x+3日目


「ソウコは、本当に犬を飼っていると思う?」


 今年オープンしたばかりのカフェに入り、注文をした後に、会った時から終始難しい顔をしていたユミエは、突然そう言い放った。


 水の入ったグラスを取ろうと手を伸ばしていたアユカは、驚いて動きを止めた。

 まじまじと見つめるユミカの顔は、真剣そのもので先程のは冗談ではないようだ。


「突然どうしたの?」


 アユカは無理に笑おうとしたが、顔が引き攣ってしまって上手く出来ない。両手は自然と、膝の上に揃えられていた。


「最初からおかしかったよ。犬を飼ったって言ってるのに、その写真を載せようとしないし、名前も付けていないし」

「確かに違和感はあったけれど、それだけで飼っていないと言い切れないんじゃあ……」

「ソウコが住んでるマンション、ペット禁止なの知ってた?」

「……」


 アユカは言葉をユミエに遮られても、何も言い返せなかった。

 ソウコは高校時代、風紀委員長を務めるほど、物事のルールに厳しいはずだった。どれほど面倒な慣習でも、絶対に守るのに……。


「お待たせしましたー」


 そこへ、ウェイトレスが二人の頼んだベリーのスムージーとブラックコーヒーを運んできた。

 コースターの上にそれらを載せるが、二人とも固まったまま口を動かそうともしない。仕方なく、「失礼します」とだけ言って去っていった。


 ウェイトレスが離れた後に、アユカはスムージーを手に取り、一気に四分の一を飲み込んだ。

 そうしていくらか落ち着きを取り戻したアユカは、ストローから口を離すと少し早口で言った。


「でも、何か事情があるのかもしれないよ。捨て犬を拾って、里親が見つかるまで預かっているとか」

「それもあるかもしれないけどね……」


 含みを持たせた言い方で、斜め下を向いたユミエは、片手で黒いセミロングの髪をいじりながら、コーヒーを飲んだ。

 そして、溜め息を吐いてまだ覚悟が決めきらない様子のまま話を続けた。


「実はね、ソウコが彼氏と別れたのは、彼氏が浮気をしたからだったの」

「えっ! そうだったの!」


 話が変わっているにも関わらず、アユカは素直に驚きの声を上げた。

 ユミエは一瞬周りを気にして見回したが、こちらを見ているテーブルがいないことに安心して、多少声を落とした。


「先週の金曜日の夜中に、突然ソウコからラインが来て。詳しくは言わなかったけれど、どうやら彼氏が浮気している証拠を見つけたって相談してきたから」

「そうなんだ……」


 自分の方にはそのような話が全く来ていなかったことにアユカは強く落ち込んだが、一方でユミエに相談するのは分かる気がしていた。

 高校時代、バレー部に所属していたユミエは、キャプテンとして冷静で的確な指示を出し、大会では何度もバレー部を表彰台に導いていた。

 その上、彼女は本を読むことが好きで、学力も常に高い位置を維持していた。


「偶然、ソウコの彼氏が私と同じIT系の会社で働いていて、仕事で何度か会ったから、まさかあの人が浮気するなんてって最初は思ったの」

「どんな人? 私はまだ見たことないけれど」

「印象はすごく真面目そうな人。銀縁の眼鏡に髪型もきっちりしていて、少し痩せ気味に見えたけれど、スーツがよく似合っていた」

「へー、ソウコとよく合いそう」


 百七十近いユミエほどではないが、ソウコも背が高くてスタイルもいい女性だった。

 身長が百九十の男性とソウコが並んでいる姿をアユカは想像したが、ユミエの「あ、でも背はそんなに高くないよ。平均くらい」という一言でそれを打ち消した。


「だから私も、もしかしたら勘違いなのかもしれないって言って、でもソウコは直接会って話してみるって。それで思い切って、ソウコにもしも本当に彼氏が浮気していたら別れるのか訊いてみたら、『別れられない、まだ好きだから』って返ってきて」

「でも、別れたんだよね……」


 今週月曜日のソウコのツイートを思い出してアユカがそう呟くと、ユミエは静かに頷いた。


「その別れましたツイートの後日に、ソウコの彼氏、もう元カレか、その人に仕事で連絡を入れることになって、会社に電話してみたら」

「そしたら?」

「彼、今はインフルエンザで休んでいますと言われて」

「インフルエンザで」


 無意識に、アユカはユミエの言葉を繰り返していた。

 丁度妹のミオナも、インフルエンザに罹ったと言っていた。水面下で流行しているのだろうか?


