第31話 不良と化した生徒会長
闇の中に、一筋の強烈な光が現れた。
誰かがスポットライトを照らしているのだ。思わず顔を背けるのだが、白い光は顔目がけて飛んでくる。少しも逃げ場がない。
その光線は眼球の奥まで進んでくる。もうこれ以上我慢できなかった。
叶美は目を開いた。
身体は明らかに睡眠を欲しがっている。しかしそれはもはや諦めるしかなかった。
不思議な光景が広がっていた。
コンクリート壁で四方を囲まれた狭い空間だった。高窓からは強い朝日が差し込んでいた。
ここは女子更衣室なのだ、叶美は気がついた。
じわじわと意識が戻ってくる。
次の瞬間、慌てて背中に手を回した。ナイフの傷は致命傷ではなかったか。しかし背中には何も残っていなかった。
頭の中が混沌としていた。
深夜に音楽室のピアノが鳴っていた。それは古くから伝わる学校の怪談である。真実を突き止めようと、窓を割って校舎に入った。
しかしそこで待ち構えていたのは、十七人を誘拐した犯人たちだった。
彼らとは二度目の遭遇である。最初の失敗を踏まえ、今度は互角以上に戦った。だが最後の詰めが甘かった。背を向けたところ、男にナイフで突き刺された。
あれは全てが夢だったのか。だとしたら、とんでもない悪夢である。
待てよ、叶美はふと思った。
ひょっとすると、ボーリング場の廃墟で彼らと対峙したのも夢ではないのか。
いや、そんな筈はない。自宅にも帰らず、こんな所で一夜を明かしたのが何よりの証拠である。
叶美の額には細かい汗が浮いていた。それをハンカチで軽く拭き取った。
立ち上がって時計を見た。
もうすっかり朝である。外のグランドからは運動部員の掛け声が聞こえてくる。
これ以上ここに留まっている訳にはいかない。
叶美は更衣室の扉を開いた。
すると女子生徒数人と鉢合わせになった。みんな体操服を着込んでいる。
「あれ、森崎先輩じゃないですか?」
一人がそんな声を上げると、みんな互いに顔を見合わせた。
「こんな所で何していたんですか?」
「顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
そんな声が上がった。
「ごめんなさい。ちょっと眠ってしまって」
さすがの生徒会長も咄嗟に言い訳が思いつかなかった。
案の定、彼女らは納得がいかないといった表情を並べた。
「先輩、制服が凄く汚れてますよ。何かあったのですか?」
「ううん、何でもないの。ご心配ありがとう」
叶美は好奇の目に耐えられなくなって、早々とその場を後にした。
校門の方からは続々と生徒が登校してくる。彼らの視線を避けるように校舎の反対側に駆けていった。
昨夜割った窓がどうなっているか確認したかったのである。夢だと分かっていても、どうしても納得がいかないのだ。叶美にとっては、それほど現実味を帯びていた。
校舎はいつもと変わらぬ姿だった。どこにも異変はなかった。
やはり夢だったのだ。
叶美はまだ信じられない気分で校舎の正面玄関へと向きを変えた。
その時である。
「おーい、森崎!」
馴染みのある声に振り返った。視線の先には、柔道着姿の久万秋進士が立っていた。
思わず駆け出していた。途中で何度も足がもつれた。
白い巨漢の前で立ち止まると、しばらく顔を見つめた。長年別れていた旧友に出会ったような気分だった。自然と涙が湧いた。
叶美の異変に、クマも気づいたようだった。何かを言おうとしたが、それよりも先に叶美が抱きついた。
「私、怖かった。本当に死ぬかと思った」
そう言って泣き崩れた。
クマは呆然と立ち尽くすばかりであった。
「おい、森崎、落ち着けよ。一体どうしたってんだ?」
しかしすすり泣くばかりで返事がない。
「大丈夫か? いつものお前らしくないぞ」
クマは彼女を自分の身体から引き剥がした。
