第27話 犯人との遭遇
叶美は今、薄暗い部屋に閉じ込められていた。足元からは異臭が漂い、大気の密度すら歪めてしまっている。とても人間の居られる場所ではない。精神が肉体から離れてしまいそうだった。
これ以上、ここには一秒たりとも居たくない。すぐにでも逃げ出したい。そんな衝動が彼女の身体を揺らす。
しかしそれはもう不可能だ。何者かの手によって部屋の扉は固く閉ざされてしまった。後戻りはできない。
それなら先へ進むか。
いや、それはもっと無理な相談だ。
目の前には人のシルエットが浮かび上がっていた。暗闇の中、徐々に目が慣らされて、今でははっきりとその人物の顔が窺える。
能面を被った男。
彼が息をする度、握られた鉄パイプが上下に微動した。
気を狂わせるほどの異臭の原因は察しがついている。床には数匹の大型犬が重なり合うように、見るも無惨な姿で横たわっている。この男が容赦なく鉄槌を下したに違いない。
ああ、もう理性を保つことができない。
自然と涙が浮いた。ここから消えてしまいたい。しかしそれは手品でもない限り不可能だ。いくら妄想を重ねても現実を超越することはできない。
頭が変になりそうだ。誰かに助けを求めることはできないのか。今この地球上で、私ほど孤独で惨めな人間はいないだろう。
クマの顔が浮かんだ。普段意識したこともなかったが、彼は探偵部には欠かせない存在である。ここに居てくれたらどんなに心強いことだろう。
沢渕晶也の顔も浮かんだ。彼ならこの修羅場をくぐり抜け、無事生還する行動力を持ち合わせている筈だ。
探偵部の部長でありながら、これほど無力な自分に嫌気が差した。許されるのなら、この場で泣き崩れてしまいたい。
しかしそれでは事態は一向に変わらないではないか。今ここは自分の力を頼りに戦わなければならないのだ。
能面と向き合う格好になった。
それは一瞬のことなのか、それとも何時間のことなのか。叶美にはもはや判断がつかなかった。
本当にここで一戦交えることになるのか。
相手は鉄パイプを持っている。一方、こちらは武器となる物が何もない。
叶美は能面男の動きを目でけん制しつつ、ちらちらと辺りを見回した。何か武器は落ちていないだろうか。
ダメだ、正常な判断ができない。
こうしている間にも、相手が襲いかかってきたら、一瞬で決着がついてしまうだろう。そう、事が始まったら最後、自分には何の抵抗もできない。
突然、男が動き始めた。一歩ずつ叶美に近づいてくる。
歩く度に鉄パイプが床に擦れて、甲高い悲鳴のような音を響かせている。
いよいよ、戦いが始まるのか。
死を意識した。
何とか、時間を稼ぐことはできないか?
叶美は朦朧とした頭で考えた。
鉄パイプを振り上げるより先に、こちらから体当たりを食らわすことができれば、相手に隙が生まれるだろう。それを利用して部屋の奥へ駆け抜けてはどうだろう。とにかくまともに戦っては終わりだ。
ここは一縷の望みに全てを託すことにしよう。
こんな状況で、どうして逃げ出さずにいられるのか不思議でならない。いや、恐怖のあまり、足が床に張り付いてしまっただけのことかもしれない。
「随分と子供騙しね」
叶美は落ち着いた声で言った。
男は思いがけないその台詞に一瞬当惑したように見えた。
そして足を止めた。
また睨み合いになる。
「事件の捜査から手を引け」
無表情の面からそんな声がした。意外と若々しかった。そのことが叶美にさらなる力を与えた。
「捜査って何のことかしら?」
「とぼけるな!」
叫び声と同時に鉄パイプが床に振り下ろされた。金属が地面を叩き割る音が轟いた。
叶美は震え上がった。
やはりこの相手とまともに戦っては勝ち目はない。それでも心の動揺を悟られないよう、小さく呼吸をした。
この暗闇は自分に有利に働いている、そう叶美は考えた。
相手からはこちらの表情が読めていない筈だ。恐怖に怯える自分の姿は目に映っていないだろう。それならハッタリをかませてやる。
「なるほどね、それで分かったわ。あなたが五年前の誘拐事件の犯人って訳ね」
叶美の声はかすかに震えていた。しかしそれを相手に気づかれないように毅然と胸を張った。
能面からの答えはなかった。何かを考えているようだった。
「今、人質はどうしているの? 全員無事なんでしょ?」
