、その即位にあたって陽神イシンと地神ルフォイを筆頭とする輪神に対し、聖約を取り交わしたとされている。彼らにとって聖約は最も厳格な誓いであり、それを遵守する事によって加護の示現を願うものであった。その文言は、人々にこう伝わっている。


 心、義を正し人に和す。命、地に満ちるとも邦を侵さず。

 時、久しく流れて永きを知る。我ら、此処に在り。


 これが、王家の聖約であった。言葉には、義と和の精神を心の柱とし、メディトリアを彼らの安住の地と定める決意が謳われている。それは、己の運命を知るという事であり、この国における善であった。

 彼らは独自の文化と言語を持ち、民族的な善悪感を意識の中に育む。その概念を俯瞰的に見ると、善の原則として『聖神を信じる事』『道徳を守る事』『運命を知る事』の三つが、悪の原則として『敵を滅ぼす事』『無に帰す事』『本質を変える事』の三つがあった。そして、これらの善悪へ聖約に誓われた孤立主義が加わり、彼らの正義は形作られる。

 正義とは、道理に基づいた言い分と説明できる。メディトリアの人々が、さながら遺伝子のように備える善と悪こそが、その道理だった。それは、閉鎖的な環境に生きる彼らの経験が、永い時を経て結晶化したものといえる。この地と関わりを持たぬ者ならば、均衡と安定への深い希求がその根本にある事に気づくかもしれない。

 だが、彼らにとって正義とは即ち正義であり、そういった解釈には無自覚な原理であった。神託の存在が聖約の正しさを証明する以上、彼らの意識はあくまでその周辺へと帰属しようとする。王家、すなわち聖密院とは、メディトリアの民にとって叡智の城砦であると共に、新たな秩序と古き正義が融合する場でもあった。

「――なあ、ユノの事なんだが……おい、口に手ぇつっこんで大丈夫なのか?」

「歯茎が少し腫れている。馬銜が合ってないな……」

「うおっ、両手かよ。……で、探させてみたがエスーサの辺りにはいないな」

「そうか……。わざわざすまん……」

「さらわれたんじゃないって事は、自分で出てったんだな……」

 イド・ルグスは何も答えず、足元の桶で手を洗った。

「……やはり、石女だったのを気にしてたんだろう。後は、お前次第だ」

 ユノはイド・ルグスが十年間連れ添った内縁の妻であり、カシアスの戦いの直後から行方が分からなくなっていた。エスーサの外れにあるふたりの棲家に異状はなく、彼女の持ち物が若干無くなっているだけだった。

 兵の家の従士に、婚姻は認められていない。一生を王家に捧げ、武錬に明け暮れるためだった。酬いとして生活は保障され、退役後は王家の耕地を死ぬまで借り受けることが出来る。彼らはその土地を小作させ、余生を過ごす。しかし、それは形式の上だけであり、彼らは何らかの形で女性と関わりを持っているのが普通だった。子が儲けられることも当然あり、彼らは父親が退役するとその養子になることも出来た。

「……わかった。ウル、すまんな」彼は、まだ手を洗っていた。メイノスが、馬の背をしごいてやりながら訊く。

「なあ、こいつは牝馬か?」

「そうだ……」立ち上がり、力なく答えた。

「そういや、お前の馬は牝が多いな。何でだ?」

「……牡馬は力強いが、牝には疲れにくい馬が多い。数も揃うし、戦場向きだ」

「なるほどな。……お前の薀蓄はよく聞くが、その話は初めてだな」

「馬の交配には、不思議なことが多すぎる……」

「だが、そういうのをバルバル族から学んだんだろ。まだ足りんのか?」

「彼らは迷信深い。だから、物事の深奥まで見極めようとしない」

「……まさか、お前に迷信深いって言われるとは思ってなかっただろうな、奴らもよ」

 口の端を上げたメイノスが、厩舎の壁へ目をやる。彼の皮肉は、もちろん本心からの言葉ではない。この国の信仰には、神託という確固たる証拠があった。それを迷信だとは欠片も思わぬ故に、こんな皮肉を軽々しく言うのである。それを聞いたイド・ルグスは、ゆっくりと息を吐いて言った。