「あれ、制服が随分と汚れているじゃないか。誰かと喧嘩でもしたのか?」
嗚咽するばかりで答えられずにいると、
「誰にやられたんだ? お前をこんな目に遭わせる奴は俺が許さねえ。仇を取ってやる」
クマは泣きじゃくる叶美を座らせると、小さな頭を撫でるようにした。
遠くで運動部員たちが歩幅を緩めて二人の様子に目を向けている。
「おいおい、そんなに泣くな。とりあえず落ち着けよ。お前が取り乱すと、俺まで不安になるだろうが」
クマはいつも正直である。嘘がつけない性格なのだ。それに比べて、私は欺瞞に満ちている、自然とそんなことを考えた。
叶美は泣くのを止めた。
「いよいよ今日は投票日だな。お前が生徒会長になるのも時間の問題だ。安心しな」
「ありがとう、クマ。でも、もういいのよ」
そう涙を拭うようにして言った。
「何がいいんだよ? お前は絶対、橘雅美に負ける訳にはいかんのだぞ」
叶美は口元に笑みを浮かべた。
「それにしても、その格好は何とかしないとな。着替えはないのか?」
クマは彼女の顔を覗き込むようにして言った。
「そんなのない」
「体操服とかは?」
「ないわ。それどころか、今日は鞄も持ってないんだもの」
学生鞄は、隣町の駅のロッカーに預けたままである。
「森崎、お前も随分と大胆な行動をするよな。今日の授業はどうすんだよ?」
「授業には出ないわ。保健室に行って寝るつもり」
クマは目を丸くして、
「お前、いつからそんな不良になっちゃったんだよ。昨日までは優等生だっただろう?」
叶美は小さく笑った。
「実は昨日の晩、学校に忍び込んで校舎の窓ガラスを割っちゃった」
「な、何だって!」
「それとね、こっそりプールに入って、真っ裸で泳いだのよ」
叶美はクマの大きな身体に身を寄せるようにして淡々と話した。
「そうそう、プールで身体を洗うと気持ちがいいものよ」
クマはどう応えてよいやら、分からなくなってきた。今日の叶美はまるで別人である。
「それから更衣室で寝ちゃったの」
「まさか、お前、それって家出じゃねえのか?」
「そうよ、学校で寝泊まりしたんだもの」
「おい、突然どれだけ不良になったんだよ。やってることのハードルがいきなり高過ぎるだろ」
クマは非難の言葉をどれだけ浴びせても足りないようだった。いやむしろ、その言葉に叶美は喜んでいる様子だった。
正面から両肩を揺さぶるようにして、
「森崎、一体どうしちまったんだよ? 選挙疲れで頭が変になっちまったのか?」
叶美は答えなかった。
「多喜子も骨折するし、お前も不良になっちゃうし、どうなってんだ?」
これまでうつろな目をしていた叶美もその言葉にだけは鋭い反応を見せた。
「何ですって! クマ、今何て言った?」
「いや、だから多喜子が昨日足を骨折しただろ。あれ、まだ森崎は知らなかったのか?」
「一体どういうことなの?」
叶美はクマを睨みつけた。
「昨日、晶也と一緒に鏡見谷旅館へ行って、穴から転落して大怪我したらしいんだ」
それを聞くと、クマを放って走り出した。
廊下は登校したばかりの生徒らでごった返している。そんな彼らをかき分けるようにして叶美は沢渕の教室にやって来た。
周りは騒然とし始めた。彼女の制服が泥だらけで異様な光景だったからである。
しかし叶美はそんなことは一切気にならない様子である。今は多喜子のことだけで頭が一杯だったのだ。
前扉から教室の中へ入った。大股で黒板の前を通過すると、教室中の誰もが一斉に話を止めて彼女の動きを見守った。
叶美は沢渕の姿を捉えると、真っ直ぐに突き進んでいった。
「沢渕くん!」
沢渕は突然の出来事に驚いた表情を浮かべた。
「タキちゃんが怪我をしたって本当なの?」
まるで掴みかかるような勢いだった。
沢渕はこれほど激しい形相の叶美をこれまで見たことがなかった。圧倒されながらも何とか口を開いた。
