第28話 多喜子が消えた

 沢渕の頭は混乱していた。

 なにしろ女子高生が一人、まるで煙のように消え失せたのである。手品でもない限り、そんなことはあり得ない。

 館内はすっかり闇に覆われて、足元すらおぼつかない。たちまち広がった不安感が理性を浸食していく。手足の自由さえ利かなくなる。

 しかし今はそんな弱音を吐いている場合ではない。多喜子の命が懸かっているのだ。

 目の前には細長い通路が一直線に伸びていた。本館と別館をつなぐ渡り廊下である。屋根の一部が朽ち果てているのか、所々隙間から夜空が覗いていた。

 多喜子はここで姿を消したのだ。まるでこの亡霊旅館に飲み込まれたかのように。

「多喜子っ!」

 奈帆子が奥に向かって驚くほどの大声を上げた。しかしその声は虚しく暗闇に吸い込まれ、返事は返ってこなかった。

 姉としての本能が奈帆子を次なる行動へと駆り立てた。沢渕を押しのけて渡り廊下の先へ飛び出そうとしたのである。

「動くな!」

 沢渕の激しい声が彼女の身体に突き刺さった。

 奈帆子は理不尽にも制止させられて、恐らく沢渕の顔を睨んでいる筈である。しかしそんな表情もこの暗がりでは確認できない。

「トラップがあるかもしれません」

 沢渕は乱暴に奈帆子の手を引っ張ると、後ろへ押し戻した。そして自分は床にしゃがみ込んだ。

「そこに居てください」

 沢渕は床に這いつくばると、ゆっくりとほふく前進を始めた。

 思った通りだ。床には微妙な空気の揺れを感じる。別の空間からわずかな風が流入しているのだ。この先、床のどこかが突き抜けているのかもしれない。

 やはりそうだ、影の濃淡が微妙に異なる場所がある。どうやら廊下の真ん中辺りに大きな穴が空いているようだった。

 多喜子はここから下に落ちたのだろうか。彼女の身体が通り抜ける十分の大きさである。この穴は自然のものなのか、それとも人為的なものなのか判断はつかなかった。

 沢渕は身体が滑らないよう、下半身に力を入れて穴から顔を出してみた。どうやら階下も渡り廊下になっているようである。天井から床まではおよそ三メートル。多喜子の身体が二階の床に受け止められているのなら、命に別状はないと思われた。

 しかしどれだけ目を凝らしても、あるべきところに多喜子の姿は見当たらないのだ。何度も目を擦ってみても人影は確認できなかった。

 言い知れぬ恐怖がこみ上げてくる。最悪の事態が頭をよぎる。

 身体を起こすと、すぐ横では奈帆子がすすり泣きをしていた。

「お姉さんはここで待っていてください。僕が見てきます」

 姉を安心させられる言葉は他にないだろうか、しかしとっさに思いつくことができなかった。

 沢渕は廊下を駆け出した。

 床には思いがけない障害物が転がっている。何度も身体をぶつけながら前進する。痛みを感じている暇はなかった。

 階段まで辿り着くと、転げ落ちるように下った。

 二階の廊下は三階以上に物が散乱している。一つ大きな事務机を力任せに乗り越えると、すぐそこに渡り廊下が出現した。

「多喜子さん」

 静かな空間に呼び掛けた。しかし聞こえるのは自分の足が床を踏み鳴らす音だけである。人の気配はない。

 穴の真下にやって来た。見上げると天井は大きく裂けていた。

 床に目を戻す。彼女がここへ落ちたのは明らかである。しかし何故か彼女の姿が見当たらないのだ。

 念のため、その辺りの床を踏みならしてみた。しっかりと応えが返ってくる。この床は抜けてはいないのだ。それでは多喜子は一体どこに消えてしまったのだろうか。

 多喜子の悲鳴がして間髪入れずに駆けつけたのである。時間にして十秒と経っていない。

 ほんのわずかな間に、彼女の身体を移動させた者がいる。しかもそれは複数の人間の筈である。今来た道は大きな机が進路を妨害していた。この先の廊下には客室のドアが並んでいた。これらの事実を合わせると自ずと答えが出た。

