第3話 陰キャな那子の小さな勇気
教室に入ると、すでにクラスの半数以上は登校してきている様子だった。
先日の席替えで、後ろから入ってすぐの席が俺の新しい席となり(ひとつ後ろにズレただけ)、俺が今まで座っていた席にくーちゃんが座ることになった。そのくーちゃんはまだ来ていないようだ。
俺は机の上に鞄を置くと、さっそく那子のもとへ向かおうとして――ようやく、異変に気づく。
那子が、教室の後ろで、ひとりぽつんと棒立ちしている。足下には、いつも那子が使っている鞄が置かれている。
俺は那子に駆け寄った。
「どうした、那子?」
訊くと、那子は珍しく、ちらりと一瞬だけ俺を見て。
その後、窓際のほうへと視線を向けた。
つい先日までくーちゃんの席だったそこは、厳正なるくじ引きの結果、今は那子の席になっている。
そのはずなのに、その席には今、クラスメイトの女子が座っていた。名前はたしか……忘れた。頭の中身が空洞になっていそうな感じの、いかにもギャルっぽい女だ。
その周囲には、同じようなメイクをした女が数人、たむろしている。座っているのも含めて全員、いつもくーちゃんに手下のように付き従っているやつらだ。
俺は即座に那子の置かれている状況を察した。あいつらが席を占領していて、座りたくても座れないのだろう。
俺も昔、那子に出会うより前に、似たような経験をしたことがある。ただ声をかけてどいてもらえば済む話なのだが、陰キャにとってはそれが、途方もなく高いハードルに感じてしまうのだ。
「ちょっと行ってくるな」
俺は那子の細い肩に軽く手を置いて、那子の席へと近づいていった。
「なにやってんの?」
声をかけると、全員が一斉に俺を見た。
「あ? なに?」
椅子に座っている女が、威圧するような視線を向けてくる。
「そこ、那子の席だろ」
「はぁ? ナコぉ?」
「邪魔だからどいてくれ。那子が座れなくて困ってる」
ほら、と俺が視線で那子のほうを指し示すと、全員つられるように教室の後ろを見た。
「あぁ、ナコってあいつか。ここがあいつの席ってことね」
たった今存在に気づいたというように、女は言う。その反応を見るに、那子に対して意図的に嫌がらせをしていたわけではなく、駄弁っていた場所がたまたま那子の席周辺だっただけなのだろう。
「で、それが?」
「それがじゃなくて、どいてくれよ」
「なんで?」
「いや、邪魔だって言ってるだろ」
なんだこいつ。日本語通じないのか?
「邪魔って。ウチら普通におしゃべりしてただけなんだけど?」
「そうそう、意味わかんないよね。なんなの急に」
「そういうのシラけるんだけど。せっかく盛りあがってたのに、空気読めよ」
周りの女どもが威勢よく吠え始める。
「だから、那子が――」
「あのさぁ、御代。アタシが言いたいのはさぁ……」
椅子に腰かけた女が、他人を小馬鹿にするような顔をして言った。
「なんで、部外者のあんたがそれを言いに来てるのか、ってこと」
「別に、誰が言おうと同じだろ」
「本当にどいてほしいならさぁ、本人が言いに来るのが筋ってもんじゃないの?」
女はさもおかしそうに笑う。ぶん殴りたい、この笑顔。
「それな〜」
「おまえは保護者かっつーの。きっしょ」
「正義のヒーロー気取ってるんじゃない? ウケるわー」
まともに取り合うのも馬鹿らしいが、仕方ない。俺は踵を返し、那子のもとへ戻った。
那子の手を取って、強引に連中の前まで連れていく。
「どいてほしいよな、那子?」
「…………(コクリ)」
「ほら、那子もこう言ってる」
女の反応は冷ややかだった。
「は? 聞こえないんだけど」
「今見ただろ、那子がうなずくところ」
「だからぁ、直接言えって言ってんの! そのお口は飾りでちゅかぁ、ナーコーちゃん?」
ぎゃはははは、と周りのやつらが一斉に下品な笑い声をあげる。笑いのツボが謎すぎる。
じっと俯いたまま微動だにしない那子の顔を、女が覗きこむ。
「なんにも言わないってことはぁ、別にどかなくてもいいよ、っていう意思表示だよね?」
「そんなわけないだろ」
「御代は黙ってて。これは、ウチらとこの子の問題なんだから」
言って、女は笑う。
「ねぇ、ナコちゃん? どうせホームルームが始まる前にはどくんだし、別に今くらいは、ウチらに譲ってくれてもいいよね? ほら答えて、うんってうなずいてくれるだけでいいからさぁ」
ぎゅっ――と。握ったままだった那子の手に、力がこもるのがわかった。
けれどそれも、すぐに緩んで。
そして那子は、ゆっくりと首を縦に――
俺は那子の顎を押さえて、その動きを止めさせた。
くい、と顔を上向かせる。真正面から那子の瞳を覗きこむ。
那子と目が合う。じっと見つめあう。たった数秒、だけどこんなに見つめあったのは、那子が帰ってきてからはじめてのことだ。
那子の瞳は、濡れていた。今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
そんな顔は、那子には絶対に似合わない。なによりも、俺が見たくないと思った。
俺は繋いだその手を、強く強く握りしめた。
「那子」
その一言に、すべてをこめる。
「ねぇ、なにしてんの? 早くしてくれないとホームルーム始まっちゃうんだけど――」
