第44話 一夜明けて
重いまぶたを無理に開くと、見慣れない天井がぼんやりと映った。窓からは柔らかな陽が差し込み、カーテンが優しく揺れていた。
沢渕晶也は病院のベッドに寝かされていた。
悪夢はすっかり覚めていた。しかし頭には鈍痛が残っている。昨夜一酸化炭素を吸ったことが原因である。酸素吸入器を外したところ、すぐに看護師が飛んできた。
「気がついたようですね」
沢渕は彼女に応えようとしたが、喉の奥が乾き切っていて言葉にならなかった。代わりに何度か咳き込むと、
「無理はしないでください」
と白い手で制された。
上体を起こすと、右肩から腕、そして足に痛みが感じられた。飛び降りた際に、身体の右半分を地面に打ちつけたからだろうか。
沢渕は途端に正気に戻って、
「森崎さんはどうなりました?」
と勢い込んで訊いた。無理に声を張り上げたため、また咳き込んだ。
看護師は何かを言いかけたが、それよりも先に隣の仕切りカーテンが開いた。
「私ならここよ」
それは、森崎叶美だった。
沢渕と同じ向きでベッドに横たわる彼女は、半身を起こしたまま満面の笑みを浮かべていた。窓から入ってくる白い光を受けて、彼女は驚くほどに美しかった。沢渕は照れくさくなって目を逸らした。
「沢渕くん、本当にありがとう」
叶美は優しく言った。
「地下室に閉じ込められた時、正直もう助からないと思った。でもあなたが現れた瞬間、そんな諦めの気持ちじゃいけないんだって、無言で叱られたような気がした。それからは生きる勇気が湧いてきたの。きっとみんなで生還しようって。だから四階から飛び降りる時も全然怖くなかった」
「むしろ僕は不安ばかりでしたよ。喫茶店に着いたら先輩はいないし、地下室は狭くて逃げ場がないし、高いところは苦手だし。でも先輩の前では何とか体裁だけは取りつくろうと、そんなことばかり考えてました」
「嘘ばっかり」
叶美は笑った。
「でも、喫茶店では先輩が冷静にランチの暗号を残してくれたので、ちょっと安心しましたよ」
「暗号?」
叶美が怪訝そうに訊いた。
「はい」
「何、そのランチの暗号って?」
「お勧めランチの短冊、あれって暗号じゃなかったのですか?」
「どういう意味?」
「ほら、レジの後ろの『ランチ』の文字が真ん中で破ってあったでしょう。つまり『ン』が消えて『ラチ』されたという謎かけかと思ったのですが」
叶美は笑い出した。
「それは考えすぎよ。そんな暇なかったもの」
「そうでしたか」
沢渕も笑った。
二人して昼食をとった後、ドアがノックされて鍵谷先生が入ってきた。随分と懐かしい気がした。フルーツが盛られたバスケットを差し出した。
「二人とも、身体の方は大丈夫かい?」
そう訊きながらも、先生は少し緊張した面持ちだった。
「警察の人が来ているけど、通してもいいかね?」
「どうぞ」
叶美がそう言うと、スーツ姿の男が二人顔を出した。
「こちら
鍵谷が紹介した。
「初めまして」
叶美が会釈をした。沢渕も倣った。
「刑事さんには、探偵部のことは伝えてあるよ」
「今回は捜査にご協力頂き、感謝します」
二人は揃って頭を下げた。
「五年前に発生した誘拐事件ですが、今では捜査の規模も縮小されて、担当しているのは、実質我々二人でした。もっとも最近では有力な情報もめっきり減って、何の進展もないまま時間だけが過ぎていました」
高埜は口惜しそうに言った。
「君たち探偵部の存在は鍵谷先生から伺いました。我々が知りたいのは、君たちがどのように事件を考え、解決に導いたかです。聞かせてもらえますかね?」
そう言ったのは平山だった。
「はい、分かりました」
叶美は二人の刑事と鍵谷先生に椅子を勧めてから、思い出すように話し始めた。
人質のメッセージを偶然目にしたところから、昨夜の行動まで順を追って説明した。二人の刑事は興味深く聞いていた。所々で質問されると叶美が答えた。途中彼女に求められれて、沢渕が補足する場面もあった。
大方話が終わると、今度は沢渕が刑事に質問をした。
「佐伯は全てを自供しましたか?」
「まだ取調べの途中なんだがね。動機については君たちの言う通りなのだが、実行犯は佐伯と市川と進藤の三人だと自供している」
「いえ、事件に関わった人物は他にもいます。植野という老人は当夜のバスを運転していた可能性があります。さらに彼は仲間と共謀して森崎さんを廃ボーリング場におびき寄せて襲わせた、殺人ほう助の罪があります」
刑事らはメモを取りながら聞いている。
「それに、市川には病気の息子がいます。彼もまた誘拐に関わっている筈です」
「分かったよ。それらを踏まえて取調べしてみよう」
高埜はそう言ってくれた。
「もう一つ確認しておきたいことがあるのですが」
沢渕が一度咳をしてから言った。
「ああ、構わんよ」
「探偵部の佐々峰姉妹が踏切で車を停車中、後ろから追突して列車との接触事故を誘発した者がいます。さらに武道館のトイレでは消火器を使って久万秋進士さんを襲いました。これらについても立件できそうですか?」
両刑事は揃ってうなり声を上げた。
「佐々峰奈帆子さんの軽自動車には、佐伯医院のマイクロバスの塗装片が付着している筈です。この手荒な手口から恐らく市川の仕業だと思います。
