x日目


 眠っていたミオナは、ゆっくりと目を開けた。背後の締め切ったカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。

 まだぼんやりと眠気の残っている頭で辺りを見回すと、そこはソウコの部屋のリビングだった。今、ミオナは座椅子に座っている。


 座ったまま寝ていたため、体中が凝り固まっていた。だが、異変はそれだけではなかった。

 彼女の手首と足首は、結束バンドで括りつけられていた。腰はベルトによって、座椅子の背もたれに縛れている。

 昨晩タオルで隠されていた座面には、四角い金属片が付いていて、それらがネジによって床に固定されていた。大きく体を揺すってみたが、そう簡単に外れない。


「ソウコさん?」


 リビングとキッチンにはソウコの姿が見えなかった。

 名前を呼ぶと、廊下から足音がして、ドアが開くとその向こうにはソウコが立っていた。


「ミオナちゃん、おはよう」


 そう言って微笑みかけるソウコの顔は、昨晩と何も変わらなかった。

 ミオナは戸惑いながら尋ねる。


「ソウコさん、これはどういうことですか?」

「ミオナちゃんは昨日の夜、私と何の話をしたか覚えている?」

「いたずらですか? ちょっと質が悪い気が……」

「こっちが質問してるの、答えてくれる?」


 ソウコは目元の笑みを消して、ぴしゃりと言い返した。

 ミオナは口を噤み、目線を泳がせながら、昨晩の記憶を探った。


「確か……私の恋人の話をしていましたよね?」

「ええ。ジュンイチさんの話をね」


 ソウコが親しみを込めてミオナの恋人の名前を呼んだ。

 その瞬間、電撃が走ったかのように、ミオナは眠る直前にソウコが言っていたことを思い出した。


「ジュンイチさんは、ソウコさんの恋人だったのですか?」

「そう。私たちが付き合っていたころ、彼はあなたと付き合い始めたみたいだけど」


 ミオナは言葉を失った。まさか、ジュンイチが二股をかけていたなんて。初めてのデートの際、恋人はいないと言っていたのに。


「あなたがツイッターに恋人の写真を上げた時、顔を隠していても彼がジュンイチさんだと気づいた。左利きで、右手の人差し指の爪の中に、ホクロがついているのがジュンイチさんの特徴だったから」

「確かに、彼はジュンイチさんです」


 項垂れながらミオナが肯定した。まさか彼の恋人が、こんなに身近にいるとは思わなかった。

 一方、衝撃から立ち直れないミオナと違い、ソウコは淡々としていた。


「浮気に気付いた二日後、ジュンイチさんと話をしたら、彼は私よりもあなたを選んだ」

「すみません……」

「別に謝らなくてもいいのよ。私よりもあなたの方が、彼にとって魅力的だった。ただそれだけの話なんだから」


 台詞の内容と比例して、ソウコの声は氷のように冷たかった。

 それが項垂れたミオナの背中に、重くのしかかってくる。


 そのようなミオナなど気にせずに、ソウコは台所の方へと歩いて行った。屈んで戸を開けて、何かを探しているような音がする。

 ミオナは恐ろしくて、そこを見ることが出来なかった。


「だけど、正直、別れを切り出されても、私は彼のことがまだ好きだった。でも、彼の心は私から離れている。もう一度振り向いてもらうためには、あなたよりも私が魅力的にならなきゃいけないの」