「その後に、ソウコが犬を飼い始めたって言っていたから、それはもしかしたら、彼のことなんじゃないかと思って」

「ん?」


 最初の話とようやく繋がったが、それはあまりに突拍子もないものだったため、アユカは身を乗り出してユミエに聞き直した。

 しかしユミエは何も言わず、コーヒーを飲みながらどう説明しようかを考えているかのようだった。


 時間が止まってしまったかのような二人のテーブルに、ウェイトレスが注文した二つ分のプレートを持ってきた。

 未だ心ここにあらずと言った様子で、アユカはホウレンソウのパスタを、ユミエはハーブチキンのプレートを受け取り、それぞれお礼を言った。

 ウェイトレスは瞬きの多い二人に好奇の視線を投げかけながら、「ごゆっくり」と会釈をして歩いていった。


「……ユミエごめん、話が全く見えないんだけど」

「うん。私も自分でむちゃくちゃなこと言ってるのは分かっているから」


 一度深呼吸したユミエは、ゆっくりと説明を始めた。


「もしかしたら、ソウコは彼と別れたくなくて、彼のことを自分の部屋に監禁しているのかもしれないって思った。犬を飼っているっていうツイートの犬っていうのは、彼のことを指しているんじゃないかな。インフルエンザだと嘘をついて、会社を休ませて。だから、写真を載せられないし、名前も言えない、しつけをするっていうのは、彼を自分に振りむかせるってことなんじゃあ……」

「ちょっと待って。そもそもなんで、ソウコが彼を監禁しているって、思ったの? 私が知っているソウコは、そういうことするわけがないのに……」

「ごめん、ちょっと、熱くなり過ぎた」


 大切な友人が、もう一人の友人に疑われている事実を未だに受け入れられずに、アユカは両目を潤ませながら主張した。

 それを見てユミエも、申し訳なさそうに目を伏せたが、すぐに話を続ける。


「私たちが高校生の頃、私が彼に浮気されていて、アユカとソウコに相談したの、覚えてる?」

「うん。高校近くのカフェで、その話をしていたよね」


 アユカの返答にユミエは頷いた。

 初めてできた恋人に裏切られた悲しみと怒りとで、珍しくユミエは冷静さを欠いていた。

 彼氏と浮気相手をどう問い詰めればいいのかを、ユミエがテーブルに何度も拳を叩きながら捲し立てていたのを、アユカははっきりと覚えている。


 アユカはユミエの怒りにあたふたとしていたが、真逆にソウコは冷酷なほどで、「浮気されるのは、相手の女の子の方がユミエよりも魅力的だからよ」と言い放って、ユミエと口論になってしまっていた。

 その時はいたたまれなくなり、アユカはそっとトイレに避難したくらいだった。


「私とソウコが喧嘩して、アユカがトイレに行った後、やっと二人とも落ち着けた。それで、私はそこまで言うソウコは浮気されたとしたらどうするか気になって、訊いてみたの」

「ソウコは何って?」

「……『その人のことがまだ好きだったら、私のことをもう一度好きになってもらうために、何でもするよ。犯罪まがいの事だって』……ソウコが、口元は笑いながら、でも目は何も見ていない様子で言って、すごく恐ろしくなったのを覚えている」

