第13話
第十三章「父」
「母さん、阿南のお父さんが帰って来たんだってね」と伊良夢はベッドで寝ている母に言った。
「そうなのよ。研究所でね、兄さんの研究に参加するんだって。私の病気もドクター阿南に診てもらったのよ。一週間もすれば良くなるって」と母が答えた。
「そうなんだ。そういえば、なんだか母さん、顔色がよくなったね」と伊良夢は母の顔を見て言った。
「そう? 阿南先生、医療も精神医学でもすごい人みたいなのよ」
「阿南のお父さんってどんな人なの?」
「おっきいの。大仏さんみたい。頭が良くって、それにとっても面白いのよ」と母は笑顔で話した。
「へー」と伊良夢はうなずいた。「父さんがいなくなって、母さん、無理してるんだよ」
「まぁ、無理の原因はどこかの誰かさんだけどね」と母は意地悪く言った。
伊良夢は言い返せず、頭をかいた。
「冗談よ」と母は笑った。
「父さんが生きていたらな」と伊良夢はタンスの上に飾られていた写真を見ながらつぶやいた。
「父さんは死んでないよ」、母は微笑んだ。
「まだ言ってんのかい。いい加減諦めなよ」
「父さん、見つかってないのよ。きっとどこかで生きてるわ」
「ねぇ、父さんってどんな人だったの?」と伊良夢は母に尋ねた。
「そうねぇ、あなた、まだ小さかったから覚えてないか」
「この写真のまま止まってる」
写真立ての中の伊良夢の父は、緑色のハンチング帽をかぶり、筆を持ってキャンバスに向かい、絵を描いている。
「結婚する前から、絵を描いてくるって、突然ふらっと外国に行ったりね。ほんと、自由な人だったのよ」と母が言った。
「でもさ、父さんの描いた絵、うちに一枚もないよね」と言って、伊良夢は口を尖らせた。
「描いたらあげちゃうのよ。父さんの描いた絵は幸運を呼ぶのよ」と母は自慢げに言った。
「そんなら一枚くらい家に残してくれてもいいのに」と伊良夢は愚痴を漏らした。
「そうね。父さんは自分のことはいつも後回しって人だったからね」と母はつぶやくように言った。「そうだわ。阿南先生が一枚持ってはずよ」
「じゃ今度、阿南の家に行って見せてもらうよ」と伊良夢は言い、「もう少し、ゆっくり寝てなよ」と母に優しく言葉をかけ、母の寝室を出て自分の部屋へ向かった。
自室に入ると伊良夢はノート型コンピュータを開き、『YURIKAGO』を立ち上げた。ゲームはレベル14に入っていた。その指令は「新たなシステムを導入せよ」となっていた。次のステージへつなぐための重要な試練である。彼はヒカリのアバターのヒカジを迎え入れることに成功したが、ゲームの中のメインシステムの度重なる不具合により、ゲームの進行に戸惑っていた。
〈ヒカリ、まだ起きてる?〉
伊良夢はチャット機能でヒカリに呼びかけた。
しばらくしてヒカリからの返信があった。
〈起きてるよ。何かあった?〉
〈ゲームが進まないんだ。メインシステムが故障した。何か対策はある?〉
伊良夢はヒカリに尋ねた。
〈うちのメインシステムをそっちに移植すればどう?〉
ヒカリは答えた。
ゲーム『YURIKAGO』の画面の中では、二人のアバターのイラムとヒカジが右往左往を繰り返し、ゲームの進展は完全に止まっていた。
ヒカリは脳科学研究所で『YURIKAGO』を操作していた。
「パパ、衣舞さんはもう復活できるかしら?」とヒカリは父であるドクター阿南に尋ねた。
「もう二、三日待った方が良さそうだ。できるだけ引き伸ばしてくれると助かる」とドクター阿南はヒカリに告げた。
〈ヒカジをもう少しそっちの環境に慣れさせなきゃいけないみたい。経験値がまだ低いのよ。そのまましばらく放置すれば、自動的に上がるはず〉
ヒカリは伊良夢に伝えた。
〈なるほど。じゃこっちは新システムの準備をしておく〉
伊良夢はヒカリに告げた。さらに思い出してこう伝えた。
〈君の父さんが、うちの親父の絵を持ってるらしい。今度見せて!〉
〈絵は研究所にあるわ〉
ヒカリからの返事が来た。
「衣舞さんは順調に回復している。マリアシステムが復活したら、ステージ2に入る前に、彼のコンピュータを最新バージョンのものに交換する必要がある」とドクター阿南はヒカリに伝えた。
「パパ、その前にダナシステムが必要よ。パパのAI、適合テスト用に変換できてる?」とヒカリは阿南に確認した。
「え? そのままじゃダメなのか?」と阿南はヒカリに聞き返した。
「パパ! 真面目にやって!」とヒカリは口を尖らせて、父親を叱った。
「適合テストなど必要なのか? まったく、オカチマチのやることは回りくどい」と阿南は面倒くさそうに答えた。
「ミスターゼロの意向なのよ。伊良夢はゼロの子孫だから、念には念を、ってわけ。それに、彼は私とバンダナさんの大切な友達なの。記憶をなくしたまま、失敗なんて私が絶対許さない!」とヒカリは声を荒立てて言った。
「ムタチオンならミックスブレイノイドへ変換成功率は99%だ。適合テストより、彼にまず伝えることのほうが大切だと思うが」とドクター阿南は言った。
「うん、それはパパの言う通りなんだけど。みんなどこかで、彼が普通の人間のままでいて欲しいと思っているのかも」とヒカリは力なく答えた。
「お前もそうなのか?」
「うん、私もまだ人間だから」とヒカリはつぶやいた。
「人間らしさ。それも大切なこと。私たちはそれを守ろうとしてるんだよ。この世界から人間らしさをなくしたら……。地球を救えるのは人間だけなのだから」と阿南は優しくヒカリに伝えた。
「パパがまだブレイノイド変換が可能な十八歳前ならどうする? 迷わずブレイノイドになれる?」とヒカリが尋ねると、「それは……」とドクター阿南は言葉を詰まらせた。
ドクター阿南にはまだヒカリに伝えていない事実があった。また、ヒカリがブレイノイド変換を拒否することは不可能であることも。すべてを伝えたとき、ヒカリが深く傷つくだろうと推測していた。彼は明るく振る舞う一方で、罪悪感に苦しんでいた。
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