 ソウコはミオナの目の前でしゃがみ込んだ。

 体を小刻みに震わせながら、ミオナは顔をゆっくりと上げる。


「ミオナちゃん、ラザニアの作り方を教えてくれない?」


 無邪気に笑いながらソウコがミオナに頼む。

 その右手には、包丁が冷たく鋭い光を反射させていた。














 ミオナを椅子に縛り付けたまま、ソウコは彼女からラザニアの作り方を習った。

 抵抗すると包丁で刺されると思ったミオナは、大人しくソウコの質問に答える。


 ソウコはミオナが想像していたよりも「普通」に料理を作り、突然理不尽なことを言い出すことなどはなかった。

 今の状態が十分異常であるのに、ミオナは早くも感覚が麻痺してきて、これが終わればすぐに解放してくれるのだと思っていた。


 ただ、一つの懸念は、ミオナのスマホに時折通知が届いていることだった。

 ミオナの鞄の中からマナーモードの音が響くたびに、ソウコは嫌そうな顔でそちらの方を見た。


「ミオナちゃんの携帯、また鳴ってたねー」

「すみません……」


 特に悪いという訳でもないにも関わらず、ミオナは思わず謝ってしまった。

 この時のソウコは特に怒っていたのではなかったのだが、彼女が何を言うのかが怖かった。


 すると、ソウコが包丁を持ったまま、リビングの方へと出てきた。

 無表情の彼女を見て、ミオナは全身の血が凍るように感じられた。

 しかしソウコはミオナの前を素通りして、リビングの入り口の方に無造作に置かれていた鞄の方に向かい、中を漁ってスマホを取り出した。


「ほら、返信だけだったら、やってもいいわよ」

「えっ?」


 無表情のソウコから、ミオナは自分のスマホを手渡された。

 結束バンドで手は動かしにくいが、操作することは出来た。


「もちろん、助けを呼ぶのはだめだからね」

「は、はい」


 刃先をミオナの顔に向けながら、ソウコが念を押して言う。

 ミオナは従順に頷き、送られてきたラインやツイッターに返信をしていく。その文面は、ソウコが上からチェックしていた。


 こういう時に暗号とか送れればいいのだけれどと、ミオナは手に汗を掻きながら思う。この緊張感の中では、頭が上手く働かなかった。

 友人からの誘いのラインを断り、ツイッターの雑談を適当に切り上げる。ソウコの指示で、今日は一日家でゆっくりする予定だというツイートを送った。


「これで全部ね」

「はい」


 その直後に、スマホはソウコに取り上げられてしまった。

 ミオナは、誰かが自分の家を訪ねて、人がいないことを不審に思ってくれることを期待していた。しかしもしそうなっても、まさかソウコの家に辿り着けるとは思えない。

 ラザニアが出来上がるまでの辛抱だと、ミオナは自分に言い聞かせていた。


 そういえば、先程届いていたラインの中にも、ジュンイチからのメッセージが無かった。

 もう一度メッセージを送るか、直接本人と話したいと思ったが、ソウコの前でそんなことは言い出せなかった。


 しばらくして、ソウコが初めて作ったラザニアが出来上がった。

 ソウコはお盆にそれとスプーンを二つのせて、ローテーブルへと運んだ。


「早速味見してみましょう」

「はい」


 ソウコは顔を固くしながら、スプーンでラザニアを一口掬い、それを口に入れた。

 それを飲み込んだ後、もう一つのスプーンでミオナの分も掬い、食べさせる。


「ミオナちゃん、おいしい?」

「はい。おいしいです」


 ミオナは正直に頷いた。

 するとソウコは目を細める。


「ミオナちゃんが作ったラザニアと、どっちがおいしいと思う?」

「それは……どっちも同じです」

「それもそうよね」


 当たり前の答えに、ソウコは納得したように頷いて、再びラザニアを食べながら喋り始めた。


「私ね、ジュンイチさんと話す前に色々考えてみたの。どうしてジュンイチさんは、ミオナちゃんを選んだのかって。確かにミオナちゃんと私は全然違う。身長も顔立ちも、性格も特技も。外見や性格はすぐに変えられないけど、特技ならすぐに真似できるのかもしれない。男性の胃袋を掴むって、昔からよく言われているから」

「だから、ラザニアの作り方を……」

「ええ。でも、完璧に真似するだけじゃあだめ。あなたの料理を超えなくちゃ、ジュンイチさんはこっちを見てもくれない」


 かたりと、ソウコが持っていたスプーンをお盆に置く音が静かに響いた。

 ミオナは、相手の振り切ったようなさわやかな笑顔を見て、嫌な予感に首元を絞められている気分になった。


「私があなたのラザニアを超えられるまで、手伝ってくれる?」


 ソウコの言葉に、ミオナは彼女のここからすぐに帰すつもりはないという固い意志を感じ取って、目の前が霞むかのようだった。


 ……ソウコの宣言通りに、ミオナは二人でラザニアを食べ終わっても、外に出られなかった。

 水を飲みたいと言えば、プラスチックのコップに入った水道水を渡された。

 トイレに行きたい時は、足元の結束バンドを外されて、腰にベルトを巻いてその余った部分をソウコがしっかりと握ったまま、連れて行かされた。トイレの中はシンプルで、手首の結束バンドを切れるようなものは置いていなかった。


 日が暮れると、カロリーメイトを渡された。ソウコも今日は料理をする気力が起きないようで、別の味のカロリーメイトをもそもそと食べている。

 テレビは点いていたが、ミオナにその内容は入ってこなかった。明るい笑い声すら、どこか遠い世界のことのようだ。


 その時ふと、ソウコのスマホのマナーモードが震えた。

 彼女はそれを操作して、嫌そうな顔をする。


「また、アユカからだ」

「え? お姉ちゃんが?」


 突然ソウコの口から出た姉の名前に、今まで黙っていたミオナも反応した。

 ソウコは頷くと、心底困った様子で話す。


「私が恋人と別れたのを心配して、よく食事に誘ってくるの。ホント、あなたたち姉妹はお人好しね」


 冷たいソウコの言葉の裏では、「どうしようもないほど」と言われているようで、ミオナは俯いた。


「あ、そうだ」


 ソウコは一瞬ミオナの方を見ると、何か思いついたようで、とても嬉しそうにスマホを操作し始めた。

 しばらく、ソウコはスマホで何かやり取りをしていた。相手は恐らくアユカだろう。しかしミオナは、その内容について触れることが出来ずに、あまり興味のないテレビの画面を眺めていた。


 ソウコが寝支度を終えた後、彼女はミオナに睡眠薬を一錠と水入りのコップを手渡した。


「これを飲んで眠ってね」

「はい」


 ソウコの右手に包丁が握られていたため、ミオナの選択肢は一つしかない。

 錠剤を飲んでしばらくすると、瞼が勝手に落ちてくる。そのまま、ミオナは座椅子の背もたれに身を任せて、眠り込んでしまった。

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