第8話

第八話「IRAM」


 ここはある施設のオペ室。床に埋め込まれた電灯が天井に向けてぼんやりとした白い明かりを放つ。部屋の中央には人がひとり入るくらいの銀色のポッドが置かれている。その光景は白い霞の上に氷の塊が浮かんでいるように見える。ポッドの中には一体の真っ白な人型生命体が眠っている。オペ室を囲む四枚の壁、三面は床からの白い光を反射し、もう一面はガラスが張られている。ガラスの壁の外側には監視室があり、二人の奇妙な人間が、ガラス越しにオペ室の白い人造人間を見ている。


 革張りの黒いチェアーに座る白いタキシードの小さな男は、禿げあがった白髪に白いひげを蓄えた初老の紳士である。その隣には身長二メートルを超える巨人が、天井に頭をぶつけないように首を横に向けて立っている。黄色い蝶ネクタイを締め白いシャツに丈の短いベストという姿で。

「オカチマチ君を呼びたまえ。もう時間が迫っている。もはや人類絶滅の危機はすぐそこまで来ている。時間がないのだ」と、小人はガラスの向こうのポッドに入った白いモノを見ながら巨人に言った。

 巨人は小人の命令に返事もせず、頭を横にしたまま斜め方向にコクリとうなずき、規則正しく左向け左をしてドアまで近づき、体をくの字に曲げ、彼には小さすぎるそのドアから出て行った。


 ひとりになった小人の紳士は、瞬きひとつせず、ガラスの向こうの生命体をじっと見つめていた。

 小人には名前がない。存在すらないと言う。しかし存在のない彼を見た人間は、彼を「ゼロ」と呼んだ。それ以来、人々は彼を「ゼロ」という認識名で受け入れた。やがて人類は存在のない「時間」という概念を生み出し、自らの破滅の第一歩を踏み出した。破滅へと導く概念に脅かされた人類を、今、存在のないゼロが救おうとしている。


 数分後、監視室のドアが開き、身を屈めた巨人が入ってきた。くの字に曲げた背中を伸ばすと同時に首を横に曲げ、ゼロの斜め後ろに立った。巨人はゼロに報告もせず、黙ってうなずいた。

「理想的新生人造人間(Ideal Reborn Android Man)、人間の絶滅阻止にはこのIRAMが必要なのだ。何としても目覚めさせなければならない。培養良性細胞でできたボディは完成した。あとは脳の適合者を見つけるだけだ。すでにオカチマチ博士が何人かの候補者を見つけ、適合テストを行っている。運命の日は二三一四年九月十五日、脅威はもう目前まで来ている」

 ゼロは独り言のようにそう言うと、巨人は頭を横に傾けたまま黙ってうなずいた。

「私は未来でお前を見つけた。お前は最後の人間である。存在しない私がゼロと呼ばれるなら、人類最後のお前は『ゼット』と呼ぶにふさわしい」

 ゼロは『ゼット』と名づけられた巨人にそう言うと、ゼットは頭を横にしたままうなずいた。

「だが、最後の人類はお前でなくなる日がようやく来るのである。私がお前を未来から連れて来たのは、これまでの人類の過ちを正すためだ。人間は絶滅するにふさわしいが、消えてしまうには惜しい生物である。私は人間の体に宿り実感したのだ」

 そのとき、監視室のドアが開き、オカチマチ博士が入ってきた。ゼットは横に曲げた頭を左に向け、博士の顔をひとめ見て、無表情のまま頭を元の位置に戻した。ゼロは振り向きもせずガラスの向こうの人造人間を見ている。博士は巨人の横に、ゼロに背を向け壁に向かって立った。

「ミスターゼロ、あなたは神なのですか?」と、博士は壁に向かったままゼロに尋ねた。

「神というのは人間が作った生きかたの指標にすぎない。人間は人間の子を宿す。子もまた人間の指標なのである。人間が作ったモノを神というなら、人間が神ということになる。これこそが人間の大きな過ちたのだ」とゼロは答えた。

