x日目


 遠くの方で、目覚ましのベルの音が聞こえて、ジュンイチは目を開けた。

 昨夜と同じ、クローゼットの中で拘束された状態だ。


 数秒後に、目覚ましは止められた。ソウコも起きたのだろう。

 外の方に神経を向けていると、彼女がベッドから起き上がったり、室内を歩き回ったり、押し入れを開けて着替えたりしていることが、生活音から分かった。

 しかし、クローゼットは一度も開けずに、一瞬だけ影が横切るのが見えて、寝室から出ていった。


 ジュンイチにとっては、それは特別不思議な事ではなかった。

 以前にソウコの家に泊まった時も、必ずジュンイチよりも先に起きて、顔を洗って髪を梳かしてから彼を起こしていた。

 恋人の前といえども、あまりみっともない姿を見せたくないのだと話していた。


 だが、戻ってきて、今日初めてクローゼットを開けたソウコの笑顔を見た時に、彼は言いようのない不安に襲われ、唾を呑んだ。


「おはよう」

「お、おはよう」


 ガムテープを剥がされて、空気を一気に吸ってから、ジュンイチはたどたどしく挨拶を返した。

 今朝も身支度を整えているソウコは、上機嫌に持っていたスマホを操作して、その画面をジュンイチに向けた。


 その中では、一人の女性の動画が流れていた。ソウコの家のリビングで、見覚えのある座椅子に固定されている。

 俯いて眠っているようだが、呼吸をしていることは上下する胸から分かる。


「……ミオナ」


 ジュンイチは思わず、目の前の恋人の名を呟いていた。

 直後、ソウコが唇を持ち上げて笑ったのを、視界の端でとらえ、しまったと口を噤む。


「やっぱり、ジュンイチさんの彼女はミオナちゃんだったのね」

「……」


 苦々しい顔でジュンイチは黙り込んだ。

 ここは無理にでも、知らないふりをしておけばと思うが、後悔してもしょうがない。溜息を一つ吐いて、ソウコに尋ねてみた。


「彼女といつ知り合ったんだ?」

「元々顔見知りだったの。彼女は私の友達の妹で」


 スマホを操作しながら、ソウコはさらりと説明した。

 まさか、ミオナとソウコがそのような関係だと知らなかったジュンイチは、少し驚きながらも、今はミオナを助けるために何が出来るかと、頭を働かせる。


「ミオナとは別れるから、彼女は解放してくれ」

「……ジュンイチさん、ちょっと勘違いしていない?」


 そう言ってソウコは、寂しそうに顔を伏せた。

 ジュンイチは彼女の意図が読めずに、眉間に皺を寄せる。


「私は、ミオナちゃんに酷いことをしようと思ってああしている訳じゃないの。それに、私とミオナちゃん、どちらを好きになるのかはジュンイチさんの自由意志なのだから。今無理にこちらを選んでもらっても、全然嬉しくない」

「じゃあ、どうして……」

「ちょっと、ミオナちゃんに聞きたいことがあったからね」

「ちょっと?」


 ジュンイチは思わず聞き返してしまう。

 ミオナの拘束された姿を見た後では、ソウコの言葉を額面通りには受け取れなかった。

 しかし、今ソウコを刺激してはミオナと自分の命が危ない。これ以上は何も聞かなかった。


 ソウコは憂い顔で髪を掻き上げた。微かにシャンプーの匂いが漂う。


「本当は、ジュンイチさんのこともこうしたくはなかったけれどね。でも、私とミオナちゃんがいなくなった後に、他の女性に行っちゃわないかどうかが心配で……」

「そうか……」


 ソウコが目を伏せたのに合わせて、ジュンイチも下を向いた。

 浮気をしてしまった自分には、もう信頼がないのだということが、ソウコの言葉の端々から伝わってくる。もう何を言っても彼女には届かないだろう。


 気まずい沈黙が続く中、ソウコは立ち上がり、部屋から出ていった。

 戻ってきた彼女は、水の入ったペットボトルとカロリーメイトを一箱持っていた。


「昨日から何も食べていないよね」

「うん」


 カロリーメイトを一本取りだしたソウコは、それを直接手で持ち、ジュンイチの口元へ差し出す。

 両手が塞がっているジュンイチに対する気遣いだとは分かっていても、彼はソウコに対する恐怖を隠しきれずに、恐る恐るカロリーメイトを一口齧った。

 咀嚼しても味や食感に可笑しな点はなく、ゆっくり呑み込む。ソウコに頼んで水も貰ったが、それも大丈夫なようだった。


 ジュンイチの食事を手伝いながら、ソウコは熱い視線を彼に送り続けていた。

 その視線は、二人が付き合い始めた頃と、全く変わらないもので、ジュンイチはそれが余計に恐ろしくなる。


 あの頃のことを、ジュンイチは柔らかいカロリーメイトを噛み締めながら考えていた。

 共通の知り合いを通じて出会い、職種や年齢は異なったが、性格が似ているために話が盛り上がった。ソウコは初めて、自分から連絡先を聞いた女性だった。


「あ、ジュンイチさん、口についてる」


 もうあの頃には戻れないのだと、諦めきっていたジュンイチの口元を拭うソウコの指先の熱から、彼女の迸る愛情が伝わる。

 こうなってしまっても、ソウコはまだ、ジュンイチが自分を愛してもらえる日を夢見ているのだという事実が、狂おしいほど悲しく、怖くて怖くて堪らなかった。


「ソウコさん?」


 ストローからペットボトル内の水を飲ませてふたを閉めていたソウコは、リビングから自分を呼ぶミオナの声に気付いて、顔を上げた。

 ジュンイチの口にガムテープを淡々と貼ると、ソウコは無表情のままクローゼットをばたんと閉めた。


 暗闇の中、ジュンイチは耳を澄まして、ソウコがリビングに行ったことを把握する。

 ソウコとミオナが話している声は、何とか聞こえてきた。今の所、ミオナに危害が加えられていないようだ。


 ソウコの目的は全く分からない。だが、下手に物音を立てて、ミオナに気付かれれば、彼女がどうなるだろうか。

 ジュンイチは身動ぎせずに、ミオナの無事を祈ることしか出来なかった。




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