「実は昨日、天井から床へ落ちて右足を骨折しました」
「あなたが一緒だった筈よね。それなのにどうして?」
叶美は詰め寄った。
しばらく何も答えられずにいると、叶美は突然、沢渕の頬を叩いた。
沢渕はよろめいて、机と椅子が悲鳴を上げた。
「あなたは最低よ。タキちゃんに、もしものことがあったらどうするの。部員を危険な目に遭わせるような人は探偵部には必要ないわ。即刻辞めてもらいます!」
大きく肩で息をしながら、それだけを言い放った。
教室は水を打ったように静まりかえっていた。
彼女の頬を涙が伝った。どうして涙が溢れるのか分からなかった。
ただ、教室に居た生徒の誰もが、叶美の乱暴な行為を目の当たりにして不信感を抱き始めたことだけは確かであった。
午前の授業が終わり、昼食の時間を迎えても、沢渕はぼんやりと窓の外を眺めていた。しかし彼の目には何も映ってはいなかった。すぐ傍で、弁当箱を手に席を移動する女生徒のスカートがひらりと舞った。
朝一番の出来事だった。森崎叶美は凄い剣幕で沢渕に詰め寄ると、いきなり頬を叩いた。彼女の感情はひどく高ぶっていたに違いない。
確かに多喜子の事故を知って、現場にいた沢渕を責める気持ちは理解できる。だがそれにしても叶美の身体からは鬼気迫るものを感じた。
多喜子の怪我を心配する以上に、叶美にはもっと別の怒りがこみ上げていたように思われた。理不尽とも言うべき心の不整合を沢渕にそのままぶつけているようだった。
その後、実にあっさりと探偵部を退部させられるのだが、その時叶美の大きな瞳に涙が滲んでいたのを沢渕は見逃さなかった。大股で教室から出て行くその背中には、言いしれぬ不安が浮かび上がっていた。
汚れた制服といい、叶美の身に一体何が起きたというのであろうか。
沢渕は午前中そんなことばかりを考え続けていた。
突然、無遠慮なやり方で教室の扉が開かれた。まさしく上級生による予期せぬ訪問である。和んでいた部屋の空気が一瞬で凍りついた。
扉の枠に収まりきらない巨漢、久万秋進士の姿がそこにあった。教室内をぐるりと見渡して目的の人物を見つけると、大声で呼び掛けた。
「沢渕、飯が終わったらいつもの所へ来てくれ」
それほど空腹を感じていなかったので沢渕はすぐに席を立った。クラス全員の視線を一身に集めていたが、そんなことはまるで気にならなかった。
「クマ先輩」
廊下に出ると、背中に向かって声を掛けた。
クマは驚いて振り返った。
「いや、今すぐでなくてもいいんだぞ」
そうは言ったものの、すぐに沢渕の表情から何かを感じ取ったのか、
「分かったよ、それじゃ一緒に行こう」
二人は肩を並べて廊下を歩いていった。
化学準備室にはすでに堀元直貴の姿があった。一人でパンを食べているところだった。
「あれ、二人とも早いね」
顔を上げて言うと、
「おい、直貴。こんな非常事態によくのんびり飯なんか食っていられるな」
クマは小さな丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。それから直貴の目の前のパンを一つ掴んで、乾いた音を立てて袋を割った。
「森崎先輩はいないんですか?」
沢渕は室内を見回して言った。
一人事態が飲み込めず、不思議そうな顔にしている沢渕に向かって、クマは面倒臭そうに、
「お前にここへ来てもらったのは、実は森崎のことなんだ」
と言った。
「今日のあいつは何だか変なんだ。選挙当日っていう大事な日に」
「どうかしたのかい?」
直貴が訊く。
「直貴はあいつに会っていないから、そんなのんびりしたことが言えるんだよ。一目見ればその激変ぶりに驚くぞ」
「クマ、もうちょっと落ち着いて説明してくれないか」
直貴は相変わらずマイペースを崩さない。
