第29話 戦士の休息
誰かが目の前でしきりに鐘を叩いていた。その残響音は疲れた頭から離れてはくれない。
突然、叶美に意識が戻った。
救急車が大通りを駆け抜けていくところだった。
ブラウスの背中にアスファルトの温もりが蘇ってきた。すっかり眠っていた。あれからどのくらい時間が経ったのだろうか。
相変わらず大きな駐車場の真ん中に一人寝転がっていた。
全ては夢であってほしい、そう願っていたものの、やはり現実は現実である。誰も私に手を貸してはくれない。
しかし今は身体が随分と軽く感じる。
これなら何とかひとりで困難に立ち向かえる気がする。どこかに多少の自信が湧いていた。しばらく安静にしていたおかげで、身体も精神も元に戻りそうな予感があった。
しかし起き上がろうとすると、途端に吐き気が襲った。それでも何とかこらえて地面に立った。
月明かりが広大な駐車場を照らしている。遠くに見える民家の明かりはもうすっかり消えていた。
腕時計に目を遣ると、午前一時を過ぎていた。
あれから五時間も眠っていたことになる。にわかに信じられなかった。それほど睡眠を必要としていたのか。
このまま死んでしまうのだろうか、一時はそんな覚悟もしていた。だがそれほどの致命傷は負わなかったということか。どうやら神は私を見捨てなかった。
何度も倒れそうになったが、何とか踏みとどまって一歩二歩と足を動かした。目指すは遙か遠くに見える大通りだった。
とにかく今は水が飲みたい。
意識が朦朧としているのも、水分が圧倒的に不足しているからだと思う。食欲はまるで湧かないが、何かお腹に入れた方がいいのかもしれない。
時間を掛けて歩道まで出た。振り返ると忌まわしきボーリング場が巨大な影となってこちらを窺っていた。
数十メートル先で、自動販売機が煌々と自らの存在を主張していた。
叶美はそんな砂漠のオアシスに吸い寄せられるように先を急いだ。ようやく辿り着くと、販売機に寄りかかった。財布から小銭を取り出すのももどかしく、ペットボトルを二本立て続けに買った。
それを浴びるようにして飲んだ。あっという間に二本を空にした。
しばらく自動販売機に身体を預けるようにしていたが、すぐ目の前がバス停であることに気がついた。
叶美はすぐさまベンチに腰を下ろした。当然この時間バスは来ない。それでも時刻表を眺めた。
やはりそうである。ここは誘拐事件の舞台となったバス停の一つである。駅までは三つ手前の位置にある。
深夜の道路に車は少ない。たまに現れては消えていく車のヘッドライトをぼんやりと眺めた。
これから山神高校まで戻ろうと思う。しかし駅までの長い道のりを歩く気にはなれない。それにこの時間、どのみち列車も走っていないのだ。
残された交通手段はタクシーだけである。それならこの大通りで捕まえるのが最善の策である。叶美は遠くに見えてくる一台一台の車に目を凝らした。
なかなかタクシーは現れない。
そうこうするうちに犯人のマイクロバスが目の前に停車して、私を無理矢理連れ去ったらどうなるだろうか、そんな妄想が頭をよぎった。
首尾よく彼らのアジトに案内してくれるだろうか。そこで十七人の人質と対面することができるだろう。その後私には全員を救い出すことができるだろうか。
今のこの身体では土台無理だ、すぐそんな結論に達する。今は気力も体力も不十分だ。次の機会を待つべきだろう。
拉致された人々の苦しみに比べれば、今の自分の立場はそれほど嘆くほどのものではない。そう思うと、叶美はベンチから立ち上がった。
しばらくするとタクシーがやって来た。この先駅へ戻るところなのだろう。
叶美は折れ曲がった背中を伸ばすようにして手を挙げた。
タクシーはブレーキを掛けたものの、少し行き過ぎてバックで戻ってきた。
叶美は開いたドアから乗り込んだ。
「山神高校までお願いします」
何とか自然に声を出せた。
運転手はバックミラーの叶美をまじまじと覗き込んだ。
「お客さん、こんな時間に大丈夫ですか?」
「ええ、これから高校へ行って明日の準備をするんです」
叶美は努めて普通の口調で言った。
会話をする度に、呂律が回るようになってくる。
「ふうん、そうですか」
運転手は一度首を傾げてからアクセルを踏んだ。
夜の景色がストレスなく流れていく。長い一日だったと思う。
それはそうと、あの連中は一体何だったのだろうか。叶美は密室で交わした言葉の一つひとつを思い出していた。
対峙したあの男は随分と若い感じだった。「事件の捜査から手を引け」と言った。
明らかに犯人からのメッセージである。ではどうして探偵部が捜査をしていることを知っていたのだろうか。
やはりあの小さな町では、我々の捜査は人目についたということか。しかも動き廻っているのは探偵部だけではない。クマの柔道仲間や同じ病院に通う老人グループもいる。そんな彼らの動きが犯人の目に留まったということだろうか。
とするならば、やはり犯人たちはあの町に潜伏しているという裏付けにならないか。だからこそ、すぐに我々の動きを察知できた。
