第32話 叶美の傷
放課後、沢渕は一人ある場所を目指して歩いていた。
実は直貴から緊急招集がかけられていた。夕方いつものカラオケボックスに集合というのである。どうやら森崎叶美抜きで、今後の探偵部の方向性を話し合うつもりらしい。
しかし沢渕はその招集を無視した。探偵部を解任された今、副部長の命令に従う必要はない。そんなことよりも、自分には他にするべきことがある。そんな強い思いから、堂々と学校を後にしたのである。
時折、後ろを振り返ることだけは忘れなかった。そして何も異常がないことを確認すると、また歩き始めた。
叶美は昨日、犯人と接触した可能性がある。そうだとすれば、一味は捜査の手が自分たちに迫っていることを知った筈である。当然叶美がどんな人物かを調べるに違いない。おそらく制服から高校は特定されるだろう。そして叶美が生徒会長であることも、遅かれ早かれ分かることになろう。
連中が探偵部の存在をすぐに突き止めるとは思えないが、叶美の周辺を探れば、一緒に捜査をしているメンバーが浮かび上がるのは時間の問題と思われた。
いずれにせよ、森崎叶美が現在危険な立場にあることに変わりはない。一刻も早くそのことを彼女に伝える必要があった。
沢渕は商店街の中ほどを途中で折れ、狭い狭い路地へと分け入った。いつものように少し迷ったものの、例の古びた喫茶店の前へ出ることができた。
日に焼けてすっかり光沢を失った木製扉に手を掛けた。ゆっくり開くと、中から軽音楽とエアコンの冷気が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
奥の方で、のんびりとした女性の声が聞こえた。
「沢渕くん!」
カウンターの奥で、エプロン姿の森崎叶美がぽかんと口を開けていた。どうやらガスコンロを丹念に掃除していたようだ。朝会った時よりも顔色はよく、それは体調が回復したことを物語っていた。
沢渕は無言でカウンターに腰を下ろした。叶美はゴム手袋を外して、額の汗を拭いながら歩み寄った。
驚きを隠せない様子で、
「どうしてここへ?」
「だって今日は、先輩が店番の日だと思いまして」
「あら、私そんなこと、沢渕くんに言ったかしら?」
叶美は腕組みをして、天井を仰いだ。
「いえ、僕も聞いていませんが」
「じゃあ、どうして?」
「それですよ」
沢渕はレジの後ろの壁を指さした。
叶美の視線もつられて移動する。
「ほら、そこにカレンダーがあるでしょう。先月と今月に一カ所ずつ丸がつけてあります。一つ目の丸は、先輩が前回店番をしていた日です。そして今日は二つ目の丸の日です。おそらく、おじいさんが参加される町内の会合は毎月一度開かれるのでしょう」
「ふうん。ということは、前回来た時に、丸の日を憶えたってこと?」
「はい、そうです」
「どうして、そんなことを記憶してたの?」
叶美は沢渕の顔を食い入るように見つめた。
「いや、その日に来れば、先輩と会えるんだな、と思っただけです」
沢渕はやや照れた顔で言った。
「本当にあなたは大した人ね」
叶美は呆れた調子で言うと、そのまま奥のコンロの掃除へと戻っていった。沢渕を無視するかのように黙々と手を動かす。
「あの、森崎先輩」
「何よ?」
「注文してもいいですか?」
「ああ、そうだったわね。てっきり忘れてたわ。ご注文は?」
「コーヒーを一杯」
「かしこまりました」
一本調子でそう言うと、無言で支度を始めた。沢渕にというより、自分自身に腹を立てている感じだった。
店内は香ばしい香りで満たされた。
「おまたせしました」
叶美がカウンター越しにコーヒーカップを置くのと同時に、沢渕はすっと立ち上がった。彼女の頭部を間近で観察したかったのだ。後頭部の右側が腫れているのを、彼は見逃さなかった。
「先輩、大丈夫ですか?」
「何が?」
「その頭ですよ。背後から一撃されましたね」
「沢渕くんには関係ないでしょ」
叶美は誤魔化すようにプイと横を向いた。
「そうですね、僕はもう探偵部の一員ではありませんでした」
そう言うと、コーヒーを一口すすった。
叶美はそんな様子をしばらく眺めていたが、
「それなんだけど、今日タキちゃんに強く抗議されちゃった」
と口を開いた。
「病院にお見舞いに行ったのよ。そうしたら、タキちゃん、強い調子で言うのよ。あなたが探偵部を辞めるなら、自分も辞めるってね」
沢渕は黙って聞いていた。
「タキちゃんって、きっとあなたのことが好きなのね。正直、悔しかった。だってタキちゃんは私にではなく、あなたになびいているんだもの。それじゃあ、私一人がまるで悪者みたいじゃない?」
沢渕はそれには答えなかった。
しばらく二人は黙り込んだ。軽音楽とともに時間がゆったりと流れていく。古時計が五時を告げた。
「ねえ、何か言ったらどうなの?」
見上げると、叶美は両手をエプロンの腰に当てて、二つの三角形を作っていた。
「確かに多喜子さんは昨日大変でしたが、先輩もそれ以上に危険な目に遭ったのではないですか?」
「別に」
叶美は口を尖らせた。
沢渕は立ち上がると、カウンターの中へと入った。
「ちょ、ちょっと。お客さんはこちらに入ってこないでください」
沢渕は構わずに叶美のすぐ目の前に立った。
「何よ」
最初は鋭い視線で相手をけん制していた叶美も、急に目を逸らしてうつむいた。
「ちょっと失礼」
沢渕はそう言って手を伸ばした。短い髪を持ち上げるようにして後頭部を確認した。やはり赤く腫れたこぶがあった。
叶美は緊張しているのか、身を固くした。
「まだ痛みますか?」
「うん、触るとちょっと痛いの」
叶美は甘えた声を出した。
「他に怪我はありませんか?」
「少し足が痛むぐらい」
「そうですか」
沢渕は次に叶美の両手を取った。手の甲には無数の擦り傷があった。裏を向けると血が滲んで乾いた、細かい筋が確認できた。
「あの、もういいでしょ」
叶美は顔を赤くして手を引っ込めた。
「ああ、すみません」
沢渕はカウンターの外へ出た。
「女子高生相手に随分と乱暴なことをしますね、連中も」
沢渕は腰掛けて、コーヒーカップを口にした。
「まあ、それだけ犯人たちも必死だったという訳ですね」
「昨日何があったか知ってるの?」
「いや、全てではありません。ちょっと考えてみただけです。でも、やっぱり予想通りでしたね」
叶美は昨日のことを徐々に思い出したのか、涙目になった。
「先輩は何でも独りで頑張り過ぎなんですよ。もっと僕を頼りにしてください」
沢渕がそう言うと、叶美は咳き込んで顔を両手で覆った。
「私、怖かったの、本当に死んじゃうんじゃないかって思った」
涙混じりの声が店中に響いた。
こうやって自分を優しく包み込んでくれる人がいるんだ、もうそれだけで叶美は嬉しかった。涙が止まらなくなった。
「思い出すのは辛いでしょうが、教えてください、昨日のことを」
沢渕はしっかりした口調で言った。
すっかりコーヒーは冷めてしまっていた。
話の途中、叶美は何度か嗚咽を漏らした。それでもありのまま昨日の出来事を語った。
口を挟むことなく、沢渕はじっくり聞いていた。今はそれが彼女への、せめてもの慰めになると考えたからであった。
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