「ウル、知っているだろう。この国には、大規模な外寇が過去にもあった。王祖マハ様が、輪神たちと聖約を交わされて間もない時代のことだ。それを退ける事ができたのは、迷信に頼ったからではないだろう。俺は、抱鉄の原料である焔硝というものを、聖密院で初めて知った。眼で見て手で触れられるものが、まやかしであるはずがない……」

 メディトリアは、数百年前にも今回の戦役のような侵略を受けていた。それは、裏を返せばそういった紛争とこの国は、長らく無縁であったという事でもある。真面目に反論するイド・ルグスを見て、メイノスが少し慌てた。

「別に、疑っちゃいねえって。……ありゃ、確かにすげえな」

「王は、それがある場所と製法を、神々から託されたのだ」

「デロイの連中は、鼻水垂らして怯えてやがったな。奴らですら、それを知らなかった」

「何者かの関与を疑うなら、いったい誰の仕業だというのか? 答はひとつだ……」

「……答はひとつ、か。確かにそうだな」

 厩舎を、風が通り過ぎた。こもった熱気が抜けてゆく。イド・ルグスは、次の馬に取り掛かっていた。柵にもたれかかったメイノスが表情を緩ませ、呟くように訊いた。

「なあ、ブリグンド様の事、どう思うよ?」

「……どう、と言われてもな。それより、今は陛下とお呼びしろ」

「陛下も、大変な時に陛下になっちまったよなあ……」

「確かにそうだが、仕方あるまい」

「お前、心配じゃねえのか……? まだ、ほんの十五だぜ?」

「俺はその事に、逆に驚かざるを得んな」

 また、始まったか……。言葉を聞いたメイノスが、そういう顔をする。彼女の非凡さを、イド・ルグスはよく知っていた。ダナ・ブリグンドは、先王ボルボアンの実子である。神祇官として聖密院の王陵を預かる彼女は、次の王として認められた存在だった。イド・ルグスは先王との謁見の折に、彼女と幾度も言葉を交わしている。その事を聞かされていたメイノスであったが、イド・ルグスのそんな態度に不興を覚える時もあった。無二の友ゆえの捩れた嫉妬ともいえるが、メイノスのそれはあくまで乾いている。

「ふん、なんか面白くねえぜ……。まあ、父親の資質が豊かなことは、確かだが。何にせよ、ご即位が早すぎるのが良くねえ」

「陛下ご自身の事より、そういった憂慮こそが問題だな……」

「何だよ、そりゃ。おれも、お前みてえにあれこれ知ってりゃ、心配しねえぜ」

「……やはり、話をするだけでは伝わらんか」

「話じゃなくてよ、直に会えりゃあいいんだが……」メイノスがにやけた。「陛下は、季節の儀なんかじゃ祭室に籠もって祀式をされるんだよな? やっぱり、くねくね踊ったりすんのかなあ……。ちょうど今頃だと暑さで汗だくになってよ、薄手の装束が透けたりするんだぜ、へへへ……」

 兵の家の従士にあるまじき表情で、笑みを浮かべる。イド・ルグスは、彼がひと皮剥けばこんな男であるのを重々承知していた。また、彼らにとって王は生身の人間であり、聖神を畏れるのとは違って親しみもある。だが、メイノスのそれは明らかに不遜であり、言葉を聞き流すイド・ルグスは余りにも心が寒かった。その眼差しを、メイノスは軽く笑って受け流す。

「ははっ、冗談だよ。怖い顔すんな。……だが、お前もよく考えりゃ出世したよな?」

「俺は、兵の家に騎兵を備えるのに都合のいい存在であっただけだ」イド・ルグスが、真面目くさって答えた。「伝統に逆らって馬術に傾倒していたへそ曲がりだが、運良く先王に重用される事になった。ただ、それだけの事に過ぎん……」

