第6話
第六話「ヒカリ」
衣良夢は自宅の部屋で『YURIKAGO 』をプレイしていた。ステージ13の指令である「友達を迎え入れよ」も、もうすぐクリアする。
彼は数時間ゲームに夢中になっていたが、母がまだ帰っていないことにふと気づいた。買い物にこれほど時間がかかるわけもなく、退院したばかりということもあり、悪い予感を感じた衣良夢はテーブルの上の携帯電話を手に取った。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「母さん、遅いよ」と、伊良夢がドアを開けると、そこには母ともうひとり、彼の知る女の子が立っていた。
「あ、君……」
「おばさん、スーパーで気分が悪くなったみたい」と女の子が言った。
彼女は伊良夢のクラスメイトの阿南ヒカリだった。
「母さん、大丈夫?」
「ええ、ヒカリさんが介抱してくれたのよ」
「阿南さん。ありがとう。母さん、大丈夫?」
「大丈夫よ、ヒカリさんのおかげでね」
「私、帰ります」とヒカリは照れくさそうに言った。
「そういうわけにはいかないわ。お礼しなきゃ。さぁ、ヒカリさんも上がって」と母がヒカリに言った。
「じゃ、少しだけお邪魔します」
「どうぞ、狭いけど」と言って、伊良夢はヒカリを家に招き入れた。そして、母親をソファーに座らせた。
「母さん、少し休んだほうがいいよ」、伊良夢は母を気遣った。「阿南さんも、その辺に座って」
ヒカリは遠慮がちにダイニングテーブルの椅子に座った。
「私はもう平気よ」と母は言った。「あなた、気が利かない子ね。ヒカリさんにお茶を出しなさい。それから、冷蔵庫にケーキがあるわ」
「わかったよ。まったく! 心配かけて」、衣良夢はブツブツつぶやいて、紅茶の準備をし、冷蔵庫のケーキをヒカリに差し出した。
「どうぞ」と伊良夢はぶっきらぼうに言った。そして、そわそわしながらヒカリの前を行ったり来たりしていた。
「落ち着かない子ね。あなたも座りなさい」と母が言うと、衣良夢は窓の方を向いてテーブルの椅子に座った。
しばらく沈黙が続き、母は二人が何を話し出すのかと、衣良夢とヒカリの顔を交互に見ていた。
沈黙を破ったのはヒカリだった。
「ねえ、明日からのテストは大丈夫?」
「え? テスト明日からなの?」
「そうよ。やっぱり知らなかったのね。最近、学校に来ないから……」とヒカリが言いかけると、衣良夢は慌てて、「余計なことを……」と彼女に注意すると同時に、母の顔をチラッと見て、また顔を背けた。
「衣良夢! あなた学校サボってたの?」
と母が怒りを示すと、衣良夢はすっと立ち上がり、自分の部屋へ避難しようとした。
すると、「どこ行くの!」という怒鳴り声が衣良夢の背中を突き刺した。その声の主は母親ではなくヒカリだった。
ヒカリはカバンを開け、中からノートの束を取り出し、テーブルの上に置いた。
「私、図書館の帰りなの。ひと通り勉強は終わったから、見直しするのにちょうどいいわ」と言ってヒカリは立ち上がり、意地悪そうな顔をして伊良夢をにらみつけた。「勉強するわよ! ノートと鉛筆はどこ?」
「へ、部屋にあります」と衣良夢は言って、ヒカリを自分の部屋に案内した。
「あらまぁ、頼もしいわ。ヒカリさんご迷惑じゃない?」
「おばさん、任せてください!」
「ビシビシしごいてやってね」
「さぁ、行くわよ!」
衣舞とヒカリの計画に、伊良夢は全く気づいていない。二人は自然に計画を実行できるように日常を装い、決行の機会を伺っていた。
ヒカリ先生の授業は三時間続いた。伊良夢の苦手な英語だったが、教え方の上手な彼女のおかげで、テスト範囲の課題を次々にこなすことができた。
