3
x-2日目
「別れようか」
向かいに座ったソウコに向かって、ジュンイチはそう切り出した。
落ち着いた照明のフレンチレストランの中、メインディッシュのラムは殆ど手を付けられずにテーブルの上に載っていた。そこは偶然にも、初めて二人がデートで訪れた場所だった。
言ってしまった直後に、ジュンイチは目を伏せた。
向かいから視線が刺さってくる。
「……確かに、浮気をしたのは僕の方だ。だけど、結局僕らは長続きしなかったんだよ」
自分を正当化するような言葉だったが、その予兆は少し前からあった。
元々真面目な性格同士で、非常に馬が合った。しかし、付き合って一年以上経つと、僅かな認識のずれが積み重なり、ソウコとの間に息苦しさを感じるようになった。
例えば、一年記念の日、ジュンイチは仕事終わりにソウコとこのレストランでディナーをするために、駅前で待ち合わせをしていた。
だが、渋滞に巻き込まれ、約束の時間よりも五分遅れてしまった。
その時、ソウコは明らかに不機嫌そうだった。もちろん、渋滞のせいで遅れたことはしっかりと説明した。
それでも、ソウコはまだ不満げだった。……「私は遅刻なんて一度も無いのに」その一言に、ジュンイチは絶句した。
レストランに着く頃には、ソウコも普段通りになっていたが、ジュンイチの中にはまだ彼女の一言が響いていた。
ジュンイチも時間は守る方だったが、交通機関や仕事の関係による遅刻には寛容だった。
ソウコはこういう所も気になるのかと、戸惑いの方が大きかった。
このことが決定打だった訳ではないが、それ以降自然とソウコとの距離を取ろうとしていた。
そして、常連のスーツ店の、ソウコとは全く正反対の見た目をしている女性店員に惹かれていき、彼女に恋人はいないと嘘をついて、付き合うようになった。
まさか自分が二股をするなんて、想像もしなかったが、気持ちは完全に女性店員の方へ移っていた。
しかし会えない日もラインで連絡してくれるソウコに、中々別れを告げることは心苦しく、ずるずると今の状態を引き摺ってしまった。
もちろんそれが長くは続かず、昨晩にソウコから大切な話があるというラインが届いた際は、ついに来たかとジュンイチも覚悟した。
待ち合わせ場所で落ち合った時は、ソウコは自然体だったため、ジュンイチは自分の勘が外れたのかと思った。
実際ジュンイチは何でもない顔で話をしていたが、このメインディッシュが運ばれた時、ソウコはフォークを持たずに核心をついて来た。
「ジュンイチさん、浮気をしているの?」
彼は息を呑んだ。
真っ直ぐに見つめるソウコには、嘘は通用しないことを悟り、ゆっくりと頷く。
「……ごめん」
「謝るのは後でもいいの。ただ、今、私かもう一人の子かを、決めてほしい」
曖昧なことが嫌いなソウコらしい一言に、ジュンイチの腹は決まった。
そして別れを告げられ、彼の言い訳を聞いた後でも、ソウコは黙ったままだった。
ジュンイチがそっと顔を上げると、ソウコはハンカチで目尻を拭った瞬間だった。
かける言葉を失うジュンイチに、ソウコは無理に微笑んだ。
「分かった。ジュンイチさんがそういうのなら、別れましょう」
「……君の方は、それでいいのか?」
「いいの。ジュンイチさんの気持ちの中に、もう私はいないんでしょう?」
ソウコは想像以上に割り切った顔をしていた。
ジュンイチの方が戸惑ってしまい、自分のしてしまった行為に対する後悔が波のように押し寄せてくる。
「もう、私たちが会うのもこれで最後にしましょう」
「……そうだな」
「でも、最後に、私の家にあるジュンイチさんの荷物を持って帰ってもらえる?」
「いいよ」
ジュンイチはソウコからの提案に頷くことしか出来なかった。
この一年の間、ジュンイチはソウコの家に何度か泊まり、置いたままにしていた荷物もあった。