「あなたは何者なのですか?」と再び博士が尋ねた。

「存在のない私は何者にも分類できないのだ。人間が作った過ちのひとつであることは間違いない」

「人間が過ちであるなら、なぜ滅亡のまま放っておかず、救おうとしているのですか?」

「人間は生物に必要な悪であり、地球にとって不可欠な毒なのだ。世界のエネルゲンの総和はプラスマイナス、ゼロである。そのマイナス要素を人間が担っている。つまり、人間が絶滅したあとの地球は均衡が破られ、崩壊に向かうのだ」とゼロは説明した。

 オカチマチ博士は沈黙し、ゼットは訳もわからないままうなずき続けた。ゼロは自分の後ろで壁に向って立つ博士に尋ねた。

「適合者は見つかったかね」

「現在は、生存する人類の中で、優秀な頭脳を持ち、身体能力の高い、免疫力に優れた人間を分別しています。これまでの分別で残った人間には適合者がいません。まだ時間が必要です」と博士は答えた。

「博士、君は勘違いをしておる。人間レベルでの優秀な人材が適合するとは限らないのだよ」

「なぜですか?」

「人間と他の動物の違いは何かね」

「直立歩行によって進化した脳の大きさです」

「それはただ大きいか小さいかの問題で、細胞レベルで見ればカエルも人間も同じなのだよ」

「では、何が違うのですか?」と博士はゼロの方に向き直り尋ねた。

 ゼロは革張りのチェアーをゆっくりと回転させ、博士の方を向いた。そして、彼の顔をまっすぐ見て答えた。

「血だ」とゼロはひと言で答えた。

「血液ということですか」と博士が問うと、ゼロは目をつぶってうなずいた。

 すると、博士は下を向いて指を膝の上でたたき始めた。そして何かひらめいたように顔をあげ、ゼロの顔を真っすぐ見た。

「ムタチオンの血液は、純血種の人間であるアナロイドとも、他の動物とも、分子配列が異なります」と博士は興奮気味に言った。博士は何かを発見した。

 ゼロは興奮した博士の言葉を聞き、しばらく考えを巡らせ、やがて沈黙した。そして、突然笑い始めた。

「わっはっ、わっはっはー! そういうことか、そういうことだったのか、オカチマチ君」

 ゼロが大きな声で笑うと、ゼットも一緒になって笑いだした。

「ぐわっふぁっふぁー! ふぁっふぁっふぁー!」

 そして、ゼロが指をパチンと鳴らすと笑うことをやめ、何もわからず笑っていたゼットも少し遅れて笑うのをやめた。

「ですが、ムタチオンはブレイノイドになるために突然変異した、と仮定しても、その経緯もメカニズムもわかりません。ムタチオンは謎の変異生物です」と博士はゼロに言った。

「ならば博士、人間が生まれた経緯は? そのメカニズムは? 生物は地球で生存競争に生き残るため、常に進化し続けなければならない。今、人類滅亡の危機を目前にして、ムタチオンなる変異体が出現した。私は何度もタイムトラベルを繰り返し、船の進路を変えようと試みた。しかし、潮の流れを変えることは不可能だった。だが、ここで風が吹いてきたのだ。我々にできることは、ただ帆を上げるだけだ」

「わかりました。確かに、私もムタチオンたちに救われた者の一人です。彼らなら人間を救うことも可能かもしれません」と博士はうなずいた。

「君の元にいたムタチオンたちはどうしている?」とゼロは博士に聞いた。

「バンダナとヒカリはまだXYZ空間に存在しています。しかし、猫に変異した彼はアルタラチオンとなって、別の次元へ移動したと思われます」と博士はゼロに告げた。

「私の孫なら知っているかもしれないが、彼の生きている時間空間へ再び向かうと、ムタチオンの誕生を阻止してしまうおそれがある」とゼロは言った。

「ゼロ次元のここからなら探し出すことは可能だと思われますが、今はどんな姿となっているのかもわかりません。しかし、バンダナとヒカリなら探し出せるかもしれません」と博士が言った。

「彼女たちに任せるしかないようだな」

 ゼロは再びチェアーを反転させ、ガラスの向こうのアンドロイドを見た。

「ミスターピカソは本当に亡くなったのでしょうか」と博士はゼロに尋ねた。

「それは私にもわからない。私は長く生き過ぎた。彼が死んでいるのなら、そのまま永遠に続く時間の中で眠らせておいてあげたいものだ」

 ゼロの視線はガラスの向こうの真っ白い生命体を通り抜け、はるか遠くの過去をぼんやりと見ていた。

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