それから武道館の事件では、洗面台に向かっていた久万秋さんに横から話し掛けた人物がいます。それに気を取られている間に個室から市川が飛びだしてきて消火器で殴りつけたのです。ですから久万秋さんの容体が回復次第、その女性の人相を訊いてみてください。それが進藤真矢です。あの日僕も同じ会場に居て、彼女の顔を目撃しています。恐らく僕が係員に取り押さえられた時、彼女の姿も監視カメラに映っている筈です。その画像を押さえてください」
「分かった」
平山は早速椅子から立ち上がると、携帯を片手に部屋を出て行った。
「佐伯たちの罪状は数が多いね」
高埜が言った。
「はい、どうかその一つひとつを確実に立証してください。僕たち探偵部もできる限りの協力はします」
「ありがとう」
高埜はそう言って、沢渕に握手を求めた。
「最後に、昨夜の病院火災についてだが」
刑事は話題を変えた。
「鍵谷先生に伺ったのだが、地下室に火を放ったのは君だってね?」
「はい」
沢渕は真っ直ぐ刑事を見て答えた。
「かなり危険な賭けだったんじゃないかね。地下室が火災になれば逃げ場はない。一歩間違えば、君たちや人質の命も危なかった」
「確かにその通りです。しかし僕は最初からそのつもりでした。以前病院内を探索したことがありましたが、隠し部屋らしきものは見つからなかった。つまり僕も森崎さんも、そして人質も、決して外からは分からない場所に幽閉されていたのです。それならば、強引に火災を発生させて、外に待機していた部員に煙の発生源を特定してもらおうと考えたのです」
「我々に連絡するという手段もあったのでは?」
「いえ、何も動きのない状況では、たとえ警察が来たところで手も足も出せなかったと思います。家宅捜索するだけの罪状も証拠もない。連中がしらばくれてしまえば、おしまいです」
「確かに警察に通報されても、どうすることもできなかった可能性が高いね」
すると横から鍵谷先生が、
「監禁されていた人質はその存在を雑誌の暗号で伝えようとした。そして君たちは火災の煙で伝えようとした訳だね」
と付け足した。
「そうですね」
「しかし、危険な綱渡りであったことに変わりはない」
「時間がなかったのです。十七人の人質のうち、七人がすでに地下室を出ていた。犯人たちは彼らを病院外へ移すつもりだったのです。例の送迎バスで、どこか知らない場所へ運ばれては追跡ができなくなる。だから犯人たちを足止めする騒ぎを起こす必要があったのです」
「君の仲間がそのバスを破壊したんだったね」
「はい、それは機転の利いた行動だったと、僕は評価しています」
「その仲間も、今度は別の放火をした訳だね?」
「はい。それは僕が予め頼んでおいたことです。たとえ地下から煙が出ても、ぼやとして済まされれば、警察や消防の出番がなくなってしまう。だから本格的な火事を演出したかったのです」
「なるほどね」
高埜は頷いた。
「地下室の人質救出後、君たちは残りの人質を探し求めて上階に向かった訳だね?」
「はい。そこで犯人たちと対決することを覚悟していたのですが、四階の廊下にはアルコールが撒かれていました。そこに火を放たれて、さらに防火扉まで閉められました」
「病院火災に乗じて、君たちと人質を殺そうとしたんだろうね」
「そうだと思います。犯人たちは火災騒ぎとバスの故障で、病院から逃げられなくなった。そこで作戦の変更を余儀なくさせられたのです。地下室にいた十人は救出されたとしても、全員が衰弱していて証言能力がない。一方、証言能力のある七人が生存しているのは厄介です。そのための口封じだったのでしょう。しかも火災騒ぎを利用すれば、連中は避難を装って悠々と病院の外へ出られると考えたのです」
「そこで君は鍵谷先生に連絡を取って、我々を出動させた」
「はい」
しばらくして、高埜は刑事の目をして切り出した。
「昨夜、君たち探偵部が病院に放火したという事実は残る。理由があったとはいえ、これを看過する訳にはいかない」
部屋の中の誰もが沈黙した。
「だが、お世話になっている鍵谷先生が仰るには、この季節、地下室のような密閉された場所では自然発火する薬品があるそうだ。さらに部員が誤って薬品棚を倒せば、それが化合して火災の原因になることもあり得るということだった」
沢渕と叶美は顔を見合わせた。
「さらに先生は、探偵部の存在が明らかになれば、山神高校はマスコミの餌食となる。その結果、静かな学校生活が脅かされることになり、ひいては他の学生にも迷惑を掛けることになりかねない。そこで全ては警察が独力で解決したことにすれば、互いの利益を尊重できるとも仰っている」
鍵谷先生は照れを隠すように顔を背けた。
「つまり我々警察のメンツも潰れずに済むという訳さ。何より事件解決に大いに貢献し、人質十七人全員を救出したのだから、細かいことはお咎めなしということに落ち着いた」
「ありがとうございます」
叶美の瞳には涙が浮いていた。何度も何度も刑事に頭を下げた。
その後、テレビや新聞で五年前の誘拐事件の解決が大々的に報じられたが、山神高校探偵部の名はどこにもなかった。真実が報道されないことに多少の物足りなさも感じたが、結果的にこれでよかったのだと、沢渕は自分自身を納得させた。
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