第43話 脱出
しばらく連中は何やらささやき合っているようだった。
「それでは沢渕君、こちらへ来てもらおう」
佐伯の合図で、市川が足下のプラケースを脇にどけると、そこには床下収納が現れた。腰を屈めて正方形の蓋を跳ね上げた。
沢渕の腕を進藤が乱暴に引っ張る。
「さあ、この中に入りな」
腕の自由が利かないため真下に落下させられた。石畳の上を転がる。冷気が身体を包み込んだ。
進藤と市川がはしごを使って下りてきた。
沢渕は二人に脇を抱えられた。
「まったく気に入らねえ奴だ。うまく院長に取り入りやがって」
「本来ならとっくに殺されていたのに、悪運だけは強いんだから」
二人はそんな話をしている。
天井の薄暗い蛍光灯を頼りに進んだ。カビの臭いがした。
「ここは?」
「いいから黙って歩け」
市川が乱暴に言った。
石畳を数メートル行くと、正面に鉄の扉が立ちはだかっていた。鍵が外されて扉が開くと、さらに別の異臭が漂ってきた。大勢の人の気配を感じる。遠くで咳込む音や、近くでうめき声を聞いた。
沢渕は突然背中を押されて、冷たい床に転倒した。直ぐさま背後で扉が閉められた。乾いた音とともに施錠された。
誰かが駆け寄ってくる気配。
「沢渕くん?」
それは彼にとって天の声に違いなかった。
紛れもない、森崎叶美である。彼女は無事だったのだ。どれだけこの瞬間を待ったことか。別れて何十年も経つ旧友に出会えたような喜びだった。
こんな薄暗い空間でも、叶美の姿はひどく眩しかった。
「先輩、怪我はありませんか?」
「私は大丈夫。それよりあなたこそ、酷い目に遭わなかった?」
なりふり構わず、沢渕の顔を間近で覗き込んだ。それから優しく沢渕の頭を膝に載せてくれた。
「大丈夫です」
「嘘」
叶美はすぐに頬の腫れや鼻から流れ出す血に気づいた。慌ててハンカチを取り出すと、丁寧に拭き取ってくれた。
「それよりも朗報があります。佐々峰姉妹もクマ先輩も無事です。命に別状はありません」
「ああ、よかった。本当によかった」
身体が床に崩れ、嗚咽を漏らした。これまで押し殺していた感情が一気に爆発したようだった。
「探偵部はみんな無事なのね」
涙混じりに言った。
「先輩、時間がありません。僕の質問にだけ答えてください」
沢渕は身体を起こした。
「分かったわ」
叶美は泣くのを止めて、沢渕と正面から向かい合った。
狭い廊下は奥で行き止まりになっているのが見える。左右の部屋は扉が解放されていて人の気配がする。
「ここにいる人質の数は?」
「全部で十人」
「辺倉祥子はいますか?」
「いない」
「残りの七人は?」
「分からない。私が連れられて来た時にはもう、この人数だった」
沢渕は立ち上がって、部屋を覗いてみた。一見して古風な木製ベッドに病人が寝かされている。人質というよりは、今は患者と言った方がよかった。身体は小学生ほどに痩せていて、とても自分で動ける様子ではない。過酷な人体実験の末、変わり果てた人々の姿であった。自然と野戦病院を連想させた。
「話のできる人は?」
「誰もいない」
「病室以外に部屋は?」
「こっちに手洗と給湯室があるわ」
叶美についていくと、看護師の詰所のような小部屋があった。ベッドはなく、棚と机が置いてある。棚の中には薬品がぎっしり詰め込んであるが、最近出し入れした様子はない。机の上にはカルテや雑誌が無造作に積まれていた。辺倉祥子はここでメッセージを書き付けたのだと、沢渕は一瞬で理解した。
簡易的な流し台もあった。蛇口を捻ると弱々しく水が出た。
