2
x-1日目
「ジュンイチさん、どうしたのかな……」
火曜日の夜十時過ぎ、閉店作業も終えて帰路につくミオナは、スマホを開いたまま歩いていた。
見ていた画面には、最近できた恋人・ジュンイチとのラインが映し出されていた。昨晩、彼女が送った『明日の夜、空いていますか?』というメッセージには、まだ既読が付いていない。
『やっと連勤が終わったーー!! 明日からは二連休(*^^)v』
従業員用のロッカールームで、仕事から解放された喜びをそうツイートしたミオナだったが、一方ではジュンイチのことがずっと気になっていた。
普段ならばラインは一時間以内に返してくれるジュンイチが、日付を跨いでもメッセージを読んでくれないなんて。ただそれだけのことだと言ってしまえばそれまでだが、ミオナは妙な胸騒ぎを覚えていた。
思い切って電話をしてみようかと悩みながら歩いていると、向こうから酔っ払ったスーツ姿の女性が、ふらふらしながら歩いてきた。
その長い黒髪と、背の高さと鼻筋の通った横顔は見覚えのあるものだった。足元が覚束ない彼女に、ミオナは小走りで近付いていた。
「すみません、ソウコさんですよね?」
「えっ?」
ミオナに話し掛けられて顔を上げた彼女は、確かに姉・アユカの高校生の頃からの友人、ソウコだった。
ソウコはアユカが家に呼んだ時などに何度か顔を合わせ、少し話をしたこともあったが、アユカが高校卒業以来の再会だった。
アユカとソウコは大学生や社会人になっても一緒に遊んでいると聞いていた。
ソウコの方もミオナのことは覚えてくれていたようで、彼女の方を見て手を振った。
「あ、ミオナちゃん、久しぶりー」
「はい、お久しぶりです。ソウコさん、結構酔っているようですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫、私、強い方だから」
アルコールのする吐息で強がるソウコだったが、一二歩進んだだけで、バランスを崩し、倒れかかって電柱に掴まった。
ミオナは慌てて彼女を左側から支える。
「ああ、本当にフラフラじゃないですか。おうちはどこですか?」
「あそこ。すぐそこだから、大丈夫だって」
ソウコは五十メートルほど先にある白い外壁の五階建てマンションを指差した。
だが、ミオナの目にはあそこまで歩くのも困難なように見えた。
「部屋まで送りますよ」
「ええー、いいのー」
「はい。私、背は低いですけど、力はある方ですから」
呂律の回らないソウコの左腕を自分の右肩にのせて、ミオナは白いマンションに向かって歩き始めた。
確かにミオナはソウコよりもずっと身長は低かったが、力強く歩を進めている。
しかし、ソウコがこれほど酔っ払っているのを、アユカは初めて見た。
最後に会ったのが未成年の頃だったので当たり前のことだったが、それでもソウコがここまで酔いつぶれている姿を想像出来なかった。
学年の異なるミオナたちの間でも、ソウコは厳しい風紀委員長として有名で、まさかこんな無防備な姿を見られるとは思わなかった。
こんなになるまで飲むなんて、何があったんだろうと心配しながら、ミオナはソウコと彼女のマンションの前まで辿り着いた。
「ソウコさん、部屋はどこですか?」
「二〇一号室……」
マンションの中を進みながら尋ねると、ソウコは半分目を閉じたままそう答えた。
エレベーターで二階に上がり、二〇一号室の前に立つ。
「ソウコさん、鍵はありますか?」
「あるよ。ちょっと待ってね」
肩から掛けたバッグをがさごそ探りながら、ソウコはキーホルダーも付いていないシンプルな鍵束を取り出した。
その中の一つを鍵穴に差そうとするが上手く行かないので、ミオナは思わず横から手伝った。
「あ、開いた。ありがとう、ミオナちゃん」
「いえ」
ソウコの部屋の玄関は、物が殆ど置かれておらず、リビングを区切るドアまで伸びる廊下も掃除が行き届いていて綺麗だった。右手側に一つ、左手側に二つのドアが並んでいる。
ミオナは玄関のドアの鍵を閉めると、殆ど彼女に体を預けているソウコの顔を覗き込みながら尋ねた。
「ソウコさんの部屋はどちらですか?」
「んー、今、部屋が散らかっているから、行かないで。リビングで水飲んで休んだら、動けるようになるから……」
