第26話 旅館の亡霊

 夕日がいつの間にか山の向こうへと消えていた。

 四方は森に囲まれて、人間の営みがひどくちっぽけなものに感じられる。一瞬、ここへやって来た目的を忘れてしまいそうになる。

 空を見上げると、長い雲が一つ真っ赤に染まっていた。

 奈帆子は静かに車を停車させた。

 エンジンがぴたりと止まると、途端に静寂が訪れる。

「ねえ、本当に行くの?」

 多喜子の声が車内に響いた。

 前席の二人はシートベルトを外した。

「お化けが出たらどうするの?」

 多喜子は二人の肩に手を掛けて、真ん中からひょいと顔を突き出した。

「いい加減にしなさいよ。高校生にもなって何言ってるの?」

 奈帆子は呆れるように言った。

「何なら、ここで一人待っていればいいわ」

「そんなの嫌よ」

 多喜子は慌てて車のドアを開けた。

 車から降りると、ひんやりと乾いた空気が三人を包み込んだ。まもなく夏を迎えるというこの時期に、少し肌寒く感じる。

 振り返ると、目の前には鏡見谷旅館がそびえ立っていた。山間から空へと突き出した二つの人工物は異様だった。まるで自然を挑発するかのようだ。

 なるほど、それが神の逆鱗に触れ、このような末路を辿ったのだと妙に納得できた。

 辺りに人の気配はまるで感じられない。恐らくこの建造物は来る日も来る日も風雪に耐えて、静かに人の来訪を待っていたのだ。

「こんな所に誰かいるのかしら?」

 奈帆子が独り言のように言った。

 沢渕もそれは同感だった。しかし先ほど多喜子が目撃した動く影は何だったのか、それを確かめない訳にはいかない。

 三人は緩い坂道を上がるような格好になった。

 徐々に玄関が姿を現す。長いポーチと大袈裟な出入口は栄華を誇った名残りであろうか。その昔この旅館は大勢の客で賑わっていたに違いない。

 開口部は工事現場で使われる木製の板が打ち付けられていた。おそらく全面ガラス張りの玄関は大型の自動ドアで来訪者を迎えていた筈だが、それも粉々に破壊されてしまったようだ。その証拠に足元には細かいガラスの破片が散らばっている。