他に利用できる物はないだろうか、沢渕は部屋を見回した。ハサミでもあれば、両腕を縛りつけている結束バンドを外せるのだが、凶器に転用できるような物は最初から置いてないだろう。
「ここは地下一階です。上に昇る階段はありませんか?」
「これじゃないかしら?」
叶美が指さした壁には簡易的なはしごが備え付けてあった。しかし長年使われた様子はない。部屋への出入りは先程の鉄の扉から行っているようだ。真上を見ると、天井の一部に正方形の切り込みがあった。本来ここが蓋として可動する部分なのである。今は開くかどうか分からないが、病院の一階と繋がっていることは間違いなかった。
沢渕は考える。
ここにいる人質は十人。ということは、残りの七人は上階へすでに移動させられたということである。恐らく体力、気力の弱っている者だけを残して、ここで死滅させる気ではないだろうか。また、七人が病院外の別の場所へ移送される恐れがあった。時間がない。
沢渕には前々から考えていた作戦があった。それは堀元直貴にも伝えてある。しかしそれは人質に十分な体力が残されているか、または数人の救助者がいることが前提条件である。しかし今ここで動ける者は、沢渕と叶美の二人しかいない。果たして完遂できるだろうか。
しかし、やるしかない。躊躇っている暇はない。そのための準備もしてある。
「森崎先輩」
「はい」
「僕は腕の自由が利きません。ですから、僕の指示通りにしてください。いいですね?」
「分かったわ」
叶美の顔が自然とこわばった。
「このままここにいても事態の進展は望めません。それどころか上階に移された、証言能力のある人質もどうなるか分からない。ですから一発勝負の賭けに出たいと思います」
叶美の大きな瞳には涙が浮いていた。それでも目を逸らすことなく沢渕をじっと見つめていた。
「どうするの?」
「この地下病室に火を点けます」
「ええっ?」
さすがの叶美もこれには声を上げた。
「でも、そんなことをしたら…」
「黙って聞きなさい」
沢渕は一蹴した。
「今、犯人の動きを止められるのは外部の力しかない。病院を火事にして消防と警察を出動させます」
叶美の身体は震えていた。
「まさか、本当にここから出火させる気なの?」
「そうです」
「しかし…」
「言いたいことは分かってます。ここにいる人質たちの命が危険に晒される」
「ええ」
「地下から火が出れば、確かに僕らには逃げ場はない。しかし消防車が駆けつけて大量の放水を開始すれば、全ては地下に流れ込み、必ず鎮火できます。だから、やるしかないのです」
「分かった。沢渕くん、あなたを信じる」
叶美は細い両手を沢渕の背中に回すようにした。
「きっとみんなを助けてね」
沢渕は彼女を引き剥がすと、
「火は奥の詰所に点けます。まずは人質全員を反対側に運んでください」
「はい」
二人はそれぞれ右と左に分かれ、寝たきりの患者を運んだ。全員がやせ細っているため、叶美にも軽々と担ぎ上げることができた。
次に沢渕は水道水を出しっ放しにして、
「毛布やタオル、布切れを全て集めて、水に浸してください」
「人質の口や身体に当てるのね」
「はい」
叶美は慌ただしく廊下を行ったり来たりした。
「準備できたわ」
「ありがとう」
沢渕はカルテの一部をポケットにしまった。もしかすると証拠になるかもしれないと考えたからである。そして叶美の方を向き、
「棚の中に入っている薬品を全部床にぶちまけてください」
と言った。
「はい」
叶美にもう躊躇いはなかった。ガラス戸を外して、棚をゆさゆさと動かした。ガラス瓶が次々に落下して、耳をつんざくほどの悲鳴を上げた。人質の中にはその異常に気がついたのか、大声で叫び出す者がいた。部屋には有毒と思われる煙が立ち込めた。
