爆轟の戦士と神託の王女~メディトリア戦役物語~

重金やから

【第一章】カシアスの戦い


【序】


◇◆◇

 ――この歴史という記録の存在は、我々がただ時間というものを貪るだけの無力な生き物ではないか、という合理的な疑いをしばしば生じさせる。要するにそれは、世の人々を悩ます全ての問題が解決できるものとできないものに分類される以上、そこには時間以外の因子が存在しないという極論への収束である。

 だが、私はその考えが正しいのか知ってはいないし、仮に間違っているとしてそれが人間にとって幸福なのかも判らない。時間というものがこの世界にどう関係し、そしてどのような価値を持つのか、おそらく我々はまだよく理解していないのである。

(『大ガルバニア史』より)







【第一章】 カシアスの戦い


「まるで、蟲の大群だ――」誰かが、そう呟いた。

 森の前の小ぶりな丘の上からは、遥か先の平原を進む軍勢がはっきりと俯瞰できた。

 視線の彼方で、鋭くそびえ立つ槍が揺れている。半身を覆う甲冑は深く蒼ざめ、硬く焼き入れられた鉄が虹のように輝いていた。肩を並べて方陣を組み、一糸乱れぬ歩みを進める兵士たち。その列の一つひとつが、百足のように這っていた。手前には、円盾を持った歩兵の集団がいる。微かにざわめき密集するその姿は、孵化しようとする蟲の卵を思わせた。戦列の両端には、不定形に蠢く蟻が群がる。重装備の騎兵たちだった。

 デロイ帝国第一軍団。それが、この群れの名前だった。兵士の総勢は、歩兵が約四万五千、騎兵は約五千五百騎。さらに、数万人の非戦闘員が後方を随行する。

 そして、丘の上には赤い軍勢がいた。すでに森を背にした布陣を終えており、楯と鉾を構えて敵を待つ。自らを数で上回るデロイ帝国軍と、その足並みによって侵される故郷を目の当たりにする彼らの眼には、何の動揺も恐れもない。それどころか、彼らの具足と楯を彩る赤と同じく燃えるような好敵心が滲み出ていた。

 彼らの総勢は、歩兵が約二万五千、騎兵は約四千二百騎。非戦闘員はいない。いたとしても、すぐに武器を持って戦列に加わるだろう。

 ――メディトリア。それがこの戦士たちの住む国の名前であった。文字通りの総動員で集められた軍勢を率いるのは、統治者であるアルダネス王朝の師士イド・ルグス。すでに彼の下には王直属の精鋭集団『つわものの家』から選び抜いた騎兵五十騎と伝令たちが、役目を終えて集まっている。自軍の戦列の後方、丘の最も小高い場所に本陣を構える彼らは、イド・ルグスを先頭に馬上から戦場を見守っていた。

 厳しい眼差しを敵に浴びせつつ、彼がその瞳を鳶のようにぎらつかせた。飾り立てるようなものは一切身につけず、イド・ルグスの姿は周囲の中に埋没している。だが、よく見ると他の騎兵よりはるかに軽装であり、筋肉質なその体の輪郭にはやや獣じみた印象があった。彼の背後には副官が控え、さらに方陣の騎兵たちが隊伍を組む。

 不気味な静寂が、辺りを包んでいた。互いの軍勢はすでに対峙し、敵もその動きを止めていた。あとわずかで正午を迎える戦場に風はなく、馬たちが時折いななく以外なにも聞こえない。


「――おい、ルグス! いよいよ始まるな!」

 唐突に、呼びかけられた。声の主が、正面を見ていたイド・ルグスの横に駆け寄ってくる。ふうふうと息を荒げながら、汗だくの男が鞍の上を見上げた。身に帯びる具足は疵だらけの年季物、顔には額から側頭部までの大きな傷跡が刻まれており、左目はその傷の中で完全に塞がっている。

「これは、スタイン殿……!」丘の上の本陣に駆け込んできたのは、ファー・スタイン。『兵の家』の壱番隊を指揮する士隊長だった。

「まてまて、降りんでいいぞ。ふう――」その男は、馬から降りようとするイド・ルグスの右脚を片手で掴み、その手に体重を預けながらひと息ついた。

「し、士隊長殿! は……走ってこられたんで?」彼の背後から声をかけたのは、イド・ルグスの副官、ウル・メイノス。驚きを満面に浮かべつつも、優男風の端整な顔つきは崩れていない。跨った鞍の両脇には、奇妙な形状をした大ぶりの鼓がぶら下がっている。

「……ああ、馬に乗れんのだから、……走るしか、ないだろ?」まだ荒い息で答える。下を向いたまま何度も息を吐き、つばを飲み込む音が響くと、ようやく頭が上がった。

「仰って頂ければ、騎兵をお貸し致しましたものを……」

 戸惑った表情のイド・ルグスの前で、拳で汗を拭う男の眼光が鋭くなる。

「ふん。部下の前で、女みたいに抱きついて乗れるか。……で、敵の様子はどうだ?」

「概ね、予想通りかと。互いの歩兵の戦列の長さも、ほぼ同じです」

 男は背伸びをしつつ敵陣を窺い、白髪交じりの顎鬚をしごいた。

「ふむ。そういや、領家のお歴々はどこにいるんだ?」そう言って背後を見回すが、そこにいたウル・メイノスと兵士たちからは気まずい沈黙しか返ってこない。

「――お三方とも、カシアスにお戻りになりました」イド・ルグスが答える。

「なに? 自分たちの兵がこれから戦うのにか? 昨日はあれほど勇ましい事を言っておられたのに、今日はもうお帰りになられた、ってか!」

 大声でそう言い、お手上げだ、とばかりに両手が挙がる。背後の精鋭たちから、どっと笑い声が響いた。ひとりだけ、複雑な表情を浮かべていたイド・ルグスが言う。

「しかし、もし我々に何かあれば、陛下が頼れるのはあの方々だけなのです」

「……どうも、お前は力が入っていていかんな。こういう時は笑うんだ。笑え笑え! 力が抜けるぞ!」屈託の無い笑顔で脚を軽く叩かれ、イド・ルグスの頬もようやく緩む。

「師士殿! あっしらがいりゃあ、どんな戦だって負けやしませんぜ!」五十騎隊の従士、ガフが甲高く叫び、さらにその隣のプロコが濁声を張り上げる。「我らには、聖神が味方しておりますぞ! あの程度の敵軍、恐るるに足りません!」