「……」


 アユカは何も言い返せなかった。ソウコならあり得るかもしれないという気持ちを、否定しきれない自分がいた。

 ソウコは自分の恋愛には情熱を傾ける人だった。彼女が風紀委員になったのも、誰よりも風紀に厳しくなったのも、初恋の相手が風紀委員の先輩だったからだ。

 しかしその初恋は叶わず、先輩が生徒会長と付き合い始めたことを知った日、人目をはばからずに大声でソウコが泣いていたのを、アユカは見ていた。


 緑色のパスタはすっかり冷めて、湯気は出なくなっていた。

 それに乗った黒い胡椒の粒に視線を落としたまま、アユカは呟いた。


「もしも、本当にソウコが、そうしていたら?」

「止められるのは、私たちしかいないよ」


 顔を上げると、決意を固めた表情のユミエが見詰めていた。

 彼女の力強い言葉に、アユカも小さく頷いた。


















 日は沈み切り、カーテンを閉め切っていたソウコの部屋にも明かりが灯っていた。

 二人はソウコのマンションの道を挟んだ斜め前、ソウコの部屋である二〇一号室のリビングが見える居酒屋の窓辺の席に座っていた。


「……特に動きはなさそうね」

「ツイッターの方にも、何もないよ」


 ソウコの部屋を睨んでいたユミエがそう呟くと、スマホを眺めていたアユカが言い返した。


 カフェから出た後、二人はソウコとばったり会わないように気を使いながら、ソウコの部屋が見える近所を訪れた。

 アユカは最初、普通にソウコの部屋に行こうと提案したが、友人が来ただけでは上手く誤魔化されてしまうとユミエに却下された。

 ソウコは病院の事務員をしているため、土曜日も休みだとは限らない。だが、仕事の場合帰りが夕方になるのは確実だった。


 一先ずは、昼の時間の内に、ソウコの部屋を遠くから確かめてみることにした。

 アユカはその時、窓から犬の姿見えるのを期待したが、ベランダに出られるような大きな窓は、カーテンによって閉め切られていた。


 しかし、ユミエは落胆せずに、日が落ちるまで待とうと言った。

 カーテンが閉まっていても、電灯の明かりから部屋の様子が見えるかもしれないという考えだった。


 その間は、近くのネットカフェで潰した。

 夕方、ソウコがそろそろ帰っている時間に、彼女はツイートをしていた。


『今日は家で料理に挑戦します』


 二人はそれを合図に部屋を出て、あまり人のいない居酒屋に向かった。

 道路を挟んで斜め前に、ソウコの家が見える席を陣取り、観察する。


 だが、それらしい動きは見えなかった。

 ソウコらしき人影は最初から窓辺に置かれた座椅子にこちらを背にして座っているようで、時折頭が動いている。ツイートも一切しなくなった。


「ソウコ、料理していないみたいだね」

「それもそうだけど、少しおかしくない?」


 白い光に満ちた部屋を眺めていたアユカは、そう言われてユミエの方を見る。


「確か、ソウコのリビングのテレビは、窓と直角になる場所にかけられていたはず。あそこからじゃあ、見にくくないかな」

「テレビを見てるとは限らないよ。スマホをいじっているのかもしれないし、本を読んでいるのかもしれない」

「考え過ぎかな……」


 自信なさそうなユミエの言葉は、窓と面していない左側のキッチンから、リビングに入ってきたもう一人の人影によって遮られた。


 それは、背が高く、髪の長い女性のシルエットだった。何か、お盆のようなものを持っている。

 彼女が、ソウコだということは、友人である二人はすぐに分かった。


 色を失ったアユカは、恐る恐る口を開いた。


「今の、ソウコだよね?」

「……うん」

「じゃあ、今まで、座椅子に座っていたのは?」

「…………」


 アユカの質問に、ユミエは答えられなかった。


 ソウコと思しき人影は、座椅子の左隣にある小さなテーブルの上にお盆を置いた。自身もその前にしゃがみ込む。

 そして、スプーンを手に取り、お皿の中身を一口分掬った。それを、座椅子に座っている相手に食べさせたようだった。


 その様子を、二人は戸惑いながら眺めていた。ソウコの行動が理解できないようだった。


「ユミエ、どうしてソウコは作ったご飯を食べさせているの?」

「多分、料理を始めたから、その腕を彼に認めさせようとしているんじゃないかな」


 ソウコは、座椅子の相手と何か話していた様子だったが、スプーンを盆の上に戻すと、もう一つスプーンを手に取って、自分も料理を食べてみた。


 咀嚼した後に、彼女はスプーンを床に叩きつけた。

 もちろん音は聞こえなかったが、その瞬間、アユカは肩をビクンと動かした。

 