「離れて!」
沢渕はそれから靴下の中にしまい込んであった電子式ライターを取り出すと、点火して紙に燃え移らせた。それを床に投げ捨てた。
ドンという爆発音がして、一気に火がついた。あっという間に小部屋は炎に包まれた。煙が天井の隙間から立ち昇って行くのが見えた。それを背に二人は廊下を走り出した。
部屋の調度品が木製だからか、一度ついた火の勢いは留まることを知らなかった。火柱が天井に到達して、炎は舌なめずりをした。これで天井の隙間から病院内に煙が出ている筈である。
次々と人質が怯え始めた。廊下のほんの十メートル先で、轟音とともに炎が立ち上っているのだ。無理もなかった。
「先輩、人質の身体をできるだけ低くして、顔全体を濡れたタオルで覆ってください」
沢渕の指示が飛ぶ。
果たして外部からの救助はいつ来てくれるだろうか。
堀元直貴と橘雅美は電柱の陰に身を潜め、佐伯医院を見張っていた。
時刻は午後十時を回ったところである。どうやら九時半が消灯時間らしく、先ほど一斉に病室の明かりが消された。今は一階の一部がカーテン越しに黄色い光を放っている。
もし沢渕が何らかの行動を起こしたら、直ちに後方支援をするつもりだった。内部の動きにはどうしても制約が掛かる。そのため外部からの助けが極めて重要となるのだ。直貴はいつになく緊張していた。
しかし病院には何の変化もない。日常の穏やかな風景がそこにあった。
「君は以前、あの病院に潜入したと言ったね?」
直貴は少しも視線を逸らずに訊いた。
「ええ、沢渕クンと一緒にね」
雅美が答える。
「ということは、内部構造も把握できている訳だ」
「まあ、一応」
彼女が言葉を濁したのには訳がある。確かに病院内を歩き回ってはみたが、人質を収容している隠し部屋を発見することはできなかった。普通の病院が普通の業務を行っているという印象しかない。だが、そこに未知の空間があるとすれば、それは雅美の知らない場所ということになる。これでは内部を把握しているとは言い難い。
直貴は腕時計を見た。時間だけが虚しく去っていく。悠長に構えていて大丈夫なのだろうか。どこからか言いしれぬ不安が湧いてくる。
「一階には待合室や診察室、二階以上は全て病室だったね」
「そうよ。だけどその病室には人質はいなかった」
「なるほど」
直貴は顎に手を当てて考えた。人質が上階に居ないのであれば、あとは一階しか考えられない。しかし人の出入りが多い場所に収容するスペースはない。とすれば、あとは地下か離れの建物しか考えられない。
「病院の出入口はここだけじゃなかったよね?」
「ええ、建物の裏側にも職員専用の出入口があるのよ」
「よし、それじゃあ、二手に分かれよう。僕はこのまま正面玄関を見張るから、君は裏へ回って出入口を見張ってくれ。もし何か動きがあったら、すぐに連絡をくれ」
「オッケー」
雅美は陰から飛び出して、外灯の下を跳躍するとそのまま闇に消えた。
時間だけが経っていく。直貴は焦り始めた。沢渕の携帯に何度電話を掛けても連絡はつかない。そもそも彼がこの病院内にいるかどうかも怪しくなってきた。
いよいよ十一時になった。一階の電気が消えた。どうやら病院は一日の仕事を終え、眠りにつくようだ。私服の職員たちが次々と玄関から出てきた。たわいもない話声が闇夜に響く。そこには犯罪を臭わせる雰囲気は一欠片もなかった。直貴は身体を低くして隠れた。
突如携帯が震えた。雅美からである。すぐに応じた。