「うるさい、黙れ!」
今にも男は飛びかかって来そうな勢いである。彼を刺激するのも程ほどにしないといけない。
「男って都合が悪くなると、威勢だけはよくなるものね」
叶美は強気に出た。
「それ以上喋ると、お前の命はないぞ」
「面白いわね。私には覚悟ができているから、そんな脅しはちっとも怖くはないわ。どうせ死ぬなら、あんたも道連れにしてやるから」
どうしてそんな台詞がすらすら出てくるのだろう。叶美は不思議でならなかった。
本当にこの場で死に絶えてもいいというのか。まだやり残したことは山ほどある。
しかし今ここで死ぬ運命ならば逆らう気はない。神の思し召しに従おう。だけど無駄死にだけはしない、命と引き替えに絶対事件は進展させてやる。
叶美はもはや恐怖を感じてはいなかった。足の震えも収まっていた。これまで十七人が受けた苦痛からすれば何でもない。
叶美は意味もなく腕時計に目を遣った。だが実際には暗闇のせいで何も目には映っていなかった。それでも笑みを浮かべた。
「もうすぐ仲間たちがここへ駆けつけるわ。私の役目は、それまでお前を引き留めておくこと。たとえ血まみれになっても放しはしないから」
男がひるんだのが分かった。
相手にとって、これはどうやら予想外の事態らしかった。実は叶美の方こそ、思いも寄らない展開なのだった。
「さあ、かかって来なさいよ」
叶美は一歩前へ出た。この自信は一体どこから湧いてくるのか。まるで説明がつけられない。今、身体の外から誰かが私の精神を操っているのだ。
靴が何か棒状の物に触れた。角材のようだった。
叶美は素早く拾い上げると、縦に構えた。
こんなものでどこまで持ちこたえるだろうか。しかし、やるしかない。
心のどこかで相手を倒せる希望が生まれた。そしてそれは徐々に自信へと変わっていく。
もし相手に勝てば、犯人の身柄が確保できるのだ。事件は一気に解決に向かうだろう。人質も全員解放できるではないか。
叶美の心は躍った。
その時である。
彼女の背後に密かに近づいてくる人物がいた。扉を閉めた男である。すっかりその存在を忘れていた。
そして今、叶美の後頭部を容赦ない一撃が襲った。
水平線が左右に揺れて、一気に暗黒へと引きずり込まれた。
やはり自分には無理だったのだ。大した力もないくせに、勢いだけで生きてきた人間の末路なのだ。そう考える間もなく、彼女の身体は不思議な形に折れ曲がり、地面に沈み込んでいった。
叶美は頭部に痛みを覚えて、突然目を覚ました。
相変わらず辺りは闇に覆われていた。だらしなくうつ伏せになっている自分の姿があった。すぐ目の前の床には小物が散乱している。
どれだけ眠っていたのだろうか。
意識を取り戻した途端、頭が朦朧としてくる。思考のピントが合わない。そのくせ後頭部の激痛だけは妙にはっきりとしていた。
迂闊だった。
能面男と向き合うことに精一杯で、すっかりもう一人の存在を忘れていた。この部屋に足を踏み入れると、すぐに鉄の扉を閉めた者がいたのだ。
そいつは密かに背後から近づいていたのだ。そして後頭部をいきなり拳で殴りつけた。
さっきからずっと耳鳴りがしている。右の頬骨辺りに痺れを感じる。
この鈍痛からすると頬は膨れ上がっているに違いない。腕が不思議な方向に曲がったまま動かせないので、その確認すらできない。
起き上がろうと思っても、身体全体が床に張り付いてしまったようだ。力を入れることができない。今全身は倦怠感に支配されている。
思えば制服姿のままである。
こんな埃まみれの場所で寝そべっていれば、白いブラウスはさぞかし真っ黒になっていることだろう。母親にはどう説明したらよいだろうか、そんなどうでもいいことが脳裏をよぎった。
今、室内は静まりかえっている。人の気配はない。
あの二人はここを出ていったのだろうか。
身の危険は去ったということか。
そもそも今は何時なのだろう。時計を確認しようにも、腕がまるで言うことを聞かない。
あの連中が舞い戻って来るとは考えられないか。もしそうなら、今すぐここを離れなければならない。
身体を起こそうにも踏ん張りが利かない。まるで他人の身体のようだ。どこか骨が折れているのかもしれない。
それでも叶美は、時間を掛けてゆっくりと身体を寝返らせた。
天井が見えた。
