第2話

第ニ話「伊良夢」


 彼は散らかり放題の部屋を掃除していた。

「バンダナ、もう時間がないぞ!」

 バンダナは彼の唯一の友達、といっても、毛むくじゃらの四本足で歩く動物、つまり犬だ。

「ワン!」

 血統書なんてものはなく、雑種の雌犬であるバンダナは舌をペロンと出し、彼の作業を見守りながら鼻をクンクンと鳴らしていた。

「スイッチ、オン」

 彼が掃除機のスイッチを入れると同時に、バンダナはテーブルの周りをクルクルと駆け回った。それから、脱ぎ捨てた洋服を洗濯機に放り込み、食べ散らかした食器をシンクで洗い、テーブルの上の雑誌や漫画の本をクローゼットに押し込んだ。バンダナは彼の邪魔をしないようにそばで尻尾を振りながら見守っていた。それでも彼女は精一杯彼を手伝っているつもりであり、彼もまたそんな彼女の行動を十分理解しているつもりなのだ。

「ダメか」、壁にかかった時計を見ながら、彼はため息とともにつぶやいた。こんな散らかった部屋を見れば、きっと綺麗好きの母の怒りが爆発することを、彼はよく知っていた。


 今日は彼の母の退院の日。母の一年間の入院で、部屋はしっちゃかめっちゃかになっている。母を迎えに行く時間が迫っているのだが、部屋はまだ半分も片付いていない。

「もう時間だ。諦めるしかない。バンダナ、母さんを迎えに行くぞ!」

 彼は掃除機を放り出し、ジャケットを羽織って出かける準備をした。

「あれ? 鍵はどこだ?」

 テーブルの上やら椅子の下を探したが、見当たらない。

「バンダナ、鍵を探してくれ!」と、机の下で四つんばいになりながら、彼はバンダナに命令した。

 彼女は家の鍵に付いているウニのようなトゲトゲのゴムでできた緑のキーホルダーが大好きで、それを見つけるといつも飛びかかってきて奪い、ひとりで遊んでいる。彼はバンダナの習性を熟知しており、バンダナもまた、ようやくご主人様のお役に立つときが来た、とばかり、「ワン!」と一声上げ、ソファーの下に潜り、お尻を振って短い尻尾を揺らしながら鍵を探し始めた。

 バンダナはすぐに緑のトゲトゲの付いた鍵をくわえて、ソファーの下から出てきた。

「よし、よくやった」

 彼はバンダナの頭をなでながら玄関を出た。

「いい加減、離してくれないか」

 バンダナはそれをくわえるとなかなか離さない。仕方なく、彼はバンダナにトゲトゲの付いた鍵をくわえさせたまま家の鍵を閉めた。そして、バンダナを連れて母のいる入院先に向かった。

 

 彼の母の入院先は病院ではなく、伯父が勤めている脳科学研究所だった。伯父のオカチマチは脳科学博士で人工知能研究の第一人者なのだが、医者でもある。それで彼の母は医療設備も整った実の兄が勤める脳科学研究所の医療施設に入院したというわけだ。かといって、脳の病気だということではなく、伯父に聞いても漢字ばかりの長い病名を言うばかりで、結局、彼は母が何の病気なのかわかっていない。死にいたる病気ではないということなので、それほど心配はしていないようだ。


「やぁ。例のゲームは進んでいますか?」

 彼が研究所に着くと、伯父がホールで待っており、いつものようにこう尋ねた。母のお見舞いに行くと、伯父は決まって真っ先にゲームの進展を尋ねる。

「メインシステムが壊れて、マリアとの通信が途絶えちゃったんだ。その修復で七太陽年かかった」と彼はゲームの経緯を伯父に話した。

「えっ! それでどうなりました?」

 伯父は、たかがゲームのことなのに、彼の肩を揺すって慌てふためいて尋ねた。

「今朝、ようやく復旧できたよ。一週間もかかっちゃった」と彼が答えた。

 すると伯父は、「そうですか! マリアとの通信が復活したんですね。よくやった!」と、彼の頭をなでながらようやく笑顔を見せた。


 『YURIKAGO』は彼の伯父のオカチマチ博士が開発したゲームで、甥の彼にモニターとしてゲームをプレイさせていた。伯父は彼に会うたびにこと細かくゲームの経過を尋ねる。ゲームの内容はブレイノイドを育成させ、人間社会に適応できればクリアとなる。発売前のゲームだからプレイヤーの反応は気になるのだろうが、彼は伯父の反応がいささか過剰な気がしていた。しかし、ゲーム自体はリアルで面白く、よくできている、と彼は思っていた。伯父の説明では、ゲームをしているだけで数学や物理、プログラミングの知識が身に付くということだ。実際、彼はゲームの中のメインシステムの復旧で、プログラミングの技術を学びながらプレイしていた。彼は伯父のことを「さすが人工知能の研究者だ」と尊敬していた。しかし、その裏には隠された秘密があった。彼はまだそれに気づいていない。


 病室に行くと、母はもう帰りの支度を終えていた。母は彼とバンダナを見ると、「来てくれたのね。あら、バンダナまで」とクシャクシャの笑顔で喜んだ。

「ワン!」とバンダナも彼の腕の中で尻尾をふって喜んだ。

「母さん、調子はどう?」

「ええ、もうすっかり良くなったわ」と、母は彼からバンダナを取り上げ、彼女の頭をなでながら言った。

「さぁ、家に帰ろう。伯父さん、お世話になりました」と彼は丁寧に伯父に頭を下げた。

「ああ、少し不安が残るが、無理をしなければ大丈夫だ。妹を頼んだよ」と伯父が言うと、「ワン!」と彼はふざけて、バンダナのまねで伯父の言葉に答えた。


 入院前、母は彼のためにノートに料理のレシピを残していた。それまでご飯も炊いたことのない彼は、母のノートのおかげで、お米の洗い方から魚のさばき方、出汁の取り方、煮物に焼き物まで、ひと通りの料理をマスターしてしまった。研究所からの帰り道、料理の腕を上げた彼は、一年ぶりに家に帰ってくる母に何かおいしいものを作ってあげよう、と考えながら歩いていた。


 家に到着し、家の鍵を開け、母が部屋に入った。すると、部屋の様子を見て、「ちょっとあなたたち、そこに座りなさい!」と母は一喝した。

 一年ぶりに帰ってきたのに、彼女はお怒りのようだ。なにしろ、綺麗好きの母がこんなに散らかった部屋を目の当たりにしたのだから、怒りが爆発するのは仕方がない。彼はバンダナと相談して、ここは素直に謝ろう、ということにしていた。

「なーに? この散らかった部屋は!」と母は彼とバンダナの顔を交互に見ながら怒鳴った。するとバンダナは母の怒りに驚いたのか、床におしっこを漏らしてしまった。彼はそれを見て思わず吹き出した。

「バンダナ。そんなところにおしっこしちゃダメだよ」と彼は笑いをこらえながら言った。

 そんな彼を見て母は、「ちょっと、あなた! 何を笑ってるの? 反省していないのね」と、さらに怒りを爆発させた。

「だってバンダナが。こんなところでおしっこ……」、彼はとうとうこらえきれずにお腹を抱えて笑い出した。

「まぁいいわ。そこはあなたがちゃんと掃除しなさい」

 母は、自分が入院していたせいだと諦め、一年ぶりの帰宅を家族とともにくつろごうと努めた。


 彼の名は衣良夢。母の衣舞の元で、メスの愛犬のバンダナと共に暮らしている。

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