第3話

 時折、屋上で昼食をとってから読書をすることがある。それが今日だった。私はいつも屋上の隅にいる。ここは人気だし、隅なら邪魔にならないからだ。


 一縷もまた屋上で朝食をとったようだ。けれど、私は声を掛けられなかった。


 女性徒と一緒だったから。確か陸上部のマネージャーだ。


 ここから見える限り、二人はとても楽しそうに会話をしながら昼食をとっていた。お互いに頬を赤らめ、時折鼻を掻いたりしていた。照れ隠しだと、すぐにわかった。


 胸がざわつく。あんな姿、私は今まで見たことがなかった。


 可愛いと思った。カッコイイだけじゃない。可愛くて、抱きしめたいという気持ちが大きくなっていた。


 お昼休みが半分を過ぎたところで、一縷と女性徒が立ち上がった。


 女性徒が一縷に背を向けた。彼女が歩き始めると、その後を一縷がついていく。


 私は思わず立ち上がって、反射的に手を上げていた。胸の高さに上げられた手は、その指先を一縷がいた場所に向けていた。


 二人はそのままどこかに行ってしまった。


 ざわざわ、ざわざわと、胸の奥底でなにかがざわめいていた。胸を掻きむしりたくなるような衝動。震えそうな顎。こみ上げてくる感情の渦。その全てを飲み込んで、落ちるようにその場に座った。


 そこから、家に帰るまでの記憶は曖昧だった。


 気付いたら家にいた。ノートもちゃんととってある。けれど、あまりよく覚えていない。きっと授業は聞いていたのだろうけれど、それ以上に別のことを考えていた。


 私は一縷以外の誰かに対して興味を持ったことがない。だから困る。だから切ない。だから、もう少し前に出るべきなのかもしれない。


 スマフォを手にした。一縷の連絡先を表示させて、けれど声をかけることに躊躇してしまう。いつもならば迷わないのに、自分の考え方一つでここまで行動が左右されてしまうだなんて。


 五分あまり動けないでいたが、彼の顔を思い浮かべて決意が固まった。今日見た、赤くなった彼の顔だった。


『アイスが食べたいの。付き合ってくれない?』


 送った文章はそれだけ。返事はわかっている。


『わかった。すぐ行くよ』


 私は彼の優しさを知っている。知っていて利用している。彼の気持ちが自分にないのを知りながら、人の良さを利用しているのだ。


 自覚しているから腹が立つ。自分の元に来てくれない猫に餌付けをしているつもりなのか。自分の行動に対して、こんなに腹が立ったことはなかった。


「お待たせ」

「待ってないよ。行こうか」


 着替えて外に出ると、一縷がすでに待っていた。


 横に並び、歩き出した。私の歩幅に合わせてくれているのが嬉しかった。彼に対しては好意的な感情ばかりなのに、どうして自分に対してはコンプレックスしかないのだろう。


 そんなことを考えていると気取られたくないから、私はいつもの私を演じ続けた。


 コンビニに入って商品を選んだ。バニラとチョコミントのカップアイスを一つずつ。お茶と、小さなチーズケーキも買った。


 外に出た。駐車場に車は止まっていなかった。


 入り口とゴミ箱の間に立つと、一縷が横に並んできた。


「考え事?」


 と、一縷が言った。私はビニール袋の中からアイスを取り出し、バニラの方を彼に渡した。「ありがとう」と一縷は笑った。


「まあ、そんなとこ」


 チョコミントの蓋を開け、プラスチックのスプーンで表面を突く。食べごろになるまで、まだ少しかかりそうだ。


 スプーンの腹でトントンと表面を叩く。


「あのさ、一縷は好きな人とかいる?」


 どう訊いたら答えてくれるかとか、どうやって訊いた方が自然だとか、当然考えなかったわけじゃない。ただ、彼に足しての質問ならば直球の方がちゃんと返ってくると思った。


「え、どうしたの急に」

「いえ、お昼休みにマネージャーとどこか行ったでしょう? もしかして付き合ってるのかなって」

「あー、いやー」


 彼は頭を何度か掻いて、ようやくアイスの蓋を開けた。スプーンで強引に表面を掬って口に入れていた。


「お前が言う通りだよ。俺はあの人のことが好きなんだ。というかその、言いそびれちゃったけど付き合ってるんだよね」

「そう、なのね」


 大丈夫、なにを言われているかはわかっている。受け止めるための準備もしてきた。それなのに、どうしてこんなにも心がかき乱されるのだろう。言われていることはわかっているのに、どうしても頭の中で整理しきれなかった。


