第七章 大会前夜

第30話

「りぃも特訓しなきゃって思うんだよね」


今日、最後の授業が終わるや隣の席のリィがアイガへ話しかけてきた。声が大きく、アイガは思わず視線を動かして教室の様子を確かめた。

友人とだべっていた何人かがこちらに視線を向けていたがすぐに元の位置へ顔を戻す。追加の講義を受けるために三、四人ほど慌てて教室を出て行ったが、それを除けば教室内は放課後特有のまったりとしたムードに支配されていた。

女子二人組みが「リィちゃんまたね」と隣を通り過ぎていく。追加の講義を受けに行くんだよと、リィが彼女達の名前を教えてくれたが、今のアイガにとってはすこぶるどうでも良い情報だった。

ちなみに教室の席順はどの授業も早い者勝ちとなっている。のんびり歩いていく二人は席がどこになろうと構わないのだろう。彼女らが教室から出て行くのを見届けてからアイガは口を開いた。


「だから特訓て何をやるんだ?」

「思いつかないからアイガ君に聞いているんだよ。授業中に色々考えていたでしょ?」


リィが指先でコンコンとアイガの机を叩いた。テキストやノートの下にレポート用紙が二枚あり、その白い用紙はどちらもペンで描かれたゲインらしきロボットのイラストと殴り書きのメモで埋め尽くされていた。

メモの文字は走り書き過ぎてリィには読めなかった。おそらく何日か過ぎれば書いたアイガも判読することができなくなるだろう。それくらい乱雑な文字だ。

ただ文字は読めなくとも全体の雰囲気で何について書かれているのかは察することができた。


「これって試合の必勝法だよね?」

「ま、やるからには勝ちを狙いに行かねぇとな。期待もされているワケだし」

「必勝法は思いついた?」

「サッパリだ。覚先輩を化かすにゃどうすりゃいいのか……」


アイガは溜め息をつき、やるせなさそうに頭を軽く振った。


「決勝戦のコト? 射撃や陣取りゲームは大丈夫なの?」

「その二つに相手の出方は関係ないからな。極端に言っちまうと射撃なら全部真ん中に命中させれば負けは無いし、陣取りだって相手より先に半分抑えてしまえばいい。とにかくこちらがミスしないことが重要だ。でもボクシングだけは違う」

「ふぇ~すごいね」


リィは感嘆の息を吐き、もう一度凄いねと言った。

お姉ちゃんのためにと気合を入れるリィの見据えるロボカップでの目標は三位入賞。『かきくけか』の公式目標は初戦突破の四位以内。


いま、大学敷地内の波止場の倉庫でゲインを改造作業中の巽の目標はもっと謙虚な五位以内だ。会員全員に聞いたわけではないが他の者達も似たり寄ったりといったところであろう。具体的な目標を見据えていない者もいるかもしれない。


そんな中、決勝戦で昨年の優勝校と戦うことを想定しているのはアイガただ一人。優勝トロフィーを掲げるべく本気で頭を悩ませているアイガの姿はリィには頼もしく見えた。


「ホント凄いよ」

とリィはまた同じ言葉を口にする。褒め殺しに近い称賛にアイガは気恥ずかしさで顔をしかませた。


「凄くねぇよ。色々考えたが今んトコ、何やっても覚先輩にいなされちまう。あの人を化かすにゃワンテンポ反応を遅らせなきゃ駄目なんだ」


アイガはそう言って机上のレポート用紙を指差した。ゲインのラフなイラストにゴチャゴチャしたメモが添えられている。リィは好奇心溢れるにこやかな顔をそこに向けて――何度見返しても判読できないその乱雑な内容に――その笑顔のまま小首を傾げてみせた。

アイガのイメージの中で覚先輩にいなされたという攻撃方法なのだろうが、何度見直しても彼女には理解することができなかった。



「う~ん、でも相手が茅盛さん家のアクセルって決まったわけじゃないよ?」

「どうかな……」


同じ工事現場で働いているため覚先輩こと、笹原覚の技量はアイガもよく知っている。昨晩ロボカップ前回大会の映像を再確認してみたが、彼に迫る技術の持ち主は見受けられなかった。

もちろん今回まだ見ぬ新人が参加してくる可能性もあるわけだが、


「ま、そんときゃそん時だ。考えた化かし方は無駄にはならんだろうさ」

「化かすってフェイントのこと?」

「それも『化かし方』の一つだな。昔さ、俺が六つの時――」


アイガが何かを語りかけたその時、数人の男子生徒が教室内にホワイトボードを運び込んできた。放課後この教室で活動している何かのクラブ、もしくはサークルの一団だろう。彼らに場所を譲るようにして二人は教室を後にした。