 彼らに続き、兵たちが次々と勇ましい口上をわめき、緊迫していた本陣の空気が軽くなる。放たれる言葉を身体と視線で一つひとつ受け止めながら、イド・ルグスは思った。

(スタイン殿、わざわざ来られたのはこのためか。この方は何でも見ておられる……)

 今は師士として全軍を指揮する立場のイド・ルグスであったが、彼にとってこのファー・スタインという男は、過去に自分を伍番隊の士隊長に抜擢し、さらに現在まで協力を惜しまぬ恩人であった。また、従士全員が尊敬し、規範とする士隊長でもある。

「――敵が動くぞ!」副官ウル・メイノスの叫びが兵士たちの口上をかき消した。精鋭が素早く反応し、隊伍の構えを整える。その直後、彼方の軍勢から号令が微かに聞こえ、動きが慌ただしくなるのが見えた。

「戦列を組み変える気だな。お前の予想通りだ……」手の平のひさしを額にあて、残った右眼を細めたスタインが言う。やがて、視線の先の戦列が動きだした。

 デロイ軍の歩兵戦列で長槍冑兵の方陣が組みなおされる。縦深が二十列だったものが一五列に。その結果、横幅は広くなり敵を包囲する事になる。だが、同時にメディトリア軍も動いていた。この動きはすでに指示してあったため、伝令を走らせる必要はなかった。両軍は、ほぼ同時に動きを止める。そして戦列の長さも――ほぼ同じであった。戦場に重い沈黙が流れる。

 イド・ルグスたちが険しい眼差しで敵陣の一挙手一投足を見守る中、スタインだけがにやついていた。だが、彼方の軍勢は凍てついたように動かず、このまま両軍は永久に対峙するかのように思えた。

「ははっ! 奴ら、困ってやがる。あの位置からは、こちらの厚みが限界に近いことは見えまい。さて、どうなるか……?」スタインは期待に弾んだ声でそう言うと、イド・ルグスの鞍を楽しげに叩き、物見遊山の風で敵陣を見やる。だが、イド・ルグスだけが窺えるその隻眼は、全く笑ってはいなかった。

 こういった戦場において、数に勝る側の軍勢は横へ横へと伸びてゆく事で敵を包囲し、優位に立つことができる。対する側の軍勢も、同様に自陣を伸ばせばこれに対抗できるが、その場合薄くなった戦列を敵に突破される可能性があった。とはいえ、包囲する側にも同様の危険が少なからずあり、この駆け引きに挑むのは誰にとっても危険な賭けである。

 緊迫した空気の中、時間だけが過ぎてゆく。デロイ軍が、何の予兆も無く動いた。長槍冑兵の先頭から五列が上げていた槍をおろす。水平に構えられた槍がしなった。大兵長たちの号令で前進が始まり、同時に投擲徒兵が駆け足でメディトリア軍に接近する。

「よしッ、来やがった! おっぱじめようぜ!」叫びつつ目の前の鞍を拳でぶっ叩くと、スタインは腰布を捲り上げ、留守にしている自分の隊へ疾風のように走り去ってゆく。敵の軍勢が左右の騎兵を前進させたのを見て、イド・ルグスが片手を挙げた。副官メイノスも素早く短棍を構える。

「左翼の王遼騎兵、右翼のバルバル騎兵、共に前進!」これまでに感じたことのない興奮が湧き上がり、イド・ルグスの固い拳の中は汗ばんでいた。腕を振り命を下すが、その手先が少し震える。メイノスは鞍に括りつけた鼓を正確に打ちながら、彼の腕が笑っているのを見て、さらに力強く短棍を振るった。

「――敵も、おれたちが怖いらしいな」鼓を打ち終えたメイノスが、口角を上げる。「これで、最初っから包囲されちまう形にはならねえ。奴ら、頭数は多いがの方は意外とお粗末なんじゃねえか……?」

 だが、そうほくそえむメイノスも緊張の色は隠せない。もし敵がこれ以上戦列を広げるなら、イド・ルグスは自軍の歩兵戦列の両端を斜めにし、前に凸の半月形の布陣へ変更する予定だった。数の上で劣勢となる味方戦列の厚みは限界で、これ以上横に広がることはできない。だが、それはデロイ側に悟られてはおらず、敵に包囲されるこの布陣を選ぶ必要はすでに無かった。イド・ルグスたちは帝国軍の行動傾向を念入りに分析しており、これらの幸運は単なる偶然以上のものといえる。

「……神々が見ておられる。いざとなれば、あれを使う事も必要だろう」イド・ルグスの視線が本陣の後方に用意された兵器に注がれ、メイノスもまた迷いのない表情で頷く。

 その時、メディトリア軍両翼の騎兵が動き出した。この瞬間、メディトリア軍とデロイ第一軍団の会戦の火蓋が切られた――。


◇◆◇

 こうして、デロイ軍とメディトリア軍の戦闘が始まった。この会戦はカシアスの戦いと呼ばれ、メディトリア戦役において両軍の主力が初めて衝突した戦闘である。デロイ側の軍勢は、数においても質においてもメディトリア軍に優っていた。向かい合って間もなく、デロイ軍は正面から敵軍へと襲いかかった。メディトリア軍もまた、背後に森を抱えた丘の上でそれを迎え撃った。