クマはパンの最後のかけらを口に放り込んで、
「あのな、今日の森崎は突然変異していて、一体どこから説明していいのやら」
と困った表情を浮かべた。
「とにかく一言で言うと、いきなり不良になっちまったんだよ」
直貴が思わず吹き出した。沢渕は黙って聞いていた。
「笑い事じゃないぜ。昨日は家に帰ってないんだ。家出したんだよ、あいつ。それで今日は制服も着替えずにドロドロのまま、鞄も持たずに学校に来てるんだ」
「あの森崎が? まさか」
直貴はまだ半信半疑のようである。
「それだけじゃないぞ。何でも夜中に学校のプールに裸で入ったとか、意味不明なことを口走ってたぞ」
「おいおい、裸でプールって。森崎にはそんな趣味があったのかい?」
「驚くのはまだ早い。プールで身体を洗ったとか抜かしやがった。風呂代わりに使ったんだとよ」
さすがの直貴も黙りこくってしまった。
「それから校舎の窓ガラスを割ったとか言ってたな」
「しかし、どうして突然そんなことを始めたんだい?」
「そりゃ、こっちが訊きたいよ。一夜にして優等生が不良少女に転落しちまうなんて、聞いたことがない」
「それで、森崎は今どうしているんだい?」
「一時間目から授業をサボって、保健室に引き籠もってる」
「選挙の日に妙なことになってきたな」
「な、そう思うだろ? ひょっとして、絶対自分が当選しなければならないという重圧に耐えきれず、ついにおかしくなってしまったのかも」
クマは随分と心配しているようだ。
「おい、晶也。さっきから黙って聞いてないで、お前も何か推理したらどうなんだ。探偵部の一員としてそれぐらい朝飯前だろ」
苛々とした声が飛んだ。
「実を言うと、僕はもう探偵部員ではないのですが」
「そんなことは分かっているさ、そうじゃなくって」
「ん?」
クマと直貴は顔を見合わせた。しばらく沈黙ができた。
「今、お前何て言った?」
クマが怪訝そうに訊く。
「ですから、僕はもう探偵部のメンバーじゃないんです。今朝、部長から解任を言い渡されました」
「なにー?」
「そりゃ本当かい?」
二人の声が重なった。
「そう言えば、今朝森崎にタキが骨折した話をしたら、一目散に走り去ったんだが、やはりお前のところへ行ったのか?」
「はい。教室の中で大声で罵られました」
頬を打たれたことは敢えて言わなかった。
「あちゃー」
クマが両手で五分刈り頭を抱え込んだ。
「みんな、その一部始終を見てたんだろうなあ?」
「はい」
「アホか、あいつは。何で選挙当日に、自ら人気を落とすことをやってるんだ?」
「部員を解任されたのは、やはり多喜子さんの事故の責任をとってかい?」
「はい、そうですね」
「俺が推理するに、あいつは昨日学校の階段から落ちて頭を強打したんじゃねえか。それでおかしくなっちまった。これで全ての説明がつく」
「それにしても、森崎は午後からの選挙演説に出られるのかい?」
「いや、むしろ出ない方が票を減らさないで済むってもんだ。このままだと、演説中に何やるか分かったもんじゃねえ。全校生徒の前でいきなり裸になって踊り始めるぞ、きっと」
「まさか」
そうは言っても、直貴の顔も次第にこわばってきた。
「突然不良と化したあいつの行動は予測不能だ。元々真面目な人間だからどういうのが不良なのか、よく分かってないんだろうよ。それで手当たり次第、思いつくことを何でもやってるんだ。
だから不良とは言っても、相当ピントがズレてる。ロック歌手が革ジャン着てサングラスかけて、唄っているのはドレミの歌ってぐらい訳が分からんのだ」
「信じられないけど、どうすればいいんだい?」
「ああゆう奴は暴走すると手がつけられん。目覚めさせるには、もう一度頭を打った方がいい。今から呼び出して階段から突き落とすか?」
クマは真面目な顔をして言った。
