第一章

元聖剣の日常①


 その城はまるで廃墟のようだった。

 風化し、あちこちの壁が崩れかかっている城の最深部で、水の勇者アシュアルド率いる一行は玉座に座る魔王と対峙していた。

 巨大な瘴気に冒され、魔王と化したその生物を倒すのが一行の目的だった。


「お前が、魔王か……?」


 まだ少年の面影を残す勇者アシュアルドが、聖剣を構えて油断なく魔王を見つめる。けれどその声は動揺に少し掠れていた。

 魔王は黒くて長い衣を身に纏い、黙したまま佇んでいる。長い黒髪に顔全体が覆われていて、その素顔はまったく見えない。顔だけではなく、性別すら定かではなかった。

 それは異様な姿だった。

 どこか獣の気配がしている。それなのに姿は完全な人型で、アシュアルドたちに混乱をもたらしていた。


「くそっ、何なんだよ! 魔王は魔獣じゃなかったのかよ!」


 ロンダール国の軍に所属する剣士、ディルナーが叫ぶ。

 いつもは冷静な彼が混乱するのも無理はなかった。組合の調査でも、神聖王国フラウゼアにある神殿の神官たちの予言でも、魔王は人ではなく獣――魔獣だと言われていたのだ。

 ところが、魔王が根城を置くというアーロイの地に来てみれば、明らかに魔王は人型だった。

 身体能力が驚異的な魔獣と、魔法に長けた魔人とでは対処の方法が違う。

「僕のミスです。魔人であった場合の準備をしておくべきでした」

 魔術師であるジェロイスが顔を顰めながら言った。天才肌でプライドが高い彼にとって、自分のミスを認めるのは相当悔しいのだろう。


【創造主アールゼータよ、我らに加護を与えたまえ】


 一行の中で唯一の女性である神官フレイアが神聖魔法を唱え、結界を展開する。フレイアの詠唱が終わった直後、アシュアルドたちの足元に円形の陣が光と共に出現した。けれど展開したのもつかの間、陣はすぐに点滅を始める。


「これは……」

「魔王の発する瘴気の影響で、この魔法あまり長くもちそうにないわ」


 フレイアは杖を構えたまま辛そうに呟く。

 先ほどから風がうねり始め、叫ばないと周囲に聞こえないほどの轟音になっていた。


「アシュ! いったん退きましょう! 体制を整え、準備してからじゃないとマズイわ!」

「ああ、そうだな。このままじゃおそらくダメだろう」


 ディルナーが同意する。剣士としての勘が、勝ち目がないと訴えるのだろう。


「そうですね。作戦を立て直さないと」


 ジェロイスも頷いた。ところが勇者アシュアルドだけは、撤退することに躊躇したのだ。


「せっかくここまで来て……!」


 勇者としての本能が、倒すべき敵を前にして背を向けることに納得できずにいた。けれどこの時の、一瞬の判断の遅れが命運を分けた。

 足元の魔法陣の光が不意に消失する。


「くっ……」


 結界を維持する力を失ったフレイアが、がくりと膝をついた。


「フレイア……!」


 ジェロイスが慌てて駆け寄る。けれど彼の手が届く前に、壁から一筋の黒い帯状のものが飛び出してきて、フレイアの身体に巻きついた。


「なっ……」

「フレイ……っ!」


 フレイアを助ける間もなく、次から次へと壁から伸びてくる黒い帯のようなものが勇者一行の身体に巻き付き搦め捕っていく。魔術を使っても、神聖魔法を使っても、そして剣で斬ろうとしてもそれはビクともしなかった。


「ディルナー! ジェロイス! フレイア!」


 今や、その場に立っているのはアシュアルドだけとなった。黒い帯は彼にも襲いかかったが、アシュアルドの身体に届く前に彼の持つ聖剣の魔力によって浄化されたのだ。


「待ってて! 今助けるから!」

 

 この聖剣・エクセルティーアなら、仲間の身体に巻きついた黒い帯を消すことができる。アシュアルドはそう考え、駆け寄ろうとした。だが、それを制したのは仲間たちだった。


「アシュアルド、俺たちはいいから早く逃げろ!」

「そうです。ここは退いてください!」

「私たちにかまわないで! あなたに何かあったら、もっと大勢の人間が苦しむことになるの!」

「でも……」


 仲間を見捨てて逃げることはアシュアルドにはできなかった。彼はキュッと口を引き結ぶと、仲間を助けるべく一歩足を踏み出した。――その時だった。


「キィ――――ィ――――ア――――アアアアアアアアアアアアア――――」


 動物の鳴き声のような、人間の悲鳴にも似た奇妙な声が響き渡った。

 ハッとして振り返ったアシュアルドは、玉座に座ったまま真っ白な口を開いて叫び声をあげている魔王の胸元で、黒い稲妻がパチパチと音を立てるのを聞いた。次の瞬間、その黒い稲妻はものすごい速さでアシュアルドの方に迫ってくる。