 両軍の歩兵たちは、まずは互いに飛び道具で戦った。デロイ軍は投げ槍を用い、メディトリア軍は弓を用いた。それと同時に双方の騎兵部隊すべてが前進を始め、正面に見える敵の騎兵へと接近していった。

 だが、デロイ軍の左翼側では騎兵同士の戦闘は行われなかった。これは、メディトリア側の騎兵が戦わずして逃走したのを見て、彼らを追うデロイ側の騎兵もまた戦場を離脱したためである。

(大ガルバニア史より)




「バルバル騎兵、敵の騎兵に追われて南に離脱しました!」右翼の戦いを見守っていた伝令の一騎が戻ってくると、本陣のイド・ルグスの前で声を張り上げた。

「――よし!」弾けるようにそう言い、イド・ルグスは彼を下がらせる。

 イド・ルグスと副官メイノスは、無言で戦場を見つめていた。まだ中央の歩兵は敵と接触していないが、問題は騎兵の動きであった。言葉を交わさずとも、ふたりの考える事は同じだった。

 味方である右翼のバルバル騎兵は、デロイ軍の貴臣騎兵を引き連れて戦場を脱し、その任務を果たした。あとは、左翼にいる王僚騎兵たちが敵を打ち破れば――。

 彼らの戦術は、単純である。歩兵同士の戦闘でこちらが負けるより先に、騎兵同士の戦闘で優位に立って何としても互角へ持ち込む、という事だった。数の上ではデロイ軍が優勢であるが、その機動力を封じてしまえば、傾きかけた勝負の天秤が狂うことも充分にありえる。

 ふたりの視線の先で、味方の王遼騎兵とデロイ側のディネリア騎兵が、互いの距離を縮めていた。数の上で、敵はわずかに優勢であった。イド・ルグスの仕える王家と同格の領地を持ち、王と共にメディトリアを統治する三つの領家は、その家士や従士の一部を優秀な騎兵として擁している。王遼騎兵として召集された彼らの装備は兵士個々で違うが、その多くは胸甲と鎖帷子を身に付け、盾と槍を持つ重装備であった。盾を胸に構え、鞍に腰をすえ、馬を馳足で駆けさせ前進する。

 王遼騎兵たちが、ようやく敵の異様な姿に気づく。彼らが手に持つ戦斧や長剣は巨大で、兜と腰巻と長靴の他は黒塗りの裸体である。だが、怯まなかった。盾を手綱と共に固く握り締め、構えた槍を胴に引き付けて固定させる。

「絶対に後退するな! 我らの誇りのために! 我々こそが勝利の鍵なのだ!」

 王遼騎兵の統長が叫んだ。彼らの目前に敵が迫っていた。


 そして、戦場の中央ではデロイ軍の長槍冑兵たちが前進し、メディトリア軍の戦鉾楯兵の列に迫っていた。その前進は決して速くはないが、機械のように正確だった。

 長槍冑兵の槍が敵の最前列にまで迫ると、一斉に引かれた。槍が同時に楯を突き、大きく揺れる。そして次の瞬間、メディトリア軍の先頭の兵士たちも戦鉾を振り上げ、敵の槍に叩きつけた。


◇◆◇

 デロイ軍の長槍冑兵とは、八マテロ(約四メートル)近い長槍を手に持ち、鉄片を鋲で繋ぎ合わせた甲冑と、眉庇付きの兜で武装した重装甲の歩兵である。集団としての圧力を高めるため密集して方陣を構成し、長大な槍で敵を圧倒する彼らはデロイ帝国軍の中核であった。

 対するメディトリア軍の戦鉾楯兵は、軽い具足に身を包み、木製の長楯と戦鉾を持った勇敢な戦士である。戦鉾は肉包丁のような本体と鉤状の鉄棘を組み合わせた武器で、柄の長さは五マテロ(約二メートル強)。楯を並べて列を組み、重い戦鉾で敵を叩き切るのが彼らの戦法だった。


 両軍の歩兵たちは、互いの武器を交わらせて激しくせめぎ合った。敵味方の穂先が競り合い、至る所で火くずが飛び散るさまは、まるで鍛冶場の様であったという。さらに、デロイ軍の右翼では騎兵同士の戦闘がすでに始まっていたため、戦場の喧騒は凄まじいものであった。

(大ガルバニア史より)




「――何だと! もう一度言え!」副官メイノスが苛立っていた。

「相当の乱戦が行われている模様です! 味方が退く様子はありません!」

 伝令とメイノスのやり取りを聞きながら、イド・ルグスは濛々たる土煙の中に視線を向ける。この夏の乾燥が、予想外の事態を引き起こしていた。左翼の王遼騎兵と敵のディネリア騎兵は正面から激突していたが、その後の様子は狂乱する馬群が巻き上げた砂塵によって完全に遮られていた。