「どうした?」
「裏に停めてあるバスが動き出したわ」
「何だって? 出入口はどうなってる?」
「まだ閉じたままよ。一人職員が出てきて、バスを出入口に着けているところ」
常識的に考えれば、この時間、患者の送迎がある筈もない。緊急の用件ならば、それこそ救急車が入ってくるだろう。
どうしようか、直貴に迷いが生じた。バスの用意を始めたのは、人質をどこかへ移送するつもりだからではないか。沢渕に追い詰められて、犯人はいよいよ人質を処分することにしたのだろうか。
「あら?」
直貴の思考を遮断するかのように、雅美が小さく声を上げた。
「どうした?」
今は些細な情報でも欲しかった。
「おかしいのよ」
「何が?」
自然と苛つく声になった。
「何だか焦げ臭い」
「えっ?」
直貴は思わず身構えた。
「火事か?」
「ちょっと待って」
そう言うと、雅美はどこかに移動を開始したようだった。
直貴も慌てて正面玄関に近づいた。
「こちらには何の変化もないが」
心臓が高鳴る。果たして自分は正しい判断をしているのか、一つ間違えれば、大変な結果を招くことになる。これは重要な局面だった。
「地面から煙が」
「煙?」
火事だ、そうに違いない。ついに沢渕が動き出した。彼は計画通り、地下に火を点けたのである。ぐずぐずしている暇はない。直貴はすぐに立ち上がった。
「やっぱり火事よ!」
雅美が叫んだ。
「よし、橘。よく聞いてくれ。そこから病院の中へ入れるか?」
「出入口に鍵が掛かっていたら無理だけど、調べてみる」
「いや、そんな暇はない。窓を割って中に入れ」
「ええっ!?」
雅美は柄にもなく戸惑っている。
「部屋の中に入ったら、燃えやすい物を集めて火を点けろ」
「何ですって?」
「いいから放火しろ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。消火じゃなくて、放火するの?」
「そうだ」
「もう一度確認するけど、放火って火を点けるのよね?」
「そうだ、早くしろ。さっきライターを渡しただろう」
「えっ、このための物だったの? 何だか気乗りしないけど、やれと言うなら、やってやるわよ」
「頼む」
「僕もすぐに合流する」
直貴は正面玄関のガラス扉に張り付いていた。カーテンに遮られて中を窺うことはできないが、奥で女性の悲鳴が聞こえた。職員が慌てて廊下を駆ける音。扉は施錠されていて、中に入ることはできない。ここは諦めて裏へと回った。
庭木を踏みつけて最短距離で送迎バスまで辿り着いた。周りには誰もいなかった。ドアを開けると、運転台にはキーが差し込まれたままだった。すぐにエンジンを掛けた。アクセルを床まで踏み込むと、タイヤが悲鳴を上げてバスは急加速をした。そのまま真っ直ぐ門扉に激突させた。派手な衝突音とともにフロントガラスが粉々に飛び散った。
今度はバックギアに入れて、アクセルを吹かした。一斉に景色が反対に動き出すと、そのまま裏出入口に突き刺った。直貴の身体はあやうく外に飛び出しそうになったが、何とかハンドルを握りしめて回避した。両手にはいつまでも衝撃の余韻が残された。
キーを抜くと、変形したドアから転げるように外へ出た。遠くに目を遣ると、鉄の門扉がだらしなく壊れて外の道路が覗いていた。近所の住人だろうか、数人が何事かと見守っていた。
直貴はよろめきながら建物へと向かった。ガラス瓶が次々に割れる音。目を向けると、雅美が窓枠の中でカーテンを引きちぎっている姿が飛び込んできた。あれに火を点けるつもりか、直貴は瞬時に理解した。自分も開け放たれた窓から部屋に身を投じた。