 立ち上がったソウコは、座椅子の相手に激しく叫んでいるかのようだった。相手は項垂れている。

 初めて見る友人の姿に、アユカも震えていた。思わずユミエを見て、尋ねていた。


「どうしよう、ユミエ……」


 すると彼女は、スマホを手に取り、ツイッターを開いていた。

 そして、『今日は家で料理に挑戦します』というソウコのツイートに、素早く返信を打った。


『どう? 料理は上手く出来た?』


 そのツイートはソウコの元にも届いたようで、立ったままの彼女はテーブルの上に目を落とし、自分のスマホを手に取った。

 しばらくそのスマホを操作していたソウコから送られた、新しいツイートがユミエのスマホの上に現れた。


『まただめだった お手本よりもうまくならないと』


 アユカも自分のスマホで、そのツイートを見ていた。


「ソウコ、大分落ち着いたみたいだね」

「まだ、安心できないけれど。ソウコは完璧主義者だから、相手がおいしいって言っても、自分が納得出来るまで続けるはず」

「大丈夫かな、彼氏さん……」


 心配そうにアユカが目を伏せた時に、頭上から「すみません」と声をかけられて、二人ははじかれたように顔を上げた。

 驚かせたことを申し訳なさそうに、男性のホール店員が、腰を低くして、テーブルの食べかけの料理などを手で示した。


「こちらのお皿、片付けてもよろしいでしょうか?」

「あ、はい。大丈夫です」

「おねがいします」


 食欲もなくなっていた二人は、ほぼ同時に頷いていた。店員は器用に両腕で沢山の小皿を抱えると、厨房へと立ち去った。

 ふと居酒屋を見回してみると、テーブル席やカウンターは埋まり、出入り口の外には入店を待つ客の姿もあった。


「結構人が入ってきっちゃったね、ユミエ」

「ここら辺は商店街もあるし、仕方ないよ」

「そういえば、ミオナの働いてる店も、この近くだったよ」

「へー、そうだったんだ」


 先程目にしてしまった非日常的な光景を忘れさせるかのように、ありきたりな会話を二人は交わす。

 一方で、今まで見ていたツイッターのタイムラインに、ミオナの名前が一度も出てこなかったことをアユカは思い返していた。

 インフルエンザで寝ているのならば、仕方ない事だが、毎日たくさんのツイートをするミオナがいないことが、寂しく感じられる。


 しかし、ソウコの部屋に目を移すと、彼女は座椅子の人物に自作の料理を食べさせていて、これが現実だと二人に突き付けてきた。


「……アユカ、もうここから出よっか」

「え? いいの?」


 確かにアユカもこの居酒屋で粘ることに限界を感じていたが、もう見張りをしなくて大丈夫なのかという不安があった。


「彼を監禁している目的が、もう一度振り向いてもらうためだとしたら、ソウコは彼を殺すことはしないと思う。今、ソウコがすごく怒っていたけれど、暴力は振るわなかったし、まだ、大丈夫だよ」

「そうだね……」


 アユカは小声で答えた。

 ユミエの分析は外れていないと思うが、まるでソウコを犯罪者のように扱うその言葉が、彼女の中に割り切れない気持ちを残していた。


 それぞれの荷物を持った二人は立ち上がり、会計を済ませて居酒屋の外に出た。

 五月の夜といえども気温は高く、歩いているだけ汗ばむ蒸し暑さだった。


「今日、アユカの家に泊まってもいい? 服とかは用意しているから」

「うん。いいよ」


 普段よりも大きめの鞄を持ち歩いていたユミエの頼みを、アユカは快諾した。

 ユミエよりもアユカの家の方が、ソウコの家に近いため、それは自然の流れだった。


「明日、彼を助けに行く。その為の作戦会議をしないと」

「そうだね。助けないとね」


 正義でぎらつく瞳で前を見据えるユミエだが、アユカは未だ、友人を悪人として見ることが出来ず、胸の内にわだかまりを抱えたまま、彼女の隣を歩いていた。





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