 左翼の王遼騎兵へ、後退を命じる伝令が放たれる。

「くそっ! あいつら、どういうつもりだ……? なぜ後退しない!」メイノスが喚いた。

「後退するつもりなど無い、そういう事か……」煙幕の向こうに見え隠れする影を見極めんとしながら、イド・ルグスが呆然と呟く。

「何でだよ! 作戦通り後ろに戻りゃあ、味方の弓の援護が受けられるってのに……!」

「……だが、その味方とは山を住処とし、獣を狩る下賤の猟師たちだ。彼らには、生まれながらの士分としての誇りがある」

「だが、奴らの条件は呑んでやったんだろ! 違うか?」

「そもそも、私に従おうなどと考えていなかったのかもしれん……。我ら王家の騎兵を受け入れず、領家の騎兵のみでの編制を主張したのは、そのためか」

「そんな馬鹿な――」

「敵に一度当たって退くことは容易ではないが、彼らも間違いなく精兵なのだ。戦力も互角に近いこの状況で、考えられるのはただ一つ」

「……つまり、味方に騙されたのかよ。くそっ、歩兵たちは頑張ってるってのに!」

「このままでは、中央の戦列もいずれ押し切られる……」

「ちくしょう! おれが行って奴らの尻ぶっとばしてやる!」

「――ウル、その必要はなさそうだ」

 彼らの見つめる土埃の彼方から、槍を持った騎兵が姿を現した。一騎、二騎と戦場の後方へ力なく駆ける彼らは明らかに無秩序で、とにかく敵から遠ざかろうとしてる。彼らがその数を次第に増すのを見ながら、イド・ルグスはこぶしを硬く握りしめ己の失策を悟った。王遼騎兵たちが打ち破られたのだ。あの砂塵の中の大乱戦が、やがてディネリア騎兵の勝利に終わることは、もはや確実なことに思えた。

 イド・ルグスは馬を降り、黙ったまま先王ボルボアンから授かった腰の剣を外す。白い鞘に包まれたこの剣は師士の証でもあった。彼の前に、副官メイノスがすでに跪いていた。

「ウル・メイノス、君に指揮を任せる――」

 イド・ルグスの差し出した剣を、メイノスは両手で受け取る。

「……おれは、お前を信じてるぜ。必ず戻ってこい」

 そう言って、メイノスが自分の剣を差し出す。イド・ルグスはそれを受け取ると同時に馬に乗った。手綱の感触を確かめるように握り締め、馬を進める。

「五十騎隊! 鉾を置き、抱鉄を持て。急げ!」

 イド・ルグスの命令で、本陣の背後に並んだ球形の兵器が騎上の精鋭たちに配られる。その兵器は人の頭ほどの大きさの丸い鉄塊で、持ち手となる麻縄が両極に結ばれていた。下馬した伝令たちが担ぎ上げるその兵器を次々と受け取り、騎兵たちはその肩にずっしりとした麻縄の感触を確かめる。

「これまでさんざん鉾を振ってきて、最後に頼るのは結局これか……」伝令からそれを受け取った従士のガフが、珍しく愚痴を言う。次に抱鉄を受け取ったのはプロコだった。「……でもよ、こいつを生きた人間に使ったらとんでもねえ事になるぜ」

 最後に受け取ったイド・ルグスが隊伍の先頭に戻る頃、五十騎隊はすでに戦闘隊形で整列していた。後に残るのは、地面に突きたてられた五十本と一本の戦鉾。

「目標は敵右翼の騎兵!」イド・ルグスが剣で指し示す先の砂塵からは、すでに味方の騎兵たちが堰を切ったように敗走を始めていた。

「私の後を追い、私の合図に従え!」そう言うと同時に、彼は駆け出していた。


◇◆◇

 メディトリア軍の騎兵は劣勢の中で勇敢に戦ったものの、やがて散りぢりになって敗走した。だが、別の騎兵が数十騎ほどやってきて、無謀にもデロイ軍の騎兵の前に立ちはだかった。

(大ガルバニア史より)




 ディネリア騎兵の大群を視界に捉え、イド・ルグスが仲間たちに腕で合図した。その背後に、横一列の横隊が展開される。

 迫りくるディネリア騎兵たちは先ほどの激戦によって消耗し、疲労していた。だが、それほどの犠牲に見合う標的、つまり敵戦列の無防備な側面が彼らの目前に見えていた。

 大と小、二つの軍勢が迫る。先頭のイド・ルグスが手綱から手を離し両手で麻縄を持った。足だけで巧みに操る馬の上で、縄を右手に絡めて叫ぶ。

「構え!」

 正面に、先頭の敵戦士が見えていた。すでに距離は近い。獣じみた男の黒塗りの身体に、斃した敵の血糊がおぞましい斑を描いていた。戦斧を頭上に突き上げ、兜から放たれる狂気の視線がこちらを向く。

 先頭のふたりの眼が合った。

「点火!」

 左手で点火帯が引き抜かれた。帯の抜けた孔から火花が噴き出し、やがて中へ吸い込まれる。敵の戦士が顔に驚きの色を浮かべ、初めて人間らしい表情を見せた、その時。

「放て!」

 鉄の塊を右手で振る。弧を描き、投擲された。ふわりと虚空を飛ぶそれは、乾いた大地に愛馬の蹄が食い込んだ瞬間、急速に遠ざかってゆく。そして、五十一騎が完全に馬首を反転させた時、その抱鉄は彼らの背後で二度目の跳躍を終えていた。

 見事に動きの調った五十一の鉄塊は、さらに数度ほど跳ねるとやがて勢いを失い、不揃いに転がり始める。戸惑い、馬を止めようとするディネリア騎兵の足元を回転する塊が過ぎてゆく。

 次の瞬間、閃光が拡がった。衝撃が身体を突き抜ける。二度、三度。腹の底が震えた。爆音、爆音、爆音。数を増す轟きは、もう数え切れない。もう何も聞こえない。限度を知らぬ衝撃が暴れまわった――。


 耳が鳴っている。地面が静かだった。イド・ルグスはむくりと起き、辺りを見やった。両目を手で塞がれた馬が、隊の従士と共に横たわっていた。味方は自分を含め、全員がその姿勢だった。隊に異状が無いことを確認すると、後方に目を移す。