母親はそのあいだに夕食を作り、頃合いを見て衣良夢の部屋のドアを開けた。「さぁ、お腹がすいたでしょ。ヒカリさん、カレー、好き? テーブルへどうぞ」
ヒカリが食卓のテーブルに向かうと、そこには夕食が並べてあった。
「まぁ、おいしそうな匂い。お腹ペコペコです」
ヒカリはひと仕事終えて、すっきりと満足気な笑顔でテーブルについた。一方、衣良夢はずいぶんとヒカリにしごかれたようで、自室の机の上でぐったりとしていた。
「まぁ、おいしい!」
「あら、ありがとう。たくさん食べてね」
「僕だってこれくらい作れるぜ」と衣良夢は母とヒカリの会話に割り込んだ。
「あら、あなた、ニンジン食べてるじゃない。女の子の前だからって、カッコつけちゃって」
「うるさいなぁ!」
「ところで勉強は進んだかしら?」
「あと二時間もあれば、試験範囲まで終わりますよ」とヒカリが答えた。
「え! まだ二時間もやるのか? 親が心配してるから、帰った方がいいんじゃないか?」
「こら、衣良夢! 勉強したくないからって、そんなこと言って」
「いいえ、家に帰ってもひとりだから」と、ヒカリは寂しそうな表情も見せず、笑顔で答えた。
「お父さん、まだ海外で頑張ってるんだ」と伊良夢の母が言うと、ヒカリは黙ってうなずいた。
「あれ? 母さん、阿南のお父さんを知ってるの?」
「言わなかったっけ? 兄さんのお友達よ」
「へー、そうなんだ」と伊良夢はうなずいた。
「いつも、ご飯はひとりぼっちなの。だから、こんな楽しい夕食、久しぶりです」とヒカリは言うと、「だったら、毎日来ればいいよ。僕が作ってやるよ」と伊良夢がヒカリに言った。
「衣良夢君、優しいのね」
「違うのよ。私が入院している間に料理を覚えてね。誰かに試したいだけなのよ」
「そうなんですか」とヒカリは言った。「じゃあ、いろいろ教えてもらおうかな」
「いいぜ、いつでも来いよ」
「あらま。実は全部、私のレシピなのよ」
「母さん、バラすなよ」
つい先日までそれぞれひとりで過ごし寂しかった三人は、久しぶりの賑やかな夕食をたっぷりと楽しんだ。もっとも、衣舞とヒカリはそれを装っているだけなのだが。そんな夕食の場の片隅では、バンダナが何かの機会をそっと伺っていた。
「衣良夢君、さぁ、行くわよ」
「ちょっと、その前に」、衣良夢はコンピュータを開き、『YURIKAGO』の様子を伺った。
ヒカリはそれを見て、「あっ、やっぱりイラムって、衣良夢君だったのね」とヒカリが言った。
「え?」
「それ『YURIKAGO』でしょ」
「どうして知ってるの? 発売前の……あ、そっか、お父さん、伯父さんの友達だから」、衣良夢はそこで気がついた。
「もしかして、ヒカジって……」
「そうよ。それ、私」
「そうか、阿南だったのか」
「ははーん。これが問題の大昔の遺物ね」
ヒカリは衣良夢のコンピュータをいろんな角度から観察した。
「ねえ阿南、もうちょっとスムーズに動かせないかな」
偶然にも伊良夢の方からコンピュータ高速化の提案があった。衣舞とヒカリの計画は、伊良夢のコンピュータ環境の改善と『YURIKAGO』のプログラムデータの変更であった。
「ちょっと貸してみて」
衣良夢はヒカリにコンピュータを見せた。ヒカリは慣れた手つきでコンピュータの設定を変更した。
「ちょっと設定を変えてみたわ。これでずいぶん速く動くと思うわ」
「阿南、君ってすごいな」
「さぁ、勉強始めるわよ」
「ちょっと待って、その前にトイレ」
衣良夢はトイレに立った。すると、キッチンからバンダナが急ぎ足で入ってきた。ヒカリは胸の赤いバッジのボタンを押した。
「バンダナさん、状況はどう?」