「こちらから入れそうだ」

 沢渕は側面を覗き込んで言った。

 側面にも板張りがしてあるが、針金の固定が甘く、身体が通る程の隙間が生まれた。

「二人ともガラスに気をつけて」

 沢渕は腰を屈めて中へ入った。奈帆子と多喜子もそれに続く。

 歩く度に床がシャリシャリと音を立てた。

 建物の中は一段と暗かった。それでも次第に目が慣れてくる。

 今、真正面には宿泊客を迎えるフロントが鎮座していた。その壁面は至る所にスプレーによる落書きがあった。

 奥へと伸びる廊下のじゅうたんには一本の黒い筋が残されていた。よくよく見るとタイヤの跡である。おそらくオートバイで乗り入れて駆け抜けたのだろう。

 廃墟と化してから五年。人が通わなくなった大旅館は、心ない者によってすっかり荒らされてしまった。昔の面影などまるで感じられない。

 落書きは廊下の壁にも続いている。反対側の窓は全て打ち抜かれ、外部の侵入を防ぐためか、目板が施してある。

「沢渕くん、どうする?」

 奈帆子が不安げに訊いた。

「まずは館内の配置図がほしいですね」

「それで?」

「従業員の控え室や社長室を調べてみるんです。何か手掛かりがあるかもしれません。従業員名簿が残っているといいのですが、さすがに処分されてないでしょう」

 廃業後、この旅館の送迎バスが犯行に使用された。犯人グループの中に、この旅館の関係者がいることも否定できない。

 三人はフロントを手分けして調べてみた。

 しかし損傷が激しく、書類はほとんど見当たらなかった。驚いたことに、この場所で火を焚いた形跡があった。火事になったらどうするつもりなのだろうか。

「あの壁に貼ってある案内図ではダメ?」

 多喜子が指を差して言った。

「あれは宿泊客向けの案内だからね。スタッフの部屋が見たいんだよ」

 フロントでは手掛かりになるものは見つからなかった。無理もなかった。これだけ外部の人間に荒らされていては、大切な書類も残ってはいないだろう。

「仕方ない。三階に行ってみよう」

 館内は広そうだ。全てを捜索するには時間が足りない。ここは多喜子が三階で見たという人影を頼りに調査した方がよさそうだ。

 沢渕と奈帆子が肩を並べて先を歩いていく。その少し後ろを多喜子が恐る恐るついてきた。

 外は次第に暗くなっているらしかった。廊下も一段と闇に包まれた。

「何だか幽霊が出てきそう」

 背後から多喜子の声。

「本当、あんたってお化け好きね」

 奈帆子が後ろを振り返ることなく言った。

 この暗闇の中、足元には注意しなければならない。彼女もそれは心がけているようだった。床には思いがけない危険物が落ちていることがある。

「そう言えば沢渕くん、ウチの学校に怪談があるの知ってる?」

 多喜子が訊いた。

「いいや」

「実はね、音楽室の隣に準備室があるでしょ」

「ああ、壊れたピアノが置いてある部屋だね」

「そう、グランドピアノ。あれって鍵が掛かっているんだけど、たまに夜になると独りでに音が鳴り出すんだって」

「音楽室のピアノではなくて?」

 沢渕は立ち止まって振り返った。

「そう思うでしょ? 実は違うの。もう何十年も調律してないピアノだから、音程が狂っているのよ。だから今使っている方のピアノじゃないわ」

「誰がその音を聞いたの?」

「文化祭の準備で泊まり込んでいた先輩が何人も聞いているらしいわ。みんなで音楽準備室へ駆けつけたら、幼い女の子が弾いていたんだって」

「女の子?」

 そんな沢渕の言葉に隣の奈帆子が口を挟んだ。

「その怪談は昔から伝わっているわよ。何でも、その子は用務員さんの娘らしいの。昔ウチの学校には用務員さんがいて、娘と暮らしていたんだって。それで夜学校に誰もいなくなってから、娘にグランドピアノを弾かせてやっていた。ところが不幸にもその娘さんが病死してから、彼女の霊が夜な夜なそのピアノを弾きにやって来る、って話」

「なるほど」

 そうは言ったものの、沢渕は大して興味が湧かなかった。こういった怪談はどこの学校にでもあるからである。

 しかし今三人が徘徊しているこの旅館は、幽霊が出るに相応しい場所と言えそうである。それは敢えて口にはしなかった。

 沢渕は歩きながらスタッフルームがないか調べていったが、どの部屋も鍵が掛かっていて中を覗くことはできなかった。

 突き当たりにエレベーター二基が設置してあった。もちろん今は作動していない。

 三人は隣にある階段を上ることになった。

 所々に台車や長机、カーテンなどが散乱していて、時に進行を妨げる。その都度、身体を捻って隙間をすり抜けたり、乗り越えたりして回避していった。

「あんた、本当に三階で人影見たんでしょうね?」

 息を切らしながら、奈帆子が言い出した。

「人影っていうか、何か白い物体よ」

 多喜子が訂正した。

「もしあんたの見間違いだったら、承知しないからね。罰として私たち二人に夕飯奢りなさいよ」

「うぐっ」

「ここが三階ですね」

 沢渕が確認した。

 佐々峰姉妹も頷く。

 この階は窓がずっと先まで行儀良く並んでいた。お陰で外の様子を窺うことができる。薄暮の中に黒い影となった山が妙に近くに迫っていた。舗装された道路も見下ろせた。

「それで、白い物体はどの辺りの窓から見えたんだい?」

 沢渕が多喜子を振り返って訊いた。

 彼女はまだ動悸が収まらないのか、身体を折り曲げて肩で息をしていた。

「真ん中辺りよ」

 それを聞いてから沢渕は歩き始めた。

 客室のドアが奥まで整然と並んでいる。

 そのほとんどは閉じているが、中には開けっ放しのドアもあった。その一つひとつを確かめながら進んだ。

 嘘のように壁には落書きがなかった。ここまで上がってくる侵入者はいないということか。

 鍵の掛かっていない部屋が続く。各部屋はそれほど大きくはない。どの部屋も調度品や布団類がぶちまけられていて、逃げ場を失ったかびの臭いが鼻をついた。

 途中に別館へ続く渡り廊下との分岐点があった。別館は時間があれば見てみたいと思った。

 沢渕と奈帆子はどんどん先へ進んでいく。一方で多喜子は疲れたのか、二人から随分と後れを取っていた。

 半分ほどまで辿り着いた時だった。

 突然背後から断末魔の叫びが沢渕の耳を刺した。それは旅館中に響き渡るほどの声だった。

 直ちに後方を振り返る。しかしなぜかそこには多喜子の姿がなかった。この真っ直ぐな廊下で彼女を見落とす筈がない。

 隣の奈帆子と顔を見合わせた。

 次の瞬間、沢渕は自然と駆け出していた。

 唯一の死角は別館への渡り廊下だ。そこで多喜子の身に何かが起きたのは明らかである。

 何度も足がもつれた。

 それでも数秒後には現場に到着した。奈帆子もすぐ後ろに来ていた。急に立ち止まった沢渕の身体に、勢い余って彼女の身体が折り重なった。

 渡り廊下の方に目を遣った。

 常識的に考えて、そこには多喜子の姿がある筈だった。

 しかし不思議な光景が待っていた。

 どこにも多喜子はいないのである。悲鳴を残して、彼女は煙のように消え去ってしまったのだ。

 信じられない出来事だった。もはやこれは人間の所業ではない。

 まさか、この旅館には亡霊がいるとでもいうのだろうか?

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