 倒れていた。脚、腕、おそらく胴体。それが人のものか、馬のものかだけは区別できた。飛び散っているのは、臓物あるいは脳漿か肉片。だがそれらの断片が、落ちていない場所があった。えぐられた、五十一の窪みとその周辺。そして、その先には馬から落ち、倒れ、ひざまずき、立ち尽くす大勢の戦士たちがいた。怯えて這いつくばる者、自分の馬を探す者、破片を身体に受け血を流す者、ただ震える者。

 戦場の時が止まっていた。全軍の戦列で歩兵たちが、激戦の構えのまま呆然としている。だが、その中で立ち上がり、弓を引くものがいた。メディトリア軍左翼の狩弓猟兵。そして、ディネリア騎兵へ矢が放たれた。

 風切り音が鳴り響き、戦士の体に、馬の横っ腹に次々と突き立った。驚き、動揺する彼らの視線の先で、狩弓猟兵たちが次の矢をつがえる。近距離の、そして停止している的への狙いすました一斉射撃。激しい弓勢が彼らに降り注ぐ。

 次々と倒れる馬が彼らの進路も退路も断ってゆく。馬に飛び乗り、矢を避けようと無秩序に駆け出す彼らは互いに衝突し、さらに混乱に拍車がかかった。完全に動転したディネリア騎兵は死に物狂いの脱出を試みる。もはや、敵も味方もない。邪魔する者は突き倒し、押し倒し、そして自らが撥ね倒される。冷静に猟兵へ向かって駆け出す者もいたが、散発的な突撃は正確な狙撃によって阻止される。

 この混乱から脱出し、逃れることができたのは半数にも満たなかった。もはや彼らに戦意は無く、たった五十騎の熾烈な追撃を受けて戦場から駆逐されるだろう。


◇◆◇

 メディトリア軍は、この少数の騎兵たちに我らが火薬兵器として知る武器を持たせており、それが用いられると戦場は大混乱に陥った。少なくとも私の知る限り、これ以前にそういった兵器が用いられた例はないと思われる。デロイ軍の騎兵は大きな損害を蒙り、恐慌状態となって敗走した。

(大ガルバニア史より)




「士長殿! あれは、あの兵器は、一体何なのですか!」

 本陣で、右へ左へ馬首を廻らしながら伝令の一騎がメイノスに叫んだ。どうやっても、馬が落ち着こうとしない。怯えた馬が駆け出さないよう、懸命に捌く。彼以外の伝令たちも、手綱を引いて馬をなだめるのに精一杯だった。

 だがメイノスはそれを無視し、鼓を打つのに専念した。浮き足立った味方の戦鉾楯兵へ前進の合図を送り続ける。体の芯にまで届く独特の高音が、途切れることなく空へ響いた。『兵の家』の従士たちは即座にそれに従ったが、領家の兵たちの反応は鈍い。閃光と轟音で途切れた彼らの注意を、鼓の音で引きつける。規則正しく打ち鳴らされるメイノスの信号が、メディトリア軍本陣の冷静さを雄弁に伝えていた。

 やがて、それぞれの隊の長たちが指揮を再開すると、メディトリア軍は動揺の収まらぬデロイ軍をじりじりと押し返す。左右から圧迫されていた戦列を五分に戻した所で、再び戦況が拮抗した。

 メイノスたちのいる本陣も、ようやく落ち着きを取り戻していた。短棍を鞍に収めたメイノスが、滴る汗を拭って言った。

「……あの兵器は、ボルボアン様からお預かりしたものだ」

「王が……! ということは、まさか、神託が下っておったのですか!」

「ああ、生きておられた時にな……」

 メディトリアの統治者であるボルボアン王は、この会戦の直前に死亡していた。数名の供と戦場の下見を行っていたところを、デロイ軍の斥候たちに射られたとされている。

「しかし……。我々に、何故それは明かされなかったのですか……?」

「おれも、その辺りの事情は知らんのだ。この事について知るのは、ごく限られた者にしか過ぎん……」

「そうなのですか……。気づいた時には、敵の数百騎が消し飛んでおりました」

 王より密かに神託を伝えられた王家の学師は、イド・ルグスらと協力して兵器を開発した。しかし、王の不慮の死によって、その存在を公にできる者はいなくなっていた。この混乱を引き継いだのは、領家の当主たちである。だが、彼らは部隊の編制に口を出した後、王家の師士、つまりイド・ルグスに全てを託し、早々に姿を消していた。師士とは、王に代わって国軍を指揮する事を許された者である。結果的に、神託の存在が明かされる前に兵器が使用される形となったが、現状はメディトリア軍の有利に働いている様であった。

「……しかし、このままでは負ける――」

 メイノスは、激戦を続ける赤い戦士たちを見た。徐々に、押されている。いくら士気が高いといえ、それだけで勝てるような戦力差ではなかった。後方の民兵隊もすでに投入され、本陣から指揮できることはもうない。

(くそっ、どうすりゃいいんだ……)

 彼の眼が、イド・ルグスを探していた。

「メイノス様! 師士殿が森に!」

 伝令のひとりが、後方のたった一騎に気づいて叫んだ。

「な……! 何だと!」

 慌てて振り返ったメイノスが、彼の指差す先を見る。確かに、見慣れた一騎がその方向におり、すぐに森へ消えた。その場所と戦場を、メイノスが何度も視線を往復させる。

 そして最後に森の方を見た彼が、眼を伏せた。

(ああ、そうだ。イド、お前は正しい)

 その身体に、血が逆流するのを感じていた。

「――二騎で追え!」下を向いたまま、メイノスが命じた。伝令たちが戸惑う。

「しかし、味方を見捨てる訳には……」

「てめえら、なに寝ぼけてやがる! さっさと追えッ!」

 その剣幕に、二騎が慌てて手綱を取る。彼らが駆けて行くのを感じながら、メイノスは腰の剣を左手で握っていた。そして、祈った。

(頼む、間に合ってくれ……)

