第33話
第三十三話「ともだち」
「ゼロ、ゼロ」と巨大なシルエットがつぶやいた。
「ゼロ? ゼロってなんだ?」と伊良夢は尋ね、シルエットに近づいた。
するとその巨大な者はバタバタと足音を響かせて走り出した。
「待って! 僕をひとりにしないで!」と伊良夢は巨大な者を追いかけた。
伊良夢がフロアを抜け、階段を上がろうとしたとき、フロアの隅に異様なものを目にした。彼は足を止めフロアに戻った。
「これは!」、伊良夢が見たものは、高層ビルの研究所の階段で会った白い子どもだった。
白い子どもは赤い液体の入った水槽の中で浮遊していた。彼はひとつの仮説を立てた。この白い子どもはブレイノイドである。巨大な者はこの白い子どもを見ていた。そもそもこの状況になったのはあの白い子どもに会ってからだ。巨大な者と白い子どもは現状の経緯を知っている。伊良夢はふと我に返り、巨大な者を追いかけることにした。
「出口は屋上だ」、伊良夢はつぶやいた。
円柱の施設の階段を駆け上がり、通路を走った。地下一階の階段の踊り場に出て上階に急いだ。六階へ上がる階段で巨大な者に追いついた。
「待て!」、伊良夢は巨大な者に叫んだ。
その者は身長三メートルはあろうほどの巨人だった。巨人は振り返り階下の伊良夢を見た。伊良夢は一瞬ひるみ、階段を一段後ずさりした。しかしここで彼を逃せば、ひとりぼっちのこの世界で永遠にひとりで暮らすことになる。その恐怖のほうが上回った。伊良夢は階段を駆け上がり、巨人の左の足にしがみついた。巨人は驚いて足を振り払ったが、伊良夢は離れなかった。伊良夢は巨人の足に噛みついた。巨人は伊良夢を振りほどこうと暴れた。そのとき、巨人の足は階段のステップを踏み外した。巨人は伊良夢を足に絡ませたまま、階段を転がり落ちた。
「あーっ!」、伊良夢は叫んだ。
伊良夢は体中に激痛が走り、そのまま気を失った。
伊良夢は気がつき目を開けた。目の前には巨人の大きな顔があった。巨人は涙を流している。綺麗な優しい目をしている。伊良夢には巨人の美しい心が見えた。体がゆらゆら揺れているのを感じた。巨人が伊良夢を抱きかかえてどこかへ運んでいる。足や手を動かそうとすると激痛が走る。
〈自分はブレイノイドだ。朝になれば怪我は治っている〉、伊良夢はそう巨人に伝えたかった。
伊良夢は何も悪さなどにしていない白い子どもを無意味に追いかけた代償として大怪我を負った。それにも関わらず、巨人にも同じことをした。同じ間違いを二度もしてしまい、二度とも罰を受けた。彼は自分の心の醜さに打ちひしがれていた。
「と、も、だ、ち」と巨人が伊良夢に向かって言った。
〈ともだち? 僕が友達? まさか。ゼロは友達の名前? 君は友達を探していたのか? 僕と同じじゃないか〉、伊良夢は声にならない思いを伝えたかった。
巨人は伊良夢を抱えたまま、シェルターの寝室に入った。そして、そこにある安眠装置ユリカゴのシールドを開け、伊良夢をそこに寝かせた。
「ともだち、ともだち」、巨人は涙を流しながらそう言ってユリカゴのシェルターを閉めた。
伊良夢は数秒で眠りについた。巨人はそのままシェルターを出て行った。
伊良夢は深い眠りの中にいた。このまま死んでしまうのか、見えない不安が彼を包み込んだ。どうせ誰もいない世界だし、死んでしまうほうが幸せかもしれない。ひとりぼっちで生きて行くより、生まれ変わって猫にでもなったほうが今よりずっとマシなのではないか。猫、伊良夢は猫であった過去を思い出した。ある朝、目覚めると、猫になっていたこと。相棒のバンダナとたくさん冒険をしたこと。ピカソのじいさんとした色々なこと。ゾンビのヒカジと出会ったこと……。
「巨人、彼はゼロを探していたんだ!」
バンダナとヒカリが言ってたことも本当だった。今さら気がついても、もう遅い。誰もいなくなった。これも夢、夢の中。どこからどこまでが夢なのか、伊良夢には境界線が見えなかった。
猫になる前の人間だったときの記憶。伊良夢は夢の中でそれを探した。深く、深く、どこまでも深い闇の中に意識を沈めた。どんよりと濁った空、息苦しい空気、ぬかるんだ足元、重い肩、肺の中に何かが詰まっている、脳の中で何かが揺れる。彼は自分の中に自分を見つけられなかった。
「これは、死というものなのか? 天国にいるはずはない。それとも、さっきまで見ていた世界が地獄なのだろか。巨人は死神ということ? もうこれで終わりにしよう。もう僕を連れて行ってくれ」
伊良夢は全身の力を抜いた。痛みに絶えることをやめた。考えることも、思い出すことも、意識を集めることも、全ての生きる行為を投げ出した。
「もう、これで、僕は自由だ」
伊良夢の意識はさらに深く、闇よりも暗く、落ちるとろこまで落ちていった。底などない。たどり着く地もない。何もなくなって、ただ消えていくだけだ。伊良夢は、ひとつの小さな小さな点になり、その小さな点さえも消えるまで、ただ、ただ、無になるのを待っていた。
ユリカゴで眠る伊良夢の目には、小さな涙の粒がたったひとつ、流れ落ちることもなく、まつ毛の先に揺れていた。
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