「でもよ、今の陛下もそうされるはずだぜ。そういや、あれからご指図はあったのか?」

「……何も、お決めになっておられんようだ。デロイの脅威がいつまで続くか、今はそれすら定かではない」

「そうか……。奴ら次第、という事だな。とりあえず、おれは仕事に戻るぜ」

 メイノスがそう言い、柵から離れた。そのまま踵を返し、出口に向かう。だが、しばらくすると立ち止まった。

「お、いちおう伝えておくぜ。スタインがよ、おとなしくしてろって。……それと、ユノの事、あんまり気にするんじゃねえぞ……?」

 馬の蹄を見ていたイド・ルグスが、背を向けたまま片手を挙げて応える。その時、厩舎の外から彼らを呼ぶ声が聞こえた。

「何だ……?」そう呟いたメイノスが出口にたどり着く前に、ひとりの兵士が厩舎に走りこんでくる。兵士は二人を見ると、表情を強張らせながら叫んだ。

「――士隊長殿! 敵が、敵の新たな軍勢が、ノクニィ峠に姿を現しました!」


      †      †


 大天幕に、五人の士隊長と彼らが従える士長ら全員が集まっていた。彼ら兵の家にはエスーサの街の一角が与えられ、平時はここに営地を置いていた。

「――では、伍番隊の状況はどうだ?」シュマロがイド・ルグスを見た。

「楯兵の重傷者は五十三名、死者は三十七名となっています。騎兵の損害はありません」

「騎兵とは五十騎隊と本陣の伝令のことか?」

「ええ」

「ならば、重傷一名だ。言っておくが、師士を任された者が戦闘に加わり、負傷するなど許されんことだ。とにかく、現状の我々の数は……およそ二千五百といった所か……」

「……領家では、楯兵は三分の二、騎兵は二分の一程度の戦力だろう」スタインが言う。

「街の外にいる猟兵らは約二千三百、バルバル騎兵は約千二百が残っている。民兵たちは既に解散しているが、自力で帰った者は七千人だそうだ。カシアスから溢れた重傷者が、ここにも運ばれている」説明したのはオフィルだった。

 鉄筆を盛んに動かしていたリュコスが手を止め、眉をしかめながら言った。

「……ということは、民兵抜きで召集すると歩兵は約一万八百、騎兵は約二千七百か。我らの中から騎兵を編制すれば、四百はこれに加わるだろう。その分、歩兵は減るが」

「話にならん……。峠を越えた敵は、少なくとも三万だ。あの兵器、抱鉄も底をついたままか……」オフィルが天孔を見上げる。

「民兵の招集は、おそらく間に合わんぞ。この数で戦うか、それとも……」

 そう言って、スタインが顎鬚をしごいた。天幕の空気が重かった。

 カシアスの戦いの後、メディトリアの国軍は敵の追撃を行うことなく解散していた。敵の主力を打ち破り、講和を提案する。これはボルボアン王が国軍を召集した当初からの目論見だった。帝国に送られた使節からの報せを待ちながら、王家と領家は戦力の回復に努め、退却するデロイ軍に対しては偵察だけが行われている。帝国側がここまで執拗に軍を進めてくることは、彼らにとって予想外といえた。

「……とにかく、わたくしは院に赴きましょう」イド・ルグスが口を開いた。

「そうだな、行ってくれ。儂たちは兵を集める。他の三人も、それでいいな?」

 スタインが彼らを見回す。普段は、軍議となれば理屈を並べ立てる三人だったが、今回ばかりは言葉がない。彼らには、王家と領家がそれぞれの城市で守りを固めることが最善と思えた。だがそのような戦い方をするなら、王家の存在する意味も失われる。イド・ルグスと王に結論を委ねることを、認めるしかなかった。

「――では」

 言葉少なに場を辞すると、イド・ルグスはメイノスを伴って大天幕を出た。


「……おい、この格好でいいのかよ? おれは入れるのか?」

 兵舎を抜け、庭を急ぐ二人は平服だった。

「緊急だ。仕方ない」

「門の前で、また急に脱がされたりしないよな……?」

「大丈夫だ、傷は塞がっている」

「待ってたら、いきなりひん剥かれるのはもう勘弁だぜ……」

「……つべこべ言わずに付いて来い」

「行って、籠城は避けられんから覚悟を決めろって言うのか? 気が進まねえなあ……」

「誰だって決めかねている。今は、はっきりと言うことが必要だ」

 正門の側戸を潜り、通りに出る。午後の食事のため家路を急ぐ人々は、兵の家の慌ただしさにまだ気づいてはいない。こういった何気ない日常こそが、彼らの護るべきものであった。エスーサに住む人々の暮らしは、ささやかで慎ましい。街の雑踏も、どこか控え目である。まばらな人ごみを抜け、二人は大聖門へと急いだ。