 やがて、イド・ルグスを追う二騎が森に消えた――。


      †      †


 一騎の騎兵が、森の中を逃げていた。手綱を持つ左手は肩から震え、背を丸めて馬を進める。若い兵士だった。痛々しい姿であったが、深手を負ってはいない。その右手は、胸の前で槍と盾を固く握り締めている。敗走する王遼騎兵の最後尾に、彼はいた。

 後ろを見た。誰もいなかった。敵がいない事を確認すると、ようやく落ち着いた。しかし、心の中は徐々に罪悪感で満たされてゆく。今、こうやって馬をとぼとぼ進ませるこの瞬間にも、戦場では味方たちが戦っている。だが、自分だけが戻って何になる? 生き残った仲間は皆、森の向こうに逃げたのだ。目の前の森の奥に――。


 ――微かに声が聞こえた。その森から。数を数えている? いや、これは点呼だ。無意識に馬を急がせる。木々がまばらになり、辺りが段々と広くなる。

 森が一気に開けた。そして、大勢の騎兵がそこにいた。手前の何人かが彼に気づき、腕を振って招く。だが、鋭い視線に射すくめられ、彼は馬を停めた。

 この集団の向こう側で、こちらを向いているたった一騎がいた。味方たちは、その男の前に集まり隊伍を組んでいる。二人の従士が、兵士を選り分けていた。元気な者は隊長に、戦える者は隊士に。戦えない者は一箇所に集められ、手当てを受けていた。

 しばらく呆然とし、やがて兵士は盾と槍をしっかりと構える。まだ、終わってない。彼は、そう自分に言い聞かせると、馬を前に進めた。


      †      †


 戦場では死闘が続いていた。歩兵たちの戦列では、両軍の兵士が互いを正面に捉えながら、一進一退の攻防が続いていた。メディトリア軍は劣勢であったが、戦列の両端には精鋭である『兵の家』の従士が配置され、その巧みな進退で敵を翻弄する。彼らの間にいる領家の歩兵、そして民兵隊も勇敢に戦った。

 デロイ軍の長槍冑兵が、分厚い戦列の後方から兵士を次々に繰り出す。メディトリア軍も死戦するが、人数が少ない分不利であった。

 メディトリア軍本陣には、すでにメイノス以下数騎が残るだけである。彼らにできるのは、ただ戦場を見守る事でしかない。味方の戦列の後方は、悲惨な状態だった。ねっとりとした血糊に塗れ、大勢の重傷者が呻いていた。薬師たちも増え続ける彼らに、成す術がなかった。弱々しい声で家族の名前を呼ぶ者、仲間が事切れるのを看取る者、這いつくばりながら戦列に戻る者。彼らを救うものは、誰もいない。

 ウル・メイノスは、馬上からその惨状を見ていた。そして、泣いていた。彼は本陣の先頭に居ながら、女々しく涙を流すことしか出来なかった。それが、悲しかった。十五の時から技を鍛え、鉾を持てば敵の百や二百は討ってやると誓っていた。だが――。

(くそっ……! くそっ、くそっ! 何もかも、無駄だったのかよ……)

 メイノスの脳裏に、これまでの情景がよぎる。メディトリアへのデロイ帝国の侵攻については、先王ボルボアンが即位する以前から予想されていた事だった。気が遠くなるほどの永い時代を、この国は孤立という正義を貫いていた。その眼前で帝国は二百年もの間、武力による膨張を続けていたのである。ボルボアン王に従い、王家も領家も危機に対応するため、約二十年の時を費やしていた。様々な事が試され、それらが整ってきたのはここ数年といった所であろうか。その過程で軋轢もあったが、故郷のために命を投げ出す覚悟を持つ者が、この戦場に集結したのだ。勝機は、充分にある。そう思っていた。

(このままやられちまうのか、おれたちは……!)

 メイノスは、その涙を止められない。彼でなくとも、メディトリアに生まれた者なら必ず涙を流したはずであった。彼らの正義が、今まさに蹂躙されようとしている。メイノスにとってデロイ帝国とは、あらゆる事が悪行で成り立っているかのような存在であった。だが、全てを支配するのは目前の現実であり、彼らの未来は風前の灯といえた。

 デロイ帝国は、豊かな国土を背景に覇権を唱え、欲望に従って生きる者たちである。人がどれだけ死のうとも、彼らの問題は勝敗だけだ。だからこそ、勝てる戦を計算できる。死にゆく仲間を見て、涙を流す。武器を手にして、勇を誓う。そんな者たちに、本当に勝算などあったのか。

(……甘かった。敵は、おれたちの心の中にもいた。だが、負ける訳がねえ。そんな道理が、あってたまるかよ。ちくしょう!)

