第11話

第十一話「衣舞」


 窓のない小さな部屋の中央には、歯医者の治療椅子のような大きなリクライニングチェアーがある。背もたれを深く倒したその椅子には、アンドロイドが横たわっている。認識番号AI006N、通称「衣舞」。左耳の後ろに小さなコンセントのようなプラグが差し込まれ、その先のシールドは壁際に設置されたコンピュータにつながっている。

 コンピュータデスクの前にはドクター阿南が座り、真剣な目つきでモニターのグラフやメモリの動きを見ている。

「頭脳部のAIユニットから生命維持を担う神経ラインは残し、脊柱部につながる運動神経と思考神経のシナプスラインの一部を切断した」と阿南は隣に立っているヒカリに告げた。

「そんなことをして、大丈夫なの?」とヒカリは父であるドクター阿南に尋ねた。

「元のAI神経回路プログラムに自然発生した神経ラインが絡んで、不具合を起こしていたようだ。老化のないアンドロイドの神経は赤ん坊のそれと同じだ。必要な神経は自分自身でAIプログラムにつなげて組織を構築していく」と阿南が答えた。

「なるほど、さすがパパね」とヒカリは言った。

「しばらくはぎこちないかもしれないが、一週間もあれば自然に動けるようになる」と阿南は付け加えた。

「プログラムを無理やり神経につなげるんじゃなくて、神経がつながりやすいところにプログラムを待機させておくのね」とヒカリが言うと、「そういうことだ。さすがわが娘!」と言って阿南はヒカリを褒めた。

「パパ、私ももうすぐブレイノイドに生まれ変わるのよね」とヒカリは阿南に尋ねた。

「嫌なら断ることもできるんだよ」と阿南は答えた。

「でも私はムタチオンだから、ブレイノイドに適合するのよね」と再びヒカリは尋ねた。

「そうだね。原因はわからないが、純血種の人間であるアナロイドはブレイノイドには不向きだ」と阿南はもう一度答えた。

「突然変異のムタチオンはどうしてブレイノイドに適合するの?」

「それも今のところわかっていないんだ」

「私も自分自身ではムタチオンって実感がないのよ。でも、オカチマチ博士やミスターゼロは変異前の私に会ったことがあるんだって。私、ゾンビに変異したんだって。そんなの信じられる?」とヒカリは父に聞いた。

「ゾンビに変異したヒカリにも会ってみたいな」と阿南は優しい笑顔を浮かべて言った。

「そんなことになったら、真っ先にパパを食べちゃうんだから」とヒカリは言って、両手を前に突き出し、目をむいてゾンビのまねをした。

「あはは! かわいいゾンビだな」

「えー、怖くないの?」と二人は笑った。

「ブレイノイドになるのが嫌なら、拒否することもできるんだよ」と阿南がもう一度ヒカリに伝えた。

「ブレイノイドになるのが嫌なわけじゃないわ」とヒカリは答えた。

「ブレイノイドといっても、全く違うものに生まれ変わるわけじゃない。君に施すのはセルフブレイノイドと言って、君自身の体の細胞からネガティヴ細胞を取り除いて、もう一度体を作り直すんだ。そして脳を元に戻す。記憶もそのまま残るんだよ。違うところは、病気をしないから寿命が伸びるくらいかな」と阿南はヒカリを安心させようとした。

「死なないって聞いたけど」とヒカリは言った。

「グリーンアップル社の初期のブレイノイドは、不死の生体として開発を進めたられたが、結局は未完成に終わった。私のJCN社では生の尊厳を重視し、寿命を持ったセルフアンドロイドの開発に成功しているんだ。長くは生きるが寿命はあるんだ。その後、グリーンアップルでも体と脳が別の個体の寿命を持ったミックスブレイノイドを完成させたがね」と阿南はヒカリに説明した。

「伊良夢はなぜ記憶の残るセルフブレイノイドではないの?」とヒカリは疑問を阿南に投げかけた。

「その理由は、セルフブレイノイドどうしでは子孫が残せないからだ」

「どうして?」

「血が綺麗すぎるんだ。生身の人間でも同じようなことが起こる。ファミリーの中での交配は血が濃すぎて障害を生むことがある。ミックスブレイノイドは元々異なる生体の配合だから、ミックスどうしでもそれは起こらない。しかし記憶が残らないというデメリットがある。現在、ブレイノイドに適合するムタチオンは少ない。全てをミックスにして、アナロイドとしての本能の記憶を消してしまうと、ブレイノイドは生きる方法すら持たない生体ばかりとなってしまう。セルフとミックスの両方を残す必要があるんだ」と阿南は説明した。