化粧板が外れ、ガスの配管や電気コードが剥きだしになっている。部屋の様子はかろうじて物の濃淡だけで窺うことができる。
心なしか、さっきよりも楽に呼吸ができる。身体は新鮮な空気を欲しがっている。無心に大きく呼吸をした。
部屋に流れる悪臭は相変わらずだが、慣れてしまったせいか、あまり気にはならない。
おそらくすぐ傍に犬の死骸が転がっている筈である。気味が悪いが、身体が硬直している今どうにもならない。
考えてみれば、大型犬を何頭も平気で惨殺するような連中である。私はよくこの程度で解放されたものだと思う。これは奇跡なのかもしれない。本来なら殺害されていても不思議はない。
じわじわと身体が震えてくる。
そう言えばあの時、能面男は私の言動にどこか驚いたようであった。たった一人の女子高生が制圧できなくて、焦っていたように見えた。それを隠そうと言葉を荒らげてはいたが、本当に襲う度胸は持っていなかったのかもしれない。あの男はとても殺人を犯すような人間ではなかった。
逆に言えば、そう感じたからこそ、案外強気にいけると判断したのだが。
沢渕によれば、犯人グループは数人で構成されているらしい。それが正しければ、私はその中の二人の人物と接触したことになる。
あの能面は若い感じがした。ひょっとすると大学生かもしれない。一緒にいる仲間も同じ年齢だとしたら、そんな若造に十七人もの大量殺人ができる筈がない。やはり人質は皆無事でいる、そう確信した。
突如頭痛が襲った。
さっきから頭が締め付けられる痛みが断続的に襲ってきた。それにより思考も余儀なく中断させられる。
まるで死にかけの金魚のように口を動かした。しばらくすると随分と落ち着きを取り戻した。
ゆっくりと力をみなぎらせて、上体を起こす。
いつまでもここにいる訳にはいかない。こうしている間にも連中が仲間を連れて戻ってくるかもしれない。
何とか立ち上がることができた。だが、すぐによろめいた。足が踏ん張れないのだ。もう一度この場にしゃがみ込むことができたらどんなに楽だろうか。
しかしそうしたら最後、動けなくなるかもしれない。
誘惑を振り切って、一歩、二歩と前に進み始めた。
右の頬に手をやった。やはり異様に膨らんでいる。
腕時計を目の前にかざした。針は午後八時を指していた。どうやら二、三時間眠っていたらしい。
叶美は入ってきた扉の方へ身体の向きを変えると、床の障害物を避けながら歩いた。歩幅が安定しない。常に何かに掴まっていないと、自立も難しい有様だった。
それでもゆっくり時間を掛けて部屋の外に出ることができた。
これで地獄から生還できるのだと実感が湧いた。自然と涙が溢れた。今生きていることを神に感謝した。
廃墟から這うようにして外へ出た。月明かりの下、駐車場が遠くまでぼんやりと浮かび上がっている。民家の窓からは暖かい光が漏れていた。やっと人の住む世界に戻ってきたのだ。
これ以上我慢はできなかった。
駐車場の真ん中辺りで身体を投げ出した。アスファルトが少し熱を帯びていた。人目を気にすることもなく、少し吐いた。それから大の字になって寝転んだ。
広大な駐車場は通りからは見通しが利かない。それにたとえ通行人に見られても、まるで恥ずかしいとは思わなかった。それよりも今は身体を休めたかった。
自然と月を見上げる格好になった。
額に手を当てると、熱が出ているようだ。
知らず知らずに携帯電話に手が触れた。自宅に電話を掛けた。
心配そうな母親の声が遠くに聞こえる。
叶美はありったけの力を振り絞り、できるだけ普通の声を出した。今夜は行事の準備があるから学校に寝泊まりする、と伝えた。親には心配を掛けたくなかった。こんな格好で帰ったら親は半狂乱になるだろう。
母親は、分かったと言った。それからもっと早めに連絡をしなさいと不満を漏らしたようだった。叶美にはほとんど聞き取れなかった。
無事電話を切ると、次に沢渕の携帯に掛けた。
しかし、電波の届かない所に居ますという定型句が流れるだけだった。
また涙が溢れ出した。他の探偵部のメンバーに連絡を取ろうとしたが、そこで電池が切れてしまった。
叶美は一人絶望の淵に立たされた。
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