      †      †


 新王ダナ・ブリグンドが玉座から、跪く二人を見下ろす。先王の喪は完全に明けてはいないが、玉座については継承が済んでいた。蒼の装束に身を包み、傍らには侍従長のジジ・スタコックが侍る。壇の上で、家宰のサンク・タルムが厳しい表情で言った。

「もう一度言え、イド・ルグス!」

 声が響き、彼が答えた。

「――再び、国軍を召集すべきです。以前と同じく、カシアスの東に」

「お主、その言葉の意味が判っているのか? それは何の算段があっての事だ!」

「我々は追い詰められております。ですが、合理的に考えるならこの結論となります」

「敵は三万を超える軍勢なのだぞ? 如何なる理があるのか説明しろ!」

「峠を越えたのはデロイ第二軍団と聞いています。という事は、軍を率いるのはプルー・ダ・プー。現状で守勢に回るなら王家と三領家の戦力は分断され、城市の包囲に援軍を向かわす事も出来ません。一つひとつ切り崩され、やがてエスーサも陥落しましょう」

「だが、この状態で国軍を集結させ、何ができる? 敵は第一軍団を失ったのだ。我々のほかにも外敵を持つ彼らが、いつまでも第二軍団をこの地に留めてはおけまい。それぞれが守りを固め、敵の撤退を待てばよいではないか!」

「院のご情報では、ダ・プーという将は抜け目のない男だとか。こちらに迎え撃つ構えが無いことを悟れば、なおさらこの地に留まろうとするでしょう。彼らが兵を退いたとしてもメディトリアの結束が乱れれば、それを足がかりに再び攻めてくる事も考えられます」

「……貴様、何を根拠にその様なことを言うのか?」

「先ほども申し上げた通り、我々が守勢に回ればエスーサの盾といえる三つの領家がまず孤立します。たとえ家都が陥落せずとも被害は甚大、我々には償いようがありません。そうなれば、彼らとの関係に亀裂が生じる可能性もあります」

「しかし、それは仕方あるまい……。何か手立てがあるというのか?」

「国軍を召集するのです。我々の望みは、あくまでこれにしかありません」

「イド・ルグス、貴様……。つまり、敵に破れかぶれの戦を挑むということか?」

「タルム殿、我々は追い詰められているのです。どんな行動も苦渋の選択です」

 家宰の視線は、刺すようにイド・ルグスへ向けられている。二人の問答が途切れた。背後にいる副官メイノスは、下を向いたまま背中の汗を感じる。沈黙の中、侍従長が王に近づき耳をそばだてていた。やがて頷いた彼が、唐突に口を開く。

「――諸君、陛下のお言葉であるぞ!」

 家宰が壇に膝をつく。喪中は侍従が言葉を接ぐのが、王家の作法だった。

「畏れ多くも陛下は、イド・ルグスの言い分を認めておられる。その上で、兵を集める真意を問いたい、と仰せじゃ。イド・ルグス、答えよ」

 意外な成り行きに、メイノスが思わず前を見た。床を見る家宰の眼つきが変わってゆく。再び頭を下げ、メイノスは額を拭った。

「……お答え致します。我々に、ただ一つだけ利することがあります。先の会戦においてあの兵器が用いられた事を、敵は心に留めているでしょう。――もちろん、兵器が尽きているのは周知の通りです」

 家宰の頭が上がっていた。言葉が喉まで出かけている、そんな様子だった。

「ですが、彼らはその事を知りません。我々が再びの会戦を望まず、城市で守りを固めるなら、それを悟られてしまいます。しかし、このまま国軍を召集し第二軍団と対峙するなら、敵は兵器の正体もその有無も、掴めぬまま戦うことになります……」