「もしかしたら、森崎先輩に何か衝撃的な事件が起こったのかもしれませんね」
沢渕がひっそりと言った。
「どういうことだ、それは?」
クマが間髪入れずに訊いた。
「例えば、誘拐事件の犯人と接触したとか、何か危険な目に遭ったとか」
「でもそれならクマと会った時、真っ先に話すと思うんだが」
直貴が眼鏡を指で持ち上げて言った。
「確かにそうかもしれません。ですが先輩はどうやら睡眠不足のようですから、おそらく夢と現実がごっちゃになって、うまく説明できない精神状態だったのかもしれません」
「なるほど、そういうことか。制服が汚れていたのも説明がつくな」
クマは感心したように言った。
「実は昨日、監禁場所の探索に誘われたのです。ですが多喜子さんと先に鏡見谷旅館に行くことを約束していたので断りました。それで先輩は一人隣町へ行って何かに出くわした可能性があるのです」
「まさか、犯人たちと対決したとでもいうのか?」
「そうかもしれません。もしそうなら相当怖い目に遭わされたのでしょう。生命が危険に晒されたのかもしれない。それで一時的に精神に錯乱をきたしていると思われます」
おそらくこの推理は正しいような気がする。
だからこそ部員である多喜子の怪我に、異常なまでの反応をしたのではないだろうか。自分が味わった恐怖体験を思い出し、半狂乱になった。
もしかすると叶美は探偵部を解体する気でいるのではないだろうか。
自分の他にこれ以上犠牲が出ることを恐れてである。そう考えると彼女の一連の異常行動にも説明がつく。もう彼女は探偵部の部長、ひいては生徒会長も辞するつもりでいるのだ。
「おい、晶也。もし森崎が犯人と出くわしているのなら、顔を見た筈だろ? だったら事件は一気に解決するんじゃないか?」
黙り込んでいた沢渕は我に返って、
「そうかもしれません。ですが先輩は責任感の強い人ですから、他の部員を巻き込まずに、自分一人で決着をつけようと考えているかもしれません」
「そりゃマズいぜ。あいつまで誘拐されてしまったら元も子もないぞ」
「クマの言う通りだね。今後森崎が一人で行動しないように監視しよう。それから護衛をつける必要があるね」
「それは俺の仕事だな。俺があいつを全力で守ってやる」
二人の顔には多少の安堵が戻っていたが、沢渕の心は一向に晴れなかった。
「これから保健室へ行って森崎に会ってくるよ」
直貴が真っ先に立ち上がった。彼の身体からはひしひしと緊張感が伝わってくる。
「俺も付き合うぜ」
クマも続いた。そして沢渕の方を振り返った。
「もちろん、お前も来るよな?」
正直気が進まなかった。精神が不安定な叶美とまともな議論ができそうにないからである。
しかしそんな考えをよそに、クマは沢渕の腕を引っ張ってずんずんと廊下を進んでいく。
三人は保健室の前に一列に並んだ。直貴が引き戸に手を掛けてするすると開けると、クマが我先にと飛び込んだ。
意外にも保健室はもぬけの殻であった。
「あれ、森崎はいないじゃないか」
直貴がクマを睨むようにして言った。
「いや、確かにあいつは調子が悪いから保健室へ行くって、教室を出ていったんだよ」
そこまで言ってから、「あっ」と短い声を上げた。
「まさか、こっそり学校を抜け出したんじゃねえだろうな、あの即席不良娘は。午後からの選挙演説会をほったらかして、今度は一体何をやらかすつもりだ?」
クマは頭を抱え込むと、一つ大きなため息をついた。
その頃、叶美は病院にいた。
保健室で一度はベッドに横になったものの、多喜子のことが気が気でならなかった。すぐに飛び起きると職員室へ出向き、教頭から早退の許可を受けた。
学校を出ると、最初の公衆電話で足を止めた。そこで姉の奈帆子に連絡を取って病院の名前を訊いた。