直後、部屋の中央に盛られたカーテンの表面を黄色い炎が駆け巡った。薬品が染み込んでいるからか、山は激しく燃え出した。
雅美の頬が真っ赤に染まっていた。肩で大きく息をしている。興奮冷めやらぬ様子であった。
直貴も負けじと、棚にあった書類を次々と投入した。
仲間の合流に気づいた雅美は、
「本当にこれでよかったの?」
と訊いた。
「ああ、上出来だ」
直貴はそう返した。
炎は早くも天井まで到達した。二人は熱気に包まれながら、しばらくその様子を見守っていた。真っ赤な炎は威勢のよい竜のように壁面をうごめいた。
「よし、これでいい。橘は病院の外へ逃げてくれ。それから一一九番に通報して、消防車を呼ぶんだ。それから鍵谷先生に連絡を取って、僕らが今したことを全て報告してくれ」
「分かった。直貴は?」
「僕は隠し部屋を探す。恐らく床から煙が出ている場所がある筈だ」
「じゃあ、気をつけて」
雅美とはそこで別れた。病院内には火災報知器が鳴り響いていた。
廊下は上を下への大騒ぎだった。火災報知器のけたたましい音も、耳がすっかり慣れてしまって不思議とうるさくは感じられなかった。
「おい、君!」
威圧的な声が浴びせられた。それに応えることなく正面玄関を目指した。
火災とは別の白い煙が一階全体に充満している。その発生源を突き止めなければならない。遠くで何かが破裂する音がして、併せて悲鳴がした。廊下は騒然としていて、もはや直貴の存在に誰も気を止める者はいなかった。
待合室、ナースステーションと煙を辿っていった。すぐ目の前で当直の看護師たちがパニックを起こし、右往左往していた。
「早く玄関から逃げて」
直貴はそう指示して、先を急いだ。
「おい、ここで何をしている!」
男性看護師に進路を塞がれたが、体当たりして突破した。さらに奥へと向う。その先は「院長室」である。扉を開けると、煙が充満していた。
ここだ!
部屋には誰もいなかった。すでに避難したのであろう。直貴はむせながら、大きなガラス窓を全開にした。煙が一気に闇夜に吸い取られていく。
それでも視界の確保は難しかった。思わず床に伏せた。じゅうたんの表面から煙がとめどなく滲み出している箇所を見つけた。発生源はこの真下だ!
「直貴、どこに居るの?」
背後から雅美の声がした。
「消防署に通報したわ。鍵谷先生にも連絡した」
直貴はむせながら、
「橘、このじゅうたんを一緒に引っ張ってくれ」
「オッケー」
「せーの」
床に正方形の蓋が出現した。目指すはこの下だが鍵が掛かっているのか、どうしても開けることができない。
「しー、何か音が聞こえるわ」
雅美が気づいた。病院内は報知器の音が鳴り響いているため、小さな音を聞き分けるのは困難だった。しかし確かに床を叩く振動は伝わってくる。
「誰か下に居るのよ」
「沢渕くんだ」
直貴は必死で床を叩き返した。彼にサインを送りたかった。もう少しの辛抱だ。
いつの間にか消防車のサイレンが近くに聞こえていた。道路に面する窓ガラスが次々に割られたかと思うと、一斉放水が始まった。
直貴は煙を大量に吸ったためか、意識が遠のきかけていた。それでも何とか立ち上がった。まだやることが残っている。
「橘、君は避難してくれ」
雅美の手を取ってそう伝えた。
「直貴は?」
「消防士を呼んでくる。この蓋を開けてもらうんだ」
そう言葉にしたつもりだったが、身体がずるりと崩れ落ちた。雅美はそんな直貴の身体を引きずって部屋の外に出た。
廊下には消防士数人の姿があった。
