第20話
第二十話「ミスターピカソ」
「伊良夢君、さっきのゲームは私の勝ちよね」、階段を登りながらヒカリは尋ねた。
「え? ごめんなんだっけ?」
「ゲーム、私の勝ちでいい?」、ヒカリは伊良夢の顔をのぞき込んだ。「子ども、気になるのね」
「あ、うん」と伊良夢は気のない返事をしたが、ヒカリを気にして言い直した。「何で負けたんだろう?」
「知りたい?」、ヒカリも伊良夢に気遣って尋ねた。
「必勝法なんだけどなー」、伊良夢はわざと悔しい表情をして、ヒカリに見せた。
「あのね、私の心理作戦は、『じゃんけんでは、同じ手を出す回数より違う手を出す回数の方が多い』ってことを利用したものなの。つまり、相手が同じ手を出す回数を多くすれば、私は負けるのよ」とヒカリは説明した。
「でも、僕の作戦は『グー、グー、チョキ、チョキ、パーの五回ワンセット』だから、同じ手を出す回数は多いはずだよ」と伊良夢は答えた。
「そう、それこそが最大の弱点なの」
「どういうこと?」
「あなたの作戦で同じ手を出す回数を最大にするには『グー、グー、チョキ、チョキ、パー』のワンセットの次に、パーから始めて「パー、グー、グー、チョキ、チョキ』と出す」
「うん。ずっと二回ずつ同じ手が出せるよね。そうすれば勝てたんだ」
「いいえ。あなたは勝てないわ」
「え! どうして?」
「あなたが出す同じ手の二回目で、私は必ず負けるわ。でも、手を変えた一回目は……」とヒカリが言いかけたところで、伊良夢は気づいた。
「そうか! 手を変えた一回目の手で、君はあいこか勝ち。最善の手でも、同点ってことか!」
「そうよ! 『必勝法とは、負けない方法を見つけること』、なのよね」、ヒカリは皮肉を込めて言った。
「必勝法じゃなかったのか……」
「いいえ、五回ワンセットじゃなくて、『グーを四回、チョキを四回、パーを二回』の十回ワンセットで、二セット目をパーから始める」
「うんうん、四回ずつ同じ手を出すと、君は一回勝ってそのあとの三回は負ける。あれ? 待って! 五回ワンセットって言ったのは君じゃないか!」
「そうよ。だから心理作戦って言ったでしょ」、ヒカリはにこにこしながら言った。
「やられたぁ!」、伊良夢は顔をしかめて悔しがった。
そんなやりとりをしているうちに、伊良夢は白い子どものことをすっかり忘れていた。そして、ようやく父が描いた絵がある四十二階にたどり着いた。
ヒカリは四十二階のフロアのドアを開けた。ドアの向こうは暗闇だった。ヒカリは吸い込まれるようにフロアに進入し、伊良夢もあとについて闇に足を踏み入れた。
フロアの廊下はふかふかの絨毯のような柔らかい感触を二人の靴底に伝えた。正面にはろうそくでかたどったような光の道が遠くまで続いている。よく見れば、両側の壁の床近くに等間隔で並ぶ非常灯が、申し訳なさそうにうっすらと明かりをともしていた。
ヒカリは手を伸ばし壁のスイッチを押した。カチッという音とともに、長い廊下の蛍光灯が二人のいる廊下の端から順に点灯してゆく。
伊良夢は周りを見渡した。床には真っ赤なカーペットが敷かれ、両側の真っ白な壁にはたくさんのドアが規則的に並んでいた。白色のドア板、銀色のドアノブ、サイズも形もまったく同じで、プレートの番号だけが違っている。右側のドアには199、左は001。伊良夢は振り返って階段へつながるドアを見た。階段へのドアには番号プレートは付いていなかった。
ヒカリは廊下を進みだし、伊良夢は彼女のあとに続いた。彼は右と左のドア番号を見比べた。右側ドアのプレートの番号はカウントダウンを始め、左はアップしてゆく。いくら進んでも、両側のドア番号の和は常に200になっている。
横切る廊下もなく廊下は一直線に続く。ヒカリも伊良夢も口を開くことなく、ヒカリを先に縦に並んで廊下を歩いた。
廊下の行き止まり、ヒカリが歩みを止めると、伊良夢も彼女の後ろで立ち止まり、右と左のドアのプレート番号もカウントをやめた。伊良夢は番号を確認した。右側のドアは101、左は099、数字の和は最後まで裏切ることなく200を保っている。行き止まりの壁にドアがあった。そこには100のプレートが付けられていた。伊良夢は心の中で、200の和を保つ相手のいない100番のドアを気の毒に思っていた。きっと、階段のドアにフラれたのだろう、と。
「ここよ」、ヒカリは後ろを振り返ることなく言った。
ヒカリは100番の部屋のドアを開けた。部屋の中は真っ暗だった。ヒカリが部屋に入ると伊良夢も続いた。ドアの蝶番が乾いた金属音をたて、ドアが閉まった。部屋は漆黒の闇に包まれた。今度は非常灯のうす明かりさえない。ヒカリは闇の中でごそごそと作業をしている。
伊良夢は闇に呑み込まれ、じっと立ちつくしていた。目を開けているのか、閉じているのかさえわからない。伊良夢の記憶の中で、何かがくすぶっていた。「知っている」、彼はこの記憶を覚えている。伯父に連れられて行ったプラレタリウム……。「いや、違う。伯父とプラレタリウムなんて行ったことはない」、伊良夢は心の中でつぶやいた。「なんなんだ!」、誰かの記憶が伊良夢の中にある。「そうだ!」、彼は父と見たゴッホのヒマワリの絵を思い出した。「父の隣に猫の僕がいる。いや、僕は猫じゃない」、伊良夢は混乱していた。記憶が遠のくように、意識が薄れてゆく。まぶたの向こうに光が見えた。移動遊園地ではしゃぐ子どもたち、そのとなりには映画館、広場では犬と猫が走り回る……バンダナ……。
「伊良夢君、伊良夢君、大丈夫?」、ヒカリは伊良夢の肩を揺すった。
伊良夢の意識は少しずつ戻った。彼の目の前には一枚の大きな絵があった。色とりどりの絵の具で描かれた映画館の風景、看板は赤と緑と黄色のネオン。館の前の広場には、虹色の色彩で彩られた観覧車、メリーゴーランド。青い空の上で子どもたちが手をつなぎ、動物たちも人間もみんな笑っている。
伊良夢の目からは一筋の涙が頬を伝って落ちた。「これが父さんの描いた絵」、伊良夢はつぶやいた。
「この映画館、本当にあったんだって。私も行きたかったわ」とヒカリが言った。
「父さん……」、伊良夢は小さな声で、心の中の父に呼びかけた。
初めて見た父の絵は、なぜか懐かしさがある。遠い記憶の中を探しても、あるはずのない父との思い出が、ぼやけた輪郭となって微かに存在している。伊良夢は夢を見ているような緩い錯覚を感じながら、じっと父の絵を見つめていた。
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