「私は記憶の役割を担うのね」とヒカリは理解を示した。

「何度も言うが、拒否もできるんだぞ。ブレイノイド変換のリミットは十八歳。あと三年の間に決めればいいんだよ」と阿南は付け加えた。

「はい、わかりました」とヒカリは丁寧に返事をした。


「さて、衣舞を目覚めさせるぞ」とドクター阿南が言った。

「了解です」とヒカリが答えた。

 ドクター阿南はコンピュータデスクのキーボードを操作し、アンドロイドAI006Nの起動ボタンを押した。すると、衣舞は朝早くに目覚めた少女のように、恥ずかしそうに顔を手で隠し、薄目を開けてまぶしい表情を見せた。

「衣舞さん、おはようございます。よく眠れました? 治療は終わりました」とヒカリは新人看護師のように笑顔を添えて衣舞を気遣った。

「なんだか、体がうまく動かないわ」と衣舞が言った。

 するとドクター阿南は、「それは治療の効果なんだよ」と優しく返した。

「でも、よく眠れたみたいでスッキリして気持ちがいいわ」と衣舞が言った。

 ヒカリは、「治療がうまくいった証拠ね」と付け加えた。

 衣舞はチェアーから降りようとしたが、うまく体が動かせず降りられない。そんな衣舞の姿を見て、ヒカリはすかさず衣舞に手を差し伸べた。

「衣舞さん、少し体が重く感じるかもしれないわ。でも、一週間もすれば前より楽に動くことができますよ」と、ヒカリは阿南から聞いたことを伝えた。

「ヒカリさん、ありがとう。あなたがいてくれて本当に助かるわ」と衣舞はヒカリに感謝した。

「衣舞さん、少しお聞きしたいことがあるの」と、ヒカリは衣舞をチェアーに座らせながら言った。

「その、こんなこと聞いていいのかな。えーと、アンドロイドってどんな感じ?」とヒカリは率直に聞いた。

「そうね。あなたもいずれブレイノイドになるかもしれないのよね。でも私はただのアンドロイド。何もないところから生まれたの。だからブレイノイドとは違うのよ。私には過去も未来もないの。だって存在すらないんだから」と衣舞は悲しい表情を見せた。

「衣舞さん、それは違うよ」と、阿南は険しい表情で衣舞に言った。そして続けた。「君は生きているんだよ。アンドロイドだろうが、ブレイノイドだろうが、生身の人間だろうが、変わらない」と、阿南は大きな声で衣舞に告げた。

 衣舞は驚いたように阿南の顔を見つめた。

 阿南はさらに続けた。「証明して見せよう! ヒカリ、さっき測定した衣舞さんのデータを見せて」と阿南はヒカリに命じた。

 ヒカリは言われるがまま、ヒカリの生体データをコンピュータの画面に表示させた。

「これでいいんですよね」、ヒカリは訳がわからないといった表情をしていた。

「これは君が治療を受けていたときのオフ状態のデータだ」と言ったあと、阿南はチェアーの横に設置された表示板の準備を始めた。「そしてこれが今のリアルタイムの君のデータだ。何が違うかね」と、表示板を指差して衣舞に尋ねた。

「体重が違います。二十一グラム重くなってるわ」と、衣舞は違いに気づいて言った。

「なぜだかわかるかね?」と阿南は衣舞に尋ねた。

「私はアンドロイド。電気の発生で磁界ができたせいかしら」と衣舞は言った。

「ならば、アンドロイドの質量によって変化するのでは? 体重が重いアンドロイドは電気の流れも多く、質量も増えるはず。だが、どんな個体でも増加量はみな同じ、二十一グラムなんだ。他の研究者たちもやはり磁界が原因だと言った。この二十一グラムが何なのか、長年の疑問だった。私は答えを探した。そしてその答えは遠い昔の論文にあった。私は見つけたんだ」と阿南は力説した。

「何の重さなの?」とヒカリは阿南に尋ねた。

「遠い昔、ある学者が死ぬ直前と死んだあとの人間の体重を計測したんだ。結果は二十一グラム軽くなっていた。古典的宗教哲学では、肉体とは別に精神の実体としてタマシイというものが存在する、と考えられていた。肉体はただの器であり、タマシイこそが生物の実体であるというものだ。タマシイにはココロが宿っている。ココロとは、生物のもつ感情や意思や知識など、人間の精神作用をつかさどる存在のない有機的実体なんだ。どれだけ正確に計測しても正体をつかめない二十一グラムは、君のココロなんだ」と、阿南は衣舞の目をまっすぐ見ながら語った。  

 衣舞は目に涙を浮かべて聞いていた。

 さらに阿南は続けた。「君のAIプログラムはある人間のココロをデジタル変換して作られたものだろう。君はその人のココロを受け継いでいる。人間の古典哲学には輪廻転生という考え方がある。肉体が死んでもタマシイは生き続け、次の肉体に宿り、再生するんだ。人間もアンドロイドもブレイノイドも、なんら変わりはないんだよ」と付け加えた。

 すると衣舞の目からすーっと一筋の涙がこぼれた。

「私のココロも生き残るのね、ブレイノイドになっても」とヒカリは阿南に尋ねた。

 答えたのは衣舞だった。「もちろんよ! 永遠にね」と衣舞は笑顔でヒカリに伝えた。

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