 沢渕は忍び足で廊下まで戻った。そしてこの先の一番手近なドアの前に息を殺して立った。

 勘合が悪いのか、ドアはだらしなく半開きになっていた。気のせいか、内部の気圧変化で、ドアがほんの少し動いたように感じられた。

 沢渕はノブに手を掛けると、静かにドアを開いた。

 正面突き当たりは大きなガラス窓になっていた。黄色い月明かりが三体の人影をぼんやりと浮かび上がらせていた。いずれも若い男のようであった。逆光で顔までは見えない。

「多喜子はどこだ?」

 沢渕は強い声で言った。

「これはこれは、白馬に乗った王子様の登場だぜ」

 三人の一人がおどけて言った。

 よく見ると、男たちの足下に横たわる小さな影があった。

 どうやら多喜子である。

 沢渕の心に安堵が生まれた。ぐったりとはしているが、仰向けになった身体は胸が大きく波打っていた。生きている証しがそこにあった。

 果たして彼らが誘拐犯なのだろうか。この旅館のどこかに人質が監禁されているのだろうか。もしそうなら全員解放しなければならない。沢渕の頭は忙しく回転した。

 多喜子に最も近い男は何やら小型ナイフのような物を持っている。迂闊に刺激してはならない。

「君たちがこの旅館の主という訳か」

「そうだ」

「俺たちの城を荒らす者は皆、罰せられる」

 別の男の声も加勢する。

「なるほどね」

 沢渕は落ち着いて言った。

 この連中は思ったよりも精神年齢が低い。追い求めている誘拐犯とはまるで違う。恐らくこの廃墟にたむろする不良グループといったところか。

「ここへ何をしに来たんだ?」

 一人が訊いた。

「この建物を不法に占拠している輩がいないかどうか、調べにきたんだ」

「調べてどうするんだ?」

 一人が笑った。

「警察に報告するのさ」

「ふん、その前にお前らをぶっ潰してやるよ」

「言いたいことはそれだけか?」

 一転して、沢渕は凄んだ。

 一瞬の沈黙。

「ますますお前たちは不利になるばかりだな」

 沢渕は言葉を続けた。

「お前こそ、頭がどうかしてるんじゃないのか? 三対一のこの状況で、どうして俺たちが不利なんだ?」

 一人が我慢できずに高い声で笑った。

「そこにいる女の子は、数メートルの高さから落ちたんだ。おそらく骨の一本や二本は折れているだろう。問題は三階の床に誰が穴を掘ったかだ。もしお前たちがやったのなら、これは立派な傷害罪になる。いや、故意に落としたのなら、殺人未遂罪になる」

 男たちは黙って聞いていた。

「しかも救助にやって来た人間を邪魔したとなれば、かなり悪質だ。十分に刑事事件になる」

 三人が動揺し始めたのが分かった。

「どうやらお前らは若そうだ。まあ未成年なら少年鑑別所に送られる程度で済みそうだが、これまで通りの生活はできないぞ。家には帰れないし、友達とも遊べなくなる」

 その言葉は三人に深く突き刺さったようだった。誰もが黙って何かを考えていた。

「だが、もしお前ら二人をここで監禁したらどうなる? 俺たちのやったことはバレないじゃねぇか」

 一人がそう口にした。

 沢渕は笑いながら、

「まだそんな寝ぼけたことを言ってるのか。実は俺の仲間が他にも居るんだよ。もうとっくにこの建物を抜け出して警察に向かっているところだがね」

「ちょっと待ってくれよ」

 懇願する声が部屋に響いた。

「あの穴は俺たちが掘ったものじゃない。屋根が雨漏りして、そのせいで床が腐って穴が空いただけなんだ」

「だが彼女を落として、この部屋に隠した。殺そうとしたと言われても仕方あるまい」

「いや、だからわざとやった訳じゃないんだ。分かってくれよ」

 もう最初の勢いはどこかに消えていた。彼らから焦りだけが伝わってくる。

「俺は早く彼女の手当てがしたいんだ。それに協力すれば、お前たちの罪は軽くなると思うがね」

「どういうことだ?」

「お前たちの根城に勝手に立ち入ったこちらも非を認めよう。だから今すぐ彼女の手当を手伝うのなら、お前たちの悪行は今回は見逃してやると言っているんだ」

「仕方ない。分かったよ」

 三人はついに観念したようだった。

 多喜子から男たちが退いた。

 沢渕はすぐに駆け寄った。

「タキ、大丈夫か?」

 彼女は何も答えなかった。よく見ると、口に大判のガムテープが貼られていた。

 それを引き剥がすと、頬を数回軽く叩いた。

 意識が戻ったのか、突然悲鳴が上がった。

「タキ、落ち着いて。僕だよ」

「沢渕くん?」

 涙混じりの弱々しい声だった。

「もう大丈夫だ。心配はいらないからね」

 沢渕は彼女の小さな身体を抱きかかえるようにした。

「どこか痛いところはないか?」

「うん、右足の感覚がないみたい。動かすととっても痛いのよ」

 骨が折れているのかも知れない。

 沢渕は三人に向かって、

「担架を作るから手伝ってくれ」

「どうすればいいんだ?」

「お前たち二人は丈夫な棒二本と、厚手のカーテンを探してこい」

「分かった」

「お前は足を固定するのを手伝え」

「よし」

 月明かりの下で部屋の中は見渡せる。

 机に近づくと、引き出しを抜いて床に叩きつけた。そしてバラバラになった木の板を拾い上げると、多喜子の足へ宛がった。

「ちょいと失礼」

 そう言うと、沢渕は多喜子の制服のスカートを少し上に持ち上げて、ガムテープでぐるぐる巻きにした。

「ちょっと、恥ずかしいわ」

 多喜子はそんな風に言ったが、沢渕は構わずに作業を続けた。

 男たち二人が戻ってきた。

 沢渕はちょうど多喜子の身体が載せられるような幅に棒を配置して、それにカーテンを何重にも巻きつけた。

 ゆっくりと彼女の身体を載せると、二人の男に担がせた。

 部屋を出ると、渡り廊下に戻り、上階にいる奈帆子に声を掛けた。

「お姉さん、多喜子さんは無事です。車のところへ戻って、出発の準備をしてください」

「お前、俺たちを騙したな?」

 男の一人が言った。

「まあ、気にしない、気にしない。たまには人助けするのも気持ちがいいだろう?」

 沢渕は障害物がないか確認しながら、担架の先を歩いていく。

 叶美に報告を入れようと、彼女の携帯に掛けてみた。しかし電源が入っていないという定型句が流れるだけだった。

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