「あ……」

「アシュアルド、逃げろぉぉぉ!」


 ディルナーの絶叫を耳にしながら、アシュアルドは迫りくる黒い稲妻を見つめる。とっさに聖剣を構えたが、稲妻に込められた瘴気を一瞬で浄化するのは無理だと分かっていた。浄化する前に稲妻に撃たれて絶命するだろう。


 避けるためには高度な魔術が必要だった。けれど、アシュアルドは勇者になるための二年の修行の間、魔王が魔獣であると想定して剣術を主に磨いてきたのだ。

 魔人の攻撃を防ぐための高度な魔術を学んでこなかった。ジェロイスは自分のミスだと言ったが、アシュアルドはもっと大きな間違いを最初に犯していたのだ。


 ――これまでか。


 アシュアルドは死を覚悟した。すると不思議なことに、頭の片隅で死んでもいいと思う気持ちが芽生えた。


 ――どうせ家族はもういないんだ。僕が死んだって誰も嘆かない。

 ――死ねば、おじいちゃんやお父さん、お母さんのところへ行けるんだ。


 すでに黒い稲妻はすぐ目の前にある。

 観念したアシュアルドが目を閉じようとした瞬間、彼の手の中からエクセルティーアが飛び出した。


「え?」


 使い手の手から突然離れた剣はまるで主を黒い稲妻から守るように立ちはだかり、淡く発光しながら黒い閃光をその身に受けた。


「エクセルティーア!?」


 エクセルティーアはその剣身で稲妻を受け止めると同時に、水の膜を張り背後にいるアシュアルドを守る。

 アシュアルドはそれを呆然と見ていた。彼は自分が見ているものが信じられなかった。今まで一度だって彼の意志に反したことのないエクセルティーアが、まるで己の意志があるかのように動き、力を発動させているのだから。

 黒い帯に巻きつかれ、なすすべもなく見ているだけだったディルナーたちも、目の前で起きていることに驚きを隠せなかった。


「信じられないわ。創造主アールゼータの御業……?」

「エクセルティーアが……アシュアルドの手を離れ自ら力を発動している、のか?」

「もしかしたら、聖剣にはそれぞれ意志があるのでは……」


 三者三様の気持ちを抱いて、彼らはかたずを吞んで見守る。

 バリバリバリとすさまじい音を立てて襲いかかっていた黒い稲妻は、エクセルティーアにすべて阻まれ、やがて消えていった。

 それと同時にアシュアルドを包んでいた水の膜がふっと消える。


「エクセルティーア……」


 宙に浮いて淡く発光するエクセルティーアを唖然と見つめていたアシュアルドは、その時ピシッという嫌な音を聞いた。

 その音でハッと我に返ったアシュアルドの目の前で、エクセルティーアの剣身の、ちょうど中央部分。その真横に亀裂が入る。


「エクセルティーア!?」


 ピシピシと何かが割れるような音は続き、やがてエクセルティーアを包んでいた淡い光が消え――突然剣は床に落下した。


「あ……」


 アシュアルドは無残にも真っ二つに折れ、足元に転がった聖剣を愕然と見おろす。


「あ……あ、ああ……」


 使い手であるアシュアルドには、聖剣とのつながりが突然切断され、剣から急速に魔力が失われていくのが分かった。

 それは彼にすさまじい喪失感をもたらした。両親や祖父を失った時以上に。

 祖父を失った直後に拾ったエクセルティーアは、彼にとっては唯一の家族であり、半身ともいえる存在だった。


 ――それを失う……? いや、失った……?


「僕を、助ける、ために……?」

「アシュアルド……」


 今なお捕らえられているディルナーたちにはなすすべがなかった。聖剣が折れていくことも、アシュアルドが喪失感に壊れていくことも、どうすることもできずに見守るしかなかった。


「ああああ、エクセルティーアぁぁ!」


 勇者の慟哭があたりに響き渡る。


「うわああああああああああああ!」


 ――泣かないで、アシュ。


 遠ざかるアシュアルドの絶叫を聞きながら、水の聖剣エクセルティーアと呼ばれる存在は声にならない声で囁く。


 ――いつか、必ずあなたの元へ戻るから。


水の中に溶けるようにたゆたう意識の中で、アシュアルドは誰かの優しい声を耳にしたような、そんな気がした。

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