問題は、犯人の警告にどう対処するかである。探偵部の部長として、部員に怪我人を出す訳にはいかない。ましてや何の罪もない一般人を巻き込むことはできない。
叶美は後部座席に身を沈め、様々なことを考えた。
そしていつしか眠りに落ちてしまった。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の威圧的な声で目が覚めた。さすがに彼も深夜に乗せた女子高生に不信感を払拭できなかったと見える。
叶美は料金を支払って車を降りた。タクシーは慌ててUターンをすると、逃げるように走り去った。
深夜の高校はひっそりとしていた。黒い校舎の影だけがそびえ立っている。不思議な感覚だった。ついさっきまでここに居たように思えたからである。
当然正門は固く閉ざされていた。
しかし勝手知ったる自分の学校である。叶美は垣根の切れ目から校内に侵入した。
月明かりを頼りに校舎まで歩く。
一階の生徒会室に鍵の調子の悪い窓があった。うまく鍵が掛けられず中途半端に閉められている日が多い。そこから校舎の中へ入ろうと思ったのである。
しかし外からその窓を揺すってみたが、今日はしっかりと施錠されていた。
叶美は仕方なく校舎に入ることを諦めた。代わりにグランドを横切ってプールへと向かった。
そこには更衣室とトイレが併設されている。女子トイレに入ると電気を点けた。そして真っ先に鏡を覗き込んだ。
思った以上に酷い姿が映し出された。
短い髪は砂埃を吸ってほうきのようにささくれ立って、顔は泥まみれである。さらに右の頬が赤く腫れ上がっている。軽く押さえると痛みを感じた。
ブラウスは灰色に染まり、左の襟が裂けていた。ボタンが一つなくなって、何ともだらしない格好である。チェックの赤いリボンも歪んで今にも落ちそうだった。
これではタクシー運転手が気味悪く思うのも無理はない。亡霊か何かを拾ったように感じたのかもしれない。
叶美はリボンを外してブラウスを脱いだ。左手を挙げると痛みが走った。転んだ時に床に強く打ち付けたからかもしれない。
鏡の中で下着姿の少女がブラウスの汚れを落としていた。特に背中は埃まみれだった。それを濡らしたハンカチで丹念に拭き取った。
全体を水洗いすることも考えたが、また明日の朝には同じ物を着なければならない。それまでに乾くかどうか分からないし、そもそも下着一枚で夜を明かす訳にもいかなかった。
スカートも脱いでみた。こちらは濃い青色なので、それほど汚れは目立たない。叩けば何とかなるだろう。
叶美は半裸で鏡の中の自分と見つめ合っているうちに、ふとある考えが浮かんだ。
彼女はトイレのドアを細目に開いて、辺りを確認した。もちろん人の気配はない。
そのままの姿で外へ飛び出すと、消毒槽を抜けてプールサイドへと上がった。
今週から各学年で水泳の授業が始まっている。よってプールはすっかり水が満たされているのだった。
プールは四方を目板で覆われている。よって誰の目も気にすることはない。もし覗かれる心配があるとすれば、それは上空か、それとも校舎の三階以上からでしかない。
叶美は躊躇うことなく下着を脱ぎ捨てた。そして深夜のプールに身を投げた。
心地よい冷水が全身を押し包んだ。火照った肌が徐々に命を吹き返すようだ。
両手で顔を洗うと、次に胸や足を何度か擦った。その度に水がびっくりする程大きな音を立てた。それも上空へと吸い込まれていく。
黄色い月光が波の上を踊っていた。今巨大なプールに自分一人が波を立たせている。
自然と叶美の顔に笑みが宿った。
この山神高校創立以来、真夜中に全裸でプールに入るなどという、ふらちな行為をした者が他にいただろうか。
しかも生徒会長という身分でありながら、これだけの背徳行為を犯している自分が実に可笑しかった。
生徒会長なんてどうでもよくなった。探偵部の部長だって辞めてやる。誰かをこんな危険な目に遭わせることになるのなら、探偵部は解散しよう。
叶美は白い肢体をしなやかに動かして水と戯れた。左手に痛みは残っているが、泳いでいればそれも忘れてしまう。
闇夜に黄色のスポットライトを浴びて、生まれたままの姿で泳ぐ。まるで大海原を自由に飛び跳ねるイルカのようであった。
泳ぎ疲れると、しばらく水に浮かんで空を眺めた。一際大きく輝く月とその背後で無数に瞬く星が叶美の身体を見つめていた。
どこか遠くに犬の遠吠えが聞こえた。それを合図に叶美はプールから上がった。全身から滴る水がプールサイドに黒い染みを作っていく。
叶美は一糸まとわぬ姿で、背筋をピンと伸ばし力強く歩いた。結局世界は自分一人しかいないのだ。誰の目を気にする必要があろうか。
自然と涙が湧いた。一体何が悲しいのか。押し潰されそうになるこの心を人に説明するのは難しいだろう。
叶美は元通りに制服を身にまとうと、更衣室の片隅で横になった。
壁に生徒会選挙の告知が貼られていた。そうか、選挙は今日だったのか、今全てを思い出した。
壁の時計は午前四時を指していた。
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