 敵軍の動きはすべて予想した通りで、戦況の推移にも問題はなかった。左翼の王遼騎兵が打ち破られるまでは。確かに、あの兵器によりメディトリア軍は危機を逃れていた。敵の騎兵に側面を襲われていれば、すでに潰走していただろう。だが、それも味方の苦しみをいたずらに引き伸ばすだけだった。

「メイノス様……! 南に何かが見えます!」傍らの伝令が、右前方を指して告げる。

 密かに涙を拭い、そちらを見る。目を凝らす必要もなく、それが敵の貴臣騎兵であると判った。メイノスの背後に居並ぶ伝令たちもそれに気づき、言葉を失った。

「くそ、来やがった……」メイノスが、血を吐くように呟く。

 その騎兵たちは、戦場を離れた時より明らかにその数を減らしていた。彼らと戦ったバルバル騎兵が、追いつ追われつの騎馬戦で後れを取るとは思えない。貴臣騎兵たちは、おそらくその兵力の何割かを死兵として残し、戦場に戻ってきたのだ。そして、その判断は正しかった。彼方から聞こえる蹄音が、次第に大きくなる。

 降伏。メイノスの頭に、その言葉が浮かんだ。だが、従う者はいないだろう。そしてメイノスもまた、彼らを白鞘の剣で斬ることはできなかった。

(こんな事って、ねえぜ……。これで、終わりなのかよ……)

 馬群の迫る音が、聞こえていた。だが、何かがおかしい。おかしいのは、音の聞こえる方向だ。それが聞こえてくるのは――。

 メイノスが、背後の森へ振り向く。木々の葉が震えている。視線の先で、夏に向けて青々と茂ったそれがざわめき、そして森の出口に向かっていた。得体の知れない獣の群れが、囚われの森から出ようとしている。動転した頭が戦慄を覚えた、次の瞬間。

 黒い影が森を突き抜けた。馬群の先頭はイド・ルグス。止めどなく湧き出る列は千騎をはるかに超え、森を出るとさらに加速する。戦列の後方にいた従士の一人が、その騎兵の集団を目にした。周りにいる者も次々に振り向く。しばしの沈黙の後、弾けるような歓声が上がり始める。

 猟兵が、左翼を通過する王遼騎兵たちを指差す。歓声が一段と大きくなった。今まさに敵と鉾を交える戦士たちも、この声と蹄の音が何を意味するのか解らぬ者はいなかった。馬群は、さらに敵陣の背後に廻り込んだ。


「師士殿……! 師士殿! 止まって下さい!」

 イド・ルグスの傍にいた数騎が叫んでいた。このままデロイ軍の背後に突撃すれば、戦況を逆転できるかもしれない。しかし彼の視線だけは、そちらに向けられていなかった。止まる気配もない。その数騎は彼の見る方向に目をやると、やがて沈黙した。

 イド・ルグスの眼が、先ほどから次第に近くなりつつある軍勢を観察していた。

(数は、千騎以上。やはり貴臣騎兵か。速度はさほどでもない。奴らも随分な遅刻で急いでいるだろうに。バルバル族たちに手を焼き、兵を分けたな。無理もない。千二百、千四百、千六百、いや千五百程度か。相手として、不足はない)

 背後の騎兵たちが、イド・ルグスに準備を促される。兵力としては、ほぼ互角。帷子、胸甲、兜。装備の具合を確かめ、槍と盾を構える。もう敵の騎兵は遠くなかった。王遼騎兵たちが徐々に加速する。

 互いの軍勢が、加速しながら横隊に展開した。距離が縮まる。速度は王遼騎兵が勝っていた。そして、互いに全く速度を落とさず、そのまま激突した――。

 槍が、盾が、冑が、馬が、人が、武器となった。質量と速度のもたらす衝撃と破壊。その凄まじさに大気が歪んだ。馬が倒れ、人が落ちた。何が起きたか理解する前に絶命する。残りの者も己がどう生き残ったか解らぬまま、目前の敵との白兵戦に突入した。

 槍で突き、剣で叩き切り、盾で殴る。正面から、横から、背後から。誰かが誰かを殺し、誰かが誰かに殺された。斃した者も、斃された者も、覚えているのは相手が敵であることだけだ。自分が死ぬ以外終わりの無い殺戮。現実感が急速に蝕まれ、失われてゆく。そして、湧き上がる不安と恐怖、あるいは狂気が、空っぽになったその場所を埋めた。

 先に限界が来たのは貴臣騎兵だった。自分が逃げていると認識しないまま敵に背を向ける。これまで戦ったことも、いま逃走していることも、すべては生きるためだ。何の矛盾も無い。やがて、そう考えぬ者は全て死に絶え――彼らは敗走した。


◇◆◇

 戦場を離脱していたデロイ側の騎兵が戻ってきた時、両軍の死闘はまだ続いていた。森に逃げた味方の騎兵たちを呼び集め、メディトリア側はこの敵を迎え撃った。ここで行われた騎兵同士の戦いが、今回の会戦においてもっとも激しい戦闘であったといわれている。

(大ガルバニア史より)




 イド・ルグスは、負傷していた。胸甲を突き抜けた槍の穂先が、包帯の巻かれた肩に残っていた。激戦の後に負傷者の手当てが行われ、師士である彼は先頭に戻ろうとする。だが、集合を命じられた王遼騎兵たちがその行く手を阻む。血の気を失ったイド・ルグスは、馬に乗るだけで精一杯だった。

 彼に従う全ての騎兵たちが、無言で命令を促す。ようやく状況を悟ったイド・ルグスはしばしの沈黙の後、静かに剣を抜いた。

「全隊に命じる。これが最後の命令だ……」

 ――号令の後、彼らは敵の背後へ壮絶な突撃を開始した。


 デロイ軍の戦列は、後方から王遼騎兵の襲撃を受け、次第に混乱の度合いを増していった。戦列の後方を守る投擲徒兵は騎兵たちの突撃に次々と斃れ、長槍冑兵の背後に追い詰められる。兵長たちが徒兵に前進を命じるが、悲鳴と叫び声にかき消された。

 そして、戦場を遠く離れていたバルバル騎兵が、ついに戻ってくる。これが止めとなった。彼らが攻撃に加わった後、デロイ軍は完全に包囲される。正面は戦鉾楯兵、側面は狩弓猟兵、後方は王遼騎兵とバルバル騎兵。その合間から、民兵が攻撃を加えていた。