 全く動かぬ王の瞳が、彼を見据えていた。メイノスが唾を飲み込んだ。その音すら響いた。ぴんと張った緊張の糸が、目に見えるようだった。

「――イド・ルグスよ、その事を利用してデロイとの停戦に持ち込もうというのか? しかし、それほどの戦力を持つのなら、交渉の意思を持つこと自体を怪しまれよう……」

 ダナ・ブリグンドが静かに問いかけた。驚いた家宰が玉座を振り向き、侍従長の目が大きく見開かれる。王の間が静寂に包まれ、イド・ルグスは答えた。

「……現在、陛下は講和の使節をデロイに遣わされ、寛大にも敵国の民を慮って、これ以上の無益な殺戮を避ける構えを明確にしております。例え、我々が如何なる力を手にしていようとも――」

 淡い空色の光を湛えた王の瞳と、イド・ルグスの灰色の瞳。視線が交わされ、彼女が頷いた。玉座からの目配せを受けた家宰が、慇懃に礼を返す。だが、こちらを向いたその眼には、隠し切れない憤りの色が浮かんでいた。彼が口を開く。

「イド・ルグス……。もし闘うことになれば、どうするつもりか?」

「いざとなれば、敵と刺し違えるほかありません。これまでと同じく……」

「……集結の場所は、カシアスの東でよいか?」

「仰せの通り、その場所が妥当です」

 イド・ルグスが深々と礼をした。やがて接見は終わり、二人は拝殿を退出した。


      †      †


 聖密院の中央にある正殿は、慌ただしかった。領家への使いとなる者たちが集まり、そして散ってゆく。すでに決は下され、差配の全ては家宰が負っている。王のいる奥室では、彼の怒声がわずかに聞こえていた。

「――陛下。どのような場合でも、王家の作法、しきたりは守って頂かねばなりません」

 侍従長スタコックが言った。領家への文書に署名するダナが、手を動かしつつ答えた。

「しきたりも大事だが、メディトリアの運命が託される決定だったのだ……」

「そんな事は、この私めも承知しております。ですが、王が自らそれを破られる様な事は慎んで頂かねばなりませぬ!」彼の白い口髭が、鼻息で震えた。

「……父上があの者に注目したのは、正しかったようだな。他の士隊長たちも、軍を集める事に消極的だとか。領家の者たちも、今になって我々に見捨てられるのではと心配していよう?」

「陛下、話を逸らさないで下さいませ……。それには、彼らの行いにも原因がありまする。先の会戦で、領家の擁する騎兵たちは無様に逃げ出したのですからな。負い目があるから、不安になるのです」

「しかし、彼らの期待には応えねばなるまい」

「それは既にしております。充分な戦果を得た我々は、賭けをせずともよいのです」

「……だがこの場合、どちらが賭けであろうか? デロイの第二軍団は、こちらへ向かっているようだ。我々の出方を窺っているのかもしれん」

「ですが、その正面のカシアスへ出てゆくのは如何なものかと。もしここで負けてしまえば、我々はどうすればよいのやら……」

「ジジ。だからこそ、行くのだ。戦というものに、玉虫色の決着などない。それともお前は、あの男に国軍を委ねるのが嫌なのか?」

「いえ、そのような事は……。ですが、我ら『王の輩』の意向を汲めぬ場合は、もっと慎重に事を進めていただきたいのです。……家宰であるタルム殿に対しては、特に」

「だが、私にその様な時間はあったか?」

「陛下、ある無しの問題ではありません! 例え急ぐとしても、配慮が必要なのです。我々はあなた様の下僕ではなく、分身である事をお忘れになってはなりませぬ……」

「……ジジ、解っている」

「僭越ながら申し上げますが、ブリグンド様は充分にお役目を果たされております。そして、私めはその事を当然だと思っております。この日の為に、陛下がどれほどの苦難を経られたのか、存じ上げておるのですから……」

 ダナは、黙って文書を読んでいた。

「……ただ、王の輩へのご配慮については、ボルボアン様に学んで頂きたいと思います。先王は、この事をよくご存知でした」

「また、説教か……」溜息をつく。崩御の後、この二人が先王のことに触れることは少なかった。彼らはまだ、忙殺ということで目をそむけたまま、それを放置しているといえた。ダナが、自問するように小さく呟く。「……本当に、そうだろうか?」