那子は。
ゆっくりと、女のほうへ目を向けた。
「…………嫌、です」
久しぶりに聞いた那子の声は透き通っていて、感動するほどきれいだった。
「……え?」
那子が拒絶を選んだことが、声を発したことが、よっぽど意外だったのか。
女は呆けたような声を出した。
「どいて……ください……」
絞り出すように、震えた声で言って。那子は深く頭を下げる。
ふと気がつくと、教室が静寂に包まれていた。
クラスじゅうの視線が、俺たちに集まっている。
女は周りのやつらと顔を見合わせると、おもむろに立ちあがった。
「なんなの、もう! これじゃアタシが悪者みたいじゃん!」
吐き捨てるように言うと、那子を押し退けるようにして、教室の外へ向かって歩いていく。
「ちょっ、待ってよサヤカ!」
「はぁマジ最悪、これだから陰キャは……」
「つか御代も、ちょっとくーちゃんと仲いいからって調子乗んなよ」
ほかのやつらも口々に勝手なことを言いながら、後を追っていった。
残されたのは、俺と那子の二人だけ。
教室は何事もなかったかのように、徐々に喧騒を取り戻していく。
俺は握りしめた手を放すと、代わりに、頭の上に手を置いた。
「それでこそ、俺の知ってる那子だ」
那子はまっすぐに、上目遣いに俺を見あげて。
すぐに逸らして。
また、見つめた。
「……ありがとう」
ぼそりと言って、那子は俺から離れ、席に着いた。
もう俺のほうを見ようとはしない。その横顔は、かすかに朱に染まっている。
「…………」
たった五文字のフレーズに、俺は、親愛の情とでもいうのだろうか、特別な想いを感じ取って。
那子にとって俺は、特別なのだと。その他大勢の人間とは違うのだと、そう言われたような気がして。
俺はその瞬間、絆の存在を、確かに感じたのだ。
「どういたしまして」
本当は今からでも那子と戯れたかったのだが、まあ、今はひとりにしてやったほうがいいか。
そう判断して、自分の席に戻ると。
「ねぇ啓人くん、もしかしてなんかあったの」
今登校してきたのだろう、鞄を肩に提げたくーちゃんが、教室に入ってくるなり声をかけてきた。
「なんかすごい形相のサヤカたちを見かけたんだけど」
「あぁ、実はな」
俺は今しがたの出来事について、可能な限り詳細に語った。
案の定、くーちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。
「私、陰キャなコは嫌いだけど、陰湿なコはもっと嫌いなの」
「知ってる」
「どうせあのコたちだろうけど、念のため、全員の名前教えてくれる?」
「まずサヤカだろ、それから……」
急に頭が冴えわたって、すらすらと全員の名前が出てくる。
「ありがと。あとで全員、きっちりわからせておくから」
「頼むな」
あースッキリした。やっぱり、持つべきものはくーちゃんだ。
これで明日から那子がいじめられる、なんて心配もないだろう。
「それはそうと」
くーちゃんはちらりと、那子のほうへ目を向けた。
「ちょっと行ってくるね」
俺に鞄を押しつけ、駆け足で那子のもとへ向かうくーちゃん。
なにやら話しかけるくーちゃんに、那子は首を縦に振ったり横に振ったりしている。
くーちゃんが、さっきの那子みたいに頭を下げる。
那子が口を開いて、なにかしゃべっている。
くーちゃんが謝る必要なんて、本当は微塵もないんだけど。だけどそういう生真面目なところもくーちゃんらしくて、俺は嫌いじゃない。
時間にして三分ほどだろうか、思いのほか長かったやり取りを終え、くーちゃんが戻ってきた。
くーちゃんの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「なに話してたんだ?」
「私の友達がごめんなさい、って」
「那子はなんて?」
「気にしてないです、だって。でも、そんなわけないよね」
そりゃそうだ。ちょっと泣きそうになってたからな。
「だから私は、『でも本当はむかついたでしょ?』って訊いたの。そしたらあのコ、なんて答えたと思う?」
なんだろう。
『本当に気にしてないです』?
『実は、少し』?
今の那子なら、言いそうだけど。
どうも、しっくりこない。
「なんて言ったんだ?」
「気に入らないです、だって」
――あぁ。それは。
これ以上なく、しっくりくる。
そいつは間違いなく、俺の知ってる桜庭那子だ。
那子は変わってなんかない。
確かにそこに、那子がいる。
そう思うと、もう、いてもたってもいられなくなる。
時間が解決してくれる? そんな悠長なことを言っていられる余裕は、最早ない。
待てない。
俺はもう、我慢できないのだ。
那子に逢いたくて、逢いたくて。
「啓人くんの言うとおり、もしかしたら本当に、仲良くなれるかも」
優しげな表情で言うくーちゃんに、俺は言った。
「俺ってさ、筆箱の中にシャーペン一本だけしか入れてないんだよな。ごちゃごちゃしてたら取り出しにくいだろ。それが嫌で」
「知ってるけど、それが?」
「貸してくれ」
「なにを?」
「定規と、ハサミ」
――もう陰キャぶるのは終わりにしよう、那子。
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