それが決まった途端、ソウコはやっとラム肉に手を付けた。
ジュンイチも黙ってそれに続き、二人は粛々と食事を進めた。
「お邪魔します」
「どうぞ入って」
近くのコインパーキングに車を止めてきたジュンイチを、ソウコはマンションに招き入れた。
今夜は熱帯夜で、少し歩いただけのジュンイチも、背広を脱いでYシャツ姿になっていた。
綺麗に片付けられているソウコの部屋で、開いている段ボール箱にジュンイチが置いていた服や歯ブラシなどを入れていく。
ソウコはジュンイチ用にと買っていたクッションも持ってきていた。
「あとは、布団も……」
「いや、それはいいんじゃないかな」
押入れを開けたソウコが、冬用の布団一式を取り出そうとするのをジュンイチは止めたが、彼女は首を振った。
「あとで後悔したくないから。持って行って」
「……分かった」
有無を言わせぬソウコの真剣な眼差しに根負けして、ジュンイチは彼女の申し出を受け入れた。
冬用の布団をジュンイチが抱え、夏用の布団をソウコが抱えて、部屋を出てからコインパーキングに運ぶ。それらをジュンイチの車に乗せたが、往復中は誰も何も言わなかった。
二〇一号室に戻った後、ジュンイチは自分の荷物があるソウコの寝室に入ろうとしたが、ソウコは真っ直ぐリビングの方へ行ってしまった。
段ボールの中を確認した後、もうこの部屋に来ることはないだろうと、ジュンイチは室内を見回した。
ドアの真正面にあるベッド、左側には備え付けのクローゼットと押し入れ、右側には机と本棚……特にそれ以外はインテリアもぬいぐるみも置かれていない、非常にシンプルな部屋だった。
「ジュンイチさん、喉渇いていない?」
「うん。ありがとう」
寝室に戻ってきたソウコは、二つのコップが入ったお盆を運んでいた。
ジュンイチはありがたくそのうちの一つを受け取る。中身はスポーツドリンクのようだった。
一度外に出て汗を掻いていたジュンイチは、一気にそれを飲み干した。
それから、目の前に腰を下ろしたソウコをぼんやりと眺めていた。何も言わずとも、相手を気遣い、飲み物を用意してくれる、そんな彼女の優しさに惹かれたことを思い出す。
「……ねえ、ジュンイチさんは、相手の子の、どういう所が好きになったの?」
「……突然だね」
ソウコからの問いに、ジュンイチは無理に苦笑いを作った。
暑さから出る汗とは、異なる嫌な汗が皮膚をつたう。
「ただ、気になっただけ。今後の参考になるのかもしれないし」
「そっか」
淡々とソウコは答えた。しかし、目線はジュンイチから逸らしている。
ジュンイチは頷き、二人の間に置かれたお盆の上にコップを戻す。
「あの子は、手先が器用で、裁縫や料理が得意なんだ。僕はこの前彼女の手料理を食べたばかりだったけれど、本当においしかった」
「そうなのね」
静かにソウコが返すと、嫌な沈黙が耳を突き刺す。逸らされたソウコの瞳に、涙が光っている。
ジュンイチは耐え切れなくなり、深々と頭を下げた。
「本当にごめん」
「もう謝らないで。私はその子に負けたのだから」
その言葉は、ソウコの強がりではなさそうだった。
それでも純一はすぐに顔を上げられずに、所在なさげに動いているソウコの靴下を履いた足の指を眺めていた。
「……それじゃあ、僕は行くよ」
「ええ」
一分以上頭を下げていたジュンイチは、やっと段ボールを持って立ち上がった。
しかしその瞬間、立ちくらみに襲われる。
「……あれ?」
コントロールを失った体が、勝手にベッド側へと傾いていくことに、ジュンイチは素直な疑問を口にした。
瞼が落ちてしまう前に、彼が見たのは、虚ろな笑みを浮かべる元恋人の姿だった。
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