「陛下……?」言葉を聞き逃したスタコックが、首を傾げる。

「……いや、何でもない」

 獣皮紙の上を、再び筆が走り始めた。


      †      †


 二騎が、荒れ野を進んでいた。辺りに人の住む様子はなく、箒草の群生の他には獣の気配すらない。彼らの行く先には崖が見え、平屋根の木舎が隠れるようにぽつりとあった。

「――だから、お前のやる事がいちばん士隊長連中の神経を逆撫でしてんだよ」

 ゆるゆると馬を進ませながら、ウル・メイノスが呆れたように言葉を吐いた。

「おれにも黙って、国軍を召集しろって急に言い出しやがって……」

 イド・ルグスは、前を見つめて黙っている。しばらくして、ようやく口を開いた。

「そういう状況である必要があった……。俺が独断し、暴走したと言える状況が」

「……何でだよ?」

「俺がしくじったら、誰も責任を取りきれんからな……」

「まずい事になったら、お前のせいにしろって事か? だが、その時は次なんてありゃしねえぞ……」

 苛々と手綱をさばく。そのままいくらか進むが、我慢しきれずに口を開く。

「それに、何だよあの眼は。あんな冷たい眼でお前を見やがって……」

「ウル、それは誰のことだ。……タルム殿か?」

「あの野郎、今までと態度が違うぜ。お前がいたから勝ったようなもんじゃねえか……」

「それが、師士の役目だ。タルム殿も、そうされているだけであろう」

「だったら、それなりの態度があるだろ!」

「俺は、普通の事をしたまでだ。あの抱鉄だって、用意したのはカイネ殿だ」

「だとしても、到底使えない代物だったあの兵器は、お前の協力で完成した。違うか?」

「そうではあるが……。点火帯や衝撃に耐える形状などの解決策は、あの方が考えた」そう言い、右手の窪地にある抉れた穴を見た。荒地の方々に、そんな痕跡が無数にあった。

「それこそ、奴の役目だろ? とにかく、お前はボルボアン様に次ぐ働きをした」

「仮にそうだとしても、空しい賞賛だな。我々が束になっても、先王の穴を埋める事は出来ん。言葉に尽くせぬほど、偉大な方だったのだ。倒れられたのが急すぎて、俺たちには悲しむことも、それを理解することも出来ていない……」