通り掛かったタクシーを拾って病院に向かった。所要時間はわずか十分程度だったが、知らぬ間に眠ってしまっていた。どうやら身体はまだ睡眠を欲しがっているようだ。運転手の怒ったような声で目を覚ました。
部屋は奈帆子から聞いていたので、真っ直ぐ向かうことができた。エレベーターを降りたところで、ナースセンターの奥から中年の看護師に大声で呼び止められた。
どこへ行くのか、と訊くので、佐々峰多喜子の名前を告げた。そう言えば、制服のブラウスが薄汚れていることに思い至った。咎められたのはこのせいに違いない。清潔であるべき場所に、あまりにも相応しくない格好であった。
病室の前で立ち止まった。ふと視線を感じて廊下の先に目を遣ると、先ほどの看護師が遠くで叶美の動きを窺っていた。
ノックをしてから、多喜子に何も持ってきてやらなかったな、と気がついた。いつもの冷静さをすっかり失っていた。一度多喜子の顔を見てから、改めて何か果物でも差し入れることにしよう、そう思い直した。
スチールの冷たい扉を開くと、そこは広い病室だった。六台のベッドが並べられている。この時間、見舞客は一人もいなかった。患者は皆それぞれのベッドで大人しく眠っているようだ。その中に見覚えのある姿を捉えた。
多喜子は身体を窮屈そうに折り曲げて来訪者を確認しようとした。
二人の視線が合わさった。
「叶美先輩っ」
多喜子の顔が自然とほころんだ。
それから気まずそうに、
「へへへ、やっちゃいました」
と言った。
小柄な多喜子には、白いギプスが異様なぐらい大きかった。
「聞いたわよ。タキちゃん、昨日は大変だったわね」
叶美は手近な丸椅子に腰掛けた。
「足は大丈夫?」
「はい、ただの骨折ですから、ひと月で治るそうです」
「他に怪我をしたところはない? お医者さんにちゃんと診てもらった?」
「はい、一応レントゲンも撮りましたが、他に問題はないそうです。明日には家に帰ってもいいそうです」
「もう、随分心配したんだから。もしものことがあったらどうしようって」
目には自然と涙が浮かんだ。
多喜子はただならぬ雰囲気を察したのか、
「先輩、すみませんでした」
と殊勝な顔で言った。
「ううん、タキちゃんが謝る必要ないのよ」
叶美は涙を拭った。
しばらく二人は無言になった。反対側のベッドから患者が寝返りする音がした。
「でも、先輩。今日の選挙で大切な一票を入れられなくてごめんなさい」
「いいのよ、そんなこと」
多喜子は急に思い出して、
「そう言えば、先輩。選挙結果はどうだったのですか?」
「どうなのかしらね。学校を抜け出してきたから、私にも分からないわ」
それには多喜子も驚いた表情を浮かべた。
しかし叶美がそれ以上語らなかったので、黙りこくってしまった。
「謝らなければならないのは、私の方よね」
叶美はしばらくうつむいていたが、突然そんなことを言い出した。多喜子は黙って聞いている。
「だってタキちゃんを危険な目に遭わせちゃったもの」
「いいえ、これは私自身のせいです。先輩は悪くありません」
「でも、もう安心よ。探偵部は解散するつもりだから」
「えっ、何ですって?」
多喜子は慌てて口を挟んだ。
「やっぱり私たち素人が探偵の真似事をすべきではなかったのよね。もうこれ以上、怪我人を出す訳にはいかないでしょ。だから解散することに決めたの」
叶美の脳裏には、植野老人たちや、クマの柔道仲間らの顔が浮かんだ。早く事件から手を引かなければ、そのうち彼らの身も危険に晒されることになるかもしれない。
「先輩、それはみんなで出した結論なのですか?」
「えっ?」
「直貴先輩やクマ先輩、それに沢渕くんは賛成なのですか?」
「まだみんなには伝えてないけど。いえ、でも沢渕くんだけは知っているかな」
「彼は何て言ってました?」
多喜子は身を乗り出した。