 この絶望的状況においても、デロイ軍は勇敢に戦っていた。最後まで号令は絶えず、包囲網の薄い箇所から逃げ出す事もせず、槍を全方位に構え針鼠の陣で対抗する。だが、メディトリア軍の包囲が、デロイ軍の戦意より兵士の命より先に、ついにその空間において終末をもたらした。

 長槍冑兵たちが天にその存在を示すように立てていた槍が、次々と倒れる。やってきたのは、空間的死だった。彼らは、戦うために最低限必要な場所すら奪われた。やがて総崩れとなった彼らは武器を捨て、蜘蛛の子が逃げ散るように潰走する。大混乱となった戦場に、悲鳴だけがいつまでも響いていた――。


◇◆◇

 そして、デロイ軍はメディトリア側の歩兵と騎兵に包囲される結果となり、無残にも敗れた。デロイ側は、兵士五人に対し四人が死んだといわれ、この帝国の戦史においてこれほどの犠牲を生じた戦闘は他にないだろう。

(大ガルバニア史より)




 後にカシアスの戦いとよばれる会戦が、ついに終わった。

 メディトリア軍の本陣で、ふたりの男がその光景を目にしていた。だが、そのひとりは楯で組まれた担架に横たわる。傍らに跪く男が言った。

「……イド、やっと戻ってきたな。こいつはしばらく預かってるぜ。ゆっくり休め」

 メイノスが白鞘の剣を見せた。頷いて目を閉じたイド・ルグスが、言った。

「ウル……味方は、どれほど死んだ……? 負傷者も、早く運んでやらないと……」

「辺りは敵の屍体だらけで、判らん。お前は、そんな心配しなくていいんだ」

「……なぜ、降伏させなかった?」

「あっという間に、敵が崩れちまった。逃げるんだから、討つしかないだろ?」

「だが、彼らを滅ぼしてはならぬ……。そんな非道をしては、亡き王に申し訳が立たん」

 敵を滅ぼす事、それはこのメディトリアにおいて悪とされていた。彼らが、デロイ帝国を侵略者というだけでなく精神的な面でも憎むのは、こういった倫理観が背景にある。とはいえ、その事は死闘の代償として、彼らからも忘れ去られていた様だった。

「残りの敵は、逃がしてやれ……。輪神が、我らのことを見ておられる」

「もう、誰もいないぜ」

「そうか……」

「味方も、寂しくなっちまった。お前がいなきゃ、殲滅されてたのは恐らくおれたちだったろうな……」メイノスが戦場を隅々まで見渡し、しみじみと言った。

「俺は、王に与えられた役割を果たしたに過ぎん。敵を退けたのは、王家の聖約だ……」

 聖約とは、このメディトリアを統治する王朝の始祖であるマハ・アルダネスが、輪神と取り交わしたとされる誓いであった。メディトリアには、数百を超える聖神、つまり神がいるとされる。これらの神々は様々な関係でつながっており、その全てを称して輪神という。メディトリアの人々はこの聖約を遵守する事により、彼らの加護を得られると考えていたのである。

「イド……。だが、お前のあの働きがなければ、確実にやられてた。そうだろ?」

「しかし、兵器が無ければそれ以前に決着がついていたのだ……。ウル、お前まさか、聖神を疑っているのか?」

「そうは言ってねえ……。でもよ、だったら何でボルボアン様は死んじまったんだ? どうして、こんな時にいなくなっちまったんだよ……」彼の頬が、震えていた。

 イド・ルグスは雲のない空を見上げ、言った。

「ウル……。神託といえど、楯のように禍を防ぐことは出来ない。それはあくまで、鉾のように働くのだ。禍を打ち砕くのは、我々の役目になる。お前も、あの兵器の凄まじい威力は見ただろう。輪神の力に疑念を抱くなど、愚かな事だ……」

 口を閉じ、イド・ルグスは天を仰ぐ。彼は、信じていた。王の死によって味方の誰もが動揺していたが、聖神に運命を預けることで彼らは冷静でいられた。だからこそ、結束を乱すことなく決戦に臨めたのである。その過程で若干の行き違いはあったが、彼らは戦い抜いた。神託そのものとは別に、彼らの信仰もこの勝利に大きく貢献したのである。

「だけどよ、こんな崖っぷちはもう勘弁だぜ……。いちどは、魂が抜けちまったよ」

「責任は、この俺にある。……師士の任が、俺には重すぎた」

「だが、お前は勝ったんだ。それを言ったら、おれたちの立場がない。特に、士隊長の連中はな。スタインは別としても、シュマロたちは面目が立たねえだろうなあ……」

「……まさか、近くにいないだろうな」

「なんだよ、びびってんのか。もっとでかい面したって、いいんだぜ?」

「ウル。あれこれ言われるのは、俺なんだ――」

「――おい!」言葉をさえぎり、メイノスが二人の従士を呼んだ。「師士殿を、カシアスまで運んでさしあげろ。救国の英雄だ、丁重にな」

 持ち上げられ、イド・ルグスが諦めたように顔を横たえた。周囲を見回し、メイノスが彼に声をかける。

「辺りは、おれたちの隊だけだ。当分、負傷者の収容は終わりそうに無いな……」


 運ばれる楯を、白鞘の剣を持つ男がいつまでも見送っていた。戦場に、昼下がりの風が流れている。だが、彼に届くそよ風は、早くも死臭を孕み始めていた。


◇◆◇

 この敗北はデロイ軍に甚大な被害をもたらしたが、メディトリア側の犠牲については記録されていない。ゆえに、カシアスの戦いにおける真の勝者を、我々が正確に判断する事はできないだろう。また、実際にその場に居合わせた者たちも、この結末が何を意味するのか、誰もそれを理解できていなかったように私は思える。

(大ガルバニア史より)



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