雅美はぐったりとした直貴を先に引き渡してから、
「まだ生存者がいます。こちらに来てください」
と消防士を先導した。
地下室は騒然としていた。燃えさかる炎を目の当たりにして、人質は誰もがパニックに陥っていた。彼らは自由にならない身体を互いに寄せ合うようにして、口を金魚のように動かすで精一杯であった。どうやらそれは「助けてくれ」と必死に伝えようとしているのであった。
「みなさん、落ち着いてください。すぐに助けがやって来ます」
叶美が努めて冷静に一人ひとりに声を掛けた。中には身体を震わせて泣き出す者さえいた。
一方、沢渕は箒を両腕で挟むようにして、柄で天井を叩き続けた。上階の人間にこの空間の存在を知らせるためである。彼は一瞬手を止めた。天井の隙間から水がぽたぽたと落ち始めたからである。
叶美たちの方を向いて、
「上で放水が始まったようです」
と叫んだ。
その言葉は人質たちにはまるで響かなかったが、叶美は安堵の表情を浮かべた。
「もう少しの辛抱ですよ」
しばらくして水の滴は流れに変わった。途切れることなく水が流れ込んでくる。
「先輩、みんなの身体を起こしてください」
沢渕は次の事態に備えた。
水は凄い勢いで流入してくる。しぶきが人質の顔にかかった。しばらくすると床に水が溜まり始めた。
人質はみんな床に伏せていたため、突然襲ってくる水には驚いたようだった。沢渕も彼らの上体を起こすのを手伝った。
放水は地下室の火災を鎮火するには役立たなかった。上階で溢れた水は天井を伝って流れてはくるものの、詰所の炎には直接当っていないからである。
煙と炎、そして水とが入り交じり、地下に居る人々を苦しめていた。
直貴は救急隊員に肩を担がれて病院の外に出ていった。一方、雅美は制止を振り切り、院長室に戻ってきた。慌てて追い掛けるようにして消防士がやって来た。
「この下に人がいるんです!」
「何だって?」
相変わらず外からの放水は続けられている。その轟音で、雅美は自分の声を届けることができなかった。ずぶ濡れになりながら、しゃがんで床を叩き始めた。
消防士もそれ倣って床に膝をついた。そして床下から振動を感じ取った。下の階から誰かが呼び掛けているのだ。その声は騒音によってかき消されているが、確かに振動だけは伝わってくる。
「下に生存者がいるぞ」
一人の消防士が切り込みの入った板を持ち上げようとしたがびくともしない。鍵が掛かっているのだ。すぐに無線で連絡を取った。
「地下に生存者がいる。だが施錠されていて先へ進めない。ドリルを用意してくれ」
それから消防士は、
「君は避難しなさい!」
と強い調子で言った。
雅美は窓を突き破ってくる水に身体をよろめかせながら、
「仲間がいるんです」
と叫び返した。その声も轟音にかき消され気味だった。
すぐに消防士が数名姿を見せた。雅美の存在に驚きながらも、電動ドリルを手渡した。受け取った消防士はすぐに作業を開始した。回転するドリルの刃先を鍵穴に当て、見事に破壊した。
雅美の細い身体は別の消防士によって現場から遠ざけられた。
沢渕の頭上で、四角い天井が持ち上がった。新たに酸素が流入して、一瞬炎の勢いが激しくなった。続いて縄ばしごが下ろされた。
「みんな無事か?」
消防士の声が地下室に響き渡った。次々と隊員が降りてくる。直ぐさま消火活動に入った。
「寝たきりの人が十人と、もう一人女性がいます」
沢渕は縛られた両手を廊下の奥へ向けた。それに気づいた消防士がカッターナイフで結束バンドを切ってくれた。おかげで手が自由になった。彼の身体はすぐに引っ張り上げられた。続いて叶美が上げられた。逆に消防士が数人降りていくのを見届けて、二人は院長室を出た。