「……ふん。ああ、そうかい」諦めたように言い捨てた。

 二人は黙って馬を進める。だが視線の先の木舎は、なかなか位置を変えようとしない。

「くそっ……近づきゃしねえ……」

 毒づく。荒地には岩や石礫が満ち、馬を駆けさせる事のできる場所は少なかった。街からも遠く離れたこの王領に、近づくものは彼らのほかに誰もいない。

「どうせ、用意できても数発程度だな。話し合いで何とかなりゃいいが」

「……敵が、物分かりのよい事を祈るだけだ」

「神頼みの次は、敵頼みか。言っとくが、無茶なことはすんなよ」

 しかし、言葉だけが空しく響いた。二人の前に、荒れ野が続いていた。



「カイネ殿。……カイネ殿!」

「――――あ、ああ。これはルグス様。……来られる頃と思ってました」

 質素な木綿の貫衣を着た男が、机台に預けていた身体を起こした。声の主を眼で探しながら振り向くと、眩しそうにこちらを見た。

「……カイネ殿、眼が真っ赤だぞ。危ないから、無理はしないでくれ」

 右手に葦筆、左手に砥石。手元には液炭が滲み、灰色の斑になっている。

「あ、製法を記していたんですよ。さすがに、いま調合なんかしたら死んじゃいますね」

 ばさばさの髪をかき上げ、声にならない笑いを漏らす。前歯が一本抜けていた。

「――では、陛下は許可されたのか?」

「はい、まずは三人ほど来ます。さっそく焔硝を作らせ……あ、メイノス様?」

「……ようやく気づいたか。お前、本気で無理すんなよ」

 メイノスが、カイネの顔を心配そうに覗き込んだ。

「はは、眼がかすんでて、おられるのに気づきませんでしたよ……」

 声を立てず、くつくつと笑う。カイネの後ろの机台に、びっしりと文字が書き込まれた獣皮紙がうず高く重ねられていた。

「……お前、寝たほうがいいぞ。で、あれは出来てんのか?」

「あ、崖の倉庫に五発ほど用意してあります。ですが、投転試験をしてないので……」

「五発、か……。まあ、無いよりはましだな。検査はこっちでやるぜ。どうせ、岩の上から転がすだけだ」

「ええ、お願いします。では、僕はしばらく……」

 そう言い、カイネは目をこすりながら奥の部屋に向かう。

「――カイネ殿、ちょっと待ってくれ。空の抱鉄はどこにある?」

 唐突に問いかけられ、カイネが振り向く。こちらをじっと見つめた。

「…………倉庫にあります。ルグス様、ご武運を――」

 そう言って奥に消える。彼が最後に見せたのは完全に覚めた眼と、にやりと緩ませた頬だった。


      †      †


 馬が駆けていた。歩兵たちは眼前で見事な方陣となり、その配置を確認する最後の伝令が帰ってくる。左右の騎兵も陣形を完成させ、静かな緊張だけが彼らを支配していた。

 正面のなだらかな丘で、赤い軍勢が小ぶりな陣を張っていた。片膝を地に着け、楯を構えて鉾を天に立てる。ずらりと並ぶ彼らの眼が、兜の奥からこちらを見据えていた。

「少ないですな……」ラボアが低い声で呟く。

「……歩兵は一万といったところか。だが、騎馬はたっぷりいるな」

「ええ、両翼で二千五百はいるものと思われます」

 ダ・プーは戦列の後方、第二軍団の本陣にいた。馬上から、丘をわずかに見上げる。

「くそ、見えんな……」目を凝らす。敵陣のいたる所に積み上げられたそれは、無数の黒い芥子粒の様だった。

「……眼の良い者に確認させましたが、合計で百は超えているそうです」

「そうか……。隠す気は無いようだな、兵たちがびびっちまってる……」

 後退する第一軍団の敗残兵から、味方の兵士たちは様々な事を聞いていた。兵器については雷の卵だとか幻術だとか、噂ばかりが駆け巡り、確かな情報は何も無かった。

「……閣下、何騎かこちらに来ます」

 見えたのは、たった三騎。あっという間にこちらの戦列の正面までたどり着くと、両腕を挙げて空手である事を示した。ダ・プーが頷くと、軍勢の中に彼らの道が作られた。その様子を見ながら、ラボアが耳元で囁く。

「昨晩の早馬の件ですが……」本当に、小さな声だった。

「……解っている。俺を信じろ」ダ・プーが彼らを見ながら、答えた。

 辺りの兵士には目もくれず、三騎は静かに馬を進める。本陣の目の前で、彼らが馬を降りた。後ろの二人に目配せすると、先頭のひとりがこちらに歩み寄ってくる。

「あの男は、まさか……」ラボアが目を細めた。

 ダ・プーが馬から降り、歩み出す。背後にいたラボアと衛兵の四人も下馬し、彼の脇を固めた。六人と一人が歩み寄る。だが、ダ・プーらが足を止めても、その男は無造作に近づいてきた。