「それは、その、実は話し合った訳じゃなくて、私の一存で探偵部を辞めてもらったの」
一瞬、多喜子の瞳が大きく開かれた。そして叶美を睨むようにして、
「どうして、沢渕くんが辞めなきゃならないんですか?」
「だから、それはタキちゃんにこんな大怪我をさせた責任があるでしょ」
「そんな、それはあまりにも酷過ぎます。骨折したのは、私が不注意だったからなんです。沢渕くんに非はありません。それどころか、私を助けてくれたのは彼なんですよ」
多喜子の声には明らかに不満が現れていた。
叶美は彼女の激しい抗議に驚きを隠せなかった。内気で大人しい性格の多喜子が、これほど情熱的に語るのはこれまで一度たりともなかったからである。
次の言葉を思案していると、多喜子は当夜の状況を説明した。
鏡見谷旅館は廃業後、不良連中の溜まり場と化していた。そこへ招かざる客が車で乗りつけた。彼らは自分たちの城を守るべく、侵入者を痛めつけよう考えた。三階の窓から白い布をひらひらと動かして、それに興味を持った者が三階へ上がってくるように仕向けた。そこには雨漏りで腐った廊下が大きな穴を開けていたのである。それはまさしく侵入者におあつらえ向きのトラップだった。
不良たちの思惑通り、三人のうち多喜子が罠にかかった。天井から床へ落下した多喜子を素早く部屋に隠し、人質にしようと考えた。
しかし沢渕の機転で、多喜子への被害は最小限に食い止められた。彼は逆に不良たちを脅し、不安を煽ることで彼らを服従させることに成功した。
沢渕は多喜子の骨折した足に応急処置を施し、不良たちに簡易的な担架を作らせ、彼女を奈帆子の車まで運ばせた。
そして車は山を下り、最寄りの病院へ駆け込んだ。多喜子はそこで応急手当を受けた。自宅へは深夜遅く帰ることになるのだが、沢渕は予め多喜子の父親に連絡を取り、彼女が骨折したことを伝えた。この病院で落ち合うと、誠実に父親に謝罪した。自ら怒られ役を買って出たのである。
「先輩、沢渕くんを探偵部に戻してください」
多喜子は叶美の手にすがった。
しかし探偵部は解体するつもりなのである。沢渕を戻したところで、部そのものがなくなるのだ。もはや意味などないではないか。
「もし先輩が探偵部を解散するというなら、それはそれで構いません。ですが、私はお姉ちゃんや沢渕くんと事件の捜査は続けます」
そんな力強い宣言に叶美の気は動転した。今まで自分に従順だった多喜子が今や牙を剥いているのである。
言われてみれば、沢渕に向けた言葉は理不尽なものだったかもしれない。薄々とそう感じていた。どこか自分の気持ちに嘘をついていた気がする。
沢渕を責めたのは、実は多喜子の骨折のことではなかったのかもしれない。彼のことだ、多喜子を守ってやらない訳がない。そんなことは事の顛末を聞かなくても分かっていた。だからそれが理由で怒ったのではない。
ではあの時、どうして沢渕にあんな態度を取ったのだろうか。
彼はいつも多喜子のことばかりを心配している。確かに彼女は守ってやるべき存在には違いないが、どうしてその心配を少しでも叶美には向けてくれないのか。そんな不条理さに怒りがこみ上げてきた。多喜子のことばかり夢中になって、どうして叶美に気を遣ってくれないのか、そんな不公平さに我慢ならなかったのだ。
彼を目覚めさせたかった。それでつい手が出てしまった。挙げ句の果てに部長という権限を悪用して、解雇通告までしてしまった。
本当に、自分は嫌な女だと思う。多喜子の純粋な心が羨ましくなった。
涙が止めどなく溢れ出した。それを多喜子に悟られまいとして両手で顔を覆った。
「タキちゃん、本当にごめんね」
唖然とする多喜子の前で、そんな言葉を捻り出すのがやっとだった。
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