病院内は電気が消えて暗かった。外からの投光器によって、所々で眩しい光が室内を照らしている。一階はほとんど鎮火したようだった。しかしこれでもかと言うほど放水は続いている。
叶美の手を取ると、
「先輩は逃げてください」
「沢渕くんは?」
「僕にはまだ、やることが残ってます」
「私も行くわ」
彼女の意志は強そうだった。沢渕は何も言わずに階段へ向かった。途中、入院患者を背負った消防士とぶつかった。
「君たち、どこへ行くんだ? 戻りなさい」
その声を背に階段を上がっていった。
二階は静かだった。どうやらここまで火は回らなかったと見える。
沢渕のやるべきことは、残された人質全員の解放である。あと七人の命が掛かっている。犯人たちは十七人の人質を二つに分けた。恐らく動ける者はこの後も利用するつもりで、別の場所に移そうとしたのである。彼らはまだ病院内に居るに違いない。
二階の廊下は、不安を隠せない入院患者たちで溢れかえっていた。
「ここじゃない」
沢渕はそう言って、すぐに次の階へ上がった。
「もしかして、もう別の場所に移されたってことはないでしょうね?」
階段を上がりながら、叶美が言った。
「とりあえず順番に見ていきましょう」
三階も患者が病室から抜け出して、廊下は騒がしかった。
次は四階である。
沢渕は慎重に階段を上がった。これまでとはうって変わって静かだった。廊下には誰一人患者はいない。
足を踏み入れると、床が月夜に照らされてちかっと光った。廊下一面が何故か濡れているのだ。沢渕は次の瞬間、これから何が起こるのかに思い至った。
「先輩、走って!」
叶美の手を引いて真っ直ぐに駆け出した。間髪入れず、後方から炎が立ち上った。同時に防火扉が閉められた。何者かが床に撒かれたアルコールに火を放ったのだ。
あっという間に廊下は炎に包まれた。奥で女性の悲鳴が上がった。二人の靴には火が燃え移っていた。しかし停まることはできない。そのまま扉の開いている奥の病室を目指した。沢渕は叶美の身体を先に入れて、後から部屋の中へ飛び込んだ。と同時に扉を閉めた。シャツを脱いで、叶美の足に覆い被せた。一瞬で炎は消え去った。それから自分の足もシャツで叩いた。
部屋は闇に支配されていた。それでも人の居る気配があった。誰もが突如現れた二人を凝視しているに違いなかった。しかし状況を説明をしている暇はない。
「この中に、辺倉祥子さんはいますか?」
叶美が暗闇に向かって声を発した。それはまさに沢渕が尋ねようとしていたことだった。
「はい」
意外にもはっきりとした声がした。彼女は二人の前に踏み出した。
「辺倉さん、無事でよかった」
叶美は思わず抱きしめた。
「もしかして、あのメッセージを読んで、助けに来てくれたのですか?」
彼女も感慨深い声を出した。
「はい」
沢渕はそんな二人のやり取りには関せず、
「ここに七人全員揃っていますか?」
と訊いた。
「はい」
と声が重なった。
「安心してください。他の十人の方々は全員救助されました」
全員が歓喜の声を上げた。拍手をする者もいた。
「次は我々が脱出する番です」
問題はその方法である。今廊下は炎に包まれている。階下には消防車が来ているとはいえ、この階の火災に気づいているだろうか。
廊下で何かが弾ける音がした。おそらく消火器が吹き飛んだのだろう。時間がない。沢渕は考えた。通路は塞がれて避難できない。さらに四階の高さでは飛び降りる訳にもいかない。では、どうするか?