「――貴殿が軍団司か?」流暢ではないが、慣れたコノス語だった。

「ああ、そうだ」ダ・プーがそっけなく答える。そして、この男の急接近に反応した衛兵の肩に手を置き、下がらせる。

「お忙しい様だが、時間を頂けるか?」辺りを見回しながら、男が言う。

「……まずは、名乗ってくれ」ダ・プーが、灰色の瞳を見つめた。

「私は、イド・ルグス。この国を代表して貴殿と話がしたい」

 ふたりの視線が宙で交わった。静かに答える。

「いいだろう。俺は、第二軍団のプルー・ダ・プーだ――」

 凍てつき、静まり返った戦場の中央で、二人の会談が始まった。


「――簡潔に、こちらの要求を申し上げます」イド・ルグスが穏やかな声で言った。

「我らが王、ダナ・ブリグンド様はこれ以上の殺戮を望んでいません。不戦の約定を結び、速やかに兵を退くことを貴国に望みます」

「……ふむ。たった三人で来るとは、大した命知らずだ。とりあえず、条件を聞いておこうか」少々、呆れたように言う。

「今後、二十年間は互いの領土を不可侵とすること。それだけです」

「領土とは、現状の支配地域という事かな?」ダ・プーの頬が、少し緩む。

「この国では、訳も無く理不尽に踏み荒らした土地を、自らの領土と呼びません」

 イド・ルグスの冷たい視線に、彼がわざとらしく驚いた。

「おお、こりゃ済まんな。無知を詫びよう。この国ほどの伝統と薀蓄を持たぬ我らだが、数では君たちを上回ってるようだ。それも詫びよう」

 そう言ってダ・プーは、申し訳なさそうに首をすくめる。イド・ルグスが、答えた。

「……では、閣下はあくまで戦うというお積もりか?」

「確かにここは、君らの国だ。だが、戦には戦のしきたりがある。もしこの戦役を五分の分けとするなら、領土も現状で分けねばならん」

 ダ・プーの口元は笑い、その眼には余裕が漂っていた。しかし、イド・ルグスの表情に変化は無い。静かに告げた。

「……なるほど、デロイの正義がどういうものか、よく解りました。私は、閣下を含めて貴国の善良な民を救いに参りました。ですが、無駄足だったようです」

「ほう、それはどういう事かな?」

「そのような条件に、検討の余地はありません。閣下に講和のご意思がないのなら、例え何が起きようとも戦うのみ。では――」

 イド・ルグスが踵を返す。ダ・プーはそれを見ると、目で合図した。いつの間にか回りこんだラボアが、彼の行く手を遮った。後方で会談を見守っていたプロコとガフが、慌てて鞍に手を伸ばす。だがラボアは、一礼すると笑みを浮かべた。

「お待ちください、イド・ルグス殿。何か、誤解があったようですな?」

 さらに、イド・ルグスの後ろから声がかかる。

「おいおい、誰も講和しないなんて言ってないぞ? エキル人は気が短いな……」

 ダ・プーが振り向いたイド・ルグスを手で招きながら、にやりと笑った。

「だが、どうしても呑んで欲しい条件がひとつだけある。――お前なら、できる筈だ」



 この会談の後、第二軍団から幕僚ら数人がエスーサに送られた。そして、彼らは皇帝の名の記された、正式な国書を携えていた。使者たちは賓殿に通され、家宰はその文書を見るなり、すぐさま王の元に届けた。

「馬鹿な……。早すぎる」抜かりなく用意された同一の二便を前にし、ダナが呟く。

「講和については一時的な停戦の後と思っておりましたが、これは確かに講和の国書。彼らは、準備していたという事です……」

 文書には講和の条件と、デロイ帝国皇帝であるルグドネクシス三世の名が記されている。あとは署名し、一便を彼らに返すだけだった。条件は二つ。ひとつは、戦役以前の領土に対し、今後二十年間は相互に不可侵であること。もう一つには、こうあった。

『メディトリアは、友好の証として師士イド・ルグスを帝都デロイに遣わすこと』

 コノス語の文面を読む、ダナの表情が変わった。

「これは、つまり人質という事ではないか」

「使者が言うには、昨日の会談にて決まったとの事です」

「……どういうことだ! イド・ルグスをここに呼べ!」


 イド・ルグスはただ一騎、丘に立っていた。やりとげた、という感慨が彼の胸を満たしている。この日を、どれほど長く待ち望んでいただろうか。確かに、戦役そのものは短かった。だが、そのために何を費やし、そして何が失われたかを思えば、ためらいは微塵もない。彼が、川の向こうにある王都を見た。

(院の前で、亡き王にこの結末をご報告できなかった事だけが、心残りだ。だが、それは玉座と聖約を継がれる、若き陛下に託そう――)

 天が、淡い空色に輝いていた。しばらく佇み、イド・ルグスは王都に別れを告げた。



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