x-1日目
ジュンイチは目を覚ました。しかし、周りはまだ暗い。
瞬きを繰り返して、やっと闇の中からぼんやりと影が見えてきた。
座っている自分の頭上には、女性もののコートやスーツの上着がぶら下っている。埃臭さが鼻についた。
足元にはバックや靴が置かれていて、左手側から観音開きの扉から光が僅かに差し込んでいることから、ここはクローゼットの中だということが分かった。
ジュンイチの両手は結束バンドで縛られ、その輪は円状のフックに入ってしまっている。腕を上下に挙げて、前に体を倒してみたが、それは切れなかった。
足首もバンドを縛られていて、口はガムテープで塞がれていた。
「んー、んーー」
籠ったままの声で必死に騒いでいると、クローゼットの扉が開いた。
そこに立っていた人影よりも、相手の持っている包丁にしか目が行かなかった。
「おはよう、ジュンイチさん」
柔らかい笑みを浮かべるソウコの姿は、かつて二人が愛し合っていた時と同じだった。
彼女はしゃがみ込むと、ジュンイチの口元のガムテープを剥がした。
「ソウコ、これは一体……」
「しばらくの間、ここで大人しくしててくれない?」
包丁の刃先をちらつかせながら言われると、ジュンイチは黙るしかなかった。
「ジュンイチさんは、お腹空いたり、喉が渇いたり、トイレに行きたくなったら、遠慮なく行ってね」
「うん……」
あまりに普通なソウコの態度に、ジュンイチは余計に違和感を抱く。
まだ状況が理解できなかったが、一先ずは時間を尋ねてみた。
「今は何時?」
「もうすぐ八時になるわ」
「じゃあ、仕事は……」
「私が連絡を入れておいた。インフルエンザだって言っといたから」
優しい笑みを浮かべて、ソウコが言い切った。
ジュンイチは鳥肌が立つのを感じていた。以前にジュンイチが体調を崩した時、看病に来てくれたソウコが会社に連絡を入れたことがあった為、これを疑う者はないだろう。
そして、インフルエンザだと言い切ってしまったのは、長くて一週間はここに監禁するつもりのようだった。
「診断書くらいは、私がいくらでも作れるから、安心して。あと、ジュンイチさんの車は、ジュンイチさんのマンションに移動してあるよ」
日常会話のようにさらりと話しているが、その内容はジュンイチにとって恐ろしいものだった。
医療事務の仕事をしているソウコは、診断書の偽装が出来るようだ。さらに、ジュンイチの車がパーキングから無くなっていることから、彼がこの部屋にいることを勘づかれることはない。
未だに、ソウコが自分を監禁している目的が分からず、ジュンイチは不安だった。
包丁の刃先が下を向いていることから、今すぐ殺すという可能性は無さそうだということが、唯一の希望だ。
ふと、ソウコが右を向いた。そこに掛かっている時計を確認している。
「そろそろ準備しなくちゃ。じゃあ、ジュンイチさん、夜にね」
こちらに向いたソウコは、そう言うと再びジュンイチの口にガムテープを貼った。
その時浮かべていた微笑みは、デートの後の別れ際の表情と同じだ。
そうしてクローゼットのドアが閉ざされて、ジュンイチの視界は闇に包まれた。
玄関の方からガチャガチャと鍵を開ける音が、僅かに聞こえてきて、ジュンイチは息を呑んだ。
ソウコが出掛けている間、ジュンイチは脱出しようと上半身を前に傾けて、腕の結束バンド切ろうとした。しかし、平均体重よりも軽いジュンイチがいくら頑張っても、上手くいかない。
足が動く範囲でクローゼット内を叩いてみたが、下と隣は空き家で、上の住人は朝仕事に行っているため、それが誰かに届くことはなかった。
寝室の外の音は、よく耳を澄ませば聞こえてくる。
ソウコは「ただいま」と言ったようだったが、声が聞こえても言葉の意味までは聞き取れなかった。
がちゃりと寝室のドアが開かれ、すぐにクローゼットも開けられた。
向こうにいるソウコは、今朝と同じように不可解なほどにこにこしている。
今はとても機嫌がいいのだと、元恋人のジュンイチは察した。
「ジュンイチさん、お腹空いてない?」
「いや……喉が渇いた」
ガムテープを剥がされたジュンイチは、がらがらの声でそう訴える。
頷いたソウコは、キッチンからストローの刺さったペットボトルを持ってきてくれた。
ジュンイチは差し出されたそれを、首を伸ばしてぐびぐびと飲んだ。
色は透明だったが、睡眠薬が入っていることも考えられる。
それでも、早く喉の渇きを潤したかった。クーラーがついていたままのこの部屋では、湿度が下がっていた。
それから、トイレにも行った。
腰に長めのベルトを巻かれて、手足のバンドは切られた。余ったベルト部分を、ソウコはしっかりと握っており、さらに右手には包丁が持っているため、逃げられないと感じる。
トイレの間、ソウコは気を使って背中を向けていてくれた。
クローゼットに戻り、再び結束バンドを付けさせられる。
「何も食べなくてもいいの?」
「あまり食欲は無い」
妙な気遣いを見せるソウコに警戒しながらも、ジュンイチは正直に答えていた。
空腹は感じていていたが、何かを食するという気力が出てこなかった。
ソウコはジュンイチの様子を気にしていたが、時計を確認して、一度自分の机の方へ向かうと、包丁と何かを持って戻ってきた。
それは睡眠薬だった。一錠取り出すと、包丁の先を向けたまま、薬をジュンイチに差し出す。
「ジュンイチさん、これを飲んで」
「……本当に睡眠薬だよな?」
「うん」
疑うジュンイチを、ソウコは真っ直ぐに見据えて頷いた。
彼女の瞳には、疾しさなどが一切入っていない。
ジュンイチはソウコに従い、睡眠薬を水で流し込んだ。
「じゃあ、私はちょっと出かけてくるから」
スーツも着替えずにソウコはクローゼットのドアの取っ手に手をかけて立ち上がる。
一体どこに、何をしに行くのか、ジュンイチは尋ねたかったが、その前にガムテープで口を塞がれ、そのままドアが閉まった。
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