 アイスを落としそうになった。膝から崩れそうになる身体を、今は気持ちで支えている。覚悟はしていた。けれど、十年以上抱えてきた気持ちを数分で整理できるわけがないのだ。


 どうやって会話を続けていいのかわからなかった。地面を見つめ、溢れそうな感情に栓をするので精一杯だった。


「いや、ホント最近なんだ。一週間くらい前かな。ずっと好きだったんだけど、告白して、おーけーもらって。まだまだこれからって感じ」

「楽しそうね」

「うん、楽しいよ。そっちは彼氏とか作らないの?」

「私は――」


 アナタがいれば他はなにもいらないのに。


「まだ、いいかな。そういうタイプでもないし。男の子と付き合うって、よくわからないのよ」

「そうなんだ、もったいないな。ちょっと影はあるけど、美人だし、頭はいいし、人のことよく見てるから一緒にいても苦労しないし」


 じゃあ、私と付き合ってよ。


「そんなことないわ。私は自分のことしか考えられない。まだまだ子供よ。高校生だし、大人になるには少し早いわ」

「そっか、じゃあ良い人が現れることを祈ってるよ」


 私が思う良い人なんて一人しかいないのに。


「わかってないのね」


 つい、口から漏れてしまった。慌てて口を塞ぎ「まだいいのよ」と続けた。くぐもってはいたけれど、ちゃんと聞こえていただろう。


 それから彼女のことを訊いた。名前は白石叶重しらいしかなえ、二年三組。明るく社交的、友達はたくさんいる。元々陸上選手だったが、中学の頃に身体を壊してからマネージャーに転向した。元々選手だっただけあっていろんなことを知っている。テーピングの巻き方もそう、ストレッチの方法もそう。身体を壊さないためのアフターケアなんかも自分で勉強したそうだ。


 話をする一縷の顔がきらきらと輝いて見えた。彼にこんな顔をさせるのだ。きっと、とてもいい子なのだろう。


 一見しただけでも、私とは正反対なのだとわかった。大きな瞳、小さいけれどツンと上を向く鼻、絶えない笑顔。可愛らしく、まさに「女の子」という言葉が似合う。


 彼は彼女を選び、彼女はそれを受け入れた。私と彼女が正反対だからこそ、私には望みなどあるはずもない。


「よかったじゃない、いい子なんでしょう?」

「うん、とっても」


 きらきらと輝く笑顔が眩しくて、その眩しさに視界がぼやけてしまう。


「ちょっと用事を思い出したわ。先に帰ってて。今日は、ありがとう」


 立ち上がり、一縷に背を向けた。そしてそのまま歩き出した。


「あ、そうだ」


 訊きそびれたことがあった。


「どうしたの?」


「なんで考え事してるって思ったの?」


「そんなの、スプーンの腹でアイスを叩いてたからだけど」


「そう、うん。わかった。それじゃあ」


 嬉しかった。なんだかんだと、彼が私を見ていてくれたのだと知れた。その嬉しさがまた切なかった。


 少し離れた場所で振り返ると、一縷が帰っていくのが見えた。その背中はどこか寂しそうで、なぜか小さく見えた。


 近くの公園に寄った。誰もいないし外灯もない。遊具なんかも数えるほどしかなく、暗いせいもあるが子どもたちがここで遊んでいる光景が想像しづらい。


 近くのベンチに座ってお茶のペットボトルに口をつけた。


 静かで、涼しくて、落ち着く。


「なにしてんだろ、私」


 祝福すべきだ。理解はしているが、どうやっても納得はできない。私が一番一縷のことを知っているのに、という気持ちだけが大きくなっていった。


 そこである考えが浮かんできた。


 私が一縷のことを知っているように、一縷もまた私のことを知っている。その上で彼が彼女を選んだとするのなら、私も少しずつ変わっていかなければならないのだろうか。


 空を見上げた。


 満点の星空が天上に広がっていた。


 その中で一際輝く星がある。きっと一等星だ。


 私はきっと、この気持に整理をつけることができない。一年経とうと二年経とうと、それはずっと変わらないと思う。でも、この気持を抱えたまま前に進むことはできるのではないか。ほんの数センチでもいい。彼が前に進んだように、私も前に進むのだ。


 ゆっくりと立ち上がった。前に進むためにできること。一縷のためにできること。それがなにかを考えて、私もようやく帰途につく。今までのこととこれからのこと。切り離して考えることはできないけど、共存できる道がどこかにある。


 そう、信じて歩き始めた。


 この一歩が大きな一歩だと信じて。もう一度一縷の顔を見られるように。

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