x+2日目
翌朝、ミオナにはやっておかなければならないことがあった。
彼女は自分の職場へと電話をかけた。
「……お疲れ様です、店長。フジミネです」
「フジミネさん? どうしたの?」
「今日、熱が出てしまって、休みを取りたいのですが……」
「あー、大変だねー。ゆっくり休んでよ」
「はい……ありがとうございます」
視界の左側に包丁の刃先を入れたまま、ミオナは自分の店の男性店長と話をしていた。
ミオナの声は不自然に震えていたが、それが風邪の症状によるものだと店長は判断したようで、特に怪しまれることはなかった。
もしも彼に助けてと叫べば、この包丁が自分の首を切り裂かれてしまう瞬間を想像してしまい、ミオナは本当のことは何も言えなかった。
「これで、しばらく仕事も休めるね」
「……でも、こんなのいつまでも続きませんよ」
ソウコがミオナの代わりに持っていたスマホを操作していると、項垂れたミオナから思わずそんな声が漏れた。
「分かっているわよ。来週の月曜日までが期限ね」
感情をこめずに淡々とソウコは答える。
この月曜日という期限の根拠がミオナには分からかったが、ソウコから「今度は休むってツイートをして」とスマホを渡してきたので、それに従う。
それに一番最初に反応したのは、アユカからだった。
姉の心から自分を心配する返信を見ると、ミオナは涙が出そうになったが、それを堪えて嘘を打っていく。
その日一日休みを取っていたソウコの指示で、お昼にも店に電話をかけた。内容はインフルエンザにかかったので、しばらく休むというものだった。
本気で心配してくれる店長をよそに、電話を切ったソウコは、今度はアユカにラインのメッセージを送らせた。
『大変だね。早く元気になってね』
『ありがとう、お姉ちゃん』
ラインでのこのやり取りが、もしかしたら姉と話す最後かもしれないと一瞬考えてしまい、ミオナの目から涙が一筋流れ落ちた。
その後は、ソウコの要望に応えて、ラザニアのよりおいしい作り方を模索したり、ジュンイチが好きだと言っていたハンバーグの作り方を教えたりしていた。
一度、ミオナはトイレに行くために監禁を解かれた。犬の散歩のように、腰のベルトを握ったソウコの前を歩く。
このままどうなってしまうだろうという不安が、ミオナの心を支配していた。
不安は、ラインでアユカと話した直後から膨れ上がっていた。
よって、廊下でトイレのドアが見えた瞬間、ソウコの手が一瞬緩んだ隙をついて、一気に走り出した。
そのまま玄関のドアまで突っ切ろうとしたが、ソウコがベルトの端を掴んでしまった。
ミオナは力ずくで進もうとしたが、前につんのめる。転びそうになったが、手が偶然寝室のドアノブに触れた。
ドアが開いて、ミオナはそこへ入ってしまう。ベッドと机しかないシンプルな部屋だったが、中のエアコンは動いていた。
勢いが止まらずに、ミオナは大きく転んだ。顔は左側を向き、視界の中にクローゼットが入る。
「だめじゃないの、ミオナちゃん。そこに入っちゃあ」
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
ベルトをしっかり握ったソウコが、呆れたような声で言った。
ミオナは仰向けになって震えながら、何度も謝った。零れる涙は、明るい茶色のフローリングの染みになる。
「ほら、立って。トイレに行くんでしょ」
「……はい」
逃亡に失敗したミオナは、下を向いたまま立ち上がり、ソウコに連れられて寝室を出た。
もうこれで、万策が尽きたのだという気持ちが強かった。
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