沢渕は窓を開け、真下を見た。裏は駐車場になっている。月明かりに反射する車の屋根が整然と並んでいた。
ふとこちらを見上げる女性の姿があった。目を凝らすと、それは橘雅美だった。
「四階が火事だ。消防士にそう伝えてくれ!」
「オッケー」
すぐに雅美の姿が消えた。
しかし消防士の救助まで持ちこたえられるだろうか。不安が押し寄せる。
炎は廊下だけには留まっていなかった。いよいよ病室の扉にも引火し、上端部を溶かし始めた。ダメだ、救助を待っている訳にはいかない。
沢渕は左右のカーテンを引きちぎると、叶美に固く縛るように指示した。辺倉祥子をはじめ、みんなが協力して一本の綱ができあがった。それをベッドの足にくくりつけた。それから下の階の部屋のベランダ付近に垂らした。
「これで下の階へ下りましょう」
沢渕は人質七人を並べて言った。
「慌てないで。まだ時間はあります」
そうは言うものの、火はすぐ傍に迫っている。一人ひとりが順番に降りていくのを見ながら、恐らく時間が足りない気がした。それまでに消防士が辿り着ければよいが、どうやら間に合いそうにない。最悪のシナリオが頭に浮かんだ。
それでも人質たちは互いに手助けしながら次々と下りていく。しかし時間が掛かっている。火はもう扉を完全に溶かし切って、部屋の中へと勢力を伸ばしていた。人質の最後は辺倉祥子だった。
「本当にありがとう。後できっと会いましょうね」
そう言い残すと、姿が見えなくなった。もう部屋の壁まで炎は迫っていた。煙が充満して、意識が遠のき始める。何とか叶美だけでも助けられないだろうか。沢渕は朦朧とした頭で考えた。
いよいよ炎はベッドにまで迫った。端の方に火がついた。もう時間である。
「森崎先輩!」
炎のうなり声に負けじと大声で呼んだ。
「沢渕くん」
叶美も応える。
「もう時間がない。このままではどちらかが焼け死んでしまう。一緒に飛び降りましょう」
「分かったわ」
もはや叶美は何も恐れてはいなかった。
沢渕はマットレスの火の粉を振り払い、ベランダに担ぎ出した。エアコンの動力部に足を掛けて、マットレスを手すりの上に置いた。
叶美と外に向かって並ぶと、
「端をしっかり持って。マットに身体を押しつけるようにして」
「はい」
こんな状況下で、叶美は口元に笑みさえ浮かべていた。燃えさかる炎を背に、美しい横顔を見せていた。おかげで沢渕にも自信が湧いた。
「このまま車の屋根に落ちます。いいですか」
「いつでもいいわ。あなたについて行く」
二人はマットレスの中央で手を繋ぐと、そのまま体重を預けるようにして身を投げた。沢渕には不思議と恐怖感はなかった。いつか二人はこんな目に遭うのではないかとおぼろげに考えていたからだ。
二人は宙に舞い、ほぼ垂直に落下した。ほんの一瞬、世界が無音になったようだった。それから耳をつんざく音と、同時に身体が引き裂かれるほどの衝撃を受けて、車の屋根に受け止められた。
勢い余って沢渕は芝生の上に転がった。痛みが全身を襲っていたが、叶美の姿を確認することだけは忘れなかった。目を遣ると、彼女は車のフロントガラスの上に静かに横たわっていた。どうやら気絶しているようだが、命に別状はないだろう。
上空を見上げると、病院の四階は真っ赤な炎に包まれていた。窓には夜空に向けた炎の咆哮を見た。どうやら飛び降りて正解だった。
雅美が直貴を連れてやって来た。
「沢渕くん、大丈夫?」
「森崎はどうなった?」
二人が別々のことを言った。
沢渕は声が出せず、指だけを叶美の方に向けた。
「橘、すぐに救急隊員を呼んでこい」
そんな直貴の指示に、
「分かったわ」
と雅美のフットワークは軽かった。
沢渕は何とか声を捻り出して、
「院長たちが避難を装って逃げる可能性があります。急いで病院の周りを固めてくださいい」
「その心配は要らないよ。鍵谷先生が警察に事情を説明して、すでに身柄は確保された」 直貴は優しく沢渕の肩に触れた。
「そうですか。人質も全員無事ですか?」
「ああ、さっき訊いたら、十七人全員の無事が確認された。ただ衰弱しきっている人も多くて、すぐに救急車で運ばれていったよ」
「よかった」
沢渕は芝生の上で大の字になった。
「探偵部が事件を解決したんだよ」
直貴は高らかに言ったが、それは沢渕の耳には届いていなかった。彼は目を閉じて動かなくなった。
「おい、沢渕くん。しっかりしろ!」
直貴の叫び声は闇夜に吸い込まれていった。
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