キャンパスに出て波止場の倉庫へと足先を向ける。時刻は午後二時過ぎで、まだ講義の残っている大学生が多いのだろう。アイガが始めて大学方面にやって来た時よりも学生の姿は少ないように見えた。

石畳を歩きながらアイガはさっきの続きを話し始めた。


「人と人との戦いは常に化かし合いの騙くらかし合いだって六つの時に言われたことがある。親父と一緒に行ったスタジアムで――ホームのユニが赤かったから多分、埼玉か茨城だろうな。試合を見ながらさ、相手に左と思わせて右から抜く、パスを受けると見せかけて相手を引きつける。常に相手を出し抜くために頭を使えってね」

「誰に言われたの? お父さん?」

「いや、見知らぬオッサン。六つの時、親父の仕事帰りに一緒にサッカー観に行って……ナイトゲームだったな。俺の隣に座ってたオッサンがピッチ指差しながらボール持ってる時も持っていない時も相手を出し抜くために化かし合え。化かしきった方が勝つんだって熱く語りかけてきた」

「へ? 何ソレ、事案?」

「いや、今思えばあの時、親父と同じ現場で働いていた人なんだろうけど……。対戦していたチームも試合結果も覚えちゃいないのに、バックスタンドで観ていたことと、そのオッサンの言葉だけは何故かいまだに覚えてる」


「ふんふん、それで?」興味津々と瞳を輝かせながらりぃが続きを促した。


「まぁ、意外と真理なんじゃねぇかと思ってる。どんなスゲェ選手だって目玉は真正面に二つしかついてないワケで、後ろでバーカとかやっても見えないワケでさ」

「なるほど、ゲインも相手も手足は二本。ならどうやって相手の意表を突くのかが重要ってコトだね」

「正面から殴り合っても覚先輩にいなされるだけだからな」

「後ろに回りこむとか?」

「候補の一つだな。巽先輩達の改造が上手くいけばゲインの脚の筋力が上がる。でもこれだけじゃ駄目だ」

「ん~、蹴りを入れる! とか?」

「確かに覚先輩の意表を突けるしダウンも取れるだろうが、ボクシングでソレは反則負けだろうな。下手すると向こう数年間ロボカップ出場停止になりそうだ」


とはいえアイガが求めているのはその反則技に匹敵するくらい意表を突いた攻撃だ。


「じゃあフェイントを何回も入れる。こう、左と見せかけて右! と見せかけてやっぱり左! ……と見せかけて実は真ん中!」


リィが自分の言葉に合わせて、左、右とゆっくりした動作で正面にパンチを繰り出す。わきを開いたまま、パンチを繰り出して引いた腕を胸の中央に当てるので、ゴリラが行う有名な仕草、胸を叩いて打ち鳴らすドラミングのように見えた。

この程度のアイディアならアイガもとっくに思いついており、脳内シミュレーションで笹原にいとも簡単にかわされ反撃をくらっている。のだが――

このリィの緩慢なドラミングがアイガの足を止めた。


「どうしたの?」

「いや……」


りぃの問いかけに生返事をしながらアイガはゆっくりと正面に左ストレートを繰り出した。次いで右ストレートを繰り出すと同時に左腕を引き、りぃがやったように左拳を胸の中央に当てる。俯き胸に当てた左拳を数秒見つめた後、その左腕の手首を反らして拳だけを正面に向けた。

ボンヤリとしたアイディア、形になりそうでならないもどかしい閃きがアイガの脳裏に姿を現した。

浮かんだ化かし方はピースの足りぬ物だったがそれでも突破口への道筋が垣間見えた。


「コレ……いけるかも……」

「ホントっ!?」


ボソリとしたつぶやきをリィは聞き逃さなかった。アイガへの信頼感から妙案が出たのだと思い、通りの真ん中で人目も気にせず両手を上げた大はしゃぎする。


「まだ穴だらけだぞ。向うの出方一つで無駄になる可能性も高いし」

「必殺技爆誕! そうだ名前も考えなきゃ!」


アイガが諭すも相方は聞いちゃいなかった。

まぁ、水を差すこともないかとアイガは思い直した。「名前ね、『ドラミングパンチ』とかどうだ?」

「ドラミング! 良いね。何だかカッコイイ!」


満足気に頷くリィが思い浮かべたのはスティックを荒々しく振り回すロックバンドのドラマーだ。アイガはゴリラの仕草がネタ元だと教えないでおくことにした。


「よぅし! アイガ君、早速特訓だよ!」


リィがテンション高く右腕を突き上げ、波止場へ向かって走り出した。

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