「分かりました」
本来なら、早く寝室で横になった方がいい気がするが、ミオナはソウコの意思を尊重して、リビングへと彼女を運んだ。
リビングのドアを開けると、真正面に座椅子が一つ置いてあった。青い背もたれの椅子は、座面の部分にバスタオルがのせられていた。
「ソウコさん、あれに座りますか?」
「うん……」
ぐったりとしていたソウコだったが、僅かに頷いてくれた。
ミオナは座椅子に近付き、何故か被せられているバスタオルを取ろうとしたが、先にソウコが座ってしまった。
「ああ……頭が痛い……」
「ソウコさん、水を入れましょうか?」
ミオナが隣のキッチンに入り、食器棚から硝子のコップを一つ取り出した。
それを水道の蛇口に持っていこうとしたが、一連の動きを見ていたソウコに「ちょっと待って」と止められた。
「ごめん、水道水じゃなくて、冷蔵庫の中のスポーツドリンクから入れて」
「あ、分かりました」
「ミオナちゃんも飲んだら? 今日は暑かったでしょ?」
「ありがとうございます」
五月半ばと言えども今日は気温が高く、ソウコをここまで運んで汗だくになっていたミオナは、喜んでその言葉に甘えた。
殆ど何も入っていない冷蔵庫から、白い液体の入った二リットルのペットボトルを取り出す。コップを二つも一緒に持って、ソウコの隣の、ローテーブルの上に載せた。
「ソウコさん、どれくらい飲んだのですか?」
「仕事終わってからずっとだから、もう四時間ぐらい……」
「飲み会とかですか?」
「ううん。一人飲み」
ミオナが入れてくれた飲み物を、ソウコは「ありがと」と言って受け取り、一口分飲んだ。
自分の分も入れたミオナは、一気に半分ほどを呑む。
「何かあったのですか?」
「昨日、彼と別れて」
「ああ……」
何気なく理由を聞いたミオナは、なんと言い返せばいいのか分からなくなってしまった。
目線をソウコから逸らして、手持ち無沙汰にコップを仰ぐと、ソウコはにっこり笑って話しかけてきた。
「ミオナちゃんは、恋人ができたみたいね」
「えっ! 何で知ってるのですか!」
顔を上げて目を丸くしたミオナに、ソウコは「知ってるよー」と言いながらコップをテーブルの上に置き、体全体をくねらせた。
「ミオナちゃんのツイートを見たの。アユカがいいねしていたから」
「ああ、そうでしたか」
理由に納得しながら、ミオナは照れ笑いを浮かべていた。
本当は彼のことを話したい気持ちもあったが、失恋したばかりのソウコの手前、それをぐっとこらえる。
「ねえ、彼ってどんな人なの?」
しかしソウコは、酒によって赤くなった顔をミオナに近付けながら、詳しい話を訊き出そうとしてきた。
それに根負けして、ミオナはソウコに気を使いながら恋人のことを話す。
「彼は、ITの会社で働いていて、私の二つ上なんです。私の働いているスーツ店の常連さんでした」
「付き合い始めたのはいつから?」
「八日前からですね」
「彼のどういう所が好きなの?」
「とっても優しいんです。あと真面目で、浮気とか絶対にしない人です」
「そうなの」
恋人の話をしたミオナは、気恥しくて体が火照ってきた。グラスの中身を全て飲んでしまう。
初々しい彼女の姿を、ソウコは目を細めて眺めていた。そして、真っ赤な口紅を引いたままの唇を開いた。
「彼の名前は何て言うの?」
「ニイザキジュンイチさんです」
彼の名前を教えた後、ミオナはふとジュンイチからラインの返信が来ていないことを思い出して、一瞬顔が曇った。ソウコと話している間も、スマホは振動していなかった。
ミオナの表情など意に介さずに、ソウコは口には笑みを浮かべ、しかし両目は虚ろなままで、たった一言を言い放った。
「私の彼も、ニイザキジュンイチって名前なの」
「え?」
ミオナはどういうことですか? と訊き返そうとした。
しかし、自分の体が勝手に前へと倒れ始めた。瞼が勝手に閉じてしまう。
可笑しいと思っても、床に倒れ込んでしまい、起き上がれない。頭の中は睡魔に包み込まれてしまい、ミオナは数秒後に寝息を立てていた。
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