「やはり、ヒカジの招待で行き詰ってるわ。プログラム自体を変えなきゃ入れないみたい」、ヒカリの胸のバッジが犬の言葉を翻訳し、バンダナのメッセージをヒカリに伝えた。
「わかったわ。何とかやってみる」とヒカリは返事をした。「衣良夢君を足止めして。衣舞さんもお願いします」
「わかったわ」とバンダナは返事をし、衣舞はキッチンから手振りでオーケーのサインを出した。
ヒカリはバッグからデータディスクを取り出し、衣良夢のマシンのドライブに差し込み、すごい速さでキーボードを叩いた。
衣良夢がトイレから出てくると、母は彼を呼び止め、耳元でささやいた。「ヒカリさんいい子ね。彼女にしちゃいなさいよ」
「何だよ、いきなり」
衣良夢は母を振り切って部屋に戻ろうとした。すると、バンダナが衣良夢の足元に擦り寄った。
「くぅーん」
「何だよ。バンダナまで。母さんが変なこと言ったから、やきもち焼いてるのか?」と衣良夢は言って、バンダナの頭をなで回した。しばらくじゃれ合ったが、バンダナを抱きかかえたまま部屋へと入っていった。
部屋ではヒカリがコンピュータと格闘していた。
「どうだい? 前より動くようになったかい?」
ヒカリは慌てて、「う、うん。ずいぶんよくなったわ」と返事をした。ドライブにディスクを入れたままであり、ヒカリは少し焦りを感じた。
すると、キッチンから衣舞が衣良夢を呼んだ。
「衣良夢、デザートよ。取りに来なさい」
「はーい」
ヒカリは衣良夢が部屋から出ると、大急ぎで作業を続けた。すると、衣良夢を振り切ってバンダナが部屋に戻ってきた。
「どう?」
「もうすぐです」
ヒカリは大急ぎで作業を進め、バンダナは部屋とキッチンを往復し、衣良夢の行動をヒカリに伝えた。
「終わった」とヒカリは小さくつぶやき、衣良夢のマシンからディスクを取り出して、カバンに押し込んだ。そして、バンダナに目で合図を送った。バンダナはキッチンに戻り、「ワン」とほえて、作業の完了を衣舞に知らせた。
衣良夢がデザートの乗ったトレイを持って部屋に戻ったとき、ヒカリはすでにコンピュータを閉じていた。
「阿南、これ食って、さっさと片付けようぜ」
「あら、意外とやる気なのね」
それから、一時間半ほどで明日のテスト範囲の勉強を済ませた。
「終わったー。阿南、ありがとう。助かったよ」
「いいえ、私も勉強になったわ」
そこへ母の衣舞が部屋に入ってきた。
「終わったのね。ヒカリさん、ありがとうね。衣良夢、ちゃんと家まで送って行くのよ」
「了解」と伊良夢は母に返事をし、つぶやいた。「また、明日も来てくれないかな」
「何甘えてんの? そんなに毎日、ヒカリさんも迷惑よ」
「そうだわ。衣良夢君、数学が得意だったわよね」
衣舞とヒカリは、計画を伊良夢に悟られないように自然に振る舞い、ひそかに計画の実行へとつなげた。
「うん、数学ならバッチリ」
「なら、私が教えてほしいわ」
「オッケー、じゃ、明日も午後から」
「あらあら、いつになくやる気なのね」、母は衣良夢を冷やかした。
「それじゃ、おばさん、お邪魔しました。バンダナちゃんも、また明日ね」
「あれ? 犬の名前、教えたっけ?」
「あ、ああ、さっき、おばさんが呼んでたから」
「そっか。阿南を送るついでにバンダナも散歩に行くか?」
「ワン」
彼女らの計画に、伊良夢は全く気づいていなかった。これで計画通り、ヒカリは伊良夢の生活にすんなりと入ることができた。本来の計画にはなかったが、ヒカリは不具合を抱えた衣舞のサポートをすることとなった。ある目的のためにーー。衣良夢が真実を知るには、まだ、あらゆる経験が足りなかった。
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